2025年3月18日火曜日

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2025年3月16日日曜日

中間考察 インターネットとシティズンシップ(1997年)

『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社1997年刊)第4部 中間考察 インターネットとシティズンシップ

1 インターネットのダークサイド

「インターネット・バブル」と呼ぶ人がいる。熱に浮かされたような今のブームはなるほどバブル時代を彷彿とさせる。これはたしかにアワのようなものなのかもしれない。どうせアワなら「踊るアホウに、見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損々」ということになるのだろうか。けれども、踊るにせよ見るにせよ、どちらの「アホウ」も場所をまちがえているのではないか。そんな思いもある。

 現在のインターネットにはさまざまな問題がある。もともとルーズなシステムだったのだから、いろいろ問題が出てくるのは当然だが、たちの悪い問題の多くは、どうもユーザー側の問題らしい。

 たとえば、わいせつ問題にからめインターネット上の表現の法的規制問題が起こっている。H系の行為が、トラフィックの増大だけでなく、インターネットに対する行政当局の過剰な規制を誘引する機能をもってしまうことをもう少し自覚してほしいと思うこともある。とばっちりがインターネット全体におよぶのはごめんである。もちろん、たんなるリンク行為が「わいせつ図画公然陳列」として摘発されるという現状は、あまりに理不尽だと思うが。●

●1996年9月30日、広島県警は、プロバイダーの幹部をわいせつ図画公然陳列の疑いで書類送検した。このケースの場合、会員がホームページから「わいせつ画像」にリンクを張っていただけである!

 電子メールのマナーの問題もある。女性ユーザーへの無作法なメールも多いときく。名前を名乗らないでいいたいことをいうメールもある。「スパム」と呼ばれるダイレクトメールの問題もある。郵送されるダイレクトメールとくらべ、電子メールの場合は、受信そのものに費用がかかる。日本ではまだ大したことはないが、これから大きな問題になる可能性がある。

 電子会議室やメーリングリストでの匿名のコミュニケーションにも影はある。匿名だから気軽に発言できるという側面もあるが、同時にそれは無責任な発言や夜郎自大な発言を誘発しやすい。発言に責任が伴っていないからだ。先発の大手パソコン通信が匿名のコミュニケーションを推奨したことは基本的には営業政策だったわけで、気軽に書き込みしてもらうためである。そのため、無責任なコミュニケーション文化がオンライン上に展開しつづけたのは、長い目で見ればいいことではなかったと思う。パソコン通信だとASAHIネットが「責任ある発言を」ということで当初から実名主義をとっているが、そろそろそういう意識的な転換が必要ではないかと思う。ただし、匿名のコミュニケーションに肥大化させた自分を感じる自我の貧困は、オンライン上の問題にとどまるものではない。

 コマーシャリズムの問題もある。今やインターネットはビジネスチャンスの狩場でもある。その中で一部のプロバイダーや企業は最初からお金を取ることばかりを考えている。企業だから営利追求自体は当たり前のこととしても、それに見合うサービスになっていないのではないかと思うことも多い。しばらくはフリーで運営するという発想がとれないものだろうか。

 同様のことに組織の参加もある。大学や研究所や業界団体などの組織がやっているものでも、個人がフリーで提供しているコンテンツにかなわないことが多い。組織がダメだというのではなく、組織のプロジェクトなら「もっとプロフェッショナリズムを!」といいたい。他方、せっかく組織内の個人(社員・職員・教員・学生など)が個人としていきいきと自由に活動できるメディアであるにもかかわらず、組織内部の規制や事なかれ主義によって台無しになっているケースも多い。

 情報格差や情報弱者の問題も顕在化してきた。インターネットは、特定の発信手段を所有しない情報弱者の人びとに大規模なコミュニケーションの可能性をあたえた。もちろん、これ自体は歓迎すべき側面もある。けれども、同時に、新しい情報弱者も生んでいる。情報格差の多層性である。しかし、これはたんに「パソコンを使えない人たちがかわいそう」というのではない。もう少し複雑だ。

