ラベル 子犬に語る社会学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 子犬に語る社会学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年1月15日土曜日

『子犬に語る社会学』第9章 命の限界に向かって+人間のためのあとがき

『子犬に語る社会学』
第9章 命の限界に向かって+人間のためのあとがき

■社会的身体とは何か

お前たち動物の命は総じて短い。ウサギやモルモットはたいてい五・六年くらい、ハムスターはほんの数年で死んでしまう。私たち人間から見ると、なんとも生き急いでいるという感じがする。犬も十数年で生涯を終える。公園で出会う犬たちの中にも、公園デビューしたばかりの犬がいるかと思うと、いつのまにか見なくなる犬もいる。顔ぶれは、けっこう変わっていく。私も多くの小動物を看取ってきたから、命に限界があるということがいつも頭の中にあって離れない。だから一日一日の生が貴重に思える。

生きているというのは不思議なことだ。命の容器である身体は、だからこそ絶対的なものに見える。それについて語ることがはばかれる何かがある。実際、社会科学において身体は長らくタブーみたいになっていたんだ。

しかし、人間の身体は、たんなる肉体じゃない。社会的に刻印された社会的身体なんだ。これは、お前たち動物にもある程度は言えるかもしれないけれども、いかんせん、私にはわからないから、ここでは人間の身体に限定して話すことにするよ。

たとえば食べ物だ。好き嫌いは除いたとしても、旅先で、その地域の人たちが好んで食べるものが気持ち悪くて食べられないことがある。なぜこれが食べられないか。何が拒否させるのか。これは生理現象ではない、社会的かつ文化的な要因で生じる現象だ。

前に話したプラシーボ効果という現象も、身体が社会的な身体であることを示している。偽薬を服用しても治ることがあるというんだからね。

感情というものも、身体に特有の生理的な現象と考えられているけれども、最近の感情社会学によると、ナースや航空機の客室係は、職場の中で適切とされた感情をコントロールすることを訓練され、職場でそれを実践する。それを「感情労働」と呼ぶんだが、役割演技以上のものを要求されているんだね。マクドナルド化する近代システムの中では、感情も商品なんだ。訓練された感情管理は、社会的身体の一部になっているわけだ。

おそらくこういう話の先鞭になると思うのが「身体技法」の指摘だ。モースは、軍人やナースそしてスポーツする人たちの身のこなし方に型があって、それが教育訓練に深く支配されていると指摘したんだ。この話の延長線上に、ブルデューの言う「ハビトゥス」や、フーコーの言う「規律」があるんじゃないかなと私は思うんだが、それについて深入りするのはやめておこう。

他方で、人間の身体は、記号的な身体でもある。つまり、「見る身体」であり「見られる身体」であるという点で、社会的なんだ。それは、セクシュアリティを表示する身体でもあるし、ときにはファッショナブルな身体でもある。障害や病気を表示する身体でもあるし、さまざまな身ぶりによってメディアと化す身体でもある。

要するに、社会学にとって「身体という広大な社会」が研究対象として存在するということなんだ。「それは生物学や医学の仕事ではないか」と決めつけるのは間違いだということだよ。

■病む身体を囲む社会

身体に関する社会学研究のうち、代表的なものが「医療社会学」であり、もっと拡張された領域を扱う最近の「健康と病の社会学」だ。

医療制度の研究はもちろんある。けれども、それは何も社会学でなければできないというものではない。社会学は、むしろ制度の陰に隠れたものに光を当てることができるし、そのほうが社会学らしい。

たとえば、病気について医者がどのように診断を下すかということよりも、病気にかかったとされる本人が、自分のからだの状態をどのように理解し感じているか、そして病人に対して家族や周辺の人たちがどのようにふるまい、かれらと医療関係者たちがどのような相互作用をするのかのほうが、はるかに複雑でダイナミックだ。

病院という組織の内部での生活世界もナゾだらけだ。入院患者仲間のコミュニケーションや、スタッフの専門職集団としての生態も、外側からはなかなか見えない世界だ。たとえば、看護は感情労働としての性格を持つ。労働の内実はかなり複雑だよ。

病や健康に関する知識と情報の問題、つまり医療言説や健康言説の批判的分析も重要だ。中でも医学的知識というのは案外不確実なもので、歴史的かつ政治的産物という側面が強いんだ。医学という応用科学の専門家集団の利害やイデオロギーが濃厚に反映している。そこをとき解いていくんだ。また、医療情報の問題としては、たとえばガン告知をめぐる微妙な情報のかけひきにも光を当てる。

それまで医療の対象でなかったものが治療の対象となる過程を「医療化」と言って、その社会的構築過程の分析もなされている。

先端医療のありようを考えると倫理の問題に突き当たる。先端医療には、さまざまな道徳上のジレンマがあるんだ。このあたりは社会学の領域をはみ出してバイオエシックス(生命倫理)の研究に入っていくことになる。

こんなふうに、身体に関する社会学にはやるべき課題がたくさんある。人びとの身体への関心は今後ますます高まるだろうから、変化も激しくなるだろう。

■健康ブームと超高齢社会

そう言えば、お前たちが来てからというもの、獣医さんとのご縁がすっかり深まってしまったなあ。あちこちがかゆいとなると獣医さん、便がゆるいとなると獣医さん、フィラリア対策でまた獣医さん。こんなに通うことになるとは思わなかったよ。犬は保険が利かないのが難点だなあ。

でも、お前たちの場合は、せいぜい病気がらみだから、たいしたことではないのかもしれない。今どきの人間の場合は、そこそこ健康な身体であっても、けっこう手間ひまかけているんだ。これを世間では健康ブームと呼んでいる。とにかく、人びとの身体への関心がとても高くなっているんだよ。

新しい健康法や健康食品が毎日のようにメディアで喧伝され、栄養学的言説が食生活に欠かせないものになっている。「これって、健康にいいんだってね」という語りが私たちの日常会話に出ない日はないと言ってもいいんじゃないかな。

今までも健康ブームは何回かあったんだ。でも、最近の健康ブームは一過性のものとは思えないところがあるね。

というのも、背景を考えてみると、次のようなことが言えるんじゃないかな。つまり、一九九〇年代以後の日本社会が、それまでの拡大路線から縮小路線に転換して、人びとの視野が外向的なものから、内向的にものに変わった。その中で日常的な関心が最も身近な自分の身体の状態に集束したということ。

それから、薬害エイズ事件に代表されるように、それまでかなり無条件に信頼されていた大企業や専門家や行政の不祥事が次つぎに大事件になって、それらに対する不信が募ったせいで、市民的防衛意識というようなものが日本人に目覚めてきた。「行政や会社や専門家に任せておけば何とかなる」というのは間違いだという意識だね。まあ、それまでのお上依存意識からくらべれば、自立度が高くなったと言えそうだ。そのさいの対抗原理としてクローズアップされているのが、かけがえのない身体ということになっているんじゃないだろうか。

いろんな価値観があるはずだけれども、健康ブームの価値観は「何より健康が大事」という考え方だ。これは超高齢社会日本のイデオロギーとして定着し続けていくことになるだろうと思うよ。

ただ、私は今の健康ブームが一枚岩だとは思わないんだ。相矛盾する要素が並存している複合的な運動体だと思う。一方では、近代医療に対する信仰がある。生活習慣病という政治的な概念を人びとはすんなり受け入れ、自己管理と予防に努めている。その一方で、薬や過剰医療に対する不信というものがあって、伝統的な健康法や食事への回帰がめざされている。自然治癒力とか無添加といった、あえて何もしない・付け足さないという選択肢を取る人たちも多い。

「これさえ飲めば健康になる」といったお手軽主義が見られるかと思うと、「継続は力なり」といったレトロな道徳をよしとする力強いファシズム的な側面もあるし、宗教的な癒しや救済の問題もこれにからんでくる。

健康ブームがメディア仕掛けだということは、毎日の健康番組を見ていればわかることだ。けれども、メディアに仕掛けられて人びとが踊らされていると思うのは間違いだよ。近代医療システムに対して人びとは受動的にしかふるまえないけれども、それに対して、健康食品や民間療法による「自己治療」については自由にふるまえる。つまり能動的で積極的な行為になっているわけだ。その意味では、「自分なりに何かできないのか」と自問する知的な市民こそが、今の健康ブームの担い手になっていると考えることができるんじゃないかな。

■グリーフワークとしての社会学

超高齢社会の健康ブームは、死を意識して生きる期間が長くなったことと関連している。死というものが社会のありように投げかける影は思いのほか濃いと思うよ。

ところで、人が死んだときにする喪の悲しみのことを「グリーフワーク」と言うんだ。これは辛抱したらダメ。あとで抑うつ症状が出たりするらしい。充分に時間をかけて悲しむという作業をしなければ、精神のバランスがくずれるんだ。あちこちの民族文化がこのグリーフワークを様式化して、はたから見て大げさに見えるような悲しみの儀式をするのは、そういう知恵なのかもしれない。死にはそれ相当の喪の悲しみが対応しなければならないんだ。

命の限界に向かって、一生懸命にケアにあたっている現場の医療・福祉関係者は、病んだ人たちの状態をよくしたり、安らぎを与えることができる。宗教家は救済の希望を与え、癒すことができる。それに対して、社会学は悲しむことくらいしかできない。いくら医療の現実を批判したところで、それはグリーフワークみたいなものだ。

でも、それは、しなければならない仕事なんだ。

考えてみれば、社会学の営み全体が、近代に対するグリーフワークなのかもしれない。

思うに社会学は二〇世紀的思考の典型だった。その営みは一九世紀半ばから本格化し二一世紀につづいているけど、本質は二〇世紀的現実を予見し、直面し、回顧する学問だった。

たとえばメディア研究はファシズム批判として出発したし、家族研究は「家族の危機」に対する反応として盛んになった。都市研究は人口が急速に増加してかつてのコミュニティが崩壊して混沌状態になった現実に呼応して生じたものだし、エスニシティ研究は国民国家の呪縛のはざまでマイノリティとして生きざるを得なくなった人たちへの共感から始まった。二〇世紀的現実が語る「反省のことば」として、社会学は二〇世紀に埋め込まれている。

おそらく二一世紀的現実については、新しい学問の形が対応することになるだろう。そうした領域ではすでに環境学、情報学、国際学、ジェンダー論、社会理論、カルチュラルスタディーズ、バイオエシックスなどの名称のもとにディシプリンを超えた学問が新しく多面的な現実に対応しようとしている。

しかし、ディシプリンを超えるということは並大抵のことではないんだ。

社会学はそれらの先駆形であり、発想の基幹をなし、二一世紀において限界を自覚しながらも、たえず立ち戻る知的拠点であり母港として、以前より重要性を増すんじゃないだろうか。このあたりに、ディシプリンとしての社会学を学ぶ意義があると思う。

私自身、正直言って、社会学へのこだわりは昔にくらべてずいぶん希薄になった。たしかにディシプリンにこだわる時代じゃない。でも、目の前の現実について語らなければならないとき、とても不安な足場に立っている気がするのも事実だ。じつのところ、漂流しているような感じがしていたんだ。ここでお前たちに向かって社会学を語ることができたのは、知的拠点を確認するという意味で、私にとっていいリハビリになった気がするよ。

さてと、これで社会学の話は終わりだ。さあ、公園に散歩に行こう。

■人間のためのあとがき

スランプの時にはスランプなりの仕事をすればよい。そう考えて引き受けた仕事が本書の前身であるムック『子犬に語る社会学・入門』(洋泉社、二〇〇三年)だった。私は前半の総論部分を担当したが、本書はその私の担当部分を単行本化したものである。

「子犬に語る」というフレーズは、編集部ではなく純粋に私の発案で、犬との共同生活の中で自然と湧いてきたものだった。「サルでもわかる」といったハッタリではなく、まあ、ほんとにそういうつもりで書きおろしたものなのである。社会学的にカッコをつけて「エスノメソドロジー的実験」と言えばもっともらしいけれども、語りおろすように書かれた社会学入門が必要であるというのがかねての持論であったので、それを子犬相手にやってみたわけである。あきれられるかもしれないが、脱力していた当時の私にとって、これはそれなりに自然な選択だった。

とは言え、子犬は、キーボードを叩く私のひざの上で寝ているだけだから、限りなくひとり語りに近いものであるのは当然で、それを傍でこっそり聴いているような気分で読んでいただければいいなというのが私の思いつきだった。

執筆上の指針としたのは、テーマや理論ごとにバラバラな社会学研究の寄せ集めではなく「ひとつの社会学」としてのイメージをエッセイ的に描くことだった。そして社会学の問題圏や思考圏にナヴィゲートすることに主眼を置き、理論的解答までいたらなくてもかまわないと考えた。いずれにしても、欲張らないように心がけた。

今回の単行本化に際して、編集部のおすすめに従い、全面的に章タイトルを変更し、本文についても若干の手を入れたが、それほど大きな補筆改訂はしていない。注はムック制作時に洋泉社編集部によってつけられたもので、それはほぼそのまま掲載することにした。

本書は語りおろしに近いものであり、ほとんど参考文献というものを手元においての執筆をしていない。けれども、ここで述べられている事柄はすべてどこかの文献に書かれていることである。それらについて逐一、文献注を施すことは、本書の性質上そぐわないと考えたので省略した。参考文献の大部分については、私の『社会学感覚』と『リフレクション』(いずれも文化書房博文社)において言及されているので、これらを参照していただければ本格的な文献に辿り着けるはずである。これらは私の個人サイト「ソキウス」(http://socius.jp/)上でも公開している。

ムック制作時には渡邉秀樹氏、単行本化に際しては黒澤政子氏にお世話になった。弱り目に祟り目だった私をここまで励ましてくださった洋泉社編集部のお二人に、記して感謝したい。

最後に一言。二一世紀になって、それがかつて予想された社会像とあまりにちがうことに愕然とする。深刻な新しい社会問題の解法を求めて、社会学者もなりふりかまわぬ研究を展開していかなければならないと感じる。そして、その知見が、社会に生きる人たちにとって「生きるための知恵」として役立つことを切に願う。

二〇〇四年一一月二六日                   野村一夫

『子犬に語る社会学』第7章 メディア空間を生きる

『子犬に語る社会学』
第7章 メディア空間を生きる

■何もかもメディア仕掛け

お前たちの夜の過ごし方は、もっぱら食後の室内運動とテレビだ。犬がテレビを見ることができるというのは発見だったな。ただし、ふつうの番組だとおとなしく見ていられるんだが、動物が出てくる番組になると、テレビに向かってほえまくって大騒ぎになる。ひげづらの男にもほえる。急に自分たちのテリトリーに侵入してきたと思うんだろ? あれは本物じゃないんだよ。臭いもしないし気配もないだろう。まあ、それだけに不気味ではあるということはわかるけど。

メディアを通して見聞きするものに、かなりのリアリティがあるというのは、お前たちを見ていてもよくわかる。それは人間だって同じだ。私が知識として持っているもののうち、直接見聞きし体験して得られたものなんて、ほんのわずかなものにすぎない。ほとんどが、本や雑誌や新聞やテレビなど、何かメディアを通じて得たものだ。人づてに聞いたことだって、たいていは元をたどればメディアがどこかでやっていたことだ。

日常的な楽しみもみんなメディア体験だ。音楽を聴くのも、スポーツを見るのも、ドラマを見るのも、オーディオやテレビばかりだ。かつてよく行った山歩きも、お前たちが来てから、なかなか行けなくなった。メディア依存の割合が多いのは、あんまりいい傾向ではないだろうなあ。

