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2022年1月15日土曜日

『インフォアーツ論』あとがき

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
あとがき

本書の原型は、二〇〇一年半ばに発表した三本の短い論文である。

野村一夫「インフォテック対インフォアーツ」(『生活協同組合研究』二〇〇一年六月号)。

野村一夫「近未来インターネットの人間的条件」(『教育と医学』二〇〇一年七月号)。

野村一夫「ネットワークの臨床社会学[3]苗床論」(猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究——不安との訣別/再生のカルテ」第48号、二〇〇一年六月二七日)。

もちろん、全面的に構想を改め、従来の自説そのものを大きく旋回させた。私としては、これが最新の着地点である。

この着地点は、文字通りのネット生活の中で直接間接に経験し、そして考えたことが中心である。社会学者らしく考証的に書くやり方もあったのだろうが、ご覧のとおり、本書はやや長めの社会学的エッセイといった文章になっている。これは、骨太に分析と構想を提示しようとしたためである。細部の説明は、本文に繰り込んだ参考文献にゆだねた。また、事例の詳細な紹介はいっさい省くことにしたが、ネット経験の長い方にはそれなりに深読みしていただけるかと思う。

今回、私にとって数少ない導きの糸となったのは、セオドア・ローザックの『コンピュータの神話学』(朝日新聞社、一九八九年)だった。インターネットが本格的に展開する前の本だが(原著刊行一九八六年)、現在の日本語圏のネットをめぐる状況をどう理解すればいいのかについて明確な手がかりを与えてくれた。こう言うと、ネット業界ではレトロな流派(あるいはラッダイト主義!)にでも位置づけられそうだが、それはちがう。最先端を追うインフォテックな視点では見えないものも多いのだ。あえて距離をとって人文学的な視点で見ることの重要性を学んだ。とくに、人は情報技術を受容するとともに、その技術がひそかに内包する技術的思考をも受容してしまうことに対して批判的意識をもつべきだとの主張は、本書の主調低音をなしている。

本書のはじめに述べたように、本書では誘導馬的役割をするモデルや思想に着目して論じる手法をとっている。登場する対立図式は、その筋目を鮮明にしたものであって、議論の対象を真っ二つに分断しようという意図はない。インフォテックに対抗するインフォアーツの提示も、主張したいのは「図と地の転換」であって、技術の否定ではない。しかし、問題の多い現状をそのまま受容して適応することはできないので、あえて対抗的なものとして自説を提示してきた。この点について誤解なきようお願いしたい。

さて、インフォアーツ論は、「はじめに」で記したネットでの活動だけでなく、さまざまな研究会での議論にも大きく触発されてきた。最初に私がインフォアーツという概念を提起したのは、生協総研主催の「インターネットとくらし研究会」だった。生協とインターネットの関係を考えるこの研究会がなければ、「ことばの市場経済」と化してしまった唇寒い(何を言ってもくさされる!)インターネットについて再び本を書こうとは思わなかっただろう。というわけで、ここがインフォアーツ論発祥の地である。

また「メディアと経済思想史研究会」での議論や、猪瀬直樹氏の編集による経済メールマガジン『日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ』での連載「ネットワークの臨床社会学」の執筆も産婆的役割を果たしてくれた。その他、おりにふれてネットについて報告した図書館関係の各種研究会にも感謝したい。私はかねがね、自分がネットの実践家であって、ネットの研究者ではないと自覚しているだけに、こうした報告の機会は自分の考えを整理するのに大いに役立った。最後に、國學院大學平成一四年度「特色ある教育研究の推進」助成に感謝したい。本書はこのプロジェクトの成果でもある。

『インフォアーツ論』はじめに

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
はじめに

■ネットを語る資格

情報倫理・インターネット・サイバースペースといった問題群に対して、どのようなタイプの人間が語る資格をもつのだろうか。コンピュータ・サイエンスの専門家だろうか、現場を知っているシステム・エンジニアだろうか、それとも有名企業サイトの管理者だろうか、あるいは巨大掲示板の常連たちだろうか。

私はそのどれでもない。メディア文化を中心に仕事をしてきた一介の社会学者にすぎない。しかも、ネットワークを実証的に研究してきた研究者として語るのかと言えばそうでもない。ここまで複雑化し巨大化したサイバースペースについて何か新奇なことを実証的データに即して語ることは私にはできそうにない。

今のインターネット(以下、周辺環境を含めて「ネット」と略称する)は、一世紀ほど前のシカゴみたいなものだ。急速に人口が増加し、移民やさまざまな地域から流入した人たちがそれぞれの文化様式を持ち込み、文化のサラダボールになってしまったシカゴ。その変化を「都市化」と呼んでもいいし、「文化摩擦」が起こっていると読み取ることもできる。先住民の古式ゆかしい伝統文化は、もっとローカルな文化(サブカルチャー)や近代的な風俗や先端的な技術革新によってズタズタにされている。そして元に戻すことは不可能なのだ。

こういう社会状況を解読するために、のちに社会学史上「シカゴ学派」と呼ばれた社会学者たちは、とにかく街に出て、人びととつきあい、ともに生活し、励ましあうなかで、自分が見たもの聞いたものを書き留めていった。日記や手紙を集めて分析した研究もあった。これが社会学のひとつの原点になっている。

ネットのありようを考える上でも、この原点に立ち返る必要があるように思う。この雑踏の中で生起する問題も魅力も、雑踏の中でこそよく見える。研究対象と研究主体がこれほどまでにあからさまに一致している以上、観察できた等身大の他者像を描き、そこに投射された自画像を読みとることのほうが、なまじ数量的データを並べて議論するやり方よりも意味があるのではないか。

本書において私は、このような社会学的まなざしをもって自他を内部観察してきた市井の一ネットワーカーでありコンテンツ制作者として、そして広い意味での情報教育実践者の資格において語りたいと思う。

そういう私が一九九五年以来ネット上でこれまで経験してきたプロジェクトは主として次のようなものだ。


■社会学サイト「ソキウス」の経験

第一に、社会学サイト「ソキウス」(Socius)の経験がある。もし私の名前を読者がご存じであれば、それは「ソキウス」の作者としてであるにちがいない。「ソキウス」は一九九五年八月にASAHIネット上で公開を開始し、のちにシェアテキスト・プロジェクト honya.co.jp に参加して、そのコンテンツとなった。ちなみに「シェアテキスト・プロジェクト」というのは、オンラインソフトで流通しているシェアウェアと同じように、著者が(プログラムではなく)コンテンツを公開して、読者がドネーション(寄付)を出して支えるシステムと文化をつくろうというプロジェクトである。

昨今は情報教育や遠隔教育の名の下に学術系サイトが華々しく立ち上げられているが、「ソキウス」はそれとは逆のコンセプトをもっていた。じつは「ソキウス」を始めたころの私は、今日ほどにインターネットが普及するとは予想していなかったし、公式の教育に導入されるとはまったく考えていなかった。当時の私にとってインターネットは、まさに大学教育の枠をとっぱらってくれるオルタナティヴな選択肢としてあったのだ。

当時、私はおもに理系キャンパスで一般教育の社会学を教えていた。受講者が多く、しかもほとんどが不本意履修の学生であったから、こちらがいくらリキを入れて教えても限界を感じることが多かった。これはやはり「不幸な出会い」といわなければならない。大学はこうした「不幸な出会い」を量産している場所だと思っていた。だから、私は社会学を必要としている人たちに直接語りたかった。単位認定を伴う大学教育の枠から自分の社会学を解放することが大事だった。「ソキウス」はそういう個人的な思いを実現しようとしたプロジェクトだったわけである。

「ソキウス」は、少なくとも社会科学系日本語コンテンツとしては、かなり初期のもので、それだけに草創期特有の恩恵にも浴すことができた。今思えば、あれは特殊なことだったのかもしれない。ほとんど毎日数通以上の「見ましたメール」が見知らぬ人たちから届き、多くの人たちとの交流が始まった。そして、それはさまざまな果実を私にもたらして今日に至っている。


■法政大学大原社会問題研究所公式サイト OISR.ORG の経験

一個人として語ることにこだわった「ソキウス」はまったく個人芸的なコンテンツ制作だった。それに対して一九九九年から研究員になった法政大学大原社会問題研究所(略称「大原社研」)では、自発的な企画性を尊重しながらも集団的にコンテンツを制作するネットワーキング的なサイト運営に参加することになった。毎日メーリングリストが飛び交い、企画が立てられては次つぎに形にしていくスタイルが定着するまでには、それなりの時間を要したが、個人芸を越える集団的コンテンツ制作の創造性を体験してきた。

大原社研は大学付置の小さな所帯ながら、研究活動の一環として月刊誌をもち、年鑑を発行している。二〇〇ほどの史料復刻事業の実績もある。なにせ一九一九年の創立なので、戦前や占領期のものがたくさん収蔵されている。なかでも戦災を免れて残った社会運動系のポスターやチラシのコレクションは壮観だ。出版活動のさかんな研究所であると同時に、労働運動や無産主義運動の専門図書館・文書館の機能を果たす機関なので、ネットにおいてもそれぞれに対応する仕掛けが必要だった。

ここは何でも自前でやってしまう。すでにデータベースなど公式サイトとしての基礎ができていたので、私たちは、さらに高度な段階から仕事に入ることになった。デザインを一新し、インターフェイスを工夫し、全文検索を設定し、古い本や史料を電子復刻し、インデックス(所蔵目録)を公開していった。メールマガジンも発行したし、毎月刊行される有料機関誌のネットでの同時公開も始めた。

次つぎに協同で進めていった仕事のなかでも「OISR.ORG20世紀ポスター展」では、直前にできていた画像データベースを引き継いで、サイト上で大がかりな展覧会を催して注目を集めた。これ以来、千単位のファイルをあつかうことも多くなった。この三年で、いわゆる研究成果の情報開示にあたることは一通り体験したように思う。

ここでは、古いものと新しいものとの出会いがテーマである。古いものをいかにして現在と次代に伝えるかを考えてきた。また、書物的世界とネット的世界をどのようにリンクしていくかが、もうひとつの大きなテーマである。ネット上のコンテンツを本として刊行したり、本として刊行されたものをネット上で公開したり、未公開のものをネットと本で同時に公開したり、といったさまざまなパターンを試している。


■オンライン書店「ビーケーワン」の経験

二〇〇〇年七月にオープンした「ビーケーワン」は、日本資本としては業界トップレベルのオンライン書店である。私は、人文社会ジャンル担当の社外エディターとして開店時からここに参加した。当初ここには三〇歳前後を中心に名うてのカリスマ書店員や敏腕フリーライターそして有名ネットワーカーたちが集合していた。時期的には、オンラインショップの従来モデルの失敗が共通認識化し、「コンテンツ重視」と「コミュニティ・モデルへの転換」が新しいビジネスモデルとして流行していたときだったので、かれらのような人たちが呼び集められ、私のようなネット系社会学者にも出番が回ってきたようだ。ここは文字通りのドッグイヤーで、みんなじつによく働く。ゆったりと悠久の時間の流れるアカデミズム社会では仕事が速いつもりでいた私が、ここではのろまなカメのようだった。二〇〇一年いっぱいまで参加したが、ネット系ビジネスならではのスピード感を味わせてもらった。

書評を書いて本を売るのが「ビーケーワン」のビジネスモデルである。最近は長い書評から一口紹介(ポップに近いもの)へと傾向を変えてきているが、当初、私は系統的に社会学やメディア論の本を書評できることに魅力を感じ、たくさんの本を選書紹介し、書評を連載し、著者にインタビューしたりした。

とはいえ、その疾走するネットビジネスの中で私自身が貢献できたことはごくわずかなものだった。ここでは、とくに「ものを売ることは数ある影響力の中でもっとも大きいものだ」ということ、それをネットでやるのは至難のわざであることを思い知らされた。ネットの力を過大評価してはならないというのが、ここでの教訓である。


■研究活動のネット化

その他いくつかの短期プロジェクトもふくめて、ネットのことはだいたいメーリングリストで連絡体制がとられる。そのようなメーリングリストを中心にメールはよく書いてきた。とくに九〇年代後半は平均すると一日十通近くは書いてきただろう。「ソキウス」初期には読者メールに対して毎日返信を書いていたし、親しくなった研究者とは本一冊分もあるようなやりとりを集中してやったこともある。大原社研でもビーケーワンでもメーリングリストが主役だった。今でもいくつかのローカルなメーリングリストを主催しているが、書けば受け取る量も多くなる。メールを通じて鍛えられたことは多いとは言うものの、いわゆる「ハイテク過食症」の典型的患者だったと言えそうだ。

しかし、メーリングリスト自体が大きな意味をもったという点では、財団や科研費による医療社会学系の研究プロジェクトのことをあげなければならない。九五年に準備を始めた一連のプロジェクトの成果は、すでに複数の報告書と単行本『健康論の誘惑』(文化書房博文社)としてまとめられているが、いずれも遠隔地に分散している研究者たちがメーリングリストで毎日のように連絡を取りながら議論を進めた産物だった(より正確には、ペースメーカーとして相互に気合を入れあったというべきかもしれない)。そもそも、私がそれらのチームに加わったのも、ネットで知り合った研究者の計らいだった。ネットは地縁も学閥も組織も超えて、共通の関心テーマや志向性をもつ者を結びつける。もちろん「だれが」そうするかが肝心なのであるが(ネットが自動的に結びつけるわけではないのだから)。


■情報教育の経験

このようなネット上での活動をしているあいだも、私は自称「さすらいの社会学者」として毎日複数のキャンパスを飛び回って講義していた。早い話が、こちらが本業である。一般教養の「社会学」が多かったが「マスコミ論」「メディア・コミュニケーション論」などの枠組みの中で「ネットワーク文化」について講義してきたし、インターネットの歴史や情報倫理の問題にも言及してきた。最近はコンピュータ教室での実習もやるようになって、いわゆる情報教育のありようについて考えるようになった。