 たとえば、会社で好き勝手にやってきた管理職のおじさんや、学生をバカにしてきた大学の先生たちが、若い社員や学生に教えを乞うたり励まされたりするのは、ある意味ではいいことではないだろうか。つまり社会のあちこちで上下関係の「どんでんがえし」「かき混ぜ」が生じているわけで、社会に「配分の差別」が必然的に生じるものである以上、このような「どんでんがえし」が多ければ多いほどいい。なぜなら、従来の物質的な資産の配分や権力の配分の不平等によって不利なポジションを強いられてきた人びとをそれなりに引き上げる力があるからだ。

 ただし、現状のオンライン状況が必ずしも望ましい方向ではないとは思う。これまでワリを食ってきた人たちをすくい上げるような「支援システム」(たとえば障害者の在宅勤務を一気に加速させるといった形で)を構築する方向がもっと強くならなければ、結局、資産や権力をもった人たちがネットワーク資源までも喰い尽くしてしまいかねない。「ネットワーク資源配分の非対称性問題」とでもいうべきか、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」というマタイ効果が生じかねない。

 インターネットが、商業主義的に編成されていくのか、国家の法的な制度的枠組みにくみこまれていくのか、それとも市民の自発的な展開に委任されるのか。今が瀬戸際だという気がする。それにしても、マス・メディアのインターネット報道はこのあたりの見識に欠けているのではないか。ずいぶんよくなってはいるものの、ビジョンが感じられない。総じて場当たり的である。

 ……いささか「ぼやき漫才」風になってしまったかもしれない。ともあれオンラインの世界には以上のようなダークサイド(暗部)が存在する。こういうダークサイドにあえて光を当て、しかも「あなたのプライバシーがのぞかれている!」といったオールド・ジャーナリズム好みの悪趣味なセンセーショナリズムに染まるのではなく、主体的に事態を反省し、個人の日常生活に即して実践的な展望を構想する必要があると思う。

2 主題を共有すること

 インターネットのコミュニケーションは、都市部における地域社会のコミュニケーションに似ている。つかず離れず、めいめいが勝手気ままに活動していて、たまたま何か共通の問題が浮上したときに相談したり論争したり助け合ったりする。濃密なコミュニケーションではないけれども、それはけっして散漫でもないのだ。なぜなら、そこではしっかり主題が共有されているからだ。

 たとえば家族は「血縁」と「婚姻」でつながる。組織は営利追求や教育や治療などの「目的」でつながる。地域は「空間的近接」でつながる。そしてオンライン・コミュニケーションはもっぱら「主題」でつながるのだ。ネットワーク上のコミュニケーションは基本的に主題媒介的な関係である。パソコン通信にせよ、メーリングリストにせよ、WWWにせよ、基本的にわたしたちは特定の主題を媒介につながるのである。このことの意味は大きい。

 たとえば、わたしがホームページに「電磁波被爆問題」について書く。すると、それを見てくれた人から電子メールが届き、議論が始まる。あるいは参考書を教えてくれたり、自分の調べたことを教えてくれる。自分のホームページでそれを発表している人がいればリンクしあう。それによって相互に学ぶ関係ができる。「主題でつながる」とはこのような相互学習過程に入ることなのである。これはメーリングリストになるともっと明確であって、たとえば「薬害エイズ」のメーリングリストに入れば、それに関心のある人たちやじっさいに運動にかかわっている人たちと非常に専門的な意見を自由に交わすことができる。とっさの必要や気まぐれに応じて、わたしたちはその気にさえなれば電子会議室やネットニュースの中で同じ主題に関心を寄せる仲間たちと出会うことができる。

 学術的なことであっても、趣味性の強いことがらであっても、生活上のノウハウであっても、はたまたプライベートなことがらであっても、ネットワーク上においては特定の主題が人びとをそのつどつなぐのである。

3 ハイパーテキストとしての社会

 主題を共有する人たちのコミュニケーションはテキストデータとしてネットワーク上で転送され、保存され、コピーされる。その点に注目すると、オンライン・ネットワークの世界は文字どおり「ハイパーテキストとしての社会」なのである。網の目状に連結したテキスト群がその社会の実質を形成している。コンピューターはそれをネットワーク上に転送し、保存し、何度も何度もコピーしているだけである。