考えてみれば、メディア体験というのは不思議なものだ。たんなる代理体験かというと、そうでもない。複製だからダメだというものでもない。コンサートやスポーツ観戦の盛り上がりには較べられないけれども、それはそれ、これはこれ。こちらも構えが違ってくるから、それなりのリアリティもあるし、けっこう没入して楽しめるものだ。

それに対して、大きな事件や事故のニュースは、私たちにとってメディア上の出来事だ。一九九一年の湾岸戦争が「ニンテンドウ・ウォー」と呼ばれたり、二〇〇一年の同時多発テロが「ハリウッド映画のよう」と言われたりしたのも、つまりはそういうことだ。リアリティをどこまで感じ取れるかは、メディア側の工夫にもよるし、受け手の感受性にもよる。出来事を直接確かめることは、普通の人にはなかなかできないけれども、私たちはメディアを信頼して「それは現実にあったのだ」と信じるしかない。これは距離を置いて見れば宗教みたいなものだよ。

現代人はメディア環境の住人だ。昔は「擬似環境」と呼んだものだが、最近だと「ヴァーチャル・リアリティ」だね。でも、いろんなメディアがあるから、私は「メディア空間」か「メディア環境」ぐらいがいいと思っている。私たちはそこに住んでいる。

■メディア仕掛けの音楽

メディアがどれだけ文化に浸透しているか、たとえば音楽とメディアの関係について考えてみよう。私たちがなじんでいる西欧近代音楽は根っからメディア仕掛けの音楽なんだ。

西欧近代音楽が平均律を採用した音楽だということは前に話した。このとき、楽器と記譜法が大きく影響していると言ったんだが、そもそも楽器は音楽のメディアだよ。楽器の発達によって音楽そのものが変化するのは当然だ。ハンマーで弦を叩くピアノの登場と普及によって平均律への旋回が決定的なものになった。

そして楽譜に音符を記入する記譜法の完成によって、音楽は演奏する行為だけでなく「書く行為」にもなった。記譜法は、音楽を純粋に表現するメディアだ。楽譜上では、演奏不可能なことも含めて、あらゆる音楽を表現する可能性がある。音楽を書く人つまり作曲家は、記譜法をメディアとして、次つぎに新しい音楽表現を追求していくことになる。

一九世紀になると音楽の担い手は市民層になる。音楽好きの豊かな市民たちが共同で広いコンサートホールを作っていく。この場合、ホール自体が音楽のメディアになっているわけで、それは音楽が雑音なしに特権的に鳴り響く空間を提供するというだけでなく、聴衆に禁欲的な集中的聴取を強制する空間でもあった。建物の作り方自体が、音楽の響き方と聴き取り方を指定していたんだ。一九世紀を通じて、音楽はそういうものとして「芸術」として格上げされていく。これがいわゆるクラシックだね。

二〇世紀になって人びとはラジオやレコードといった機械的なメディアを介して音楽を体験するようになる。ラジオは一九二〇年代からだ。このときから音楽はマスメディア仕掛けになったんだ。それはいつでもどこでも何度でも再生可能なものになったということ。こうして、思想家ベンヤミンが「アウラ」と呼んだ「一回ぽっきりのかけがえのなさ」が音楽から失われていくことになる。

人びとがマスメディアを介して音楽を聴くようになると、今度はメディアに合わせた音楽、たとえばラジオやレコードで聴きばえのする音楽が大衆向けに生産されるようになる。これがポピュラー・ミュージックの誕生だ。たんに音楽がメディアによって配布されるのではなく、メディアが音楽の内容を指定して生産するということだ。ここに大きな転倒が生じている。

音楽を専用に聴くためのメディア、つまりオーディオ装置は、原音再生を目標に技術が進んでいく。代理体験以上のものを求めるようになるわけだ。オーディオ技術は一九六〇年前後に一般家庭でのステレオ再生を実現する。点音源からステレオになることによって、音が響く空間つまり「音場」を人工的に再生できるようになったわけだ。こうして、音楽は「空間を表現する行為」になった。

このようにメディアは技術であるが、それ以上のものだ。同じころテープ録音技術ができたのだけれども、それを使いこなせるミュージシャンが出なければ、それはないに等しい。クラシックではグレン・グールド、ポピュラーではビートルズが、それぞれテープ録音された音楽を編集することで、メディア上でのみ再生可能な音楽を作り上げた。こうして音楽が「編集する行為」になったんだ。この編集はとても創造的なものだったから、その後の音楽制作では当たり前のことになっていった。

そうそう、広告を忘れてはいけない。消費社会では、広告によって消費欲求が喚起される。広告はメディアを選ばない。なんでもありだ。音楽もプロモーションされて大量消費されるものになった。今では自然にヒットするなんてことはめったにないんだ。プロモーション・ビデオがあちらこちらで流され、あるいは映画音楽やテレビドラマとタイアップした主題歌としてヒットする。今やヒット曲に関しては「見ながら聴く」音楽ばかりになっている。

一九八〇年代の技術的な面での革新としては、コンピュータの導入がある。それまでは演奏だけは人間がしていたわけだが、ここで演奏の人間離れが生じた。シンセサイザーとの組み合わせによって、演奏技術のない人でもひとりで壮大な音楽を演奏することができるようになった。

日本で発明されたカラオケの普及も音楽を変えた。マスメディアは一方通行のメディアでもあるから、音楽のメディア体験というものは、ひたすら受け手としての楽しみをもたらすものだった。しかし、カラオケによってその構図があっさりくずれた。音楽は気軽に歌われるものになった。

視点を変えると、今では音楽自体が何かのメディアにもなりうる文化になっている。たとえば、それは有名になるためのメディアであり、若者やかつての若者の自己表現のメディアでもある。ときとして、ある種の共同体意識のメディアでもある。音楽は場の雰囲気を強力に支配するので、BGMとして欠かすことができないメディアになっている。

というわけで、あえてメディアということばをたくさん使ったよ。メディア概念は多角的な意味を持っている。どれが正しいというのでもない。ただ、メディアは技術を伴うけれども、それ以上のものだとは言っておきたいね。それは文化的な装置として作動するんだ。

■メディア・情報・コミュニケーション

こういうメディア仕掛けの世界についての研究は、いろんな学問がしている。社会学でもそれらと連動して、だいたい三つのアプローチがある。

第一は、メディアそのものに焦点を当てたもの。メディア論だ。これは二つの系統に分かれていて、ひとつはメディア別つまり業界別の研究だ。新聞論・放送論・出版論などがそうで、ニュースのあり方に焦点を定めたジャーナリズム論はここに入る。従来はマスコミ論と呼ばれていた。

これに対して、マクルーハン以来のメディア論がある。こちらはマスコミでないメディアを射程に入れて、メディア史観というべきか、メディアが社会を変えてきたという考え方で、かなり広い視野でメディアを取り上げている。メディア概念が広い。たとえば自動車なんかもメディアに入ってしまう。この系統は、メディアが身体や感覚をどのように変容させるのかを考える。たとえばウォークマンが出現したとき、ケータイが出現したとき、私たちの感覚や意識はそれらを使うことによって大きく変わってくる。こういうところを考察するんだ。

第二は、情報に焦点を当てたもの。これはあきらかに技術的・工学的知性から発していて、コンピュータやインターネット関連の議論はもっぱら情報概念を使うのが一般的になっている。もともとは「サイバネティクス」という学問を立ち上げたウィーナーの議論から始まっているし、分子生物学の影響もあるのだから、広く自然科学に開かれた研究スタンスだった。今では社会科学やセールストークにまで応用されて、今や情報概念の天下だ。ただ、気になるのは、情報の空箱をいじっているという感じだね。中身はどうでもいいみたいなところだ。社会学系では社会情報学というのがあって、ここでは情報概念を使って社会システムの仕組みを説明したりしている。

第三に、コミュニケーションに焦点を当てたもの。これはわりと社会学的だと言えるかもしれない。かつてはマスメディアの影響力に関する調査研究が盛んだった。これは受け手の変化を見るものだから、業界話ではない、正統派の社会学研究だった。それに、メディア論や情報論が技術偏重や技術決定論になりやすいのに対して、これはわりあい自由だ。コミュニケーション論だと、おしゃべりやうわさの氾濫からインターネット世論やケータイでのコミュニケーションまで、包括的に議論できる。コンピュータ関係でも「コンピュータに媒介されたコミュニケーション」研究、略してCMC研究というのがあって、ネット上のディスカッションの特徴などを実証的に分析している。

以上の三種類の研究は、根本的な発想が違うせいか、まったくソリがあわない。だからメディア世界の研究を始めると、とたんに混乱してしまうんだ。

最近は「情報学」という学問運動があって、これらを取り混ぜて、情報的世界に対して総合的に研究していこうという流れがある。まだ混沌とした状態だけれど、これからはこういうディシプリンにこだわらないスタイルの研究が盛んになるだろう。

■カルチュラル・スタディーズ

さらに、これらに新しく加わったのが「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる研究だ。「文化研究」の複数形ということになるが、独特のニュアンスがあるのでカタカナ表記になっている。言いにくいので「カルスタ」と略称されることもある。

これはメディア的世界に対して文化論の視点から研究する。文化論と言っても、特定の学問との関係がない脱領域的な研究だ。おもに文学批評など人文学からのインパクトが強い。人文系研究者が文化に対するメディアの役割について社会学的に目覚めた産物という感じがするが、もちろんそれがすべてはない。社会学者は総体として少数だし、やや鈍重なところがあるので、社会学者たちよりもすぐれた研究ががんがん出てくるんだ。社会学と併走している研究実践だから、相乗効果が出るといいんだけどね。

見ていると、カルスタ好みのテーマとアプローチというものがあって、メディア系の議論だと、労働者階級の文化、サブカルチャー、映画、ポップカルチャーを取り上げることが多い。そこでメディアに対する受け手のしたたかな読みとか、スタイルに潜む抵抗のメッセージとか、ジェンダーバイアスやエスニシティといったものを浮き彫りにしていくんだ。

優勢な文化とその担い手たちのヘゲモニーを批判的に理解して、それに抵抗する民衆的要素をさまざまな文化の現場から読み込んでくる。かなり野党的な姿勢があり、政治的なメッセージ性が強い。これは伝統的なメディア研究や文化論では希薄だったところで、権力作用の視点からの「読み直し」になっている。

ただ、野党的な分、これも説教くさいと言うか、人生論くさいところがあって「生き方変えましょう」というメッセージが込められている。その分、主張性のあるエッジのきいた研究になるのだと思うんだけどね。

■メディア・リテラシー

社会学系のメディア研究が一様に指摘しているのは、メディア仕掛けの世界、つまりメディア上の世界が、たんなる現実の世界の反映ではないということなんだ。「メディアは独自の現実を構築する」ということだ。

広告にしても、ニュースにしても、ドラマにしても、メディア空間は演出されている。意図的に編集・強調・加工されたものだ。その「意図」とは、コマーシャリズムと政治的バイアスと職場慣行と支配的文化と流行の複合体だ。これに複雑な競争構造が加わって、実際の内容が決定する。

その結果、メディア空間全体しては、ドラマの中で老人がプラスイメージで描かれることがめったにないとか、ニュースの中で女性であることが文脈に関係なく強調されるといったことが生じるんだ。まったく現実の反映ではないんだよ。

となると、オーディエンスの側で、高度な読み取りをしなければ、現実を見誤ってしまう。しかし、「絵になる」ところだけをクローズアップしたカメラワークに「見せるための」編集が加えられた、高度に演出されたテレビのニュースから、画面のフレームワークによって切り取られた外側の見えない部分を想像するのは難しい。よく「行間を読む」と言うけれども、語られないことを想像するのも難しい。それはかなり創造的な読みになる。ドラマや広告を見ながら「これであって、あれでないのはなぜか」を考えることも、相当な基礎知識と想像力がいる。

しかし、オーディエンスつまりこれまで「受け手」と呼ばれてきた人たちが、たんなる情報の終着地点以上のものであることもまた明らかになっている。能動的読み、じっさいオーディエンスの読み方しだいで、メディア上で表現されたものは、いかようにも解釈されうる可能性がある。

だから私たちみんながそれなりの批判能力を持つしかないというのがメディア・リテラシーの趣旨なんだ。リテラシーというのは読み書き能力のことなんだけれども、この場合は、批判的に読み解く能力のことだ。いわゆる「情報リテラシー」「コンピュータ・リテラシー」がパソコンの操作能力の習得程度の意味で使われているけれども、それらとは全然ちがう質の概念なんだ。

おそらくメディア仕掛けの世界を社会学的に学ぶことは、メディア・リテラシーの基礎能力を培うことになるはずだよ。

■ネットという新しい社会空間

インターネットの急速な普及は、これまでのメディア世界を一変させつつある。私もインターネットを使い始めて八年。私の生活もずいぶん変わった。と同時にインターネットの世界もずいぶんと様変わりした。確実に言えるのは、量的な拡大だ。インターネットを使う人が飛躍的に増え、さまざまなサービスが拡充されている。その結果、インターネット上に新しい社会空間ができ、日々膨張しているのだ。社会科学にとって、これはまったく新しい研究対象の出現を意味する。

ただし、コンピュータ関連だということで、何かと情報論的に、あるいは工学的に説明されてしまうが、そういうものをあまり鵜呑みにしないほうがいいと思うよ。社会学的に意味があると思うのは、むしろ歴史的かつ文化論的な説明だ。

インターネットの世界は、技術だけで決まるのではない。その技術に独特の文化がたえず伴走しつづけて発展してきたんだ。

もともとインターネットはアメリカ西海岸の若者たちが開発の担い手となった技術だ。そのため、いわゆるビートルズ世代の価値観が浸透したメディアとして発展した。自由であること、オープンであること、民主的であること、ともに楽しめること。こういった価値観が明確にある。たんなる情報技術でなかったところに、のちの爆発的普及の要因があるんだ。

ところが、それが、今日の飛躍的な量的拡大によって、伴走態勢がくずれてきた。つまり、インターネット・コミュニティがそうした価値観やスタイルを再生産できなくなったんだ。考えてみれば、学術利用に限定された、技術エリートたちの集まりだったからこそ成り立ったコミュニティだったんだな。

ユーザー性善説でやってきたインターネットも、今では、ユーザーへの信頼が裏目に出ているのが現状だ。そのため、何でもありの世界になった。インターネットの場合は、オーディエンスは送り手でもある。双方向性という特性はメディア空間を複雑にする。さまざまな組織が工夫をしていかないと、この新しい社会領域は、テロリストの横行する紛争地帯のようになってしまいかねない。情報倫理が問われるのは、このためだ。

しかし、同時に、これまでマスメディアが不完全ながら実現しようとしてきた「公共圏」の可能性をインターネットが持っているのも事実だ。公共圏というのは、民主的で自由な言論空間のことだ。さまざまな試みがなされているようだ。世論がもみこまれていく場所としてネット世界にはまだまだ価値がある。

おそらく学問のあり方も変わってくる。社会学も含めて人文社会系の学問世界は長い間、印刷メディア中心に回転してきた。しかし、今では政府の統計資料ひとつ取るのでもネット経由になる。共同研究もメーリングリストなどを駆使しておこなうのがふつうだ。研究成果もウェブで公開され始めている。このあたりをどう再組織化していくか、そろそろきちんと対応しなくてはならない時期だね。

『子犬に語る社会学』第8章 ことばが現実をつくる

『子犬に語る社会学』
第8章 ことばが現実をつくる

■予言の自己成就

お前たちが散歩しなければならないのは、たんに用を足したり、テリトリーを確認するためだけじゃない。ヨソの家の犬やその飼い主と交流するためでもある。犬同士のおつきあいは、お互いにたいせつだそうだから、あまり知らんふりしないほうがいいんだ。でも、中には愛想のない犬と飼い主もいる。「ウチの犬は愛想がないから」と決めつけてしまうと、積極的に付き合うことをしなくなってしまうから、どうしようもなく「愛想がない犬」になってしまう。こういう悪循環にならないようにしないといけないね。