もともと「大学や学校での情報教育はムダだ」というのが持論だった。ネットはむしろ生涯学習(つまり大人たちの自発的な勉強)において有効だろうと考えて、そういう論文も書いてきた。社会学サイト「ソキウス」も学生のためではなく「一般市民のため」と明確に位置づけてきた。

しかし現在では、じっさいに情報教育を担当することになってしまい、たんなる否定論ではすまなくなったというのが実情である。ネットで私が体験してきたような興奮は当の学生たちにはなく、そこそこケータイとゲームマシンですんでしまっている。大学が期待する「世界に発信できる人材」像と、生身の学生の期待と実態とのギャップも強く感じてきた。

問題は、それにもかかわらず情報教育の制度は「IT革命」のかけ声とともにゆるみなく整備されつづけており、このギャップは放置できないものになっていることだ。学生をリードすべき大学側が的外れな努力をしていることも多いし、なすべきことをないがしろにしていると考えることも多い。私は強い危機感を抱いている。


■オプションを思考する

私の問題関心はおよそこのような経験に起源をもつ。要するに、ただ悩んできただけとも言えるこのプロセスから、私は多くのものを学んできたし、また、あえて拒否してきたものもある。いろいろ考えるところあって本書執筆時点では、自分なりに「省ネット運動」をしてネット仕事もメールも減らすようにしている。健康のためでもあるし、そうしないと、いつまでたっても本書が書けないことに気がついたからである。何事につけ適正な運用が必要だと思う今日このごろ。だから「祭りのあと」の気分が本書の基調になっている。

このように一歩引いたところから「ネットにおいて何が多くの人びとにとって価値あることなのか」を考えたい。それを輪郭のはっきりしたことばとして表現したい。たしかにネットを論じる人たちは多く、学ぶことも多いのだが、みんな途中で思考を止めてしまっているように私には思える。これには情報過多という大きな理由があるのだろう。現在のネットには説明すべき事柄があまりに多い。しかし私はそれに抵抗したい。そのために私が採用した「ものの見方」は次の三つである。

第一に、どんな複雑な現象も、人間がつくるかぎり、それらの行為を規制する理念(モデル)があるということ。人びとがなにごとかをなすときにはいつでも、誘導馬的な役割をする理念やモデルあるいは思考やスタイルやフレームや文法のようなものがあるのだ。こういうシンプルな筋目を見いだして論じることは、統計的にでてくることではないし、いくらディテールを解きほどいてもでてこない。社会学者が書くからと言って、実証的事実の奴隷として語るとはかぎらないのだ。そうした見せかけの「客観」ではなく、むしろ洗練された「主観」(そうあってほしいと願っているが)による内在的理解を駆使するほうが適切なこともあるのだ。

第二に、何事につけ、表裏一体かつアンビヴァレントなものであるということ。「アンビヴァレント」というのは、相反する価値を同時にもつということである。どんな行為にも想定された行為モデルや理念があるにしても、それは予期通りの結果を生むわけではない。また、同じ行為でも文脈によって意味が変わる。だから文脈を解読し、そこから行為を解読することが重要になる。

第三に、リアルとヴァーチャルの二元論的世界観を中止すること。両者とも相互に反照しあって定義されるものであって、その境界を画定することは元々できない。その呪縛から自由になるべきだ。

というわけで、本書においては、サイバースペースの多様な実態について該博な知識が披露されるわけでもなく、最先端の研究成果が引用・紹介されるわけでもない。本書で私が試みたのは、ネットにおいてこれからどうふるまうべきなのかについて自分の頭で思索して、ひとつの「オプション」を提示することである。このオプションを叩き台とすることで、ネットに対する態度と実践の落としどころを読者のみなさんご自身で考えていただくこと、これが本書の目的である。

それほど突飛なことを主張するつもりはない。おそらくは社会科学と教育とネットの三つを経験した者であれば大なり小なり考えていることだと思う。私は、それに名前を与え、その輪郭を描くだけである。

もしネットがさまざまな主体による意図的行為と不作為の現場であるとすれば、それは闘争の場であり「政治」の場であるとも言える。おそらくそれを論じる行為自体も「政治」のひとつとしての介入なのであろう。それなら、いっそのこと、価値判断と時代診断を含む「ネットの批判理論(クリティクス)」をストレートに提示して社会学的介入をしてみたい。本書はそういう本である。


*キーコンセプト


■リベラルアーツ

市民として自律的に思考し行動するのに必要とされる基礎的な教養教育。


■インフォテック

情報技術(いわゆるIT)およびそれに基づく情報工学的文化。


■インフォアーツ

インフォテックに対抗するものとして構想された、ネットワーク時代に対応した知恵とわざの総称。


『インフォアーツ論』第一章 大公開時代──自我とネットと市民主義

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第一章 大公開時代──自我とネットと市民主義

¶一 大公開時代を回顧する

■大公開時代の始まり

インターネットに関しては、この七年をとっただけでも、じつにさまざまなことが生じている。七年、しかし機械的にドッグイヤー換算すると、ネット上では半世紀にあたるわけで、それなりにいろいろなことがあった。本章では、細かな枝葉をあえてはぶいて、それらの通奏低音をなすと思われる、ひとつの骨太なストーリーを描いてみたい。

日本語圏においては一九九五年からネットの大公開時代が本格化する。九〇年代前半にはすでにパソコン通信を中心に「ネットワーカー文化」とも呼ぶべき文化がそれなりの成熟を見せていた。そして一九九五年、かんたんに日本語表示できるブラウザが発売され、立ち上がったばかりの専門プロバイダーや一部の大手パソコン通信会社によって一般市民のインターネット利用が格段に容易になった。この年の秋には日本版のWindows95も発売され、技術的な敷居も低くなった。これで一気にインターネットが拡大普及過程に入り、それとともにネットワーカー文化も一大勢力に発展するかに見えた。

じっさい一九九六年いっぱいまでは、パソコン通信においてもインターネットにおいても、一般のネットワーカーたちによってネットでのふるまい方についての規律がかなり周知されていたように思う。いわゆるインターネット入門書も、ネットの歴史や作法や独特の文化について理解することから始めるのが常だった。じっさいネットに参加すると、ニューカマーは口やかましい先輩たちに細かく指導され、それに適応することが(ネット以外の俗世間に対する優越感とともに)受容されるような文化があった。

それゆえ、所属組織から自由に討議し問題解決に向かおうとする自律的個人(つまり市民)の苗床としてネットが機能し始めているかに思われた。言うまでもなくインターネット礼賛のひとつのパターンがこれであって、私自身も、個人がネットワーク・コミュニケーションによって市民的に社会化されるプロセスに大きな可能性を見て、ネットに参加することに大きな意義を感じたものである。私の場合、この「興奮」は、『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社、一九九七年)という形になった。


■公開の市民文化(市民的公共圏)

当初は、ものごとを公開して情報共有すること自体に大きな意味があった。連絡、打ち合わせ、会議、討論、論文、ニュース、自己紹介、日記、クレーム・・・。

とくに、秘されてきたものをあからさまにし、有料だったものを無料にし、閉鎖的だったものを開放し、プライベートなものをパブリックにすること自体に文化的革新があった。それによって、公的組織に対して私的集団の声が、正統派より異端や周縁の声が、組織より個人の声が、専門家よりディレッタントや素人の声が、それぞれ相対的に増幅されて、従来の日本社会では「絵に描いた餅」と思われてきた市民的公共圏がいよいよ現実のものになったかのようだった。

「市民的公共圏」というのは、個人がさまざまな主題について対等に討議できる民主的な言説空間のことである。マス・メディアなどによって操作されてきた公共圏に対して、ネットが原初的な市民的公共圏を実現する可能性をもつのではないかと期待されたのだ。じっさい市民運動がネットによって広範な実績を積み上げることが低コスト低リスクで可能になった。市民運動にとって資源のひとつとしてネットは有力なアイテムとなった(栗原幸夫・小倉利丸編『市民運動のためのインターネット』社会評論社、一九九六年)。

要するに、ふつうの人びとが対等に言いたいことを言える空間ができたのは民主主義の原則から見てじつに好ましいということだ。ここには、少なくともひとつの「新しい社会空間」が出現したのだとの認識がある(清原慶子氏の一連の研究および干川剛史『公共圏の社会学』法律文化社、二〇〇一年)。


■ネットが市民を育てる

ネット文化の有力な柱は、あきらかに市民主義の文化にあった。もちろんこの場合の「市民」ということばがもつ厳しい側面は、すぐにあきらかになるのであるが、少なくともネット上には、余計な制度的呪縛や属性から自由で対等な個人(「市民」)が、じつにさまざまなテーマを核にして集合し、さかんに「おしゃべり」をしていたのだった。そして、そのような人たちは、ネットでのふるまい方を、現実の組織や集団ではなく、ネットの中で学んできたのだった。いわゆる「ネティズン」は、そういう人たちである。つまり、ネットにおいて「市民」的ふるまいをする人たちを、ネットという環境が育てるという、一種の好循環が作動していたということだ。

私はこの好循環を「ネットにおける自己言及の快感がシティズンシップの可能性をひらいた」と理解している。シティズンシップとは「市民であること」「市民精神をもつこと」である。それが大公開時代を支えた理念的モデルだったのではないか。

キーワードは「自己言及」(self reference)である。ごくごくかんたんに言えば、自己言及とは自分自身について語ってしまうこと。意識されていることもあれば、そうでないこともある。たとえば、別のことを語っているのだけれども、結果として自分自身がどのような人なのかを語ってしまっているというような事態である。

現実にインタラクティブなコミュニケーションがおこなわれているネットの世界では、さまざまな形で自己言及性が高まりやすい。この観点からネットでおなじみの現象を見てみよう。


¶二 自己言及の快感とシティズンシップのレッスン


■個人サイトの社会学的意義

大公開時代を象徴する代表的な現象は、なんと言っても無数の個人サイトの林立である。メディア史的に見ても、無名の人たちがこれだけ大量のコンテンツを特定のメディアを使用していっせいに公開するというのは前代未聞のことである。だから私は「大公開時代」として素直にメディア史に位置づけるべきだと思う。

しかし、テーマもフォーカスも水準も規模も多様な個人サイトの林立現象を高く評価しない人たちは今も昔も多い。けれども個人サイトの社会学的意義は、そのコンテンツの価値にではなく、語る人を語ってしまう「自己言及型メディア」であるところにあるのだ。

たえず更新されている活動的な個人サイトを眺めていると、たいていそこにはプロフィールがあり、冗長な日記的記述がある。もちろん主題そのものは別にあり、それはそれで追求されているにしても、こうした「自分を語る」ということが副旋律のようにサイトのもうひとつの主題になっている。対象主題とそれを語る自分についての言説がポリフォニック(多声的)に鳴っている。だれもが知っている企業や組織と異なり、たいていは無名の人による個人サイトでは、たえず「信頼」の問題が突きつけられる。「なぜ自分がこんなことを言うのか」を説明しなければならない。つまり「自己言及のパラドックス」に向き合うことになる。こうして、人気ウェブの作者は、いきおい日記系の記述を増やし、過剰に自己言及し始めるのである。つまり「自己主題化」がついてまわるのである。

ウェブの作者に生じる以上のような自己言及性は、別の言い方をすれば「送り手効果」と呼ぶべきものである。送り手になることが、とりもなおさず「自己をさらす」ことになるため、パブリックな自己を意識的に構築(役割演技)しなければならない。それは「ネット上の自己」を演じるということでもあるが、同時に「反省的モニタリング」(一種の自己監視)を常態化させることでもある。


■自己言及の快感

この自己主題化が肥大化した(自己目的化した)個人サイトが、いわゆる「日記ウェブ」である。これはかなり広範なジャンル世界と言うべきで、ランキングなどの仕掛けを軸に、相互言及のきわめてさかんな、強力なコミュニティを形成している。このように、プロフィールや日記的記述が肥大化した自己主題化ウェブに端的に観察できるのは「自己言及の快感」とも呼ぶべき現象である。自分を表現することの楽しみが、サイト更新の動因となっている。この現象は、オーディエンスの存在(自己を承認する他者)を意識した役割演技ではあるが、たぶんに自己確認であり「望ましい自己」の構築になっている。

この「ネット内自己の創出」は、辺境意識の強い人ほど一種の覚醒に近いものなる。辺境意識の強い人は日常生活において自己イメージが承認されなかったりする(つまり無視されたり差別されたりする)が、ネット上では、そういう自己をそのまま承認してくれる他者と出会うことがきわめて容易である。インターネット上の自分がそのような不本意な現実から見て「偽りの自己」「演出された自己」であっても、しかし、それを承認する他者が出現すれば、それはまぎれもなくリアルな自分になるのである。

同じことは、サイト構築だけでなく、公開されたメーリングリストや掲示板においても生じる。実名か、少なくとも固定ハンドルで発言する場合、自分の発言に対して好意的な反応が再三確認できれば、その人はネット上のその時空が自己提示の重要な拠り所になりうる。と同時に、そこでの発言の数々と言語的交渉がその人の自己イメージを構築し、首尾よく行けば「望ましい自己」を維持しつづける快感を味わうことができる。


■論争の泥沼状態による市民化

これまで、提示された自己に肯定的に応答するネット環境の側面における自己言及性について述べてきたが、当然のことながら、その逆のケースもある。

ネットニュースやメーリングリストや掲示板などにおいてしばしば生じる論争や口論(いわゆるバトルやフレーミング)の泥沼状態のように、ネガティヴなリアクションに対して多くの人がとまどいを覚え、その結果、異質な他者との共生の作法を意識せざるをえず、ひとつの落としどころとして「ネットによる市民化効果」が生じることもある。これには反動形成の場合もあるし、自己反省の場合もあり、挫折の場合もある。

このようなプロセスを体験すると、人は討議におけるコミュニケーション・プロセスそのものに敏感にならざるをえなくなる。あるいは、異質な他者との共生の作法を意識せざるをえなくなる。気の弱い人たちやネットに執着の薄い人たちは、トラブルに懲りてリタイアしてしまったり、参加するネット環境を替えてやり直すことが多いが、もちろん「懲りない人びと」も多い。