 「オンラインな人」が現実にしていることは、具体的には、コンピューターを使って「ハイパーテキストとしての社会」に書き込む行為である。電子会議室でコメントをつけることにせよ、メーリングリストやネットニュースで発言するにせよ、ホームページを公開するにせよ、それらはオンライン上に実在する「ハイパーテキストとしての社会」を構築する行為であり、それによってネットワーク上の「知の連鎖」に連なることなのだ。

 主題ごとにそのつどつながる「見識ある市民」。けっして「ひとつにまとまる」のではない。自律的な個人が「ハイパーテキストとしての社会」においてそのつど「つながる」だけである。個人は個人のままで「知の連鎖」を形成するのだ。

 だから「インターネットやって何かメリットあるの?」と聞かれても「その人による」というしかない。 その人がそこで自分の主題を見いだし、能動的にアクセスし発言し表現することによって、そのつどコミュニケーションのネットワークを形成する、そういうメディアなのである。その人が他人まかせに黙って待っていてもおそらく何も起こらない。したがって「メリット」なるものも生じない。「インターネットは大したことないな」という人は、その人自身の貧困を語っていることになってしまうような「自分を問うメディア」なのだ。

4 フリーライダーから支える人へ

 社会学には「フリーライダー問題」ということばがある。フリーライダーとは「ただ乗りする人」のことだ。たとえば労働組合が賃金値上げを交渉して勝ち取ったとしよう。すると賃金体系は会社一律なので組合員でない人の賃金も上がる。この場合、非組合員はフリーライダーである。となると、何かと負担の多い組合員になるよりも、非組合員でいる方が得だということになる。こうして組合離れが進み、組合員の負担はますます重くなる。こういう悪循環を「フリーライダー問題」という。●

●ランドル・コリンズ『脱常識の社会学――社会の読み方入門』井上俊・磯部卓三訳(岩波書店1992年)。

 オンラインの世界、とくにインターネットの世界にも同じことがいえるのではないだろうか。「ゲットする」ことばかりが強調され、「トクする情報」「おもしろい情報」であふれているかのように煽られる。「プットする」や、そこで何を「する」のか、そういう側面がないがしろにされている。現在のマス・メディアの伝え方の最大の問題点は、インターネットでフリーライダーになることを故意にすすめるものが多いことだ。

 結局、支える人びとの問題ではないかと思う。「インターネットが社会を変える」と巷を席巻している技術決定論は、事態の半分について語っているだけである。インターネットが今後どのようなものになっていくかも、インターネットでわたしたち自身が何をそこで獲得するのかも、インターネットでどのように社会が変わるのか(あるいは変わらないのか)も、じつはわたしたちの使いこなしにかかっているといえる。

 「ハイパーテキストとしての社会」が豊かな世界になるか否かは、ひとえにそこに書き込む人たちしだいである。つまり、「使える情報がない」とか「信頼性がいまひとつだね」とかいっている人がいくら1億人いたって、いつまでたってもハイパーテキストのリソースは貧困なままだということだ。インターネットのいいところも悪いところも、じつはここから発生する。

 オルテガ・イ・ガセットのことばに次のようなものがある。「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。」●「救う」ということばがいささか強いことをのぞけば、ネットワーク上のわたしたちにとって何か示唆的なことばではないだろうか。こういう思想の「オンラインな人」が増えることを切に願う。

●オルテガ・イ・ガセット『ドン・キホーテをめぐる思索』佐々木孝訳(未来社1987年)65ページ。

5 市民スタイルという思想

 以上のように考えていくと、インターネットでのふるまい方もおのずと見えてくるのではないか。それは以下のような原則で表現できると思う。

自己決定の原則――それは基本的に個人の自由である。自分で決めればいい。組織の原理にふりまわされない、拘束されない、依存しないことが基本である。自分で考えて発言しよう。

相互性の原則――相手のいることであるから、おのずと落としどころというものはある。なぜなら自分も他者にとっての「相手」としてかかわることになるからだ。その落としどころを「作法」と呼ぶ。「作法」とは他者との折り合いのつけ方である。その前提は自分は自分の責任で自由にふるまうということであり、自由であるからこそ、自分の意志で他人のことや公共のことを考慮できるということである。そこに不自由さがあれば、それは「作法」ではないのだ。