こういう循環は人間社会にはいくらでもある。物事はいったん転がりだすと勢いがついてどんどん転がるところがあるんだな。

たとえば、一九八〇年代後半のバブル期には、株や土地は上がるものだとみんなが信じていて、繰り返し、投資や不動産購入の有利が語られた。その結果、異常に上がるだけ上がって、最終的に実体経済と乖離してしまうほどまでになり、結局、破綻した。そのツケを払っている今の時点から見ると、それは中長期的には根拠のない煽りだったんだが、そのときは専門家やメディアの人たちは自信を持って語っていたし、普通の人もそれに対して批判的に吟味などしなかったんだ。

あの雰囲気を忘れるべきではないな。二〇世紀半ばに日本が長い戦争を始めたときも、きっとこんな調子で、明るく景気のいい調子だったんだろうなと、今ではなんとなく想像できるんだ。掛け声大きく、強気で攻めて、小刻みに結果が得られると、煽りのことばも自明のことのように信じられていく。それがさらに物事の勢いをつけてしまう。ファシズムの生気は、こういうことなのだろう。

経済や戦争は、実体があり、それには限界があるから、たいていどこかで破綻する。しかし、社会現象の中には、破綻しないで、そこそこ実現してしまうものがある。

私は宝くじをよく買う。広い庭のある大きな家を建てて、お前たちを思い存分走らせたいからだ。そのためには地道に、どこが地道かわからないが、とにかく宝くじを買うしかないんだ。競馬じゃ、いくら研究しても家は建たないからなあ。

ところで、宝くじって、どこで買うかが勝負なんだよ。一般に、当たりのよく出る売り場で買うのがよいとされている。すると、大当たりの出た売り場で人びとは買うようになる。すると、その売り場では他の売り場より大量に宝くじが販売されるので、当たる確率が各売り場同じとすると、母数が多い分、たくさん当たりくじが出る。するとその売り場はほんとうに当たる売り場になるから、ますます販売数が増えて、当たりくじも多くなるというわけだ。

こういう循環を社会学では「予言の自己成就」と呼ぶんだ。この場合の「予言」とは「この売り場で大当たりがでました」ということばだ。そのことば自体が呼び水になって、どんどん大当たりが出る売り場になったことが「自己成就」だ。まあ、これはあくまでも売り場の話であって、買った人が大当たりするでないのが残念だが。ちなみに私はほとんど成就していない。

さて、この循環は必ずしもいいことばかりじゃない。銀行の取り付け騒ぎは悪循環の見本だ。つまり「この銀行は危ないぞ」といううわさが流れると、預金者が殺到して相当数の口座を解約してしまう。そのことで銀行がほんとうに危なくなってしまう。予言としてのうわさが現実のことになってしまうわけだ。

宗教や健康食品や代替医療の世界でも、「これでよくなる」と信じて語っていくことで、その気になるという部分があって、癒しや救済はそれなりにあるみたいだ。

正規医療の世界でも「プラシーボ効果」という現象がある。「プラセボ」とも言うね。新薬の臨床試験ではダブル・ブラインド・テストというのをやるんだ。同じ症状の人をふたつのグループに分けて薬を処方する。片方には本物の薬、もう片方には偽薬を処方する。すると、本物の薬のほうでそれなりによい結果が出るわけだけれども、偽薬のグループでもよい結果が出る人がある程度出てくるというんだ。つまり偽薬で治ってしまう人がいる。そこでふたつのグループを較べて大きな差が出ている薬を「効く」と判断するんだ。

この場合も、「最新の治療薬を試してみましょう」ということばが一連の社会的な循環を起こして、結果的に「よくなる」という現実を創造している。ことばというのは、現実を作り出してしまう重要な要素なんだ。

■レッテルを貼られること

ことばが暴力に等しいものになる瞬間がある。それはレッテルを貼られたときだ。暴力に等しいと感じるのは、それが抗いがたい社会的現実として本人に立ちはだかるからだ。

たとえば、ひとたび「加害者」「犯人」というレッテルを貼られると、法的には「容疑者」という役割であっても、レッテルは社会的現実として起動する。この場合のレッテル貼りは、社会学的には「逸脱の創出」と呼ばれる現象だ。

何らかの規則に違反した者を「普通でない」と見なしてレッテルを貼ることを「ラベリング」と呼ぶ。この場合の規則違反は、法律違反のこともあれば、クラスルームのささいな約束事のこともあれば、ホームレスのように生活の不遇がもたらすスタイルのズレのこともある。とにかく規則に違反していると感じた人や集団や組織がその当人に対してラベリングし、逸脱者扱いするようになる。

このレッテルは基本的にはことばにすぎない。けれども、本人の人生を左右することさえある、非常に強力な作用をもつ。

たとえば、万引きをして捕まった少年が、そのあとの一連のプロセスの中で「非行少年」のレッテルを貼られることで、その他大勢の仲間たちから敬遠され、学校からも分離されて扱われ、その結果ますます通常の進学・就職への道が閉ざされてしまうケース。あるいは一九九四年の松本サリン事件のときに第一通報者が犯人視報道されてしまったケース。このような誤報や冤罪事件のケースは、事実と異なるラベリングが猛威を振るうことになる。

いわゆる偏見もまたことばにすぎない。しかし、それらが人びとに共有されていることによって、差別という現実を生み出す。差別待遇は、その人たちにさらに不利な状況を生み出し、偏見を強化してしまうことが多い。これもまた予言の自己成就だ。差別することが差別を再生産してしまう悲劇的循環だ。

■言説と権力作用

ことばには現実を作り出す力がある。人びとを縛る力、つまり権力作用がある。このことに着目した場合に、ことばのことを「言説」と呼ぶ。フーコーの影響があって、今ではさまざまな人文社会科学で使われている概念だ。この概念に慣れておかないと、今の社会学はもちろん人文学系の文章が読めないだろうね。

たとえば教育社会学には「教育言説」の研究がある。そこで取り上げられているのは次のような言説だ。「個性を尊重しなければならない」「教育は多様でなければならない」「教育は教え込みであってはならない」「学級は生活共同体である」など。最近だと、これに加えて「心の教育が必要だ」というのも入りそうだね。

このような「教育の語られ方」には、それぞれ歴史的経緯があり、実際に強い力を持っている。「それを言われると逆らえない」という殺し文句になっている。こういう力を権力作用と呼ぶんだが、社会学は、これに対して、一見して普遍的な言説に見えて、じつは歴史的産物だということを示すんだ。つまり、どのような経緯があって、このような言説が確立し、広く力を持つようになったのかを具体的に説明する。そして、これらの一見善良そうな道徳的言説が、じつは国民国家の権力機構の維持に役立つように仕向けられたミクロな装置だったということを批判的に提示する。さらに、これらの言説が個々の現場において、どのような効果をもって、物事を左右しているかの実態を細かく研究する。

要するに、言説は歴史的産物であると同時に、日々の歴史を作っているそのものでもあるんだね。言説が社会的現実を構築していると言ってもいい。社会現象ならではの循環構造があるんだ。

■社会問題の構築

言説の現実構築に注目して社会的現実を分析していこうという立場を「構築主義」と言う。比較的新しい理論傾向だが、厳密なものから緩やかなものまで、いろんな分野について多彩な研究がおこなわれている。

この構築主義によると、どんな社会問題も、問題だと指示されている状態それ自体ではなく、それを問題視する側の言説の実践によって構築されているということになる。

たとえば、フェミニズムが「セクシュアル・ハラスメント」や「ドメスティック・バイオレンス」という概念を提示することで、それまで経験はされていたけれども語られることの少なかった暴力的な現実が明確に見えてきた。社会現象というのは、見えているようで見えていないものなんだ。だから問題の立て方によって、見えるものは違ってくる。この場合は、女性の置かれている不本意な状態に異議申し立てするフェミニズムの視点だからこそ、問題化することができたし、これらの社会問題に対する抵抗や反発もまた、そこから生じてくるんだ。

同じようなことは「不登校」「いじめ」「ひきこもり」「児童虐待」「やらせ」といった社会問題にも当てはまる。これらの概念が、問題発見的レンズの役割を果たすんだ。

構築主義的研究では、だれがそういうことを言い出して、それがどんな反応を呼び起こし、紆余曲折しながら社会問題化していったかを追っていくんだ。

このさい、ポイントになるのは、ひとつは社会運動の実践だ。「問題だ」と言い始めるのは多くの場合、社会運動組織だからだ。ふたつは専門家とメディアの役割だ。かれらの活動によって問題は正当化され、公的なものとして広く知られるようになる。もうひとつは、具体的な歴史的経緯というものが重要になってくること。時間は不可逆的なものだから、私たちは、未来に生じることに対して反応できない。どんな社会問題も、各時点で見えている物事に対する反応の連鎖と積み重ねによって形を整える。だからその研究は歴史社会学的になっていく。最近の社会学に歴史的研究が多いのは、こういう背景もあるんだ。

■言説としての社会学

社会学をはじめとする人文社会系の学問も、こういう言説の一環にすぎない。学問は、しばしば権力作用の一端を言説的に担ってきたんだ。

「学問は何の役に立つのか」という問題の立て方をする人が多いけれども、私に言わせれば、それは問題の立て方が間違っている。学問は社会の外側にあるのではなく、間違いなく社会の一部だし、言説を担っているという点で、すでに社会の重要な構成要素なんだ。この重要性とは、それなりの権威があって、人びとの実践活動に何らかの影響を及ぼしているという意味だ。

経済学者や心理学者なんかに較べると、日本では社会学者の言説はあまり強力ではない。それでも社会学の言説は、現に大学などで教えられ、学習され、試験に出題され、メディア上や政府の審議会などで語られている。近代システムの末端現場において、それは採用され、その考え方が現場に組み込まれていることもある。そうして人びとの日常的実践に深く介入しているんだ。それなりの効力を持っている。

そのときに、社会学が、どういう言説を組み立て、社会に提示するのか。未だ日の当たらない潜在的社会問題を発見したり、社会問題の解決を目指す作業にいそしむのか。社会正義の名の下に臨床的判断なり政策的提言なりを提示するのか。

しかし、正義と悪の二分法の発想から勧善懲悪主義に陥ると、道徳十字軍あるいは魔女狩り専門官として断罪するのが仕事の「道徳事業家」になってしまうおそれがある。それでよいという考え方もありうる。問題の緊急性、被害や差別の深刻さを考えて、積極的に社会運動に関わっていくべきだとの考え方からだ。

たしかに、それもありだ。縁があって、そういう役割を担うことがあっていい。けれども、私自身は、それが社会学にしかできない仕事とは思わないんだ。

まず、研究対象から距離を取ることが必要だ。社会問題の「被害者」「犠牲者」に対してさえ距離をとって、問題を冷徹に分析して記述するんだ。そして、関連するありとあらゆる言説の信憑性を疑うこと。つまり、言説の文化的バイアスや政治的意図を暴露的に批判すること。当初は問題発見的意義を持つ概念であっても、それが時間を経るうちに、別の問題を隠蔽する作用を持つこともあるから、たえず点検が必要だ。さらに、問題として俎上に上っていない「残余のもの」を発見し注目すること。

この意味で、私は、批判科学の道が社会学固有の道だと考えている。最近の社会構築主義の研究はその見本だと思う。

私が「反省のことば」と呼んでいたのは、こういうことだ。「お刺身のわさび」のような存在であるべきではないかな。社会学はもっと「荒ぶる学問」であっていいんだよ。

『子犬に語る社会学』第6章 想像された境界をまたぐ

『子犬に語る社会学』
第6章 想像された境界をまたぐ

■宗教と国家と地球社会

お前たちはときどきヨソの犬とケンカする。まあ、じっさいには私が綱を引くから、唸りあいですむんだが、どうにも相性が悪い相手はいるものだな。犬やその他のたいていの動物の世界にはケンカのルールがあるらしい。いっそのことケンカでもすれば勝負の決着がついてスッキリするのかもしれない。

お前たちとちがって、人間の争いごとには歯止めがないように見えてしかたない。何か「自然の一線」があって、そこで踏みとどまる工夫があればいいんだが、なかなかうまくいかないようだ。人間の暴力は難問だ。

一方では「ひとつの地球社会」という観念が人びとに共有されるようになった。経済と環境の問題がそれを要請し、交通とメディアの発達がそれを見えるものにしたと言えるだろうね。それによって、とりわけ宗教と国家のありようが「ひとつの地球社会」の現在と未来にとって大きな存在であることが浮き彫りになってきた。

そもそも宗教と国家は、社会の理不尽なことに対する人間なりの工夫だったんだ。少なくともその内部においては平和と秩序が維持されるような仕組みだった。しかし、いつのまにか、その仕組み自体が理不尽なことを引き起こしてしまうようになってしまっているんだ。この転回は社会学的に説明しなきゃいけない大問題だ。

守りたい平安があれば祈りたくなる。不幸があれば祈りたくなる。人間はかなり昔から「祈る人」だった。それは近代社会になっても変わらない。一時は「世俗化」と呼ばれて、宗教の影響力は小さくなると見られていたんだ。けれども、日本や中国を例外とすれば、全体としてはそれほど変わりがないという話だ。むしろ地域によっては「祈る人」は多くなっているかもしれない。

おそらく「祈る」という一点において、お前たち動物と人間の文化的世界は大きくちがう。歴史的に見れば、宗教が人間社会の基本を決めてきた。宗教こそが長年にわたって社会の秩序を維持してきたんだ。

その一方で、近代においては国家が社会をコントロールしようとしてきた。「西欧に特有の合理化」の大きな枝が近代国家という装置だ。それは「鉄の檻」として強い秩序を作り出す。それは近代システムの世界的な広がりとともに、人間の大多数を囲い込む仕組みになった。

宗教と国家は、お互いにまったく異なる原理原則で動く。けれども、どちらも人間たちが作り出した社会の工夫の結晶と言えるだろうね。

■理解するという戦略

いったい宗教とは何なのか。それは祈りの文化であると同時に暴力の文化でもあるように思える。それは高度な文化なんだろうか。時として奇矯に映る宗教行動の数々を思うと、そうでないようにも思える。そもそも近代システムに内在した視点から見れば、宗教は完全に時代遅れ以外の何者でもない。しかし、その認識が間違っていることは、冷戦終結後の世界情勢がはっきりと示している。宗教は今も、そしてこれからしばらくのあいだも現役であることに間違いない。では、それはなぜなのか。

そもそも「宗教とは何か」という問いは、社会学の成立に大きくかかわっているんだ。宗教は、他の社会科学の素朴な方法論ではとても研究できなかった。宗教学はそれなりに蓄積はあったけれども、人文学的な伝統の中にあって社会科学としての陣容はなかった。ウェーバーやデュルケムやモースといった研究者たちは、宗教という現象をどのように理解すればいいかについて悩んで、その中で独特の社会理論を構築していったんだ。つまり二〇世紀社会学は宗教現象との理論的格闘によって独自の学問として自立できたんだよ。

まあ、むずかしいことはさておいて、今の社会学が立っている地点から見れば、祈るという行為を除けば、宗教は何も特別な現象ではないんだ。前に閉鎖的集団の内部世界として説明したことを大きなスケールにして捉えればいい。