まだ参加者の平均年齢が低いせいもあるだろう。たくさんのオーディエンスを意識した「知の格闘技」そのものを楽しんでいるという側面も強いし、そのプロセスで自分の力強さを実感したいという指向性も感じられる。したがって当分「泥沼」地帯はなくなりそうにない。

しかし、個人史的には遅かれ早かれ「論争の泥沼状態」から離脱しようとする動きがでてくる。論争に疲れはて「卒業」を考える。こういう体験をもつ人は多いだろう。

このとき、ひとつの選択肢がある。それは多様な自己を背景化させることで理性的なコミュニケーションを続けることだ。あたかも「広い見識と洗練されたスタイルをもつ人」としてふるまうのが、ひとつの落としどころとして浮かび上がる。これが心理的コストが少なくリスクも小さい演じ方なのだ。これもまた「ネットが市民を育てる」という道筋である。


■ネットにおける大人のなり方

インタラクティブなネットが形成する文化は、一種の相互承認の文化であって、ネットワーカーたちが相互に鏡になってアイデンティティの交渉が行われていた。アイデンティティのメディアであったと言うべきだろう。

しかも、大公開時代にあっては、それはひとつの有力な方向性をもっていた。それが「市民化」である。ネット上で出会うさまざまな人たちのなりゆきを見ていても、市民主義的な行動傾向の人たちがネット上でのびのびと活動しているのを見ていても、ネット文化自体が参加者にある種の市民主義を誘発させていたところがあった。もちろん、そこに個人個人によって相当な落差があった。

デビスとバランによる『マス・コミュニケーションの空間』(松籟社、一九九四年)がマス・コミュニケーションについて適用している枠組み状況の四類型をネットにも適用して、この落差を説明してみよう。基本的には、ネット上の人格の未決状態から、どういう自分をネット上に設定するかに関するスタイルである。いわば「ネットにおける大人のなり方」だ。

(1)社会的学習スタイル(the social learning style)

環境が提供する指示をそのまま受け入れる。環境適応的な受動的段階である。言わば子ども段階。ネット上では、その場その場の定番の話題に乗ったり、ローカルなジャーゴンや文体をまねするといった、単純に「郷に入れば郷に従え」的な同調行動をとる段階である。

(2)鏡像自己スタイル(the looking-glass-self style)

自分を他者の目を通して見る段階。他者の目を鏡にして、その中に自分を見いだす。社会的学習スタイルとちがうのは、ある人びとを他の人びとよりも高く評価して、評価したその相手を準拠人にして、それに合わせる段階である。子どもが親の目で自分を見ることにあたる。ネット上では、管理者やモデレーターや特定の常連に合わせ、その人たちの目を通して自分を見つめ評価する段階である。

(3)一般他者スタイル(the generalized-other style)

複数の準拠人を準拠するとき矛盾が生じる。そこで集団や共同体における規範を理念上の他者として構成して、それにしたがって自分を評価するようになる。ネット上では、フォーラムのローカル・ルールやネットワーク倫理やネチケットに従う段階である。

(4)反省的自己スタイル(the reflective-self style)

外部の人たちを参照することなく、自分で行動の枠組みをつくる段階。ネットワーク上では、自己決定しルールを創出する自律的段階である。ここでは、枠組みや枠組みづくりを反省する知的能力のあることが前提だ。ネット上では、独自のスタイルで発信をつづけている人や、議論の流れやあり方に対して「こうしてみませんか」と提案して、場の雰囲気を変えてしまうような人が、この段階にあたる。

インタラクティブなメディアであるネットが誘発するのは、市民化という方向性をもつ、このような自己言及的なコミュニケーション過程である。そこに参加する個人は何らかの形で自省的であることをしいられる。なぜなら、そこには、相互に反照し合って、自分自身の言動が他者の反応によって絶えず検証され、リアクションとして還ってくるプロセスがあるからだ。つまり、ネットがネットワーカーたちをもみあげて一人前の大人にしてくれたというわけだ。

ここからネット参加者たちのさまざまなストーリーを描くことができる。第一段階にとどまる人もいれば、第四段階まで突き進む人もいる。ともあれ、大公開時代にかいま見えたのは、このような一定の方向性をもつ「大人のなり方」だったのである。


¶三 市民主義文化の源泉


■ネット先住民文化

ネットへの参加が個人に市民主義的転回をもたらすという構図は、必ずしも自明ではない。これには明確に歴史的な先行条件があった。その条件とは「インターネット先住民文化」である。大公開時代にあたかもネットという場がもっていると参加者たちが感じていた文化がそれである。これはインターネットの技術特性から直接でてくるものではない。

もともとインターネットはその開発過程における市民主義によって独特の展開をとげてきた技術であり、それは市民主義的ネット文化と伴走して普及したものだ(古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』岩波書店、一九九六年)。そこに他の情報技術と明確に異なる社会的特性がある。その原理は「オープン」「フリー」といったことばに象徴される独特の信頼システムである。このようなネット先住民文化の本質を「ガバナンス原理」と言う。


■ガバナンス原理

ガバナンス原理は、私がこれまで「市民主義」と呼んできたものの、本質的な行動原理を指している。昨今ではNGOやNPOの行動原理として、従来組織の合意形成の回路のあり方(「ガバメント原理」)とはまったく異質なものとして注目されている。

木村忠正・土屋大洋『ネットワーク時代の合意形成』(NTT出版、一九九八年)の整理によると、NGOに典型的に見られるガバナンス原理(インターネット・コミュニティ・モデル)は次の構成要素からなるという。

(1)ボランタリー・コミットメント、ボトムアップ

(2)非営利性・公益性

(3)開放性・可塑性・連結ネットワーク性

(4)情報透明性・説明義務

(5)ピア・レビュー(仲間内の評価)

この整理を借りて、かんたんに説明しておこう。

ガバナンス原理は、自発的に参加・関与することが大前提になる。その上で、合意を底(ボトム)から積み上げていく。強制参加でもなく、トップダウンで指令がくるというのでもない。そうして構成されたネットワークの活動目的は営利追求ではなく、市民的な公共性をもつものである。メンバーは固定されず、出入り自由であり、境界も確定しない。しかし、各自・各セクションがつながることによって、なんらかの効果を生み出そうとする。つながることがポイントである。その活動においてさまざまな情報が現場に生じるが、それらをたえず公開して情報共有することで、情報が偏在しないようにする。そのためには黙っていてはだめで、情報の現場にいる者がたえず情報を公開するようにしなければならない。つまり説明する義務をもつのである。このようにしておくことで、スピーディな対応が可能になるが、そのさい、仲間内の忌憚ない相互評価がいつもなされていてチェックできるようにしておく。これによって正当性が認められ、事実上の標準として機能できるようになる。

ガバナンスは新しい合意形成の回路のあり方として注目されているが、しかし、タウンミーティングの伝統の復刻版というところがあり、むしろ一八世紀的な古典的直接民主主義の復活と見ていいように思う。たとえばインターネット・コミュニティのありようを佐藤俊樹氏は「原(プロト)近代の再生」と位置づけている(佐藤俊樹『ノイマンの夢・近代の欲望』講談社、一九九六年)。その意味では「レトロ民主主義」とも言える。


■インターネットの歴史とネット先住民文化

このようなレトロ民主主義の復刻版は、ネットの歴史の中で何度も呼び起こされてきたものである。インターネットの成立史については、Katie Hafner and Matthew Lyon『インターネットの起源』(加地永津子・道田豪訳、アスキー、二〇〇〇年)と、スティーブン・シガーラー『ザ・ファースト ネット センチュリー(全二冊)』(山本啓一訳、HAL&ARK、二〇〇一年)が詳しいが、それらによると、一九六〇年代にはアメリカンスタイルの合理主義に裏打ちされた反官僚主義的決定をする科学者たちがペンタゴン内部とその周辺にいて、一九七〇年前後のカウンターカルチャーのただ中にいた西海岸の若いハッカーたちを引き入れ、かれらが草の根的な直接民主主義を集合的にとることで、技術的な開発過程が進められていったことが強く影響している。一九八〇年代においてインターネットのプロトコルTCP/IPが、トップダウンで出てきたプロトコルOSIに対抗して普及する過程にも、BSD UNIXがTCP/IPを組み込んでしまうなど、単なる競争心だけでなく、リベラルでオープンでフリーであろうとする文化が大きな役割を果たしている。

また、USENETやWELLのような非開発系ユーザーによるネット文化も、対等な個人による自由なコミュニケーションの広場をつくりだし、そこから「サイバースペース」や「ヴァーチャル・コミュニティ」ということばも生まれている(古瀬幸広・廣瀬克哉、前掲書。ハワード・ラインゴールド『ヴァーチャル・コミュニティ』会津泉訳、三田出版会、一九九五年)。


■RFCとW3C

じっさい、インターネット関連の技術開発の多くがこのガバナンス原理によって構築されてきた。それはたしかに「先住民文化」ではあるが、リナックスの興隆に見られるように、現在に至るその後のネット文化の機動力とエートスにもなっている。その意味では、すべてとはもはや言えないにしても、ネット文化の最先端部では現在でもガバナンス原理が生きている。

その代表的な存在が、RFCという意思決定方式であり、組織で言えばW3Cだ。インターネットの技術的仕様は基本的にRFCという文書で公開され、徹底的に議論される。開発場面の当初から「コメントください」(Request For Comments)というタイトルで叩き台が提案され、ネット上で公開討論に付した後に仕様書として確定してしてゆくという意思決定方式は、徹底した草の根民主主義である。

この方式は、インターネット草創期のARPAネットが開始された一九六九年からずっと続いている。ハッカー倫理がよくあらわれた作法だ。一九九四年に創設された、ウェッブの仕様を決定する組織W3C(World Wide Web Consortium)もこのやり方をとっている。


■オープンソースとハッカー倫理

その意味で「先住民文化」は今なお現役である。とくにリナックスの成功は、ガバナンス原理によるハッカー倫理(ハッカー精神)の成果というほかない(ペッカ・ヒネマン他『リナックスの革命』安原和見・山形浩生訳、河出書房新社、二〇〇一年)。

その先行モデルとなったのはGNUとBSDである。GNUはユニックスのソースコードの非公開化(商業化)に反対してフリーソフトを作成し公開するプロジェクトであり、BSDも商業化に対抗してフリーのユニックスの開発拠点になったプロジェクトである。

エリック・スティーブン・レイモンドの『伽藍とバザール』(山形浩生訳、光芒社、一九九九年)が指摘するように、リナックスはこれらの伝統を参照しつつ、バザール的に完成度を高めてきた。リーナス・トーバルズ自身の語りによる『それがぼくには楽しかったから』(風見潤訳、小学館プロダクション、二〇〇一年)によると、これらの動きを一元的にとらえることはいささか乱暴であるようだが、開発者たちの「フリー」かつ「オープン」なマインドを重視する独特の文化があったのはたしかである。それがハッカー倫理であり、オープンソースの運動なのである。そのガバナンス原理が、ネット全体の市民主義の歴史的前提にあり、かつまた理念的モデルとして裏支えをしてきたのである。


■自我とネットと市民主義

こうした文化的前提があったからこそ、ネットは、たんに技術的に構築された情報空間ではなく、独特の市民主義文化を理念的モデルとする文化的空間として、私たちの前に立ち現れたのである。大公開時代はその当然の帰結であったし、多くの人たちがネット上でのつきあいの中で「市民主義的転回」とも言うべき自我形成(「大人のなり方」)を自己言及の快感とともに体験できたのも、一連の歴史的前提をもつこの社会的特性のなせるわざであった。そして、このような文化的体験を経て成熟した人たちが、ネットを苗床にして、日本社会に新しい市民文化をつくり始めたということである。この創造的局面こそ、ネットの新しさであり、「ネットらしさ」として語られることになったものなのである。

しかし、これまで述べてきたストーリーをもつネットの市民主義的文化は、日本の場合、インターネット大公開時代が始まって、ほんの数年で「離れ小島」のようになってしまう。ネットの普及がもう少しスローペースで、集団的学習過程がじっくりおこなわれつつ量的拡大が生じれば良かったのだが、じっさいには初期採用者の数と比べものにならない大量の人たちが一気にネットに参入することによって、ネットの市民主義的文化はなし崩し的に孤島化するのである。そして、ネットの特性のひとつひとつが裏目に出る時代になる。量は質に転化する。ネットに参加する人たちの量がネット文化の質を変えてゆく。そしてメビウスの輪のように、表をたどっているうちにいつの間にか裏をたどって、ネット文化は別の顔をもつようになる。

『インフォアーツ論』第二章 メビウスの裏目──彩なすネットの言説世界

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第二章 メビウスの裏目──彩なすネットの言説世界

¶一 〈インターネットの導入=市民主義的転回〉構図の崩壊

■ネット先住民文化の孤島化

前章では、大公開時代における駆動的な理念モデルだった市民主義的ネットワーカー像を確認した。このような「オープン」で「フリー」な文化はじっさいにあったし、一見そうでないような場所においても、多くの人たちからモデルとして参照されたのである。

しかし、これらの構成要素はもともと限定性をもっていた。

第一に、技術エリート主義的な色彩をもっていたこと。よく指摘されることだが、インターネット先住民は基本的に大学や研究所などに在籍する技術エリート集団である。かれらのライフスタイルがカウンターカルチャーだったりカジュアルだったりするのも、それでいて一種の品性をもちえたのも、エリートあるいは専門家ならではの文化現象なのである。

第二に、ネットワーカーでない「ふつうの人びと」を外集団(ソト)として設定した、プライドや優越性を前提とする市民性でもあったこと。技術エリートでなくても、当時はネットワーカーであること自体が稀少性をもっていた。それなりに進歩的かつ理知的な人間であるとの自己認識を共有できた。それゆえ、それらの人たちのあいだには内集団(ウチ)としての信頼が存在していた。だからこそ、何事につけオープンにできたという側面がある。