能動的参加の原則――「ROMからアクティヴへ」という流れ、すなわち「ハイパーテキストとしての社会」を読む人から書き込む人へという流れは、相互的な交流にするための必須条件である。早々に他人まかせもフリーライダーもやめて、シティズンシップを発揮しよう。他人に何かをしてもらったら、きちんと礼を返すか、あるいは別の機会に別の人に何かをしてあげればいい。そういう意志が自分の世界を広げ、「ハイパーテキストとしての社会」を豊かにしていく。

自己責任の原則――自分の責任のとれる範囲で自在にふるまおう。発言には責任をもとう。匿名の議論はやめよう。新聞記事や公文書のような無署名原稿に見られる非人称的文体の発信はやめよう。一人称の「わたし」を主語にして語ろう。 自分らしく、けれども「独断と偏見」ではなく、個人としての「個性と見識」をもって発言したいものだ。

開放の原則――なるべくオープンにいこう。オープンにいくということは知らせることである。自分から進んで知らせないことは隠すことになる。自分の知的世界をオープンにしていくことでハイパーテキスト上の共有知識の拡大をめざそう。どこを隠しどこをオープンにするかは自分で決めればいい。もちろんカミングアウトしない自由もあるのだ。

 このようなふるまい方を「市民スタイル」と呼ぼう。じっさい、これまでこのようなスタイルで人びとがネットワークに参加してきたからこそ、「ハイパーテキストとしての社会」も、自ずと相乗的になり、実り多きものになったのである。これからネットワークに入っていく人も「市民スタイル」で参加する意志をもって入れば、きっとネットワークをいっそう豊かに構築することにつながるにちがいない。スタイルにこそ思想は宿る。その思想が現実を少しずつ書き換えるのである。これが本書『インターネット市民スタイル』の提案である。

6 演劇的世界としての仮想現実

 インターネットの世界は仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)だといわれる。「仮想現実をほんとうの現実を混同している人たち」を「病理的」とみなす見方もある。しかし、それはちがう。「ほんとうの現実」と称されるオフラインな現実は、たんに「利害関係の絡んだ現実」というのにすぎない。前者の「仮想現実」も後者の「利害的現実」も、いずれもある程度までは「仮想」的であり、ある程度までは「ほんとうの現実」なのである。●

●社会学ではリップマンやブーアスティンの「疑似環境」論、シュッツの「多元的現実」論などがそうした見方に立っている。有名なところでは「トマスの定理」といって「もし人が状況をリアルであると決めれば、その状況は結果においてもリアルである。」という有名な定理もある。

「仮想現実をほんとうの現実と混同するな」という人は、利害、要するに「物理的に生きるために必要な関係」を第一次的な現実とみなしているわけである。けれども「意味的に生きるために必要な関係」もあるのだ。どんなに充たされた生活の中にも人生の空虚は宿っている。逆に、追いつめられた生活にも人生の充実はある。どちらが第一次的とはいえるものではない。

 オンライン・コミュニケーションの世界は、一種の「社交の世界」である。たとえば18世紀前半のコーヒーハウスやサロンなどのように、いわゆる「対等性の作法」によって営まれる「新しい社交の世界」という現実である。

 それは「仮想の世界」というよりも、むしろ「仮装の世界」に近い。それはとりもなおさず「演劇的な世界」なのである。つまり、参加者があからさまな利害関係をもちこまないで、利害から自由かつ対等に発言する「見識ある市民」を演じる演劇的世界である。

「対等性の作法」を尊重しつつ自律的な市民を演じる――たしかにそれはある種の白々しさをともなう。けれども、各人が市民として自分を反省的にコントロールできていることをたえず表現しながらでないと相手にそのつど信頼を保証し続けることができないという点で、オンラインのコミュニケーションはあやうく脆弱なものなのである。この脆弱さこそが理性的コミュニケーションの源泉になり、あたかもそこにあるかのように仮定される「対等性の作法」こそが、主題を共有するという独特のつながりを保証するのだ。