それは独自の文化を発達させる。それは集団内部に秩序を作り出す。それは首尾一貫し理にかなっている。

宗教は一見非合理に見えるから、最後の点は強調しておいたほうがいいだろうね。だれにとって理にかなっているかと言えば、もちろん信者にとってだよ。なぜ自分たちが幸福なのかを説明し、あるいは、なぜ自分たちに理不尽で不幸なことが起こるのかを説明する。それがうまく説明できなければ、その宗教は滅びる。それなりに納得させる説明ができれば、その宗教は残る。宗教はこの点で「知の合理化」なんだ。だからキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教や儒教のような世界宗教は、きわめて整合的な世界観をもっている。ただし、それは近代システムの合理性とは異質な合理性だ。だから近代システムの視点から眺めると非合理に見える。

このように、宗教を信者の信仰心から理解するのが社会学流のやり方だ。それでこそ宗教の持つ強い力が説明できる。

考えてみれば自然現象を「理解する」ことはできない。人間がかかわる社会現象だから、その現象を支えている人間を理解することができる。これこそ社会科学独自の方法論ではないかとウェーバーは考えた。ウェーバーはそれを「理解社会学」として定式化したが、こう気づいたときに社会学は学問として自立したんだと私は思っている。

■カリスマの誕生

宗教は信者の信仰心が支えてこそ存在するものだ。そのことを有名なカリスマ現象について見てみよう。

ウェーバーは宗教現象の出発点にカリスマをすえるんだ。カリスマは非日常的な資質のことだ。神のことばをしゃべったり、トランス状態に陥ったり、病気を治したりするような特別な能力だ。と言っても、カリスマは自然科学的な意味で何か特別なことをするわけではないんだよ。それがじっさいに可能かどうかかも問わない。それを承認する人がいればいいんだ。

だれかが「私は神の生まれ変わりだ」と言ったとして、だれも相手にしなければ「ヘンな人」で終わる。ところが「ひょっとすると、ほんとうにそうかもしれない」と思う人たちが出てくれば話はちがってくる。帰依する者が出てくれば、カリスマを持つとされる者とその人たちのあいだでは、そのカリスマ性はあくまでリアルなものだ。社会的な事実になる。これが宗教の誕生であり、支配関係が成立し、信仰の共同体ができる。

カリスマは、それを持つとされる者と承認する者たちとのあいだの相互作用の産物だ。だからカリスマを持つ人間が何らかの失敗をして人びとから承認されなくなると、それは一気にひっくり返るんだ。けっこう繊細な社会現象なんだよ。

ウェーバーのカリスマ論は、とても社会学的だと思う。カリスマなるものを絶対視しない点では信仰者の立場を相対化している。と言って、無神論的に否定するわけではなく、むしろ信仰者の内面的感情に即して理解しようとしている。しかも、社会現象としてのダイナミズムを両者の相互作用に見出している。つまり、服従者の服従意欲が調達されて支配が可能になるというロジックだから、支配の要は服従する側がにぎっていることになる。支配者が力にものを言わせて支配するのでなく、服従者が進んで支配を支えるということだ。宗教だけではなく、ファシズム論など、いろいろ応用が利く理論だと思うが、こういう理解が必要な現象があるということを頭においておく必要があるだろうね。

■ダブル・スタンダード

こうして宗教共同体ができると、それは人びとにとってかけがえのないものになる。それが歴史を重ねて伝統的なものになっていれば、なおさらだ。それ以外の世界は考えられなくなる。

宗教は分派していって、それなりの濃淡ができるけれども、とてつもなく大きな宗教共同体というのはいくつか存在する。今でもアラブ世界が国家を超えて団結する例もある。まあ、これはもともとあった大きな宗教共同体が、ヨーロッパの持ち込んだ近代国家の枠組みによって分断されたと言うべきなのかもしれないけどね。まあ、もっと小さな教団だと考えやすいかな。こういう共同体ができると何が生じるか、考えてみよう。

こういう共同体の中には一種の隣人道徳ができているものだ。「お互いさま」という論理で助け合おうという態度だ。たとえば無利子でお金を貸し付けたり、貧しい者を援助することが当然のこととされる。こういうことが教義として明確に書かれている場合も多い。共同体内の平安が維持できるようになっている。だから、こういう共同体の内部にいるのは快いものなんだ。

ところが、こういう温情的態度は、あくまでも共同体の内部に対しての道徳で、外部に対しては、冷たくドライな態度をとる。同じことをしていても、内部の者に対しては美徳と称えるのに、外部の者に対しては悪徳と見なす。宗教共同体の場合、境界線が明確なので、こういう対内道徳と対外道徳の使い分けが鮮明に出る。こういうのを「二重基準」とか「二重道徳」と言うんだ。ここでは「ダブル・スタンダード」で行こう。略して「ダブスタ」だ。

社会学には、内集団と外集団という一組の概念がある。人間はウチの集団とソトの集団を立て分けて態度を変えるんだ。ソトに対してはどうしても排他性が出てきてしまう。ダブル・スタンダードはそのような現象と考えればいい。これ自体は、まあ、ふつうのことだね。

ところが、ダブル・スタンダードが過剰な暴力になることがしばしばあるんだ。たとえば「異端者」のレッテルを貼られた人間たちに対して過剰な敵意を向けるとき。いじめと同じ理屈だが、「異端者」を排除することによって、集団がぐんとまとまるんだ。いけにえという意味の「スケープゴート」だね。だから、大きな宗教共同体の中に島のように別の独自の宗教共同体ができたとき、それらの宗教共同体の境目では大規模な迫害が生じる。迫害された側は、それによって凝集性を高め、対抗的な勢いを強める。それが過剰な暴力となってあらわれる。宗教対立と見えるものも、こういう集団力学の悪循環なのかもしれない。この場合、宗教的アイデンティティが暴力行為の原動力になるんだ。

■国民国家と暴力

このような現象は何も宗教に限ったことではない。同じようなことが近代国家についても言える。近代国家は近代国家として基本的には別のロジックで進んできたんだが、そうなんだ。というのは、近代国家はその内容から言うと「国民国家」だったからだ。

国民国家というのは、領土がきっちり確定していて、そこに主権を持った中央政府が隅々まで統治しているような国家のことだ。今ではあたりまえだと思うかもしれないが、伝統的な国家ではそうではなかった。そして、そこに住んでいる人たちはみんな「国民」として把握され、国家に対して権利と義務を持つ。標準語が定められ、教育と啓蒙がなされるので、人びとは国民としてのアイデンティティを持つようになる。とくにナショナリズムが発達すると「一民族で一国家」という理想が大きな意味を持つようになる。

つまり国民国家というのは、かつての宗教共同体のような、大きな共同体を志向しているんだね。それを実現するために政府はさまざまな手段やメディアを用いて、国境内部の人びとを「国民」に仕立てていくんだ。日本は、これをものの見事にやった国家だったから、日本にいると、こういう議論がなぜわざわざなされるのかピンと来ないかもしれないけれども、「日本人」という概念は、きわめて巧みな形で人為的に作られてきたんだ。

ところが、近代国家というものは、軍隊や警察のような「正当的な物理的暴力」を独占している特殊な組織でもある。つまり、人を傷つけたり殺したりすることが「正当」とされている組織なんだ。国家は物理的暴力の助けを借りて秩序を維持しようとする。それが民主的な手続きによって正当化されている。つまり、共同体を志向する国民国家であり、同時に巨大な暴力装置でもあるというところに大きな問題があるんだ。

国民国家と言っても、その国境はヨーロッパの植民地政策の名残りである場合が多いんだ。だから、多様な民族が「国民」になっている。どの国民国家もその実態は多民族国家なんだ。しかし国民国家の圧力によって、少数民族の文化は標準的な国民文化に無理やり同化させられるのが常だ。抵抗すると暴力的に弾圧される。さらに「一民族で一国家」という理想が強まると、少数民族の存在そのものが問題とされて、暴力的な「民族浄化」が生じる。少数民族は当然抵抗するから、暴力性は相乗的に高まっていく。革命主義組織や民族主義が中央政府を主導していると、こういう内戦が必ず生じるんだ。

民族文化と宗教共同体はたいてい重なっているから、この内戦は宗教対立に相似してくる。とくに理不尽な迫害を受けている少数民族は、自らのアイデンティティを問い直す必要に迫られ、その結果、宗教が呼び覚まされることになる。「聖戦」という概念が政治的に動員される。こうして暴力は宗教の名の下に正当化され、戦いは宗教戦争の様相を呈してくる。

地球の各地によって歴史的事情はさまざまだから、個別事情を詳細に研究することに意味がある。と同時に、国民国家と暴力の関係について、そこに宗教がからんでくる事情について理論的に考えることも必要だ。そして、私たちのそれらに対する知識についての偏りも点検しておかなければならない。国家はそういう知識にバイアスをかけるからだ。

■トランスナショナルなアクター

東西冷戦構造がくずれた一九九〇年代以後の世界は、冷戦構造によって封印されていた、これらの暴力的要素が一気に表面化した感がある。イデオロギーの政治が終わり、かわって民族主義へ傾斜してしまった地域では、かなり悲惨な戦争が生じた。この流れはまだ終わっていない。

その一方で、国民国家を相対化するような試みや現象もまた地球社会の舞台に続々登場した。超国籍企業や国連のような国際組織に加えて、無数の国際NGOがトランスナショナルなアクターとして国際社会の舞台に登場してきた。今では環境や人権の問題解決について大きな力を持つようになっている。

そして何よりEUという壮大な実験が進行している。多文化主義で「ひとつのヨーロッパ」を実現しようとするこの試みは、「ヨーロッパ人」という新しいアイデンティティを作りつつある。たとえばカタルニア人でありスペイン人でありヨーロッパ人という、複合的なアイデンティティを持つ人たちが出てきている。従来、国や地方のひとつの共同体レベルに偏ったアイデンティティを持つ人たちはナショナリズムや地域主義の担い手としてしばしば紛争の要因になった。それを思うと、EUがこうした新しい人たちを形成していくことには可能性がある。

EUの場合には、あきらかに国家はその役割を縮小している。通貨統一はその一例だ。しかし、各国ではナショナリズムの反発が生じているのも事実だ。かんたんな話ではないだろう。

従来、この分野は現実主義に立った国際関係論がやってきた。その中心は国際政治学であり、地域研究だった。しかし、政府間関係や理論なき現場主義の研究では、もはや限界がある。文化、民族、階級、階層、マイノリティ、宗教、地域文化、社会運動、ジェンダーなどの要素が入り混じって展開している。これらは社会学の得意なところだ。だから社会学は中核的な役割を果たすことができるはずなんだ。だから、これからは国際社会学の出番が多くなっていくだろう。

『子犬に語る社会学』第5章 なぜ人はささいなことで傷つくのか

『子犬に語る社会学』
第5章 なぜ人はささいなことで傷つくのか

■ささいなことで傷つくのはなぜか

あんまり叱るということをしないものだから、お前たちはすっかり甘えん坊になってしまった。それでも、してはいけない場所でおもらししたあとは妙に恐縮して犬小屋に避難している。そういうときは声をかけるだけで萎縮するから、悪いことをしたという自覚がそれなりにあるんだろうな。おもしろいものだ。お前たちにも感情めいたものはあり、コミュニケーションの中でそれが立ち上がってきては消えてゆく。お前たちとのわずかな歴史の中で、お互いの身ぶりの意味がそれとなく理解できるようになっている。

お前たちとのコミュニケーションが私たちを和ませるのは、それがわりと単純で、罪のないものだからだ。だから癒しになるんだ。人間社会ではなかなかそうはいかない。

私たち現代人は、波立つ感情の海を泳いでいるようなものだ。ささいなトラブルでくよくよしたり、相手のちょっとした一言で傷ついたりする。相手と微妙に話が食い違って気まずい思いをしたり、逆に話が弾んで妙に愉快にはしゃいだりする。たとえば、ちょっとした一瞥が社会空間にさざなみを起こして、ほのかな恋心が生まれたり、あるいは敵意に育っていったりする。こういうミクロで繊細なプロセスが積みあがって、人間の社会生活が息づいている。

前に言ったように、コミュニケーションというのは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というイメージから出発するといい。お互いに映しあうというのは、具体的には相手の姿や声や振る舞いに対して反応しあっているということだ。このプロセスを社会学では「相互行為」とか「相互作用」と呼ぶ。これを時系列的に見れば「社会過程」とも呼ぶ。そうして組みあがる経験が生活世界を形成するんだ。

この微細なプロセスを丹念に調べるのも、社会学の仕事のひとつだ。たとえば、私たちがささいなことで傷つくのはなぜか。心が傷つきやすいんじゃないんだ。そういう心理主義に陥らないようにしなくてはね。社会学では、相互行為のちょっとしたルール違反がそうした反応を引き起こすと理解するんだ。つまり、こうすればこう返してくるだろうとの約束事が守られないと、それがささいなものであっても、私たちは面子を失ったように感じるんだ。

この約束事というのがなかなかやっかいなんだよ。まあ、文法みたいなものだとは言える。私たちは文法に則ってしゃべっているから、それなりにコミュニケーションできているわけだけれど、文法として習ったからしゃべれたわけでもなく、文法はあくまで後知恵にすぎない。それはどこかにあるわけではなく、私たちがしゃべっているそのプロセスに宿っているわけだ。こういうものをつかまえようというんだよ。

■閉鎖的集団の内部世界

こういうことは自分たちの日常生活を観察しても、なかなかつかまらない。なぜなら自明性におおわれているからだ。当たり前すぎて、かえって見えないものなんだ。ジンメルの先駆的研究を除けば、それはずっと後の話で、最初は自分たちとは明らかに異質な閉鎖的集団の研究から本格的に始まるんだ。

一九二〇年前後にシカゴ大学でこういう研究が開花する。最初は、シカゴに移住していたポーランド移民の研究だった。この研究はその後の社会学調査のお手本となったもので、手紙や手記や裁判記録など、あらゆる生活記録を駆使して、かれらの生活世界を分析しようとしたんだ。

その後、若い研究者たちが続々とシカゴの街に入って、フィールドワークをおこなったんだ。要するに現場取材したわけだ。ほとんど「潜入レポート」と変わらないノリだったろうね。じっさいに、ホームレスの集まっているところや非行少年グループやフーゾク産業に入って、そこの人たちといっしょに生活したり、仲良くなって立ち入った話を聞いたりして、それぞれの集団内部の出来事をこと細かく記述していったんだ。こういう研究を「エスノグラフィ」と言うんだ。

この研究スタイルは、その後の社会学で強化されて、いろいろおもしろい研究が出てくるようになる。非行少年グループの研究では『ストリート・コーナー・ソサエティ』や『ハマータウンの野郎ども』といった名作がある。後者はイギリスの白人労働者階級の息子たちが、勉強を強いる学校文化と教師たちをバカにして反抗するさまを描いたもので、かれらが「落ちこぼれて」親と同じ労働者階級になっていくのではなく、自ら進んで、しかも優越感情をもちつつブルーカラー労働者になっていくプロセスを浮き彫りにしている。「文化的再生産」のからくりを集団の内部的世界から理解したものだ。

たとえば、ベッカーは自らピアニストとしてバンド活動をする中でダンス・ミュージシャンたちの生態を描いたり、マリファナ初心者に対してベテラン使用者たちがいろいろ手ほどきする様子をフィールドワークした。マリファナで気持ちよくなるためには、それなりの訓練が必要らしいんだ。

ゴッフマンは、精神病院に体育指導主任の助手という名目でもぐりこんで、一年間患者たちと生活をともにして『アサイラム』という作品を書いている。アサイラムというのは収容施設のことだ。当時の精神病院というところは、外部から遮断されて、画一的に管理された特殊な空間だった。そこに放り込まれた人たちは生活を丸抱えされて管理されてしまう。じゃあ、そのまま無力なままかと言うと、したたかに管理の裏をかいてさまざまな工夫を施していくんだ。管理者からは見えない世界がそこに発見できる。