このような限定的性格はいともかんたんに突破されることになる。先端部以外のネットにおいては、そういう文化を知らないか、あるいは共有できないか、共有する意志のないきわめて多数の人びとや組織が参入する中で、なし崩し的に「先住民文化」は忘却され、一時期多くのネットニュースやメーリングリストで繰り広げられたように、クレームの標的にされたり過去の遺物あつかいされることになる。

つまり、インターネットの前提的な思想は「先住民」の技術思想と一種の自主管理思想に基づいているが、次にやってきた「パソ通あがり」の人びとは「BBSの文化」にしたがって動くことが多かった。「BBSの文化」が何かというと、ニフティサーブや草の根BBSをその代表として言うと、基本的には「匿名の遊戯的文化」ではないかと思う。もちろんBBSでも「先住民思想」を継承したフォーラムや電子会議室もたくさんあったが、しかし、多くのゲストは匿名で参加しており、遊戯的感覚で臨んでいた。BBSは基本的に管理された組織的空間だから、参加者はその埒内で好き放題に発言したり自分を表現したりできるわけで、シスオペという名の「先生」に反抗する楽しみもふくめて、学校の中の自由みたいなものを満喫できた。

それを何でもありのインターネットでやってしまうと、統制主体がないから、数にまかせて好き放題のことができてしまう。それが今のインターネットをそこそこ盛り上げているところでもあり、逆に、暗澹たるテキストを氾濫させている要因にもなっている。見方を変えると、そもそもガバナンス原理が市民主義的ネットワークを生むとはかぎらず、まったく逆にネオナチ的ネットワークをも生み出しうるような、生々しいコミュニケーションを呼び寄せることになるわけである。

そこに「ふつうの人びと」がおそるおそる、しかも大量に参入してきたわけで、この人たちは実社会ではそれなりの常識ある人びとだから、それぞれの世間の行動基準で動くことが多い。学生だと学生の世間があり、ビジネス系の人にはビジネス界の世間があり、専門家には専門家の世間がある。常識もさまざまだ。その多様さというのは「ふつうの人びと」の多様さに他ならない。

図式的にまとめれば、この七年間というのは、インターネットの導入が人びとに市民主義的転回の機会を広げたとともに、その力を一気に失ってしまう過程なのである。換言すると、人びとが自由かつ対等に、しかも品位をもって交際し、理性的な世論を集合的に組み立てていくような市民的公共圏が孤島化する過程なのである。

その潮流がある程度定着して一段落してみると、今度は解決すべきさまざまな問題が山のように放置されていることが見えてきた。もはやインターネットを語る人たちの目線は、著作権問題や犯罪・自殺への荷担、有名サイトへのアタックやウイルスの脅威、そして人権侵害などのダークサイドに注がれている。


■ガバナンス原理の裏目

ここでガバナンス原理に立ち返ってみよう。

(1)ボランタリー・コミットメント、ボトムアップ

(2)非営利性・公益性

(3)開放性・可塑性・連結ネットワーク性

(4)情報透明性・説明義務

(5)ピア・レビュー(仲間内の評価)

すでに見たように、これらは市民主義として総称できる新しい集団原理として語りうるものである。しかし、何ごとにつけ、表裏一体、アンビヴァレントなもの。どんな行為にも理念があるが、それは予期通りの結果を生むわけではない。また、同じ行為でもコンテクストによって意味が変わる。ネットのダークサイドも、じつは同じことの裏側と考えた方が近い。

これらを裏目にするコンテクストのおもなものは、おそらく次の三点だろう。匿名性、統制主体の不在、大量性。これらがガバナンス原理の暗黙の前提を崩してしまうのではないか。

第一に、匿名性。ガバナンス原理の前提は実名性である。インターネットはその先住民文化においては実名性の上に成立する文化だった。しかし、その原則は崩壊した。個人サイトにせよ掲示板での発言にせよ、個性豊かな固有のハンドル名を使用する場合はまだいい。発言の同一性が確認できる。しかし、だれもが「名無しさん」では、どうしようもない。こういう場所において実名で発言する人は当然いなくなる。同じことが匿名でなされると、とたんに実名発言は脆弱かつ危険な行為に転化してしまうからだ。もともと実名をオープンにするのをきらうのは自分を脆弱にするからだ。しかしオープンにしないとコミュニケーションの誠実性は失われ、信頼性を担保できなくなる。

匿名批評がひとたび流通してしまうと、ふつうの神経をもっている人であれば、実名で何もできなくなってしまう。その点で匿名掲示板の罪は大きい。しかし、そもそもニフティがパソコン通信時代にそれを広めたのだから、これらは商業主義のまいた種がすくすくと育っただけなのだ。一度味わった透明人間意識は元には戻らない。

もちろん匿名にも意義はある。ニュース記事も匿名である。日本の新聞で署名原稿は最近のことだ。内部告発も匿名でなければむずかしい。内部告発は組織の裏切りでもあるが、社会全体に対して誠実であろうとする行為である。ネットにおいても匿名であることが一定の効果を収めることもある。業界問題のディスカッション・グループでは、匿名であるからこそ語れるような情報や見識と出会うこともそれなりにある。しかしそれを過大評価できるかどうか。少なくとも、発言に責任をとる人はそこにいないのだ。


■共有地の悲劇、あるいは銭湯的民主主義の社会的ジレンマ

第二に、統制主体の不在。匿名主義のパソコン通信がそれなりに成果を上げてきたのは、匿名でありながらも、シスオペやモデレーターと言われる管理者が組織され、技術的な権限とともに、いわゆる議長権限も与えられてきたからだ。そのこと自体によるトラブルも多々あったと記憶しているが、多数の人たちが集合しているときには何らかの交通整理やコーディネイトが必要である。

そうしないときには、ある種のボス支配が生じる。誠実でまめな仕切り屋さんが登場すればいいが、断定口調で頻繁にアクセスする人がいると一種の恫喝的支配になるケースが多くなる。対等であるがゆえに、ルールを守る人間がまめな無法者を跋扈させるという社会的ジレンマが生じるのである。

統制主体の不在は一見して民主的空間に見える。しかし、それは銭湯のような裸の民主的空間であって、だれかが勝手に必要以上に水を足して湯船をぬるくしてしまえば、あとから湯船に入る人には不快なことになる。ミクロな環境問題が生じるのである。掲示板などで荒れた強気の文体が一定の効果を収めてしまうと、他の参加も競ってそうした文体を採用して覇を競うことになりがちである。どこの大学でも、音楽や画像のダウンロードを大量にする人たちのためにトラフィックが増大し、つながりにくくなるという現象が生じているが、こういう環境問題特有の「共有地の悲劇」が生じているということだ。つまり、個人個人にとっては合理的な行為が共有の資産を台無しにしてしまう現象が生じる。その結果、個人個人にとっての環境が劣化する。


■極端な並列性

第三に、大量性。規模の問題、量的規定性の問題というのは、質の問題である。

ガバナンス原理では参加者は対等な個人としてあつかわれる。それが小さなコミュニティの場合(たとえばローカルなメーリングリストや高度な技術に関するニュースグループ)は、それがうまく機能して「ネットらしい」効果が得られるかもしれない。しかし、現在のようにどこでもそれなりに規模が大きくなると、それは極端な並列性を現象させる。少し前の単純なロボット型サーチエンジンにおける検索結果のように、月もスッポンも同列に並び、結果的にすぐれたコンテンツが埋没する。

公開メーリングリストでも掲示板でも、参加者が多いと認識されている場合は、人びとは自発的かつ能動的に発言することを控えがちである。その結果「少数の発言者と多数のオーディエンス」という構図ができやすい。ネットが、それとしばしば対照的に論じられるマス・メディアと同じになってしまう。それが意味することについては後論で論じよう。

メビウスの輪は表をたどることで裏側になり、かと思うと表になっていたりする。当然、今は、このような両義的な空間としてネットを眺めることから始めなければならない(吉田純『インターネット空間の社会学』世界思想社、二〇〇〇年。遠藤薫『電子社会論』実教出版、二〇〇〇年)。


■メディア論に立ち還る

ネットはテクノロジーの革新として議論されることが多い。しかし、それが必ずしもコミュニケーションの革新に直結するとはかぎらない。もちろんネットの場合、テクノロジーは重要だ。しかし、それが重要なのは、巷間流布している技術決定論が主張するような「これこれのテクノロジーがこのように社会を変えます!」式ではなく、ユーザーたちがその技術をどのように理解しているか、どのように使いこなしているか、ということである。社会的現実の構成要素としてはそれが重要なのである。

インターネットの歴史においても、メーリングリストのように、技術的な知識の共有のために開発された技術が、結局、日々のよしなしごとやおしゃべりにさかんに使われたということがあった。技術はその内発的な論理(できそうなことを開発する)や経済的な動因で進もうとするが、その受容のされ方によっては思いがけない方向に展開することがあるし、そうした技術の絶え間なき進歩が人びとを分断するということもある。

ユーザーたちがネットにまつわるさまざまな技術をどう理解して実践しているかに注目すること。これはメディア論の基本である。その意味で、メディア技術の内部および技術者集団の視点から語る情報科学やコンピュータ・サイエンスといったものではなく、メディア技術の外部環境(ユーザーを含む)から社会的に理解しようとするメディア論に立ち還って議論することが今は必要だと私は考える。

そこから現状を見ると、今のネット文化は、意外に古めかしいコミュニケーションの集積であると言えるのではないか。つまり、ちっとも「ネットらしく」ないのである。これが本章で私が主張したいことだ。

第一に、ネット上のコミュニケーションは、微視的には「流言」つまり「うわさ」として理解できる。これはつまり、ネットの技術をユーザーたちは自分たちの身の丈にあった「うわさ」というやり方で消化して活用しているということだ。

第二に、ネット上のコミュニケーションのもつ力は、巨視的には「マス・コミュニケーション」の影響力として理解できる。じっさいネットはマス・メディアにきわめて近い受容のされ方をしている。ここでも人びとはネットを、これまで慣れ親しんできたマス・メディアに準じた活用をしている。

この観点から、両義性に満ちたネットの実態を理解し直してみよう。それは身近なネット文化を距離化する上で有効な戦略だと思う。


¶二 即興演奏されるニュース


■可視性に優れた流言

まず、ネットは、外部からの可視性に優れた流言である。長く記憶をとどめ、検索され、たえず引用されつづけるうわさである。こう理解すると、ネットに対する過剰な幻想も抱かなくなるのではなかろうか。ただし、ここで言及される流言についての社会学理論は、一般の常識的イメージとは著しく異なっている。

常識的には、うわさは「連続的伝達における歪曲」と思われている。人から人へとクチコミで伝達されるプロセスにおいて内容がしだいに歪曲されてくるといった「伝言ゲーム」のイメージである。しかし、この分野のスタンダードな研究となっているタモツ・シブタニの『流言と社会』によると、流言とは「あいまいな状況にともに巻き込まれた人々が、自分たちの知識を寄せあつめることによって、その状況についての有意味な解釈を行なおうとするコミュニケーション」(タモツ・シブタニ『流言と社会』広井脩・橋元良明・後藤将之訳、東京創元社、一九八五年)である。この定義から、流言は「即興演奏されるニュース」(improvised news)であるという。

ポイントはふたつだ。うわさは「話」ではなく「人びとの相互作用のプロセス」だということ。人びとがそれを語るという行為の時系列的集積と空間的集積が流言なのである。おそらく流言の大海に浮かぶ島の海岸の岩に結晶した塩のようなものが、よく耳にする巧妙なうわさ話や都市伝説なのだろう。

もうひとつのポイントは、問題解決のための集合行為であるということ。つまり流言が大量発生するケースは、たいてい問題状況があって、人びとはそれに対して実態がわからず不安を覚えたり、善悪の判断に悩んだり、次の行動に移れないもどかしさを感じている。そのような問題状況に対して「ああでもない、こうでもない」と寄って集って解釈をいろいろに試行してみて、それなりに納得のできる解釈なり情報を集合的に構築する過程が流言なのである。その副産物として、さまざまな憶測や思いこみなどが即興演奏されるというわけだ。

シブタニによると、「それについて知りたい」というニュース欲求が、マス・メディアや公式組織による制度的チャンネルで供給されるニュース量を上回るとき、うわさが生じやすいという。どういうときかというと、たとえば災害によって制度的チャンネルが全面的にマヒしたときや、検閲や特定集団によるメディア支配によって制度的チャンネルのニュースが信頼できないとき、そしてあまりに事件が劇的なのでニュース欲求が飛躍的に高まったときである。そういう状況に直面して人びとが環境把握のためにおこなう集合的な解釈の試みが流言であり、人びとが共同して即興の状況解釈をおこなうのである。その意味では病理的な現象ではなく正常な合理的現象である。

ネットにおけるコミュニケーションは、大なり小なりこのような流言の性質をもっている。それが一般の流言とちがうのは、そのコミュニケーションのプロセスが掲示板やウェッブ日記やメーリングリストにストックとして残るということと、そのため第三者が接近可能だということだろう。もともとローカルなうわさというものは第三者には体験できないし知り得ないものだが、ネットではちがう。私がネットを「可視性に優れた流言」と見るのはそのためである。


■問題解決のコミュニケーション

曖昧な問題状況に明確な解釈を与えるという「解決」のプロセスは、少なくとも形式的にはガバナンス原理そのものである。自発的かつ無償で参加し、ボトムアップで意見を積み上げてゆき、仲間内で評価しあうのだから。このプロセスのなかで、人びとはさまざまな参加の仕方をする。「伝達者」「解釈者」「懐疑者」「主役」「聞き役」「意思決定者」というように。環境になんらかの変化が生じると、その問題状況に対応するために、これらの役割を担った人びとが活発にコミュニケーションをおこなう。その結果として、無数の「ことばとしてのうわさ話」が成立するわけだ。