 イデオロギー対立の時代が終わり、混沌とした思想状況の中で「市民社会の再構築」という論点が浮上している。産業主義に彩られた19世紀的な市民社会ではなく、啓蒙の光に満ちた18世紀の市民社会のイメージがそこには感じられる。このような市民社会のありようを構想するとき、不特定の人びとがさまざまな主題を媒介に対等につながろうと意識的に参加しているという事実は、その現実性を予感させるものである。

7 自分を再構築するメディア

 社交の基本は「おしゃべり」である。特定の主題をめぐって行きつ戻りつ、収束しては拡散する「おしゃべり」。ネットワーク上でなされるこうした「おしゃべり」には効用がある。「おしゃべり」は人を選ばない。主題さえあればいい。だからこそ、さまざまな出会いを生む。その出会いはまたさまざまな「おしゃべり」を生む。こうした循環は、個人の思考の幅を広げ、利害に拘束された思考の制限をゆるめる。それは狭小な日常生活に内閉され自己中毒をおこしがちなわたしたちを少しずつ解放してくれるはずである。

 じっさい、これまでわたしたちは「おしゃべり」の相手と十分めぐり会えていなかった。自分の生活範囲を超えたところに「その人たち」が待っているかもしれないのに、わたしたちはなかなかそこを超えることができないでいた。便利なテレビのような理解をされがちなインターネットだが、そんなことよりも、そのような人たちとの「おしゃべり」コミュニケーションの回路を開く技術的かつ文化的な可能性をもっていることの方がはるかに重要である。

 利害から自由に討議できる開放されたコミュニケーションの場が日常的に存在するということが、今度はシティズンシップの基礎条件になる。つまり、シティズンシップをもった自律的な個人をはぐくむことになるのだ。

 「市民」というと、妙に毛嫌いして構える人がいる。「政治的に正しい」生き方を強制されるように感じる人が多いようだ。たしかにそういう党派的な使い方をする人たちがいることは事実であり、そういう気持ちはわからないではない。しかし、今では、そういう拒否反応自体がきわめて政治的な現象だと考えるようになった。そろそろ、わたしたちは自分の語感に宿る政治的文脈を反省しなければならないのではないか、と。

 市民とは、利害に拘束された一群の固定された役割(しばしばそれは職業上の役割や家庭内の役割である)から自由にふるまえる人のことである。先入観による誤解を防ぐために、あえて「個人」と呼んでもいいようなものだが、そうはいかないのだ。じっさいにわたしたち個人は「個人」でないことが多いのである。それは会社や組織の一員として行動する人間であり、家族や親族の一員として行動する人間であり、職業人として行動する人間である。さまざまな、しかし、たいていは決まり切った役割を担った人間として、わたしたちは考えたり行動を決めたりする。つまり、わたしたちは意外に自分の考え方や発言や行動を自分自身で決めていないものなのだ。

 しかし、いろんな役割を担いながら、それらの役割におけるさまざまな自分に折り合いをつけている〈もうひとりの自分〉がいる。それこそ「市民」としての自分なのである。

 たとえば、自分がたまたま医者であっても、薬害問題における医者の責任について一般の人たちと突っ込んだ議論ができるとすれば、その人は医者としてではなく市民として発言しているのである。医者という職業役割がその人のすべてを規定しているのであれば、そういうことはできないものだ。医者として感情的に反論するか、たいていは黙ってしまう。こうした反省的な自己言及ができるかどうかこそ、自律的市民としての自分が確立しているか否かの分かれ目である。

 自律とは、自分のことを自分で決めることだ。つまり、組織の中にあって組織の慣行や文化に埋もれない人。地域社会に根ざした生活をしながら地域の掟や常識や考え方にしばられない人。自分の専門領域をもちながら、さまざまなテーマ領域に関心をもちつづけられる人。自分の経験にしばられず、他人の体験を自分の体験として受容できる人。このような人(あるいは、そのような人であろうとする意志をもつ人)が自律的個人すなわち市民なのである。