逸脱的な犯罪非行集団と同じように、こういう医療の世界も閉鎖的で、独特の生活世界が発達しているから、社会学者はけっこう医療現場に入っているんだ。

たとえば外科手術室で執刀医が下品な冗談をかましながら場に一体感をつくりだしている様子を観察したり、病院での「死につつある」患者と死の扱いに焦点を当てたエスノグラフィもある。病院の中の患者の死は、社会的出来事としてスタッフによって上演されるプロセスによって「つくられる」というんだな。もちろん子どもの死のように動揺を与える死もあって、病院スタッフが儀礼的にばかり携わるわけではないさまも描かれる。病院スタッフのエスノグラフィは、ナースの研究や医学生たちの生態の研究などがあり、もちろん患者の研究もある。

日本でも暴走族のエスノグラフィが有名だね。生っぽい世界に夢中になって取り組む社会学者のイメージはかっこいい。私なんかは、そういう資質がないから、ジャーナリストによるルポルタージュもふくめて、なるべくそういう研究を積極的に読むようにしているんだが、ほんとうはそれだけじゃダメなんで、これからの日本社会学の魅力は、フィールドであくせく働く研究者がどれだけ出てくるかで決まってくるのだと思うよ。新しい資質が必要だな。

■生活世界の合理性

これらの研究に何か共通点はあるだろうか。それぞれの描く世界があまりに独自なので、ごく大雑把なことしか言えそうにないが、それなりの統一像は示しておこう。

ひとつは、閉鎖的集団は独自の文化を発達させるということ。細かなルールや掟や作法、そしてささやかな儀礼といったものが自明化されている。それなりの秩序がある。外部者には見えない規則に即して速やかに解釈して応答することが、内部のメンバーとしての必須条件になっていて、新規参入者は気まずい思いを重ねながらもそうした条件を身につけていく。つまり、内部では微細な意味的世界がある。ひとつひとつの言動に集団固有の意味づけがなされている、そういう生活世界が展開されているということ。

第二点は、精神病院にせよマリファナ使用者集団にせよホームレスの溜まり場にせよ化学実験室にせよ、近代システムが要求する合理性とは異なる秩序かもしれないが、その生活世界の文化は、それぞれの内部世界においてはきわめて合理的で理にかなっていること。もしそこに奇妙さがあるとしたら、それは私たちの日常生活の奇妙さでもある。人間は大なり小なりこのような生活世界を経験しているんだ。

第三点は、方法論的なものだ。こういうリアリティを知るためには、ジャーナリストや人類学者と同じように、現場に足を運び、そこの人たちと生活を共にするのが一番いいやり方だということだ。そして、どの研究者も、詳細なフィールドノートを作成して、考察を練り上げている。数量的なデータで語る社会科学とひと味もふた味も違う研究スタイルだ。このような、現場での質的データをモノグラフとして地道に積み上げて理論構築するやり方を「グラウンデッド・セオリー」と呼ぶことがある。じつは呼び方はいろいろなんだが、理論から天下り式に立てられた仮説を検証するというやり方とは逆向きの研究スタイルだな。

観察者は観察されているものだ。現場に入ったはいいが、そこの人たちから大いに警戒されるのは当たり前。へたに立ち回ると追い出されかねない。お前たち動物を観察するのとはかなり事情が違うようだよ。

■日常生活の微細な意味的世界

最初は閉鎖的集団の内部世界への興味だったものが、しだいにありふれた日常生活に焦点が移ってきた。こういう社会学の元祖は一世紀前のジンメルの相互作用論だが、一九五〇年代半ばからのゴッフマンの研究とそれに続く「エスノメソドロジー」の影響で、今では広く研究されるようになった。その後、会話分析というのも盛んになる。このあたりになるとヨソの話ではなくなって、私たち自身の日常生活が対象になる。その点では、かなり「反省度」が高くなるね。

ゴッフマンの本はおもしろい。社会学者は意地悪い観察者でなければならないという見本みたいだ。たとえば、二人の人物が出会う。出会うことでお互いは自分を呈示することになる。となると人間は、相手に対して自分が呈示したいところだけを印象付けようと思う。そこで自分の印象を操作しようとする。ところが、これは相手もわかっていることだから、信頼できる人物かどうか、操作されたところを操作されにくいところと照合して判断しようとする。ということを相手はするであろうから、自分としては操作しにくいと思われている部分、たとえば顔の表情やさりげないしぐさをコントロールしようとする。こうして出会いは演劇的なパフォーマンスの性格を帯びる。

感情のあやと微細な作法の世界は、ここからようやく始まる。対人関係や、パブリックな場所での人びとのふるまいや、さりげないすれちがいの場面における儀礼的行為が、こと細かく分析されるんだ。日常生活を微分しているような社会学だよ。

エスノメソドロジーというのは、「人びとの方法」という意味の「エスノメソッド」の研究のことになっているが、それによると、人びとは日常生活において個々の場面を社会学者のように推論して、それに基づいて実践しているというんだ。

おもいっきり手近な例で説明すると、夫が「おおい、あれ取って」と叫んでいるのを聞いた妻が、風呂上りにテレビを見ながら夫が欲しがるものは綿棒であると推論して、「ほらよ」と綿棒を夫に投げてやるようなものだ。風呂上りという文脈と夫のくせを熟知しているから、「あれ」が何かわかり、綿棒を投げてやるという実践が可能になっている。私たちは、こういうことを日常会話の中で何気なくやりおおせている。その集積が日常生活なわけで、これは考えてみればすごいことではないかという驚きから始まっているんだな。ちょっと例が卑近過ぎて、なにがすごいかわからないかも。

エスノメソドロジーの真骨頂は会話分析だ。会話分析として日本の研究で印象深かったのは、初対面の学生たちを会議室に集めて、そこでの会話を分析したものだったな。学生たちはまったく自由におしゃべりしているんだが、それを記録して楽譜のようなものを作って分析するんだ。おしゃべりの内容はじつはどうでもいいんだ。それで、たとえば「順番取り」の様子を見たり「不自然な沈黙」の使われ方や「割りこみ」を見るんだ。人が話しているときに「そうそう、それはね」といった調子で話を引き取ってしまう人がいるよね。これを「割りこみ」と言うんだ。これは自分が割り込んだ相手より上だと思っている証拠なんだ。割りこまれたほうも、その力に負けているわけだよね。そこで「割りこみ」の回数を調べてみると、同性同士の割りこみに差はないんだが、男子学生が女子学生の話に割り込む回数が断然多いんだ。これはどういうことだろう、というわけだ。権力は身近な日常に宿っているということを示しているんじゃないかな。

こんな感じで、日常生活の微細な意味的世界を研究していくんだ。心理学とはまったくちがうアプローチだな。だから「微分」とか「解剖」のイメージで捉えると近いんだ。

『子犬に語る社会学』第4章 自分という物語

『子犬に語る社会学』
第4章 自分という物語

■私という現象

お前たちには「自分」というものがあるのだろうか。性格は違うし、反応にもずいぶん差がある。まあ、個性らしきものはあるね。ご近所にマーキングして、しっかり自分のなわばりを主張してもいるから、なにかしら「自分」という概念はあるのだろうな。でも、「私はだれ?」と自分に問うようなことはないよね。

現代人は、それこそ「自分」のかたまりだ。自分という物語にしがみついているようでさえある。「私はだれ?」と自分に問うような毎日を送っていることも多いだろう。ところが、「私はだれ?」というのが難問なんだ。人によって答えが違うからというだけでなく、その問いそのものが理論的な問題をもっているからだ。

さて、私は若いときに宮沢賢治を読むのが好きでね。とくに詩をよく読んだ。心象スケッチというやつだな。その中に通称「序詩」と呼ばれる有名な詩があるんだ。それをヒントに話を始めよう。その詩は次のフレーズから始まる。

わたしくといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

ちょっとわけのわからないところがいいんだ。解読すると野暮になる。要するに、自分という確かな実体はないのであって、それは風景(自然環境)やみんな(社会環境)と連動しながら、あたかもひとつの連続体として存在しているかのように見える現象にすぎないということだろう。

かえって今は「私は私よ」とか「自分らしく生きなさい」といったメッセージがあふれている。しかし、賢治は「私」とか「自分」とか言ったって、そんなに確実なものじゃないんだというんだな。そして「交流」の産物だと見切っている。つまり「関係の束としての私」という発想だな。すでに一九世紀半ばに若きマルクスが人間は「社会的諸関係の総体」だと考えついてはいたんだが、大正時代の日本で、こんなことを言う人はいなかったろうね。

社会学は、こういう先見性のある「反省のことば」に学ぶことができる。とくに「自分」という問題については、文学や哲学や宗教のほうが深いからね。そういうものを現代的に読み直すというやり方の社会学もあるんだ。

■鏡の中の自己

まず、自分という現象を多面的で複雑な現象と捉えること。そのうえで、社会的な側面に焦点を当てて、自分という現象に迫る。社会学の自我論の多くは、じつはそうではないんだ。自分という現象は、もともと社会現象だと考えるんだ。つまり、さまざまな交流があって、そこから自己が発生し、高度な自我意識が発達すると考える。そして、自分の中の内面的な心理は、そうした社会過程の結果に過ぎないと考えるんだ。ちょっとラディカルだろう?

だから「私はだれ?」という問いは、あくまで社会学的な問題なんだ。この点について社会学は、心理学や精神分析などの学問に対して批判的にならざるをえない。これらは「心」を実体化しすぎて、結果に過ぎないものを原因と見なしてしまっている。転倒だな、これは。でも、転倒しているほうがわかりやすいから、世の中ではこれらの学問はもてはやされているとも言えるんだ。気をつけなきゃいけないよ。

というわけで、自分という現象に対する社会学的な出発点は「交流」つまりコミュニケーションだ。基本的なイメージは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というものだ。映すというのがコミュニケーションにあたる。

相手の姿や振る舞いを私たちは認識して、それに反応する。相手が明るく「やあ!」と言えば、こちらも明るく「おおっ!ひさしぶり」と返す。つまり自分が相手にとって「鏡」になっているんだな。それはお互い様だから、自分にとっても相手が鏡だ。鏡に映っている自分を見てはじめて自分がどのような人間なのかがわかる。それを自覚することで、人は自分が相手にとって何者であるかを知るんだ。そして相手にふさわしい自分を演じる。

要するに、他者という鏡に照らして、そのつど仮面を取り替えて、自分を演じ、自分を感じるというわけだ。

鏡と鏡の照らしあいがうまく行くと、お互いに気持ちがいいんだが、うまく行かないと私たちはひどく不安になったり不愉快になったりする。自分という現象は、その感情を含めて、根本的にコミュニケーションの産物なんだな。

■役割のマトリックス

コミュニケーションは必ずしもうまく行くとはかぎらない。むしろ生のコミュニケーションはうまく行かないのがふつうだ。専門用語で「ダブル・コンティンジェンシー」つまり「二重の偶発性」なんて呼ぶんだが、相手もどう動くかわからないし、自分もどう動くかわからない。コミュニケーションって、どう転ぶかわからない、とても不安定なものなんだ。

そこで人間たちは長い時間をかけて発明をした。それが「役割」だ。

たとえば、「店員と客」という一組の役割がある。お店という社会的状況ではこれを使えばいい。店員「いらっしゃいませ」客「これください」店員「ありがとうございました」。店員である相手に対して私が客という役割で対応すれば、商品を買うという場面はスムーズに進む。この場合、客である私が「いらっしゃいませ」と言ってはいけないし、店員である相手が「あんた、だれ?」なんて言ってもいけない。役割には、どう振る舞えばいいかについて一定の約束事が決まっている。

状況にふさわしい役割を選択することもたいせつだ。お店の中で相手が「いらっしゃいませ」と店員としてふさわしい行動をとったら、客として振る舞わなければならない。それを突然「今日はこれから自我論の話をします。そもそも・・・」なんて講義を始めたら、お店の中は一気に異常事態に陥る。講義することは大学の教室の中でしかるべき時間割の中ですれば適切だが、お店の中では不適切な行為になる。あくまでもその状況にふさわしい役割のセットをお互いに演じることで、コミュニケーションはスムーズに運ぶのだ。

役割は基本的に便宜的なものであり、それでお互いに手間ひまがはぶけ、「私はだれ?」なんて悩まなくても済む便利な装置だ。だから、みんながそれを使おうとする。それは貨幣のようなものだ。いちいち物々交換していたら身がもたない。貨幣さえあれば、だれとでも、どんなものとでも交換できるだろ。それと同じように、その場その場に適切な役割という仮面をかぶれば、初対面の人とでも短時間で目的のコミュニケーションができるというわけだ。お互いに試行錯誤しなくて済む。貨幣も役割も一種のメディアと考えればいいんじゃないかな。

そして貨幣がさまざまな顔を持つように、いや、もっと複雑なマトリックスを役割の世界は用意している。マトリックス、つまり縦にも横にも関連づけられたシステムだ。そのもっとも合理化されたものはスポーツチームやオーケストラにおける役割だろう。ここでは先にポジションが用意されていて、そのポジションごとに役割が細かく指定されている。近代的な組織の中だと、地位に即して役割が決められている。

結果として、人間は役割の束として社会に出る。逆に見ると、社会は役割のシステムとも言える。そして驚くべきことに、個々の役割について人びとは知識をほぼ共有している。

まあ、人間はロボットじゃないから、完璧に役割をこなせるわけじゃない。仮面をかぶったところで、出っ張った腹が引っ込むわけではないし、かすれた声が美声になるわけでもないしね。でも、そこの落差とかズレが「個性」と見なされる。そういう意味では、役割は、自己理解と他者理解のメディアになっている。

■ジェンダーのはざまに

人間は、子ども時代から役割について学び続けているから、どんな人でも役割についての知識は豊富だ。この知識を使って、人間は自分と他者を分類して、その分類に従って働きかけたり応答したり感情を抱いたりするというわけだ。

ところで、自分が何者か、他人が何者かを判断するときに、私たちが最初に手がかりにするのは何だろう。

それはやはり男と女の区別だろうね。これについては、お前たち動物の世界と同じように見られがちだね。たいていの動物ではオスとメスの役割はあらかじめ決まっている。

私の好きな競馬の世界では、牡馬(ぼば)と牝馬(ひんば)は明確に区別され、ハンデがつけられる。予想でも、牝馬は早熟で瞬発力があるが、牡馬といっしょに走ると気負けしてしまうとされる。多くの競馬ファンは、それを人間世界の縮図のように受け取っているけれど、ほんとうにそうなのか。

たとえば「オレは男だから、ここで黙ってちゃいけないな」とか「私は女だから、矢面に立たないほうがいいかな」と考えるかどうかは、生物学的な性によって決定するわけではない。生物学的な性は、それこそたんなる手がかりにすぎない場合が多いんだよ。それはお互いにとってわかりやすい手がかりだからね。しかし「男だからどうこうしなければならない」とか「女だからこうするべきだ」といった性役割の内容は、基本的に文化的なものだ。なぜなら社会や時代によってまったく異なる内容になるからだ。

しかし、これは根強いんだ。文化の力って、そう侮れるものじゃない。無形の圧力が身体にしみこんでいる。

それをさまざまな生活場面で点検する作業は、かなり高度に知的なものになってしまう。じっさい社会学もそういうことに気がつかなくて、長い間、事実上「男性社会学」だったんだ。けれど八〇年代のフェミニズム論ブーム以後は、ずいぶん軌道修正されたと思うよ。今では研究の質量ともに充実している領域と言えるんじゃないかな。当然、研究の裾野が広いからね。いくらでもやることがある。