ネットでは、このプロセスが丸見えである。この情報構築過程は、科学的知識のように経験的に検証されたものではないし、ジャーナリズムの供給するニュースのように組織的に構成されるのでもなく、宗教の教義のように一貫した絶対的相貌で立ち現れるものでもない。しかし、それは愚かな人たちの所業ではなく、それなりに知性の集合という側面がある。掲示板やメーリングリストでの議論の流れがそうであるし、特定テーマのリソースリストにそって個人サイトを回遊するさいにも、この構築過程を目撃することができるし、しばしば私たちはそこに参加する。


■なぜ極論に流れるのか

しかし、ひとりひとりはそれなりに冷静で見識ある人だとしても、ガバナンス原理によって集合的に言説を積み上げるとき、しばしば保守的な常識や悪意ある偏見や嫌悪感情が露骨に現象することが多い。どう見ても見当ちがいな「結論」にたどりついているケースも多々ある。正反対の極論が拮抗している場合も少なくない。これはなぜなのか。

ネットの場合、客観的事実や公正な評価ではなく感情的な落としどころに落ち着く傾向がある。情報のやりとりと見なすのは誤りである。それは、感情の社会的配給装置なのである。つまり、人びとがネットで得ようとしているのは何らかの感情的解決ではないのか。

たとえばネット上で極論が優位を占めるのはなぜか。社会学や社会心理学ではこの種の研究が盛んで、多くの論文が出ているようだ。ただし、いささかミクロな事例研究が多い。その中で比較的マクロにネットの社会心理を整理して論じたものとして、パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』(川浦康至・貝塚泉訳、NTT出版、二〇〇一年)が参考になる。ちなみに私は、ネットの分析は一から始める必要はなく、既存社会についての分析枠組みや研究成果を応用できるとするウォレスの立場に賛成だ。ネットを現世ではない別世界と想定する根拠は薄いと思う。

ウォレスによると、ネット上の議論で中庸意見が欠けがちな理由として「リスキー・シフト」(正確には「極端な方向へのシフト」)があるという。人が集まって話し合うと、その前に各自がもっていた中庸な意見が極論に傾く傾向があって、これは各自がその集団を意識していると、より高まるという。したがってネットの場合も、その討論の場が集団的なまとまりをもっているとき、人びとはそこでの議論を通して極論に進みがちだということだ。さらに、ネットでは、どんなテーマでも、どんな風変わりなことでも、自分と同じ考えの人を見つけやすく、またいっそう極端な意見も表明されているものなので、自分の意見の正当性を過大評価してしまうのだろうと思う。

こうして裁判官のような語りが横行するのである。ものごとを有罪か無罪かで決めつける言説が跋扈する。洗練された表現を借りると「一回ひねりの二元論」が幅を利かせる(糸井重里『インターネット的』PHP新書、二〇〇一年)。

このリスキー・シフトのロジックは、なぜネットで論争や口論が絶えないのかも説明してくれる。つまり、集団的議論によってメンバーがより極論化すると、排他的な極論Aと極論Bとのあいだに摩擦が生じるのは当然の流れである。


¶三 マス・メディア化したネットの影響力


■オーディエンスの多さがネットをマス・メディア化する

ネットは、巷間言われているようにグローバルではなく、本質的にはローカルなコミュニケーションを誘発するものだ。だからこそ、前節で確認したように、ネットの言説世界を流言現象として理解できるのである。しかし、ギャラリーが多いせいで、活発な相互作用性が失われてしまい、その結果、実質的にマス・メディアに転化している場所も多くなった。有名サイトや巨大掲示板などは今やマス・メディアに限りなく近い。どこも読者の数は相当数に上るはずである。研究者はついネット特有の特性に着目してしまうが、ネットと言えども案外マス・メディアと同様の影響力を発揮しているのではないか。それを指摘する研究も若干ながら出始めている。

このように考えると、ネットの言説世界を流言の視点から見ることができると同時に、マス・メディアとして見ることも可能であると言えよう。とすれば、マスコミ研究の影響力理論を借用してネットの影響力を論じることができるのではないか。これが本章でのふたつめの論点だ。ここでは、沈黙のらせん、培養効果、第三者効果、情報過多による情報操作、メディア・ホークスといった理論を参照して、ネットの言説世界にありそうなものを見ていこう。

これらはマス・メディアが独自のリアリティを構築したことによって受け手にもたらしたとされる影響である。ネットではふつうの人びと(従来の受け手)が送り手の役割を取って同様の世界を構築しようとしているにすぎない。この観点からの研究は意外に少なく、詳しい検証が必要だが、ある意味ではどこまで行っても検証できたとは言えないような対象でもあるので、ここではむしろ天下り式に論じたい(何でもありの多様体のネットに関しては例外や反証はいくらでもみつかる!)。


■沈黙のらせん

まず前節とのつなぎもかねて、ネットにおける「沈黙のらせん」(spiral of silence)から始めよう。これは、世論形成とメディアの関係に関する有名な理論の名前である。ノエル−ノイマンが七〇年代に提案して、その後も発展してきた理論である(Elisabeth Noelle-Neumann『沈黙のらせん理論[改訂版]』池田謙一・安野智子訳、ブレーン出版、一九九七年)。

その発想の始発点は「孤立への恐怖」である。私たちは何か共通の話題について話すときにはいつも慎重だ。たとえば会議の席で一番最初に発言するのは避けたいと思う。満員の電車の中で政治や宗教の議論をするのもやめておきたい。なぜなら、自分の意見がその場に居合わせた人びとに受け容れられない少数派の意見かもしれないからである。それを言ってしまえば自分は孤立する。

だから、私たちは最初にじっと様子を見る。みんながどのような考えを持っているのかを探る。会議やミーティングの場合、司会から指名された人たちの発言やそれに対する人びとの反応を確認できるようになると、人びとはぽつりぽつりと発言を始める。自分の意見が多数派だとわかるからだ。

逆に、自分の意見が少数派であると認識した人は沈黙する。へたに発言したら孤立するからである。もちろん、孤立をおそれない確信の人は発言する。これを「ハードコア」という。しかし、他者との関係に敏感な人は沈黙するのがふつうである。

つまり、多数派と見られた意見をもつ人たちは積極的に発言するために、その意見はますます多数派に見える。逆に少数派と見られた意見をもつ人たちは発言を控えるようになるので、その意見はますます少数派に見えてくる。発言されない意見は客観的には存在しないのと同じなのだから。こうして、多数派の意見はますます多数派に見え、少数派の意見はますます少数に見えるという「らせん」運動が始まる。


■ネット世論はなぜ偏向するのか

このらせん運動の問題点は、じっさいに人びとの意見の分布とは関係なく「多数派意見なるもの」が増幅していくことだ。そこに居合わせた人の二割しか支持していない意見であっても、たまたま複数のハードコア(確固とした意見の持ち主)が先行発言して意見風土(意見の風向き、雰囲気)をこしらえてしまうと、あとの八割近くは沈黙してしまうということだってありうる。しかも、人びとは自分の意見を多数派に合わせて変更するとはかぎらない。さしあたりは、ただ沈黙するだけである。

では、意見について、人びとは何をもって多数派か少数派かを判断するのかといえば、それは圧倒的にマス・メディアである。マス・メディア上に流通しているコンテンツを参照して、人びとは自分の意見を発言するかどうかを決める。じつはここにこそマス・メディアの影響力の実体が存在するのであって、メディアが「右向け右!」と叫んだところで人びとが右を向くわけではないし、洗脳されるわけでもない。人びとはあたかもシニカルな批評家のように、それを参照して、もともと右向きの人たちは自信をもって声高に持論を発言し、左や上を向きたい人たちは黙って様子を見るだけである。

ネットの言説世界についても、同様のことが言える。メーリングリストや掲示板などで一部の常連が極論を提示することで、それと同じ意見を持った人たちは同調的な意見を述べやすくなり、一定方向の意見風土をこしらえてしまうと、その反対意見や中庸意見の人たちは自分の意見を言いにくくなる。一見して自由な討議が行われているようでいて、ひどく偏った論調が続いたりするのは、じつはこのメカニズムによる。

その結果として現出するのは、個々の掲示板なりメーリングリストにおけるローカルなネット世論が劇的に転回して、あるときは一方に押し寄せたかと思うと、次の瞬間には一気に引くという極端な揺れである。人びとの意見の分布にはおそらくあまり変化がないにもかかわらず、ネット世論は大きな振幅で激しく極論に揺れがちである。その意味では、意見の対立が生じて論争の泥沼に陥るのは、むしろ健全なことなのかもしれない。

さらにマクロに眺め直せば、無数のディスカッション・グループの大小関係がけっこうものをいうことになる。つまり、ギャラリーの多い場所が、意見の優勢・劣勢の判断基準に使われがちだということだ。ギャラリーの多い場所での意見の動向を見て、人びとは自分の手近な発言場所で強気の意見を述べたり、逆に(少数意見らしいとわかれば)控えたりする。その結果、ギャラリーの多い場所でのネット世論がますます多数派と見なされて勢いづく一方で、そこでの少数意見はますます沈黙を余儀なくされる。ネット世論を見るときは、このメカニズムを強く意識しないと、実態を見誤ってしまう。


■議題設定機能

世論の動向に与えるマス・メディアの強力な影響として「議題設定」がある。これは、メディアが特定の争点を大量に報道することによって、人びとがそれを「今考えるべき問題」と捉えるという影響力である。特定の意見が影響をもつのではない。「大量に語られている」ということ自体が認知的影響を与えるのである。つまり、人びとはニュースに接して自分の意見を急に変えたりしないが、あちらこちらでその問題がさまざまに取り上げられているのを見て、「ああ、今議論しなければならない話題はこれだな」という具合に、影響を受けるというのである。「どう考えるべきか」ではなく「何を考えるべきか」についてマス・メディアは強い影響力をもつというわけだ(マックスウェル・マコームズ他『ニュース・メディアと世論』関西大学出版部、一九九四年。竹下俊郎『メディアの議題設定機能』学文社、一九九八年)。

ネット言説の世界でも「議題設定」の役割は大きい。テーマを限定しない巨大掲示板であれば、管理者がどのようなテーマの「板」を設定するかで、人びとはそれを「議論すべき問題」と認識する。議論の土俵が決められてしまうのである。これはつまり、項目が立てられていないかぎり、それは「問題」と認識されにくいということである。他の問題に気がつかないという認知的影響こそ、意識されにくいが、じつは大きな影響力なのだ。

さらに、どういうスレッドを立てるかによって、ローカルな議題設定がなされる。それは特定のテーマに問題性を刻印する行為になる。当然、ここには設定者の意図があるわけだが、プライミング効果といって第一印象があとあとまでずっと尾を引くことを、多くの常連は経験的に知っているようだ。マス・メディアと同じように、ネットの言説空間でも「仕掛け」「やらせ」「仕込み」はある。週刊誌の手法だが、極論で議題設定して反論を呼び込み、言及や意見表明の数を増大させて「問題」を構築する仕掛けである。

参加者たちは、それぞれに自由に意見を述べあっているように見えるが、リスポンスのよい人ほど(あるいは感度のよい人ほど)この影響にはまる。


■第三者効果

マス・コミュニケーション理論には「第三者効果」という仮説もある(W.Phillips Davison, The Third Person Effect in Communication, in: Public Opinion Quarterly 47, 1983)。これは、人びとが、マス・コミュニケーションが他者の態度と行動に対してもつ影響力を過大評価しがちであることを指摘している。つまり、ニュースの報道の仕方などを見ていて「自分はそうでないけれども、他人はこれに影響を受けるだろう」と見積もる傾向があるということだ。

さきほどの「沈黙のらせん」と考えあわせると、人びとはメディアの影響を直接は受けないのだけれども、他者や世間や社会はメディアの提示する論調や意見に沿って動いていくだろうと考えて、自分の態度や行動を修正するということだ。

ネット言説の世界でも、こういう傾向があるのではなかろうか。ネットの世界では、人びとの意見が直接表明されていると見なされているわけだから、自分はそうではなくても、他の人たちは影響されるだろうと考えて、それに対応した態度を取る。つまり、自分意見が少数意見であると判断して沈黙したり、自分にはそれほど重要でない問題について好意的なニュアンスで発言をしたりする。ネットでの突飛な発言が意外に反発を受けずに紳士的対応を受けて否定されない現象などは第三者効果で説明できる。


■賢明な市民ゆえに落ちる陥穽

マス・メディアにせよ、ネットにせよ、メディアの影響力は、受け手なりユーザーなりが賢明でないことによって生じるのではない。むしろ世の中のことを冷静に注意深くウォッチしようとしている賢明な市民たちこそ、メディアのつくる落とし穴にはまりやすいのである。たとえば、人びとは賢明でシニカルな批評家としてメディアの言説を参照することで、沈黙のらせんに取り込まれて(参加して?)しまうのである。

こうした傾向は以前から大なり小なり存在したと思う。けれども、日本ではっきり出るようになったのは一九九〇年代からではないだろうか。政治にせよ経済にせよ、従来の常識が崩れ、とまどいながらも自分の意見をもちたい人たちはいる。無党派層の多くがそうだろう。この人たちは組織やイデオロギーにとらわれない賢明な市民である。しかし、それゆえにこそ、この人たちは「クイズ100人にききました」的動き方をする。自分がどう考えるかではなく、他の人たちがどのように考えるかを評論家的に予想することが日常的なテーマになってしまうのだ。既成の常識が崩れているだけに予想はしばしば大穴をあける。それだけに他者の意見と評価に対してみんながみんなナイーブになっている。そういう影響を受けているという自覚がないのが一般的だろう。人びとはメディアの影響というものをそういうものと考えていないので、自分は埒外にいると思いこんでしまう。

このような影響力のありよう自体は、いいことも悪いこともある。今度はそれをジャーナリズム論を参照して考察していこう。


¶四 民衆ジャーナリズムとしてのネット言説


■調査報道、内部告発、ちくり

ネットが、ギャラリーから見るとマス・メディアであり、一定のジャーナリズム機能を果たしていることはまちがいない。ちがうのは、その担い手がプロの組織でないことだ。

ジャーナリズム論の世界では「民衆ジャーナリズム」という概念があって、プロ組織による支配的マス・メディアに対する代替的ジャーナリズムとして、おおむね肯定的に語られてきた。しかし、ネット言説の世界では、相互にリンクされた個人サイトであれ、大小さまざまな掲示板やメーリングリストであれ、すでにそれが実現してしまっているのだ。