 さまざまな問題を抱えながらもパソコン通信やインターネットがいま成し遂げようとしているのは、ふつうの人がまさにこのような自律的市民として自己形成するための基礎条件の構築であるように見える。とくにインターネットは自分の行為的世界を意識的に再構築する可能性をもっていると思う。

 ネットワーク上の「ハイパーテキストとしての社会」を演劇的に構築し、そこで〈もうひとつの社会〉を経験した人が、それを利害関係の社会で再演するチャンスも増えるだろう。結果的にあちらこちらで「風通しのよい社会」への道を拓くことができるかもしれない。そうなったときにはじめて「インターネットが社会を変える」という事態が発生するのだ。所詮、社会や自分を「変える」のはわたしたち自身であり、インターネットはその手段のひとつにすぎない。つまり「インターネットを利用して市民が自分たちの社会を能動的に再構築していく」ということなのだ。そもそも一連の技術によって他律的に変えられてしまうような社会は、わたしたちにとって望ましい社会とはかぎらない。わたしたちが自覚的に変えようと思って変えるときに「社会が変わる」ことが望ましいのだ。

 以上の話をいささか理屈っぽいと思われる方もおられるかもしれない。要するに、こういうところから発想して、あとは自分でそのつど判断すればいいということなのだ。ビジョンと意志さえあれば、あとは何とでもなる。

 本書の冒頭でわたしは「だれかがあなたを待っている」と書いた。もちろん、それはこれからめぐり会うであろう人たちのことである。しかし、その中には、自律的市民として自在にふるまう新しいあなた自身もいるはずである。

あとがき

 わたしがインターネットに出会ったのは1995年の初頭あたりである。パソコン通信経由でネットニュースやWWWを読んだり、telnetを試みては失敗ばかりしていた。本格的にPPP接続してネットサーフィンし始めたのは6月ごろだ。当時は2400bpsのモデムを使っていて、「雄々しくサーフィン」というより「海に浮かぶ椰子の実ひとつ」という感じだった。しかたないので、イメージ(画像)をロードしないでやっていたものだ。

 8月にASAHIネットで自由に個人ホームページが設定できるようになり、さっそくエディターでタグづけして「SOCIUS(ソキウス)」という社会学入門ウェッブを公開した。以来、インターネット三昧の生活である。

 生活は一変した。毎日、Eメールを点検しては読み、返事を書いた。全国に知り合いができた。ずいぶん親しくなった友人もできた。それまでとんと縁のなかった業種の人や専門家ともやりとりするようになった。ほんとうに優秀な人がうようよいることもわかった(ほんとうにわかった(^^;)。じっさいに会って話した人もいる。会いに来てくれた人もいる。今まで考えなかったことにも興味をもつようになった。幸いなことに、自分の書いたものにすぐに反応してくれる人たちもできた。こうなると、これはやはり一種のコミュニケーション革命である。

 ところが、95年初冬から始まった一連のインターネット・ブームの中で、「マルチメディア」ということばが踊り始めた。とくにテレビの取り上げ方は不見識なものばかりで、とても見るに耐えなかった。煽るばかりで、自分が現に体験しつつあることとあまりにかけ離れているとの強い思いがあった。その一方で、「何ができるのか」教えてほしいという人も多くなってきた。みんなもピンとこないのだ。その溝は埋めなければならない。そんな感じでくすぶっているわたしにインターネット解説書執筆の話が来たわけで、一も二もなかった。

 といっても、わたしはわたしなりにもうひとつの文脈があった。わたしは1994年夏に『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社)を書き、「反省する社会」の可能性について考えていた。1995年春にその実践編のつもりで『社会学の作法・初級編――社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社)を出した。「社会学」といっても、社会科学の一専門分野のことというより、社会に対する反省的かつ脱領域的なコミュニケーションのことである。このような理念的構想はそれ自体抽象的なものだが、インターネットをやりだしたとき、まず驚いたのは、そこではすでにそうしたコミュニケーションが具体的に実現しているということだった。この驚きをきちんと「ことば」にしたいとの思いが、この本へのモチーフになった。