文化的な性に関することがらを総称して「ジェンダー」と言うんだ。男であることと女であることについて人びとがどう考えているかの問題だ。

これは何かと「もめごと」を呼び寄せる。今では、それほど自明な分割線ではないからね。長い間、女性の声が抑圧されてきたという経緯があるし、そういう声が男性中心文化と名指しする価値観は男女ともに根強く残っているから反発も大きいんだ。それだけに冷静に証拠を積み上げて議論しないといけない。

■ぶれる分割線

こういう文化的なもめごとを引き寄せる分割線はジェンダーのほかにもたくさんある。

まず年齢だ。これも一目見てわかる指標だから、他人に対してはおおよその年恰好で判断するものだが、自分については「子ども扱いしないでよ」「中年扱いはまだ早いよ」「年寄り扱いはやめてくれ」と思ったりすることも多いはずだ。とくに思春期や中年初期や向老期は、自己理解と異なる扱いを受けやすい。

現代日本社会では、子どもは大切に保護され、若者は好きなことができて何かとちやほやされ、中年は職場や家庭などの生活現場で力をもつことが多いので、それぞれ「まだ子どもでいたい」とか「大人になりたくない」とか「引退したくない」といったような気持ちの強い人が多いだろうね。年齢役割はアイデンティティを構成する基本的な要素だから、それがライフコースの中で外圧的に移行していくのがつらいんだな。

マイノリティ集団や少数民族に属す人たちは、その役割に対してプライドとスティグマの両方を感じる場合が多いんじゃないかな。スティグマというのは「負い目」みたいなもののことを言うんだ。日本の定住外国人の中では在日コリアンの人が多いけれども、この人たちは日本社会でさまざまな差別待遇を受けてきた。プライドとスティグマはそこから生じる。たとえば子どものころから日本語しかしゃべらないし日本名で通してきたのに、進学や就職のときに外国人扱いされるという経験がある人は、非常に不本意な状況におかれて、「私はだれ?」という問いが切実なものとなる。自分が何者なのか真剣に悩むそうだ。

そもそも日本人という概念もそんなに明確じゃないんだよ。たとえば国籍と文化と血縁という三つの要素が揃った人を「日本人」とし、三つともない人を「外国人」と定義するとしても、その中間には六つのタイプが残るんだ。国籍と文化と血縁のどれかひとつが欠けている人たちと、どれかひとつだけもっている人たちだ。日本で育った在日三世や四世は、日本文化に内在した生活をしていて、本人も周囲の人たちとも日本人としてやっているのに、制度的には外国人と見なされる。逆に、海外で育った帰国子女は日本文化を内面化していないから「日本人らしくない」と言われていじめられる。

だから「日本人とはだれか」というのは複雑な問題なのだよ。こういうように民族性が問題となるとき、それを「エスニシティ」と呼ぶんだ。

■アイデンティティの闘争

自分という現象には、こういう分割線が幾重にも引かれている。こういう分割線を調停してアイデンティティを確立させるというのは、考えれば考えるほど至難の業だと思えてくるね。人間たちが日々悩んでいるのも無理はない。

役割は便利だけれども、やっかいだ。社会に共有されている役割の内容が問題を抱えている場合もあれば、それを受け入れられない自分の気持ちや能力の問題もある。他人が自分に押し付けてくる役割と自己認識とが食い違うこともある。こういうとき本人にとってしばしば不本意な状況が生まれる。

逆に、社会化されすぎている、つまり役割にぴたっとはまった人間というのも考えにくい。社会秩序に忠実で、与えられた役割を多数派の定義どおりに実践している人なんているだろうか。いたとしても、かえって機械的に役割を理解している人のほうがジレンマに陥りやすいんじゃないかな。役割は社会の構造的矛盾がそのまま反映しているからね。ルーズにやっている人のほうが「大人」という感じがするよね。人間の行為は、役割に準拠しながらも、いつもはみ出す部分をもっているものなんだ。

役割は、言語と同じように、それが実行されることで維持される。人間たちは、それぞれ状況に応じた役割を演じることで、その役割がどのようなものであるかを他の人に提示して、その役割を事実上そのつど再創造していると見ることができる。そうしてお互いに学習しあっているんだね。

だから、役割が造形する世界は、がっちりと固まったものではなく、それなりのダイナミズムをもっている。役割は不変ではなく、人びとの実践によって内容が少しずつズレていくんだな。このズレが人びとの役割についての共有知識を少しずつ変えていく。

このことは重要なことだよ。なぜなら、気に入らない役割の定義を変えることが可能だということを意味するんだから。それは個人的抵抗の形をとる場合もあれば、さまざまなきっかけでがらっと変わることもある。きっかけのひとつが社会運動だ。

たとえば、公害や薬害の被害者の場合、最初から「被害者」じゃないんだよ。はじめは「トラブルメーカー」の役割から始まることが多いんだ。企業や組合側からは「裏切り者」といった役割を押し付けられることも多かった。それに抵抗して、世論に訴えたり裁判闘争をして人びとの認識を変え、その結果「被害者」という役割を勝ち取った。

ステレオタイプや偏見による差別をふくむ役割や、ぶれる分割線をふくむ役割を担うことになった人たちは、だから社会運動をして、それを変えていこうとする。一九六〇年代アメリカの公民権運動やフェミニズム運動に典型的なように、それは、しばしばアイデンティティの闘争なんだよ。

それはきわめて個人的な生活場面にもある。たとえば、失業の怖さって、たんに生活するお金がないというだけじゃない。自分が何者なのかがわからなくなってくる怖さがある。受験浪人やひきこもりも長引くと同じようなことが起こる。子育てを終えた専業主婦もそうだ。病気もそれ自体が身体の危機だが、同時に深刻なアイデンティティの危機にもなる。

このような危機に対して、人間はそれなりに抵抗するものだ。ミードという社会学者は「主我」と呼んでいるが、そういう主体的な局面が自我には備わっていると言うんだ。ただし、こういう危機は、ひとりではなかなか克服できない。「主我」も他者の交流の中で、反応としてでてくる。絶望も救済も他者との関係の中にある。だからこそ支援活動や救済制度やネットワーキングが必要になってくるんだ。

アイデンティティを問う必要のないような人であっても、具体的な生活の場面では大なり小なり「主我」を発動させているものなんだ。

というわけで、人間はお前たちとは違う苦労をいろいろしているのだよ。人間の場合、「自分」とは、それ自体、広大で奥行きのある複雑な社会そのものなんだ。

『子犬に語る社会学』第3章 システムからはみ出す

『子犬に語る社会学』
第3章 システムからはみ出す

■癒しを求めて

都会に住んでいるせいからか、田舎暮らしがしてみたい。庭いじりもしてみたい。ときおり無性に沖縄民謡や中国の二胡を聴きたくなるときがある。都会の人ごみが嫌いなはずなのに、大勢の人たちといっしょに見る夏の阿波踊りが好きだ。お囃子の地響きするような太鼓もいいね。

こういう傾向は、近代システムの先端部である消費社会のどこかできっと仕掛けられたものなんだろう。でも、こういうものにふれるとき、ふだんの緊張が解かれるような思いがする。

お前たちを飼うようになったのも、そんなところだな。動物とつきあいたくなったんだ。シマリスから始めてハムスターやウサギやモルモット、そしてお前たち犬を飼うところまできてしまった。これもペットブームという消費社会のロジックにはまっているだけなのかもしれないけれども、お前たちとの世界は、今では大事な生活の一部になっている。おそらくこういう感覚は、うまく行っているときの恋愛感情や家族団らんなんかに通じるものだろうね。

こういう経験は、大なり小なり現代人に共通のものだろう? 近代システムを生きながら、そこから少しはみだすようなことをしたり、ささやかな楽しみや癒しを求めたりする。こういう側面を私たちはふだん「人間的な」と呼ぶことが多い。

前回は、あらゆる生活場面で近代の社会システムが支配的であることを見てきた。それは何よりも重要な問題だ。しかし、それが全てだなんて社会学は考えないんだ。そこからはみだす世界を人間はたくさんもっている。だから社会学では、近代システムの内部世界を詳しく研究すると同時に、近代システムの周縁や排除されたものを研究したり、別の論理で動いている「生活世界」と呼ばれる独特の社会領域も研究する。この点で、経済学のような伝統的社会科学といささか好みがちがってくるんだ。

■親密な世界

社会学がよく注目するのが、さまざまな集団の内部世界だ。動物で言えば「群れ」にあたる。お前たちは、群れをつくる動物だろ。お前たちは、おそらく私たち人間の家族もふくめて、ひとつの群れだと思っているんだろうね。人間たちも群れて親密な世界をつくるんだ。そこはお前たちと同じだな。ちがうのは、じつにいろんな群れ方をするところだ。

子ども時代には、たいていの場合、家族という群れに入る。自由に動けるようになると次に遊び仲間をつくる。こういう集団の中で社会性を身につけていくんだ。社会学では「第一次集団」と呼んでいる。家族は重要だから社会学でもたくさんの研究者がいる。

若者集団の生態もいろいろな形があって、よく論じられる。「○○族」といった流行があるからね。シカゴ学派と呼ばれる社会学者たちやその影響を受けた社会学者たちは、好んでこういう集団内に入っていく。こういう集団の内部では、ひとりひとりの性格類型が明確に構成されていて、それにそって自然と役割分担ができている。掟というかルールというか、そういう行動規則めいたものも自然発生的に成立していて、それに対して若者たちはじつに忠実なものなんだ。たとえば昔のツッパリや暴走族の若者たちは、社会の公認された規則には従わないけれど、集団内の規律にはきわめて従順なんだな。

似たようなことは、世間で「裏の世界」と呼ばれる集団にも言える。犯罪集団やホームレスの集まりから、医師や専門家たちの学閥にいたるまで、近代システムの周縁や内部に自然発生的に成立する親密な世界には独特なものがあるんだ。

がっちりと管理された工場労働者の世界にもこういう集団がある。「インフォーマル・グループ」と言うんだ。要するに、公式組織の内部に非公式集団が成立して、それが組織運営を管理者の意図どおりにしない大きなファクターになっているんだな。組合のことではないよ。親密な仕事仲間の集団だ。

インフォーマル・グループは組織を超えることもある。談合なんかは典型的だけれども、それが公共工事の競争入札制度という公正な仕組みを事実上台無しにしてきた。

もともとこういうものは伝統的な社会によく見られたものだ。今でも山村に住む老人たちはそういう世界に生きている。映画の寅さんシリーズで描かれる下町のような、都市の中のコミュニティもそうだね。市民運動のためのネットワーキングや宗教運動の内部にも息づいている。最近はネット上でも事実上のコミュニティが成立していて、じつに多くの人たちが「親密な世界」を経験している。

私たちが「仲良しグループ」とか「家族的なおつきあい」と呼んでいるような「親密な世界」を総称して社会学は「生活世界」と呼んでいる。その中で人びとが、いちいち思案することない自然的態度で日常生活を送っているような、自明性におおわれた世界だ。このように、人間は、緊張感ある近代システムの中にも、安らげる社会空間をつくってしまう。これはお前たちが群れで行動するのと同じだな。私たち人間にとっても、こういう群れの中にいると安心なんだよ。

私たちの生活の舞台装置は近代システムだ。しかし、それにもかかわらず、それに対してはみだす多様な世界がある。こういうものは、近代システムのすき間の出来事であり、システムのほころびと言っていい。社会学はそこを重点的に見ていこうとする。だから、こういう集団の生態を観察し、その親密な世界の意味を理解するんだ。国際金融の動向や法律の改定と同じように、これらは研究するに値する重要な社会現象なんだよ。

■縮図としての家族

この文脈で、どうしても問題になるのが家族だ。

愛し合う男女が結婚して、その愛の結晶として子どもが生まれる。子どもは両親の愛情を注がれて育っていく。家族は安らぎの場である・・・。てな具合に家族を思い描く人は多い。幸せな家族に恵まれた人はそう信じているし、恵まれなかった人はなおさらこうあるべきだと思い込んでいたりするものだ。

しかし実態は大きく異なる。そもそもこういう家族像は、社会学では「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれて批判されているんだ。イデオロギーというのは、現実に合わない思い込みが広く人びとに共有されていていることだ。しかし、その存在を否定はできないものなんだ。そういうふうに人びとが思っているということ自体が、現実を構成する重要な要素なんだから。たとえば、みんなが「愛がなくなったから別れるべきだ」と考えれば、離婚という現実が生じやすくなるだろ?

うまくいっている家族は、典型的にプライベートな生活世界に見える。けれども、自明だと思っている家族のありようは、じつは近代システムと背中合わせの、まぎれもなく近代の産物なんだ。だから社会学では、あえて「近代家族」と呼んでいる。

近代家族は、プライベートな領域として位置づけられ、強い情緒的関係で結ばれているとされる。家族愛は、横方向には夫婦愛、縦方向には子ども中心主義として現れる。夫は外で仕事をして家計を支え、妻は家事労働を担う。集団としてのまとまりが強くて、親族でない者はいない。基本型は核家族である。こんな感じだ。

こういう家族像を近代家族と呼ぶのは、歴史的にも空間的にも相対化するためなんだ。人類普遍の家族の形じゃないということの確認だ。

たとえば性別役割分担で女性が担当することの多い家事労働は、近代社会になって職場と家庭が分離されたために、家庭での仕事は労働と見なされないということになってしまった結果なんだ。つまり、近代の合理化の潮流の中で、家族のもつ多面的な側面が整理され再編されていったということなんだ。ハーバーマスという社会学者が「システムによる生活世界の植民地化」と呼んでいる一連の変化のひとつと思っていいんじゃないかな。家族は近代システムの変化に翻弄されている。

だから、家事労働を家族愛のあらわれと見るのはイデオロギーにはまっているわけだ。そもそも「本来、家族というものは・・・」なんて言い出すと、もう社会学じゃない。「本来の家族」なんて、現時点でそうあってほしいとその人が思っている家族像にすぎないんだ。

じっさい、現実の家族は大きく揺れている。その揺れ幅はかなり大きいんじゃないかな。日本の場合、すでに何かと言えば「少子高齢化」が行政サイドやマスコミの合言葉になっている。「バツイチ」と軽く言われるほど離婚の位置づけも変わった。「パラサイト・シングル」と呼ばれる独身者も多い。欧米では当たり前になっているが、子連れ再婚によってできた家族「ステップファミリー」という新しい家族の形も日本に定着するだろう。

家庭内暴力や育児放棄の問題も生じている。家族内では、安らぎの場としての弛緩もあれば、濃い感情がぶつかりあう緊張もある。ひきこもりのように、近代システムに対するシェルターとしての役割が個人の社会化を妨げることもある。生活世界は両義的であって、システムへの対抗にもなるし、根強い分断もつくるんだ。

「家族の危機」と呼ばれている事態も社会学的に検証してみないといけない。それは現実の危機ではなく、人びとの家族観がヴァージョンアップされないまま現実と合わなくなってしまっているだけかもしれないからね。

■残余概念の逆襲

社会学では、こうした近代の合理化の流れからはみだすテーマをよくあつかう。これはジンメル以来の伝統みたいなものだな。ジンメルは、本質的には哲学者なんだけれども、一時期「社会学」という新興科学に入れ込んで、一世紀ほど前に『社会学』という本を出して、その後の社会学に大きな影響を与えるんだが、その本の中で、「よそ者」だとか「孤独」だとか「誠実と感謝」といったテーマに正しい位置づけを与えて、論じるに足るものとして考察を加えていったんだ。