理念的には、それは画期的なことである。ある出来事に対して、ネットの世界では、すぐに速報が流れるし、当事者の内部告発、現場に近い人たちの状況報告、それに対する分析などが流れてくる。企業に関するニュースなら社員が内部告発するケースもあるし、災害現場に近い人が目撃したことをいち早く伝えるなんてこともある。ジャーナリストが手間ひまかけて調査報道するようなことが、ネットではいともかんたんに実現できているように思うケースもある。

しかし、同時に「民衆による自発的なジャーナリズム」がそれほど理想的なものでないことも、いやというほどわかってきている。

その典型が少年犯罪の犯人探しだろう。報道各社が自主規制して報道しない事柄について、現場に近い人たちが情報を持ち寄り、個人を確定し、その周辺情報を集積する。これは公式チャンネルが提供する以上のニュース欲求に応える能動的なジャーナリズム活動であり、シブタニが流言現象について指摘した「補助的チャンネル」そのままである。

ここでは「民衆による自発的なジャーナリズム」が実現しているにもかかわらず、ジャーナリズム論的にこれを素直に評価できるだろうか。

このプロセスでは、報道各社があれだけ気を配っている人権の問題が顧慮されない。偏見に満ちた憶測やまったくの事実誤認や思い切りだけがよい断罪が横行し、だれもそのウラをとれないまま放置されていることが多い。そもそも「ウラをとる」というジャーナリズムの基本義務を遂行しなければならない職業的責任主体はいないのだ。


■メディア・ホークス

ジャーナリズム論では、こういう現象を「メディア・ホークス」(Media Hoax)と呼ぶ(渡辺武達『テレビ[新版]』三省堂、二〇〇一年)。問題点は少なくとも三つある。

第一に、意図的な情報操作に対して非常に脆弱な構造になっている。情報操作の手法としては、大量に情報を供給することで議題設定し、対抗言説を沈黙のらせんに追い込むことである。大量に書き込む人には注意しなければならない。自尊感情のための発言もあるが、特定の意図をもっている人たちもいる。それに対して読み手としては相当に批判的な解読力と吟味力が必要となるはずである。しかし、それにはそれなりのトレーニングが必要だ。

第二に、書き得効果が生じること。とくに発言の責任をとらせにくい匿名掲示板ではそうなる。あることないこと、さきに書いた方が勝ちである。たいていの場合には、それなりに見識のある発言がなされて、誤った憶測などは整理されていくようであるが、ゲートキーパーの不在による無編集情報であるから、憶測や誤報が放置されることも多々ある。

それからプライミング効果と言うのだが、ニュースは第一印象が非常に大きい。湾岸戦争時の油まみれの水鳥の写真が「フセインの環境テロ」の象徴として報道されてしまうと、その後、それが違う経緯で油まみれになったものだとわかったとしても第一印象は変わりにくいのである。掲示板などでも前から順にスレッドをたどると、最初に断定されたことには書き得効果が生じる。これを味わうと、何度もこの効果をねらう人がでてくるのである。

第三に、人権侵害と偏見の助長が生じていること。「人間は認知的倹約家であり、印象形成に要する時間を節約するため、非常に素朴なステレオタイプや社会的カテゴリーを常に利用している。」(ウォレス、前掲書、七三ページ)これは自他ともに言えることだろう。ネットの言説世界は、少数派にとって非常に肩身の狭いところでもある。マッカーシズム的な発言が延々と続く。社会心理学では「脱制止効果」といって、モデルとなる人が恐ろしい活動や常識はずれな行動あるいは反社会的行動を取ったさいに何の制裁も不利益も受けないことを目撃した人たちは、以前には抑制していたそのような行動を起こしやすくなる。つまり、そういう行動への歯止めがなくなってしまうのだ(徳岡秀雄『社会病理を考える』世界思想社、一九九七年)。ネット上で「声の大きい人」が露骨な差別表現をおこなっても抗議や非難がされないとわかると、他の人びとも一線を越えて当然という雰囲気が醸成される。そうなると、いわゆる「便所の落書き」的現象が横行することになる。そういう場所は多い。


■彩なすネットの言説世界

以上、ネットの言説世界の構造を「流言」「マス・メディア」「ジャーナリズム」の観点から一覧してきた。これらの既成の観点からネットを見ることの妥当性は、ひとえにユーザーたちが、新しいコミュニケーション・メディアであるネットを、これまで慣れ親しんだ古めかしいメディアやツールとして使っていることに由来する。かぎりなくマス・メディアに近い領域があるかと思うと、かぎりなく流言に近い領域があり、それがときにはジャーナリズム機能を果たすといった具合である。ネットにまつわる新奇性の神話をいったん捨ててみるべきだと思う。

このことは「予言の自己成就」という現象に根拠をもっている。一度人びとがある状況に対して何らかの意味を付与すると、その後の行動やその結果は、その付与された意味によって規定される。つまり、「そういうものだ」と思って人びとが行動することによって「そういうもの」になってしまうということだ。これは、ネット先住民文化においても、あるいは現在の彩なすネット言説世界においても、同様のロジックが作動していると見てよい。

ところで、メビウスの裏目は表目でもある。本章ではおもに否定的な事態を想起して書いてきたが、これらのことがそれなりにうまく運んでいる場所も多い。技術的なテーマや趣味的なテーマや環境問題のように特定のコンセプトをメンバーが共有している場所では比較的ネットらしい成果を上げている。裏目になるか表目になるかは本質的に微妙である。

それにしても、表目という好循環と、裏目という悪循環を決めるのは、いったい何だろうか。双方向メディアなのだから、一部の書き手だけでは決定しない。

ポイントはふたつあると思う。第一に、ネット上の場所に集ったメンバーの資質。第二に、その集団の特性。したがって、ネット上に好循環をつくり、公共圏的な言説世界にもっていくためには、メンバーの資質を高め、それなりの集団形成を意識的にしていかなければならないのである。かつてはネット自身がそういう人や集団をはぐくむ機能を強力にもっていた。ネット先住民の人たちはみんな「そういうものだ」と思っていたからだ。しかし、今はちがう。そういう理念的モデルは孤島化している。

では、どこに希望があるのか。どこが要なのか。

ネットが市民を育てる力を失っているとしたら、それはあえて「教育」しなければならないだろう。それゆえ私は「情報教育」にこそカギがあると考えている。ところが話はそうかんたんではない。

『インフォアーツ論』第三章 情報教育をほどく──インフォテックの包囲網

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第三章 情報教育をほどく──インフォテックの包囲網

¶一 高校情報科という節目

■再生産モード

日本語圏のネットにおいて二一世紀初頭は大きな節目にあたる。おそらく大きな環境変化がこれから生じることだろう。

その有力な分岐点となりそうなのが、二〇〇三年から高校で「情報科」が始まることだ。このまま行けば、日本語圏においてネット文化はこの年から本格的な再生産モードに入る。取り組み方しだいでは、ここを境にネット文化は(良くも悪くも)大きく変質する可能性がある。

そもそも、ある特定の文化現象が一過性のものから継続性・蓄積性のあるものに移行する瞬間は、「それ」が再生産され始めたときである。つまり、教師たちが生徒たちに「それ」を教え始めるとき、人びとを魅了した文化現象は新鮮味を失い、既定性を帯びた常識になる。ベンヤミンが「アウラの喪失」と呼び、ウェーバーが「カリスマの日常化」と呼んだ、あの興ざめの時間に似て、集合的沸騰の記憶もやがて陳腐なクリーシェになってしまうであろう長い時系列が、ネット文化にも訪れようとしている。それが新しい躍動的なネット社会への扉になるのか、それとも、退屈に停滞する管理社会への扉になるのか、今はわからない。しかし、憂慮すべき兆候はすでにでている。


■情報教育は理科教育か?

二〇〇三年「情報科」導入に備えて現役教員の研修が本格的に始まっている。数学や理科の教員に「情報科」の免許をとらせるためである。すでに一部の大学では「情報教職課程」が設置され、頭打ちになった教職免許市場における救世主的存在として各大学から注目を浴びているところだ。準備は着々と進んでいる。

では、じっさいにどのような教育がこれから始まるのか。多くの方はご存じないと思われるので、かんたんに紹介しておこう。

手元に現役教員の研修用テキストのコピーがある(情報コミュニケーション教育研究会編著『先生のための教科「情報」マニュアル』日本文教出版、二〇〇〇年、非売品)。約一万部が配布されたという、情報教諭速成マニュアルである。全体は一五章にわかれている。主要項目を付して、ざっとリストアップしておこう。

1 情報科教育法(指導計画・実習などの考え方)

2 職業指導概論(人材像と就職指導)

3 情報化と社会(情報化の歴史、産業界の情報化、著作権、情報倫理)

4 コンピュータ概論(ハードウェアとソフトウェア、データ通信)

5 情報活用の基礎(コンピュータを介したコミュニケーション)

6 情報発信の基礎(プレゼンテーション)

7 アルゴリズムの基礎(アルゴリズムとは何か)

8 情報システムの概要(情報処理システムの技術)

9 モデル化とシミュレーション(モデルの効用、数理的解決)

10 情報検索とデータベースの概要(データベースの仕組み)

11 ネットワークの基礎(ネットワークの設計運用管理)

12 コンピュータデザインの基礎(知覚における見え、造形の数学的基礎)

13 図形と画像処理(2次元図形と3次元図形、画像変換)

14 マルチメディアの基礎(作品制作)

15 総合実習(CG作成アプリケーションの利用)

当初のふれこみでは理系・文系の枠をこえた新しいカリキュラムとして「情報科」が構想されていたはずだが——そして、このテキストにおいても随所でそのような配慮が指摘されているのではあるが——それにもかかわらず、じっさいの構成としては、一目瞭然、これは理科教育の新しい領土の開拓である。


■情報処理教育への収束

物理や化学が完全に生徒たちからそっぽを向かれ、高校での科目選択制によって、基礎的な科目を高校時代に修めないまま理系学部に入学する時代である。私自身、長年、理工系学部で教えてきたので、理工系教員の嘆きが年々深刻化するのを見てきた。高校までの理数系教育はかなり危機的であると言えるだろう。今回の「情報科」設置は、インターネットを追い風にした、その起死回生策として期待されているのではないか。これが「情報科」のプログラムを見ての最初の感想である。

要するに、私たちは、学校での情報教育が、インターネットの驚異的展開によって再編されつつあるネットワーク社会を生き抜くための知識と知恵を教育してくれるものと信じているが、じっさいは必ずしもそうではないということだ。インターネットとその文化は「おいしい話」として掲げられるだけで、学習内容の大半は情報工学ないし情報科学の伝統的な思想に基づいた技術的基礎知識が占めている。

じつは、最新の情報科学そのものは、最近の傾向を反映して文化学的に拡張されつつあって、そうしたものを「情報学」と呼ぶようになっている。本書の立場もこれである。しかし、現在進められている「情報科」のカリキュラムは、この新しい「情報学」の立場というよりも、むしろ純正(?)コンピュータ・サイエンスが主張を強めたかっこうになっている。つまり、古式ゆかしい情報処理教育である。まるで時間がインターネット以前に逆戻りしたかのようだ。


■ないないづくしの情報教育

そのため、時代錯誤なところがいっぱいあるし、すぐにでも市民的実践力となりうるような情報関連能力の開発について熱意めいたものがきれいに脱色されている。

たとえば、私たちがインターネット文化との出会いにおいて心を動かされた、あのオープン・マインドがない。「コンテンツの時代」と言われて久しいのに、情報機器という「入れ物」の話ばかりで、具体的に中身(コンテンツ)を検討する話がない。だれもが発信できるメディアとして画期的と言いながら、基礎的ツールとしてのエディタの話や、ウェブの公開と更新に不可欠なHTMLの話がきわめて手薄である。もっぱら(高価な)アプリケーション依存型のユーザーを育てたいようだ。したがってシェアウェアやフリーウェアの紹介もない。また、そうしたツールの背景にあるネットの文化的側面について理解させる意欲が希薄である。そもそも現在の情報環境を歴史的産物としてメディア史的に理解しようとする視点がない。技術中心主義まるだしである。

さまざまな人びとの出会いと交渉の文脈で立体的に「情報」を捉えるとすれば、ユニバーサル・デザインと呼ばれる一連の情報支援技術(障害や老化などに対応した工夫)をもっと強調してよいはずであるが、さらっとしたものである。多様な人たちがさまざまな意図によって発信しているコンテンツに対する批判的読みのトレーニングについても、まったくする気がない。そもそもケータイ系端末とのつきあい方への言及がない。また、じっさいに発信者となったときに、どのようにふるまうのが適切なのか、その表現技法(実用文の書き方や国語的側面)の手ほどきをする気がない。これでは、たとえ教育そのものが首尾よく進んだとしても、交通規則を知らないメカ好きの乗った暴走車をネットに大量に送り込むようなものである。

要するに、およそ「インターネット的」なるものが排除されているのである。それは「イントラネット的」というべきものか、あるいはインターネット以前の古式ゆかしい工学的「情報システム」指向そのものである。こんなものを今ごろ高校教育でやってどうするのだろうかと思う。じっさい、このようなコンセプトの教育内容では、有効な授業は成立しないだろう。


■情報教職課程の問題点

こうしてITの掛け声とともに情報教育はたんなる技術教育あるいは理科教育の一分野に矮小化されつつある。それは個人の豊かなコミュニケーション能力を育てるためというより、国家レベルでの国際競争力・産業育成のためということで正当化されるのであろう。

しかし、そもそも情報教育のスタンダードをだれが決めるべきなのか。情報教育の目指す文化目標は何か、人間像はどのようなものか。当初打ち上げられた理想像は、現実の施行過程においてなしくずしに技術中心主義に変質しているのではないか。