 じつは本書はもともと3人で書く予定だった。3人で分担すればすぐに出せると思って安請け合いしたのが運の尽き。いろいろあって、結局、ひとりで書くことになってしまった。当初はかなり盛りだくさんの本になる予定だったのだが、そういうわけで、わたしの担当していた【知的作法編】がひとまず世に出ることになったしだいである。

 もちろん「インターネット市民スタイル」ということでは、もっとさまざまな「スタイル」がありうる。本書では知的生活にかかわるほんの一領域を説明したにすぎない。「市民スタイル」の表現形式はさらに多様であり、実践のスタイルもさまざまあるはずだ。その中にはすでにスタイルの確立したものもあり、まさに「ただいま構築中!」というものもある。論創社でも本書につづいて【社会運動編】などを予定しているので、今後はぜひそちらも参照していただき、個性的な「インターネット市民スタイル」を構築していただきたいと思う。

 すでにお気づきの方もおられると思うが、この本では一貫して「個人」にこだわってきた。組織の公式ホームページではなく、その内外で自発的かつ自律的に発信されている個人のウェッブを中心に紹介してきた。そこにインターネットの可能性を見るからだが、「等身大のインターネット」を描いてみたいという意味もあった。また、技術的な解説はわたしのテクニカルな能力とチープな環境ではとてもフォローできないので、テクニカル・ライターの方々の解説書にゆだねることにして、本書ではもっぱらモチーフや意味づけや展望構想に重点をおいて説明してきた。本書を読んで少しやる気のでてきた初心者の方は、ぜひ他のインターネット解説書や専門誌を読んでいただきたいと思う。昨今はそれほどむずかしいものではなくなったものの、それでも、なめているとうまくいかないものだ。

 本書の執筆作業はわたしにとって異例なことが多かった。まず、すべての取材をEメールでおこなったこと。じっさいにお会いした方はほとんどいない。ひとりのユーザーから見える「等身大のインターネット」の世界を描きたいという思いがあったので、ネットワーク上の友人たちにも登場していただいた。せっかく友だちになったのに、その友だちをネタにする側面がないわけではなかったにもかかわらず、すべての方が好意的に取材に応じてくださった。そもそもEメールによる取材は、答える側もたいへんである。文章にしなければならないからだ。重点的に取材させていただいた方にはたいへんな負担をおかけしてしまった。ここに厚くお礼を申し上げたい。

 第二に異例だったのは、対象があまりに急速に変化することだった。初夏に調べたことを秋に再確認すると激変していたりする。量が数倍になっている分野もあった。この変化に単行本で対応するのはむずかしい。おそらく読者がこの本を手に取られる時点で古くなった記述もあると思う。事情が許せば、今後も少しずつ改訂していきたいと思う。

 また、今回の執筆はURL確認の必要もあって最初からHTMLで書いた。当初は共著になる予定だったので連絡用としてのWWW公開でもあったし、URLの確認用でもあり、ハードディスクの予期せぬクラッシュに備えてのバックアップでもあった。HTMLで書いたファイルを順次「SOCIUS」上で公開しながら、修正を重ねていったわけだ。いわば試行錯誤のプロセスをそのまま見せてしまうという実験的な書き方である。早い話が、フリーウェアがユーザーに使われているうちにしだいにバグを減らゆくあのやり方を著書についても一度やってみたかったのである。

 幸いなことに、さまざまな取材の協力をいただくことができた。おかげさまで、たくさんのバグも取り除くこともできた。「SOCIUS」のリピーターの方からもあたたかい励ましや貴重なアドバイスを受けた。わたしも4度目の書き下ろし作品になるが、こういうことは初めての経験である。編集者をのぞけば、ふつうはだれも励ましてくれないし、チェックもしてくれないものだ。

 その意味で、この本はわたしとわたしのインターネット仲間との共同作品であり、わたしはネットワーク上の結節点(結び目)のひとつとして、ただリンクを張っただけといえるかもしれない。モニターに向かってキーボードを叩いているとき、わたしはひとりではなかったような気さえする。そのぬくもりをあたえてくださったみなさんに深く深く感謝したいと思う。

 ありがとうございました!(😊)/

             1996年11月22日  野村一夫