要するに、メインストリームから置き去りにされたものに注目するんだ。「置き去りにされた」というのは、要するに「こぼれ落ちる」とか「排除された」と言ってもいいだろう。こういうものを拾っていくんだ。それを揶揄して「社会学は残余科学だ」と言われたこともあったんだが、残余概念を研究対象としてまともに論じていくという点では、今でもそのとおりだと思う。

残余概念が重要なのは、それがかえってメインストリームの現象の本質を反転させて集約的に表現しているからなんだ。

たとえば、デュルケムという社会学者は『自殺論』という有名な本を書いている。今でこそ自殺という現象が社会のバロメーターのようにあつかわれているけれども、それを最初にやったのがデュルケムなんだ。かれは近代社会においては「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」が必然的に生じるというんだ。近代になると伝統社会がもっていたきずなが薄れ個人が孤立しやすい。そのために「自己本位的自殺」が生じる。また、近代においては「こうなりたい」「こうしたい」と欲望が無制限に拡大するが、それが満たされるとはかぎらず、しばしば激しい焦燥が生じる。これによる自殺が「アノミー的自殺」だ。こちらは今でも現代的な感じがするね。

最近は、過労自殺やリストラ自殺がマスコミでさかんに論じられているのを見てもわかるように、社会現象としての自殺問題はすでに社会学の専売特許ではなくなっている。それはそれでいいんだ。社会学のフロンティアは別の周縁領域に目を向けているはずだ。

たとえば最近の研究テーマの中で、システム周縁領域のものを拾ってみようか。都市的世界に対して阪神淡路大震災。日本文化なるものに対して沖縄やウタリの文化。平均的日本人に対して在日韓国人や日系ブラジル人。家族愛に対して家庭内暴力。結婚に対して非婚やパラサイトシングル。ニュースや広告に対して都市伝説やうわさ。異性愛に対して同性愛。健康志向に対して薬物依存。飽食ブームに対して摂食障害。そして政党政治に対して無党派層。

思いつくものをあげてみたけれども、「正常に対して異常」というのもあれば「内部に対して外部」というのもあるし、対極的な現象のペアもある。「残余概念の逆襲」と呼ばれているのは無党派層の存在だ。政党政治の中で長年「残り物」扱いされていたのが、今じゃ政治の主役だ。

こういうものは「問題」として語られるけれども、それは近代システムの予定調和的な領域からはみだしているからにすぎない。近代は絶えず動いているから、いつだってこぼれ落ちる部分はある。しかし、家族がそうであるように、それらの近代システムとの緊張関係はなくならないから、そこをたえず見つめている必要があるんだ。

社会学と人類学以外の社会科学は、このシステムの内部の立場から、システムを論じることが多い。経済学や政策科学なんかがそうだ。それはもちろん意味のあることだ。それに対して社会学は、理論と歴史と比較の視点からそれらを相対化しながら、そのフリンジの揺らぎの部分に着目して、その内部世界に切り込んでいく。それによって、システム自体の内的矛盾や変容を逆照射しようとするんだ。その意味では、誇りを持って「残余科学」と自称していいんじゃないかと私は思うよ。

『子犬に語る社会学」第2章 窮屈だけれど自由な近代

『子犬に語る社会学」
第2章 窮屈だけれど自由な近代

■犬のお仕事

お前たちの一日は公園の長い散歩で始まる。散歩から戻ったら、すぐに朝食。そのあとは留守番したり、私の足元で寝てすごして、夕方になったらまた散歩して、夕食。それがすんだらひとしきり遊具で遊んで、いっしょにテレビを見て、おやすみだ。

盲導犬とか警察犬のように忙しく働く犬もいるというのに、お前たちの労働は散歩ぐらいなものだな。いやいや、それだって自分のテリトリーを確認して満足しているんだから、ほとんど遊びのようなものだ。

えさをもらうだけだから完全に人間依存の生活とは言え、労働と遊びが未分化な犬の生活は、ある意味では都会人のあこがれそのものかもしれない。都会人が陶芸家にあこがれたり、田舎の自給自足生活にあこがれたりするのは、遊びがそのまま労働になり、労働がそのまま遊びになるような生活に思えるからだ。

けれども人間の生活は、どこにいてもそんなことには、なかなかならないのだよ。

■監獄に似ている社会

人間だって伝統社会に暮らしていたときは、せいぜい数十の職業がわかれていた程度だったらしい。それが近代社会になると、労働における分業がどんどん徹底していったんだ。職業別電話帳を見ればわかるけれど、何万という職業があって、私たちはそのどこかにはまらなければ生きていけない。分業、この現実から社会学は出発したようなものなんだ。

分業って、労働する人たちが全体システムを構成するパーツに分解されるってことだ。そうなると、相互依存しあう関係が社会の中にはりめぐらされ、その関係がどんどん広がっていくことになる。今じゃ、とことんグローバルなものになっている。

相互依存するってことは、一人じゃ生きていけないってことだ。生態系にはまっているだけで生きていけるような世界ではすでになくなっているから、この近代の社会システムに入っていかなければ生きていけない。

つまり、お前たちが夜や留守番のときに犬小屋に閉じ込められるように、労働の現場では、人間たちも管理されていて、お互いに「鉄の檻」に入れあうんだよ。強固だから鉄という比喩を使うのだけれども、じっさいにその檻は見えないんだ。もちろん会社の中だと部長の席・課長の席・主任の席といった感じの空間配置で表現されているよ。でも、それはごく一部分にすぎない。

その檻は基本的には社会システムなんだ。社会システムは、役割期待や義務と責任という見えないルールの集積だ。見えないけれども、そこには越えられない一線があり、やりたくなくてもやらなければならない役割があり、失敗すると叱られたり制裁を受けたりする。そのかわり、自分だけではとうていできないような仕事ができたり、生活するのに十分な給料をもらえたりする。達成感やチームワークの力を実感したりもするね。だから、私たち現代人は進んで檻の中に入るんだ。

労働の文脈における、このような「鉄の檻」のことを社会学では「官僚制」とか「テーラーシステム」といった概念で表現してきた。官僚制は事務仕事、テーラーシステムは工場労働の文脈で出てきたものだが、どちらも、正確で効率のよい仕事のあり方を追求して、作業を細分化してそれぞれを厳密に管理していこうとするやり方を指している。

こういうものは工場の中では見事に視覚化されている。二〇世紀初頭には自動車企業の名前を取って「フォーディズム」と言われて大量生産の代名詞のようになったことがある。フォードは流れ作業のラインを周到に組み立てて、そこに労働者を配置したんだ。

それから一世紀がたって、最近は「マクドナルド化」とまで言われているね。客と接するサービス業は一番機械化しにくいところなんだが、そこまでマニュアル化してしまう。人がロボットのように立ち振る舞う。つらいように思えるけれど、このほうが気が楽だという声も多いんじゃないかな。考えなくて済むからね。

職場だけじゃない。「鉄の檻」はあらゆる生活場面に浸透している。そのおかげで、あらゆる場所が監獄に似ているとも言えるね。フーコーという哲学者は、現代人は監視され管理されていると同時に、自ら進んでそうなっているとして「規律」をキーワードにして論じている。そのもっと以前に官僚制という概念を作り、それを「鉄の檻」と呼んだウェーバーという社会学者は、人びとは支配に対して自発的に服従するんだと述べていた。「鉄の檻」はそれなりに納得させる仕掛けを備えているんだ。

■近代という大きな物語

私たち人間は、自然環境に生きているだけでなく、社会の「大きな物語」の中で生きている。そこがお前たち動物と大きく違うところじゃないかな。有名なマルクスは「第二の自然」という言い方をしていたっけ。「鉄の檻」と呼んだウェーバーも、現代人の抗いがたい運命として理解していた点では同様だね。

私たちが生きているこの「大きな物語」をこれまでさまざまな学者が語ってきた。「資本主義」とか「市場経済」とか「世界システム」といった、いろんな捉え方があるんだ。ここでは、なじみのある「近代」ということばを使うことにしよう。まあ、ありふれたことばだよね。モダン焼きの「モダン」だもの。

一般に「近代」は歴史の一時期を表すことばのように使われることが多いけれども、社会学では、伝統社会に比較して独特な社会のありようを指しているんだ。

では、それはどういうものか。ウェーバーに即して説明すると、近代とは、壮大な合理化の過程ということになる。合理化にもいろいろあるんだが、もともとヨーロッパで発達し、今はアメリカがまぎれもなく推進力になっている「西欧に特有の合理化」なんだ。

ウェーバーがあげているのは、経済における資本主義的企業、行政における官僚制組織、国家における議会制度と憲法と合理的法体系、学問における近代自然科学、芸術における市場向け生産物だ。これらは西欧生まれで、しかも西欧以外の文明からは生まれなかったものだ。これらがなぜ西欧でのみ生まれて、しかも伝統社会を打ち壊し、他の文明社会にまで普及していったのか。

もちろんそういうものがそのまま移植されるわけじゃない。抵抗も強いものだ。しかし、土着の文化と反発したり融合したりする中で、ローカルに変容して定着する。揺り戻しや反動も大いにあって、「西欧に特有の合理化」の進展は必ずしもスムーズなものとは言えない。ファシズムや社会主義なんかも、その抵抗の表現だった。

まあ「西欧に特有の合理化」なんて、なじみのない用語を使ったけれども、今は「グローバリゼーション」ということばで理解されているね。グローバリゼーションの勢いを見ると、このプロセスはかなり強力に突き進んでいるように思う。

原動力は資本主義経済ということになるだろう。それに一連の民主化のための国家装置。そして文化の変容。私たちは、近代という大きな物語の中に生きている。

人間も生態系の一部として分相応の生活をするべきだというようなエコロジーや自然環境最優先主義には一理はあるが、その短絡的発想をきちんと批判しなければならないのは、こういう巨大な社会システムがすでに存在しているという現実を直視していないからだ。目をそらしても、あるものはあるんだよ。

だから、環境問題を解決するためには、むしろ近代という「鉄の檻」と向き合って、その内側からこれを解いていくしかないんだ。しかし、近代の社会システムは、そんなにやわなものじゃない。したたかで柔軟で、すでに私たちの血となり肉になっている。まずはそれを自覚するところから始めるべきだろうね。

■近代的身体

たとえばスポーツだ。人間は遊ぶのも組織化する。西欧人がスポーツと呼んでいる遊びは、ルールをつくり、協会を作り、徹底して記録をとり、競争する。ここでも嬉々として合理化してるんだ。

この合理化は、かなりひねくれているよね。ひとつは、目的を達成するために迂回するところだ。もうひとつは、徹底的に計算することだ。ボールを打ったり蹴ったりしていても十分楽しいはずなのに、面倒で手間のかかるシラケたことをあえてすることで、結果的にもっと盛り上げてしまう。これが近代スポーツの特徴だ。

最近のスポーツは、すっかりメディア・イベント化して、「商業主義化反対!」なんて声もなくなったね。観客は心の底から熱狂しているように見える。これをシニカルに見れば、管理された「集合的沸騰」というところかな。

他方、スポーツ選手のほうは、徹底的に管理され監視された上で、がちがちのルールを自分の身体に覚えこませているわけだ。スポーツマンシップの内実がこれだ。管理され監視されることに従順であることに馴らされている。こういうのを「近代的身体」と言うんだ。

もちろん近代システムの内部にも喜びや感動はあるのさ。むしろ近代システムに深くなじんでいくほうが、そういうものは得られやすいんだ。システムは、そういうふうに計画され工夫され更新されてきたんだから。

同じことは教育や医療についても言えるね。近代システムとしての学校や病院は、規律を徹底して、目標を達成するために徹底的に計画されている。その中では「よい子」であり「よい患者」であることが求められる。それは本人にも快適感をもたらすはずだ。

■音楽の近代

私たちの五感も近代的なるものに従順だ。

絵画でよく使う遠近法も西欧近代の発明だ。光景を見たまま描いてもべったりとした平面的な絵になってしまう。子どもが書いた絵のようにね。ところが、見たまま描くのをやめて、あらかじめきちんと計算するという迂回路をとって描くと、立体的に見えてくる。見た感じに近くなる。皮肉なことだね。

じつは音楽でも同じようなことが典型的に起こっているんだ。平均律がそうだ。

世界には無数の伝統音楽・民族音楽があるが、平均律で音の構造を決めているのは一八世紀半ば以降の西欧近代音楽だけだ。オクターブを均等に十二に分割して一音一音を決めるという調律の仕方は数学的に合理的だ。けれども、人間の耳には少しにごって聞こえるんだ。たとえばドミソの和音がきれいに響かない。じゃあドミソなどの和音が耳によく響くように音を調律していればいいということになりそうだが、それだとオクターブがずれるんだ。

だから伝統音楽は音数を少なくして、それなりに耳によく響く音だけで構成されている。耳の生理からすれば、こっちのほうが合理的と言える。音楽なんだから、そのほうがスジが通っているじゃないの。ヨーロッパでもバロック音楽のころまではそうだった。

じゃあ、どうして西欧近代音楽がそんな選択をしたかというと、平均律にすると二十四の調で作曲・演奏ができるし、転調も自由自在になるから、音楽の表現力が格段に高まるからなんだ。ヴィヴァルディらの前期バロックの曲はみんな似たような音楽に聞こえるけれども、今の音楽、J-POPでも演歌でもヒップホップでも、結局はベートーベンと同じ音構造で作られているんだから、その表現力の差は歴然としている。

ここでも、目的を達成するために迂回して、数学的な合理性を優先させているよね。近代の合理性って、やはりネジレてる。

こういう変化は、図式的にぽーんと変わるんじゃなくて、さまざまな歴史的事情の集積として生じるものなんだ。文化史や社会史の研究が必要なのはこのためだが、音楽史的には、あらかじめ調律を決めておかなければならない基準的な鍵盤楽器がオルガンからピアノへ移ったおかげで音の濁りが目立たなくなったことがあるようだ。オルガンは持続音だから和音が濁ると聴いていられないけど、ピアノだとポーンと叩く音だから気にならない。

また、五線譜に音を書いていく記譜法が発達した結果、専門に「音楽を書く人」が誕生したことも大きいんだ。つまり作曲家の誕生だな。それまでは演奏家が作曲家でもあったんだが、作曲専門となると、演奏上の制約を脱して五線譜の上で音楽的可能性を追求するようになる。そういう作品を演奏するとなると、いやでも平均律に調律が必要になるというわけだ。モーツァルトとベートーベンのあいだあたりが境目かな。

お前たちは私の足元で、ときにはひざの上で、いっしょにいろんな音楽を聴くよな。バロックもクラシックもロックもジャズも、一九世紀に確立した西欧近代音楽独特の音構造からなりたっていると思うと、「近代」の裾野の広さと影響力の深さを感じてしまうね。

■荒ぶるシステム

全てが商品となる近代システムでは、お前たちも商品だったわけだ。早々と親犬から引き離され、同じような境遇の子犬といっしょにショーケースに入れられて、私たちの前に引き出された。そして私たちと出会った。おかげで今じゃお前たちは私たちの家族の一員だ。しかし、売れ残った子犬たちはどうなった? 考えてみれば乱暴なことだ。良くも悪くも命を翻弄している。それがマルクス流に言えば「資本の運動」だ。

それは現代人も同じなんだ。「資本の運動」だけではない、複雑な要因の産物として捉えなければならないけれど、近代システムの論理に翻弄され続けているのはたしかだ。

そもそも近代システムは予定調和的なものばかりじゃないんだ。むしろ矛盾を抱えた運動体なんだ。一時期よく言われたように、近代化することが善き進歩であるという保証はない。むしろ葛藤を抱え込む形になる。

それがしばしば矛盾を爆発させる。日本で言えば水俣公害問題やスモン薬害問題のような大規模な社会問題は、システムの運動の内部矛盾がシステムの外部に劇的な形で現象したものだ。