それは教える先生の養成についても当然同じである。つまり「情報科」教職もそういう文脈で見なければならない。教職課程高校普通科「情報」担当教員は以下の六項目についての科目を修めなければならないとされている。

(1)情報社会および情報倫理

(2)コンピュータおよび情報処理

(3)情報システム

(4)情報通信ネットワーク

(5)マルチメディア表現および技術

(6)情報と職業

しかし、私が見聞した一ダースほどの大学の教職課程カリキュラムを見ると、主流をなす理工系学部では(1)と(6)はきわめておざなりになっている。申し訳程度にそれぞれ一科目を設置しているところが多かった。スタッフもまた限りなく工学系に近い。逆に、文系学部でのカリキュラムは、それなりにバランスをとろうとしたところが多かった。その結果、情報処理関連科目を大幅に強化している。結果的に「情報科」教職の実態は、工学的な「情報処理科」教職になっていしまっている。どうしてこんなことになるのか。


¶二 インフォテックの政治と経済と教育


■だれが「情報」の専門家なのか

そもそも目指されているのは「ネット文化の再生産」などではないのだろう。あくまでも「情報技術ユーザーおよび情報処理従事者の再生産」なのである。

言論の自由、情報の自由な流通、コミュニケーションの相互性、プライバシーと人権の尊重といった民主的社会の基本理念を前提として「情報」とのつきあい方を学習させるといった程度のことができないのは、要するに、依頼すべき専門家がまちがっているのだ。実務担当になった情報処理の専門家は「情報」のごく一側面についての専門家にすぎないのであって、より広く情報学の専門家やメディア研究者の知恵を集結すべきだと思う。もっと現実環境と向き合う形の教育をするべきではないか。ともあれ、オウム事件の教訓はまったく生かされていない。

今一度確認しておこう。「情報」の専門家が「情報処理」の専門家でなければならない必然性はない。必然性はないのに、あたかも自明であるかのように事が進行している。冷静に考えればわかることがわからないのは、それらが特定の文脈の中に置かれているからである。それは次のような文脈である。


■インフォテックの政治

インターネット・ブームと呼ばれてしばらくたち、それが一過性のものでないことが誰の目にも明らかになったとき、今度は政府の音頭で「IT革命」と呼ばれることになった。

インターネットはたしかに情報技術ではあるが、そこには初期の開発場面から市民主義的な文化が付随しており、むしろインターネットが実現するオープンな市民的コミュニティこそが画期的だったはずなのに、いつのまにか主題が「情報」しかも「技術」にすり替えられている。ここには一方でインターネット的な文化世界の魅力を喧伝しながら、内実においてはその文化的側面に立ち入らず、「コミュニケーションの生々しさ」を脱色しておこうという意図が感じられる。だから無難な「情報」と「技術」に限定されてしまうのだ。ここでセオドア・ローザックの次の指摘がきれいにあてはまる。「情報は、無邪気なよそおいをしているので、目的をできるだけ隠しておきたいと願っている技術主義的な政治的代理人たちにとって格好の出発点となる」(セオドア・ローザック『コンピュータの神話学』成定薫・荒井克弘訳、朝日新聞社、一九八九年)。

政策的に情報技術産業の活性化をねらおうとしているのははっきりしている。沖縄サミットにおいて明確にスタートを切ったこのような「絞り込みの戦略」が政治的なものであることは言うまでもない。これは提唱者たちによって「IT革命」と呼ばれているが、ここでは距離をとって、あえて「インフォテックの政治」と表現し直すことにしよう。


■インフォテックの経済

ひとたび「インフォテックの政治」が始まると、今度はどんなに無縁でいようとしても、上から予算や補助金などがついてきて無視できなくなるし、予算の費目にしばられて、しばしばちぐはぐな設備投資がおこなわれがちになる。こうなると、ネットワーク管理者が雇用され、ときには億単位のシステムが導入されたのに、じっさいにそれを使いこなして文化の創造的局面を開くようなものにならないケースがたくさんでてくる。一時期「だれも使わない滑走路のような農道」が批判されたことがあったが、それとまったく同様に、いったいだれのための投資なのかわからない、結局は付け焼き刃の景気浮揚策にすぎないのではないかと思うケースも散見されるようになった。これは今後急速にふえてくるにちがいない。どの企業も過剰投資を控えている時期なのにふしぎなことだ。

いささか否定的に語れば、「インフォテックの経済」とは、このようなものである。そして、たしかに経済はそれをテコのひとつにしようとしているかに見える。今どきのベンチャー企業で「情報」と無縁なものはほとんどないだろう。大手企業も本格的に「インフォテックの経済」を展開している。キーワードはここでも「IT」である。


■インフォテックの教育

このようなインフォテックの政治と経済の中に私たちの生活がある。それはそれで悪いことではない。問題なのは、何といっても教育現場への導入(すなわち、これから始まる「インフォテックの教育」!)である。

私たちが今きちんと点検しなければならないのは、教育界への情報教育導入が、このような文脈の中で進められているということだ。手短にまとめれば、インフォテックを使いこなせる人材の育成と、インフォテック市場の拡大と底上げのためということになろうか。インフォテック関連産業を担う人がいなければ国際競争力はつかない、インフォテックを使える人がいなければパイは大きくならない、だから公教育で育てていこうという発想である。おそらく経済効果の計算においてそれはひとつの策なのかもしれない。必ずしも正しいとは限らないが。

しかし、それは教育理念として正しいのか。かつてのLL教室やニューメディアの二の舞になりはしないか。掲げられた目的と異なることが実際におこなわれる可能性はないのか。本格的な情報教育が始まる今、それを批判的に考察し、かつ建設的に構想する必要があると思う。

コミュニケーションの生々しさ、対面的な人間関係、個人としての未熟さが「教育」という領域の本質的構成要素である。この点が「政治」や「経済」との大きな違いである。このようなダークサイド的側面(同時にきわめて人間的な要素)がむしろ主役となるにもかかわらず、この荒涼たる教育計画に、そうした配慮が欠けているのはなぜか。


■情報教育という名の植民地化

高校での情報教育についてはこれから始まるのであるから、現時点ではこれ以上論じようがないけれども、先行組として大学での情報教育の実態を参照して、この点について考えることはできる。

大学の情報教育に関しては、じっさいには情報処理学会を中心とする情報工学系の専門家集団が覇権をにぎっている。これが結論である。

たとえば、大学の教養課程や経営学部に「情報」を冠した改組がおこなわれて情報工学系の専門家が大量に流入するようになった。たとえば「社会情報学部」や「経営情報学部」といった名において教養・社会科学・人文学系の学部の情報工学化が現在進行している。一見すると、ユーザーにとってのローテク技術であるインターネットがコンテンツにおいて理系と文系の「二つの文化」(C.P.スノー『二つの文化と科学革命』みすず書房、一九九九年)を統合するかに見えるけれども、従来の工学部や情報科学部に新たに社会学者や哲学者が加わることはめったにないのだ。結局は情報技術分野の専門家支配が構築されつつあるということだ。専門家支配とは、もともと医療社会学の概念で、医療において医師が絶対的な権力を正当に行使できる状態を指す。つまり、情報教育の名の下に、文系教育において情報工学による植民地化が進んでいるのである。

すでに述べたように、現在「情報」担当教員の教職課程が大学に新設されつつあるが、このまま推移すると、情報教育の工学化は決定的なものになるだろう。情報処理学会やその周辺領域学会の政治力には舌を巻かざるを得ない。自ら市場を作り出す情報工学帝国主義である。逆に言うと、非工学系の学会がなすべきことをしていない(つまり「政治」に参加していない)のである。

情報教育を情報処理に矮小化して理解する専門家たちが、そのようなものとして情報教育を設計し、現場教育を担っていくことになれば、インフォテックの教育が支配的になる。そしてだれもそれをおかしいとは思わなくなってしまう。


■巻き返しとしての情報工学的転回

現に、ここで私が「情報工学帝国主義」による「植民地化」といった表現を、やや過激に過ぎると感じる方がおられるかもしれない。だとすると、すでに既成事実と化しているのかもしれない。

なぜこういう事態になるのかというと(あるいは「至極当然のこと」「何がわるいのか」という反応になるのかというと)、これらの動きは情報処理専門家たちにとって一種のリベンジだからである。あくまでも「巻き返し」として、インフォテックの政治と経済が支持され、その上に情報教育が担われているのである。

ここで再確認しておこう。当事者をふくめて一般には、情報科学やコンピュータ科学を十把一絡げにしているが、それは誤りで、内実の思想は二極の対立的な理念的モデルに分かれている。つまり情報科学の専門家集団は、その志向性において大きく二つに分けて見ることができる。

ひとつは情報システム系である。かれらにとってプログラムを組むことがこそが仕事であり、大型の情報システムが相手である。これが伝統的な情報処理専門家集団である。これに対してインターネット系の専門家集団が急速に大きくなってきた。かれらは専門家として一時期不遇であったが、一九九〇年代に一気に力を得た。すでに述べたように、かれらは文化的に特徴的なオープン・マインドを共有していたので、行動様式や価値意識において寛容でフレキシブルな傾向がある。かれらが大公開時代を下支えした人たちである。今日、「情報学」という研究運動もおもにこちら側の専門家たちがメディア研究者とともに牽引力となっている。

かつては「ルーズすぎる」としてインターネットに冷たかった旧来の情報工学主流派はその後、方向転換し、今ではインターネットに積極的に参入している。かれらがそのさい強調するキーワードが「セキュリティ」と「情報教育」なのである。そして両者は連動しているのだ。


■セキュリティと情報教育

もちろんセキュリティは大事である。健康が大事なのと同様に、これはだれも否定できない。ちょうど医療者集団が病気や死のリスクを楯に人びとを近代医療システムに取り込んできたように、リスクをキャンペーンして人びとを囲い込むのが伝統的な専門家集団の常套手段である。その結果が、一気に進んだイントラネット化、そして何重にも封印されるデータ、外から見えない・外に出ようとしない高価なだけのクローズド・システム——しかし、だれも使わない。使われなければ事故も起きないというわけだ。これらは、たんにセキュリティ重視で設計され構築されているのではない。累積された事なかれ主義の産物という側面をもっている。そして、専門家集団特有の行動様式と態度が濃厚に反映している。広い意味での「セキュリティ管理」という名の管理思想が制度化されつつある、と言っていいだろう。

しかし、そのシステムが一般ユーザーにさかんに使用されるとなると、問題は頻発する。

たとえば次のような文章がある。「システムを取り巻く要素で最も脆弱な要素が利用者、特に、一般の利用者である。[中略]この意味で、利用者を適切に教育し、セキュリティに対する意識を高め、さらに、適切なツールやアプリケーションを使うように指導することで、利用者が一種のセキュリティホールになることを防ぐことが可能になる。」(林紘一郎ほか編『IT2001——なにが問題か』岩波書店、二〇〇〇年)

「身体にフィットしたファッション」ではなく「ファッションにフィットした身体」を指向するのと同様に、「ユーザーにフィットしたシステム」ではなく「システムにフィットしたユーザー」が指向されているのをここに見ることができる。情報処理専門家集団の人間観をはからずも表す表現である。情報工学が「教育」を必要とする文脈はここから生まれる。

「高度情報社会が絵に描いた餅にならないようにするためにはユーザー教育が必要である」といったような言説は、一見して「よい傾向」のように見えるかもしれない。あるいは教育という限定された領域の話のように見えるかもしれない。しかし、その内実においては、このように倒錯した意識をはらんでいるのである。


¶三 すれちがう情報教育と台無し世代


■情報教育の矮小化

大学での情報教育の話を続けよう。

大学が情報教育のためにシステムを導入したのちに経験することは、だいたい決まっている。まず、マシンやネットワーク(しばしば不必要に高価なものであったりする)を運用できるノウハウがない。管理する側の学習コストを考えずに導入するために、負担が一部の人に集中してしまう。しかしネットのできごとは、ほぼ現実世界と同じだけ複雑で多彩である。「情報担当」だけで担えるものではない。そこがこれまでの改革と異なるところで、組織全体が「情報担当」にならざるをえないところがあるのだ。ここがなかなか事前に理解されない。

もちろんコンピュータ教室の管理をする専門部門が設置され、こまかな設定運用について外注業者が担当しているわけだが、それはあくまでもインフォテックの側面だけである。それを使用して、つまりパソコン教室やLANを使用して、「何を」教育するのかという点になると、インフォテックな情報処理系教員しかいないのである。特定のアプリケーションやプログラムの実習に矮小化されてしまうのは当然の流れである。他の教員は自分は無関係だと思っている。じつは、これが最大の問題なのかもしれないと私は考えているのだが、これは、ちょうど英語教育において理科系学生が英文学出身の教員にディケンズを教わるのと同型の事態である。


■台無し世代の学生文化

他方、インフォテックで教育される人たちはどうなのか。

そもそも九〇年代後半以降、最も大きく変容したのは学生像である。本質的にはそれまでと連続する部分があるのはたしかだが、以前は「さまざまな学生」半分プラス「談合体質の学生」半分という割合だったのに、今は二対八という印象である。良くも悪くも個性があって、その行動も多種多様な学生が、今ではすっかり少数派になっている。つまり個人として動く学生が少ないのだ。多数派は集団として動く。「みんなといっしょ」でないと不安でしようがないらしい談合体質のこの学生たちを、私は「台無し世代」と呼んでいる。基本的にソツなく要領も心得た人たちなのであるが、根本的に知的土台がないということ(とくに言葉を理性的に操作する能力の欠如)と、談合的集合行動によって教育的配慮を台無しにするという、二重の意味を込めている。もちろん先頭集団は団塊世代のジュニアであるから、ゴロも合わせているのだが、ともあれ、この人たちにとってネットとはどのようなものなのか。この点について私はかなり否定的な感想をもっている。