こういう問題が生じるたびに法律が改善され企業が気をつけるようになると、それなりに軌道修正されたことになる。こういうのを「再帰的近代化」と呼んでいる。だからいいかというと、そうでもない。社会はそんなに単純にコントロールできるものではないんだ。民主的コントロールは必要だが、完璧ではない。被害者一万人のスモン事件があったあとに薬害エイズ事件が起こったように。それを個々の問題に即して徹底的に内在的かつ批判的に指摘していくことが社会学の仕事になる。「荒ぶるシステム」の分析には、社会学のような「荒ぶる学問」が必要なのだよ。

マルクスが「資本の運動」として生涯をかけて指摘し続け、苦労して『資本論』や膨大な草稿を書いたのは、こういうことだったんじゃないか。そう考えると「社会主義の父」として偶像化されたマルクスではなくて、社会理論家としてのマルクスにはまだ学ぶべきことがある。

『子犬に語る社会学』第1章 社会学の遠心力と求心力

『子犬に語る社会学』
第1章 社会学の遠心力と求心力

■ためしに子犬に語ってみる

お前たちが来てから我が家はずいぶんにぎやかになった。

それまでも我が家には、ウサギやらハムスターやらモルモットやらがそれぞれ何匹もいて、まるでミニ動物園のようだったが、こいつらは小さくてかわいいものの、いかんせん寿命が短い。今では二匹だけになってしまった。

そうこうするうちにお前たちがきた。ウサギも、トイレを覚えたり、名前を呼ぶと駆け寄ってきたり、頭をなでると喜んだり、それなりに賢くて情が濃いものだが(これは家の中で飼った経験がないとわからないだろうなあ)、犬というものはまったく質のちがう情の濃さだな。まして四六時中、家の中を徘徊して好き勝手なことをしているのを見ていると、大昔にソト飼いしていたときにはよくわからなかったことも見えてくるし、こちらも人間の子どものように話しかけたりして、かわいがってしまう。お前たちも、私たちの話がわかるみたいに、お座りをして聞いていたり、首をかしげたり、ワンとほえたりする。とにかく、まったく屈託というものがないのには私もずいぶん助かっている。

この屈託のなさを頼りにすれば素直に社会学について語ることができるかもしれないとの思いつきは、ある意味で凡庸な計画だ。夏目漱石が名前のない猫にインテリたちの風俗を批評させたあの発想にくらべたら、ひねりも何もないからね。けれども私はついつい語る相手のことを気にしてしまうから、なかなかストレートに語れない。その点、お前たち相手なら、あれこれ考えなくて済む。まあ、その程度の思いつきだな。

じつは、ここ数年、社会学の講義がないんだ。今は情報系の科目ばかりだ。まあ、これはこれで時代の最前線ということで気合はそれなりに入るんだが、講義ではわりと淡々と話している。

今思うと、社会学の講義はそうはいかなかった。妙に熱くなってばかりいたような気がする。早い話が「生き方」とかに立ちいるからなんだろうな。そのためか、どこかしら重かったのはたしかで、それが話をくどくしていたような気がしないでもない。一応、私は自分のことを社会学者と自称しているからね。使命感みたいなものがあったんだな。

■人生という概念

そう、社会学はちょっと人生論的なところがある。社会学研究そのものはわりとドライだけれど、社会学入門はそういうところがあるな。どうもそこらあたりが社会学の興味を引くところでもあり、ときには押し付けがましく感じられるところでもあるようだ。熱心な学生さんもたくさんいたけど、ときには反発する学生さんもいたっけ。そりゃそうだよ。「お前の生き方、こうなってるぞ」なんて分析されりゃ、いい気がしない。でも「そうなっているのか!」てなぐあいに、それで吹っ切れる人もでてくる。

お前たち動物には人生論なんて関係ないものなあ。お前たちはひたすら今を生きてる。それに対して時間軸を想定して生きているところが人間のさがみたいなもので、人生という概念もそこから生まれる。

人間だって子ども時代には、そんな概念なんてないんだ。大人になってゆくプロセスで、そういう概念が徐々にできあがってくるんだ。まあ、子ども時代の経験を「懐かしいなあ」なんて語り始めたら、人生の概念ができてるってことさ。

社会学はもちろん学問であり社会科学のひとつなんだけれど、本質的には、こういう、人生を反省する生物である人間が自己を語ることばのひとくさりなんだ。私はかんたんに「反省のことば」と言いたい。

宗教とか哲学とか倫理とか文学とか、そういうものも「反省のことば」だ。しかし、近代社会というものが人間の人生と生活をすっかり複雑に変えてしまったために、人生を反省するのも楽じゃなくなってしまって、たんに回顧したり思索するだけでは見えてこなくなった。そこで、いろんな概念や観察や分析手法なんかが必要になり、たくさんの人に会って話を聞いたり、それらを統計的に処理したりするようになったというわけだ。

■反省する動物

お前たち犬と私たち人間とのちがいは何だと思う? それは反省するかどうかだよ。

お前たちだって「学習」はするよな。ご飯を炊くにおいがしたら、自分たちの食事が近いことをお前たちは学習してる。私がひげをそって髪をそろえてきたら、お前たちは留守番だと悟って、犬小屋に入ってしっかり「お駄賃」を待ってる。「おすわり」と言われれば何かいいことがあるにちがいないとわかってるから「おすわり」してみせる。こういうのは「学習」だな。

「反省」となると、もう一段高度になる。それは、自分を今の自分以外の視点から眺めなおすことだ。他人の視点から自分がどう見えるかを想像したり、夢中でやった過去の仕事を回顧したり、自分のやっていることを社会の大きな文脈に位置づけたりすることだ。

こういうことは人間独自の知的能力なんだろうが、人間一般というより、基本的には近代人の特徴だな。大ざっぱに言うと、伝統に埋もれている人間は反省なんてしない。必要ないんだ。昨日やったことを今日もする。それで毎日が過ぎてゆく。

ところが近代社会ってやつは、そういう幸せな日々を許してくれない。近代社会はどこもかしこも、たえず変化しつづけているんだ。昨日やったことを今日そのままやるわけにはいかない社会なんだ。しかも、遠くの出来事がすぐに身近な影響をおよぼす社会でもある。油断のならない社会。たんに自分を今の自分の視点から眺めてるだけじゃ、すぐに痛い目にあう。だから近代人はたえず「反省」を強いられている。つまり「反省する動物」にならざるを得ないんだ。

まあ、これは一般論。社会学の話に直結するわけじゃない。さまざまな学問や科学だって、結局はそういうことの産物だ。けれども多くの学問や科学が、客観性とか法則性といったものに囚われていったり、自己目的化してしまったり、制度の細かい手直しに熱中したりしたのに対して、社会学では近代人の自己反省がむきだしになっているという感じなんだ。さっき「人生論っぽい」と言ったのは、つまりこういう側面が強いってことだ。

もちろん、いまどき人生論なんてはやらないから、こういう言い方をすると敬遠されてしまうかもしれない。でも「なんで自分が善意でやったことが非難されなきゃいけないんだ」とか「どうして私だけこういう目にあうの」とか「ささいなことでも問題になるのに、こんな大きな理不尽が公然とまかり通ってしまうのはなぜなの」なんてことで現代人はけっこう悩んでいるものなんだ。

まあ、ありていに言えば、幸せな人よりは不幸な人、強い人よりは弱い人、考えなくても済む人よりは考えざるを得ない状況を生きている人のほうが、社会学と相性がいい。そういう人たちが直面している自分の人生の一局面を理解するのに社会学は役に立つからだ。

といっても「正義の味方」というのじゃないよ。せいぜい「誠実な観察者」くらいのものかな。わりとさめて見ている人のアドバイスが役に立つようなものだと思う。その意味で、社会学は「反省する現代人のためのことば」なんだ。

■生物世界の社会

お前たちを見ていると、動物にもそれなりの社会があるように見える。群れを作ったり、役割分担があったり、コミュニケーションがあるのはたしかだ。だから動物学者や生態学者は「動物の社会」について説明するし、動物社会学という分野もある。これは動物を知的生物の側面から解説する試みで、動物社会学といっても、やっているのは社会学者ではなく動物行動学の研究者たちだ。かれらは動物を擬人化して説明するのが得意なんだ。最近は心理学者も加わって、擬人化ではない仕方で「動物の社会」を論じているようだね。

逆に、社会学者は「人間生態学」なんてことを主張することがある。これは都市に集まった人間たちがなぜか適当にまざらないで、あたかも動植物の棲み分けのように、まあ植物で言えば、あちこちに群生する様子を分析する研究だ。これなんか人間世界を動物や植物なんかと同列に見ているわけで、人間を特別視しない、さめたテイストを感じるね。「動物にも社会がある」なんて発想よりも、こういう発想のほうが社会学っぽいんだ。

今の社会学では、ふつう、動物社会を扱わない。コミュニケーションの研究で動物のケースを引き合いに出したりするということはある。けれども社会学者は犬の世界を観察したりフィールドワークしたりしない。まして犬に向かって社会学を説いたりもしない。ふつうは、ね。

そういうことで社会学は近代に典型的な人間中心主義だ。人間だけを扱うというのは、まあ、当たり前のようだけれども、それに対する批判は昔からあった。じつはエコロジーブームの流れの中で、最近また、この点が強く批判されてきているんだ。

■環境問題と人間特例主義

じつのところ、お前たち動物と私たち人間とをまったく別の世界に属していると見るか、それとも所詮は同じ生物世界に属していると見るかという問題は、けっこう難しい問題なんだ。

近ごろは環境問題が盛んに論じられて、エコロジーがはやっているから、人間も動物も植物もみんな自然環境の一部なんだと思うだろう。こういう発想をすると、世界の出来事はエコロジーに解消されてしまうかに見える。過激な環境保護団体なんかは、だいたいこういう考え方だ。これを「ディープエコロジー」と言うんだが、要するに「生態系は絶対である」という考え方だ。これによると、生態系から発想しない営みや知識は無効であり批判すべきだということになるし、生態系への人間の介入は最小限にするべきだということになる。

こういう考え方に影響されて、社会学の中にも環境社会学という分野ができた。なんせ社会学は人間社会を中心に見立ててきたから、この環境社会学では、社会学のあり方そのものを問うような論争がたくさん出てくることになったんだ。

そのひとつが「人間特例主義批判」だ。伝統的な社会学は、人間を特別に文化的な存在と見なしてきたため、生態系の一部としての人間の依存性と限界を無視しているというんだ。まあ、社会学の側もあまりに自然環境を無視してきたきらいがあるから、ちょっとは反省しないとね。

■自然科学に気をつけろ

ところが話はそうかんたんじゃない。たしかに自然環境を排除してきたことは認めなきゃいけない。けれども私は、社会学が漠然と生物世界をあつかっても仕方ないという気がする。

じっさいこのあたりの問題は環境社会学の内部でさかんに議論されていて、少なくとも日本では、ディープエコロジー風味の威勢のいい議論に対して、あえて留保をつけているようだ。つまり環境問題を研究するときに、生態系中心で判断してしまうと、そこで暮らしている人たちがたんなる自然環境破壊者としてしか位置づけられなくなってしまい、ノイズのような存在になってしまう。ノイズはないのがいいわけだから、この人たちの生活がまるで無視されてしまう。それでは社会学とは言えないよね。

生態系が守られれば、ついでにその一部をなす人間も幸せなはずだという楽観主義というか短絡主義というか思い込みがエコロジーにはある。自然科学的発想がときとして見せる原理主義だな。そもそもエコロジーは反都市文明志向と自然科学主義の合体した産物なんだ。そこでは社会的な要素がまるで単純化されてしまう。社会学が闘わなきゃいけないのは、こういう場面だ。

むしろ社会学が問題にしなければならないのは次のようなことではないのか。つまり、こういう人たちが自分たちの考えを実現しようと運動することによって、さまざまな形で紛争が生じる。水俣のように深刻な健康被害が大規模に出たところでは、こういう公害反対運動や被害者救済運動には大きな意味がある。それを第三者的に評価するとともに、環境運動が引き起こす紛争を、環境に対する人間社会のありようの問題として研究すること。日本の環境社会学者の研究の重心はどうもこちらにあるようだ。

こういうように見ていくと、社会学そのものはやはり人間特例主義で行くしかないんじゃないかな。その問題点と限界は、環境学という大きな枠組みの中で実現していけばいい。それで社会学全体が変わる必要はないんだ。むしろ社会学は、たとえ自然環境の問題に対しても、あくまで人間社会の問題に徹して取り組んでいくくらいがいい。それが社会学らしいんじゃないかな。

こう言うと「社会学主義」ということばで批判されるに決まっているんだが、パーソンズやルーマンやモランなんて社会学者は、こういう社会学の限界を突破してエコロジーを包摂した巨大な理論構想を提示している。あながちきれいに統一されているわけでないのが社会学の実態だ。

■家族としてのペット

こんなふうに、社会学は遠心力がとても強い学問で、ほっておくとどんどん拡散していってしまう。それはそれでいい。現在の状況がそれを要求していると考えることもできるのだから。でも、こんな時代だからこそ、私は社会学の求心力を強調したほうがいいと思っている。視野はなるべく広く取り、その分、支点はより深く埋めたほうがいい。

たとえば、お前たちと私の関係を社会学の研究対象にするとしたら、どんな問題が生じるだろう?

とりあえずは「ペットの社会学」ということになりそうだが、最近よく取り上げられるのは「家族としてのペット」の問題だ。つまり、多くの家庭の場合、ペットは家族同様の扱いを受けている。

さっき、動物の世界は社会学の対象ではないと言ったばかりだけれども、現に人びとが「家族」ということばでペットを理解している現実があるわけだから無視できないし、客観的に「家族ではない」と言うことはできないよ。もちろん法律ではそうかもしれないし、赤の他人から見ればバカげたことかもしれないけれども、一家のみんながそう思っていれば、それはまぎれもない「社会的現実」なんだよ。

象徴的な現象形態がペットロスだ。これは、すでに深刻な社会問題になっている。はたから見ると理解不能かもしれないけれども、ペットが死んだあと、まるで子どもを亡くした親のような精神状態に陥るんだ。私もたくさんのペットを看取ってきたから、こういうのはよくわかる。重いペットロスは、こういう悲しみを通り越してうつ症状が続くそうだ。これはつらそうだ。

こういう事態が社会学にとって遠心力にあたる。それまで「社会学の範囲ではない」として周辺に置かれていたもの、残余だったものが無視できなくなる事態だ。しかし、こうした場合、それでもそれは論じられなければならないと社会学は考える。だから、社会学の研究対象って、際限なく広がっていくんだ。

この拡散は求心力も生む。

ペットという人間以外の要素が家族に入ってくることで「では家族とは何なのか」という理論的な問いが生じるだろ? 家族らしいと思える家族をいくら見ていても、かえってこういう問いは出てこないかもしれないね。

制度から定められた家族の定義、じっさいに人びとが自分の家族と思う範囲、家族ってこういうものじゃないのという理想——それぞれにずれがあるから、これは難問だ。そもそも「家族らしさ」ということばで表現されている親密な領域とはどんなものなのか、考え出すと広大で深い思考圏が開けてくる。まして家族の形は社会や文化によって大きく異なるからね。

というわけで、お前たちと私の関係からさえも、社会学はその遠心力と求心力を働かせて、あっという間に社会学的な世界が開けてくるというわけだ。社会学の素材は身近でありふれている。しかし、それを掘り起こしていくと、じつに複雑な社会の深層が見えてくるはずなんだ。これが「社会学的反省」の正体なんだよ。