日々学生とつきあっていて感じるのは(最近は情報教育科目を担当して痛感するのは)「若い人は柔軟で、新しいものにすぐに適応できるし、機械にも強い」というのは時代遅れの迷信だということだ。「若者はマニュアル世代」というのも今ではまったくの迷信で、基本的にクチコミ依存型で保守的である。メディア史的に見ても、一九八〇年代以降のメディア利用のパターンがそれであって、新規メディアの普及において若者は最後に登場し、しかもマーケティングの対象として登場する。カラオケの場合がまさにそうだったように。

だからパソコンでもインターネットでもなく安直なケータイ系端末に集中するのも無理はない。「インターネットのすばらしい世界へ招待しよう」とコンピュータ教室に学生を集めて授業しても、そもそもメールもコミュニケーションもショッピングもケータイでそこそこ間に合っている。


■情報科目の外で

コンピュータを使用しない通常の授業ではどうだろうか。

たとえばレポートが出ると学生はまっさきにネットで検索して「あった、なかった」と判断する。こちらのねらいは図書館の参考図書を利用して基準的な文献を探してそれを読むことなのだが、そういうことをしなくても何とかなってしまうのである。できればウェブ上でテキストデータをゲットしたい。それだとカット・アンド・ペーストでレポートができてしまうからである。つまり、本ではめんどうなのである。こちらとしては、剽窃にならないように出典を明記し、引用と地の文を明確に区別するという作法を強調しているのに、台無し世代はその正反対にはまってしまう。これでは、可能なかぎりオリジナルなソースにあたるという学問の基本からますます遠ざかることになる。情報の吟味こそ課題なのに、ただたんにそれをテーマにしているというだけでペーストして、自分が書いたことにしてしまうのである。こうしてすべてが逆立ちしてしまう。

他方、学生間のローカルな情報交換はもっぱらケータイで進む。ケータイは完全にクチコミのメディアである。「みんなといっしょ」であれば「台無し」のままでも何とかなってしまう。

要するに、きわめて内向きのローカルな利用しかされていないということだ。大学が期待するような外向きのグローバルな利用とはほど遠い、安直な情報主義に学生が陥っている。

この背景には、社会全体の安直な情報主義(インフォテックの政治と経済)があるわけで、まさにそこに「台無し」の社会的必然性があるわけだが、大学が無邪気に進めているインフォテックな情報教育がそれに輪をかけているのである。本の読み方、図書館の使い方、マス・メディアを批判的に吟味するためのメディア・リテラシーなどを抜きにしてインターネットを教えることのリスクを想起すべきである。かれらは本を読んだことのない「台無し世代」だということを忘れている。ほんとうに新書本一冊読んだことのない学生が多数実在するのだ。

たとえば、真実がひとつでない社会科学。さまざまな解釈があり得る人文学。パラダイムの相剋する社会学ではなおさらだ。それだけに自学自習的な個性的反応を尊ぶ気風があった。拙くてもいいから、自分のフィルターを通過させて、自分なりに頭を使って知識を再構成する。できればフィールドに出て自分の足と目で観察すること。これが人文社会科学の学習のポイントである。しかし学生たちの談合的集合行動の下では、それは以前よりいっそう遠い目標になってしまった。


■学生文化と技術的管理の悪循環

やはり知識や情報に対する批判的素養というものが教育されてきていないのである。考えてみれば、新書本を読んだこともない学生たちが、情報の質を吟味できるわけがない。新聞を較べ読みしたり図書館でちょっとした調べものをした経験がなければ、知識の信頼性について考え及ぶわけがない。そうした自己教育が望めないのであれば、それはあえて教育しなければならない。しかもそれはパソコンを前にした検索実習だけで教育できる代物ではないだろう。もっと総合的な学習とトレーニングが必要だ。

そうした現実を少しでも打開しようと、学生たちに自由に情報施設を使わせて、自学自習効果を期待する。これは当然の流れだ。しかし話はそれほどかんたんではない。たいていはトラブルが続出するからである。その対処療法として情報倫理が徹底されるものの、それだけでは守りきれないシビアな状況に対応するために、当初はルーズであった運用が年を経るごとに硬いものに変更せざるをえなくなるという現実がある。

もともと情報システムには「管理」がつきものである。すでに見てきたように、人間をセキュリティホールと見なす発想さえある。情報システムは「情報システムにふさわしい人間」を求める。そうでないと仕事がふえるからである。これが現場での理念的モデルになっている。

考えてみれば、これはガバメント原理(上からの統治)そのものである。インターネット・コミュニティが育んできたガバナンス原理(下からの自発的構築)と対極にあるものだ。こうして、大公開時代に多くの人たちが経験したインターネットの魅力的な社会原理は、日本の教育現場においては排除される傾向が強く、その対極的な管理思想に浸食されていることが多いのである。


■問題としての情報教育、転機としての情報教育

情報への感度のにぶい学生たち、そしてそれに対して事なかれ主義へ傾斜する技術的管理。この両者が相互作用すると、時間・空間・目的のいずれにおいてもきわめて限定的な情報(処理)教育にならざるをえないだろう。これでは、とてもネットに好循環をつくりだすような資質や集団を育てることはできない。つまりネットはますます裏目をたどるようになってしまう。

そもそも「情報教育で何を教えるのか」ということ自体が誰にもわかっていない。

たんにコンピュータを操作できて、特定のアプリケーションに習熟すればいいというわけではないはずだ。現におこなわれている矮小化された特定の能力開発ではなく、たんにビジネスに応用するのに満足するのでなく、大学人は情報教育を理念から構想して、情報教育のあり方を具体的に模索する必要がある。高校情報科の開始によって、大学の情報教育も早晩「底上げ」を迫られる。どのように「底上げ」するのか。安直にインフォテックで行くのでないとすると、これは案外難問であることを知らねばならない。

というわけで、次世代インターネットの大問題は、ネットワークインフラの問題も新プロトコルの登場もさることながら、ネットを含む情報環境に対する人びとのコミュニケーション能力をどのように育てていくかなのである。次世代インターネットのありようを左右するのは情報教育である。ここが転回軸なのだ。

『インフォアーツ論』第四章 ネットワーカー的知性としてのインフォアーツ

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第四章 ネットワーカー的知性としてのインフォアーツ

¶一 対抗原理としてのインフォアーツ

■ネットにおいて凡庸なこと

ネットにおいてすぐれて凡庸なことが、それを理解しない専門家たちによって見失われている。

ネットにおいて凡庸なこと。ネットは人と人とが出会う場所である。そこでは何でも起こる。それは「社会」であり「世間」であり「市場」であり「悪場所」であり「公共圏」である。それは、そこに集まった人たちがそこで何をするかによって決まる。それゆえネットにおいてどのようにふるまうのが適切なのかを考えることが決定的に重要である。

ネットにおいて凡庸なこと。「情報」の背後には、さまざまな意図がからみついている。したがって、すべての情報はしかるべき理由があって自分の手元に届いているということ。それゆえネット上のコンテンツに対する批判的リテラシーが重要になる。

ネットにおいて凡庸なこと。人はネットとのつきあいから、さまざまな社会や文化の内実を学ぶことができるということ。ネットは仮想された夢の世界ではない。そこでは現実に人は豊かにもなれるし傷つけられもする。問題はそこで何を学ぶかだ。

このような凡庸な事実をふまえるならば、これから始まろうとしている情報教育は、教育を錦の御旗に仕立てた情報産業振興策にすぎない。もちろん産業振興策にはそれなりの意味があるが、それ以上ではない。むしろ副作用のほうが大きいように思う。


■リベラルアーツからインフォアーツへ

情報教育の中で何を教育すべきなのか。現代の情報環境においてどのようにふるまうことが望ましいのか。そういうことを私たち自身も見失っている。だから情報教育が「インフォテックの政治と経済」の文脈で「情報処理教育」に矮小化されてしまうのである。このさい、ネットワーク社会に対する一定の洗練された理念を明確に打ち出すべきだ。そして、それをカリキュラムの隅々にまで浸透させることだ。

そもそもインフォテックに対する対抗原理の不在が問題なのである。IT政策に批判的な論者はいるけれども、概してローテクすぎて実態に即さないものが多い。たとえば、そうした流れで「教養」の復権が指摘されていることにとくに反対はしないが、新しいメディアそしてコミュニケーションの実態に即した知的能力を表現することばが必要ではないだろうか。それが欠けているために、適切な代案を構想できないでいると思う。

そこで私は対抗概念として「インフォアーツ」(info-arts)という概念を提案したい。「インフォアーツ」は「リベラルアーツ」(教養教育)を模して新たに創作したことばである。新時代の情報環境を生きる知的素養のような意味をこの概念に込めたい。解説的に言い換えると「ネットワーカー的情報資質」ということになるだろう。また短くは「情報学芸力」という訳語もつけることができる。

伝統的なリベラルアーツは、高級文化に根ざした討議空間や文字文化・印刷メディアに依存したものだった。二〇世紀になってからは、からくも「〈大衆文化〉対〈高級文化〉」という棲み分けの構造において、大学という特殊な社会の中で存続してきたものである。この棲み分けがもはや崩壊寸前だという認識は当然だと思う。私たちの前にあるのは、新中間文化ともいうべきハイブリッドなメディア媒介文化である。

ハイブリッドであるから、コンピュータの操作ができるだけでは話にならないわけで、そこで得られる情報の吟味や能動的探索ができなければならないし、図書館や書店に並んでいる無数の情報パッケージや新聞や放送での情報の比較・吟味も必要である。また、メールやメーリングリストや掲示板などによって討議して認識を深めたり問題解決をめざしたり、コミュニティを形成してゆく関係構築的能力も必要だろう。また、さまざまなツールやメディアを駆使して仕事を展開するノウハウを学ぶことも必要である。このようなことをすべて情報工学が教えられるのだろうか。言うまでもなく、担えるのはほんの一部分だけである。

ここであえて確認しておくと、私は何も情報工学やリベラルアーツがいらないと言っているのではないし否定するつもりもない。結論から言えば、図と地の転換が必要なのである。つまり、現在はインフォテックという画用紙(=地)にユーザーの情報能力(=図)を描いてしまっている。図と地の関係が逆転しているのだ。インフォテックに適応する能力開発ではなく、インフォアーツのための「わざ」をこそ構想すべきではないのか。インフォテックは、あくまでもその「わざ」の一選択肢にすぎないということを明確にしておきたい。

しかし、それにもかかわらず、ネットワークを駆使する能力がなければ、インフォテックによって完全装備されつつある制度的な情報システムに対応・対抗できるはずがない。現代のハイブリッドなメディア媒介文化において市民的文化構築に必要な人間的条件がいったい何なのかを社会的に問いつめる必要があるのではなかろうか。インフォアーツはそのための概念である。


■インフォアーツは対抗原理である

今一度整理しなおそう。あえて新奇な総称概念として「インフォアーツ」を対置して、「図と地の転換」を提案する理由は三つある。

第一の理由は、現状の情報教育の目標となってしまっている「インフォテック」に抵抗するための対抗原理であることを明確にしたいからだ。これはすでに述べたとおりである。

第二の理由は、市民社会的情報環境を構築するために必要な現代的素養であることを示したいからである。近ごろでは、古式ゆかしい「教養」や「世間知」などの復権を図るのがひとつの流行路線になっている。これらは一種のラッダイト主義と見るべきだろう。新しい機械が自分たちの仕事を奪っているからといって、普及してしまった機械を破壊しても仕方ない。現在は、インターネットや情報システムなどからなる情報環境に見合う資質が求められているのであって、それは復古路線では対応できないことである。私は、この復古的教養路線に対抗する目標として「インフォアーツ」を掲げたい。あくまでもネットワーカー的資質が必須だ。

そして第三に、構築原理として「情報のデザイン能力」が要になることはまちがいないだろうからだ。「インフォ」をつけたのは、メディアやチャンネルやコミュニケーションではなく、文化的内容としてのコンテンツに焦点を定めることが現実的課題と考えるからである。「アーツ」ということばは「知恵とわざ」という意味を含んでいる。それは総合的なものである。もちろん技術的知識は必要だが、情報科学やコンピュータ・サイエンスそして情報システム論の文脈に取り込まれないように距離化しておかなければならない。

では「インフォアーツ」は具体的にどのような資質をふくむのか。

それを考えるために、市民主義的なネット文化において画期的であったもの(つまりネットにおいて凡庸なこと)、あるいはそれを可能にしたものをきちんと整理して、それを新たな目標的価値として加えていく必要がある。また、インターネットが「ことばの市場経済」と化して、なんでもありの状態になって、人びとがもつべき知恵やわざも増えてきた。それがないと安全かつ有効にネットを利用できないことがらがたくさんある。そしてある種のしたたかさも必要になってきている。それらを総合して「インフォアーツ」という資質の条件をリストアップしておこう。


¶二 さまざまなインフォアーツ


■メディア・リテラシー

第一に、情報を批判的に吟味する能力が必要である。ニュースであれインターネット情報であれ、情報は一般にメディア(テレビやコンピュータ)を媒介して私たちのもとに届くのであるから、メディアに表現された情報の吟味とメディアそのものの吟味が必要になる。最近「メディア・リテラシー」と呼ばれるものがこれに相当する。ただし、メディア・リテラシー概念自体は、一方通行的なマス・メディアに対して批判的に吟味する力を教育しようという運動から生じている。他方「コンピュータ・リテラシー」「情報リテラシー」概念がマシンの操作やソフトウェアへの習熟といった狭小かつ無批判な内容を意味する(なぜなら、使用するマシンやOSやソフトウェアに対する疑念は封じられ、代替手段も選択できないのだから。環境への適応しか想定されていない!)のと異なり、メディア・リテラシーは批判的態度でメディアとつきあうことを主眼とする。

マス・メディアが商業的に運営されたコミュニケーション活動であることは比較的わかりやすい。しかし、ネットはそれ以上であることは案外忘れがちなものである。ネットのハイパーテキストは自由自在にリンクのクモの巣を構成するけれども、その結果として構築されるナヴィゲート構造(あるいは誘導路の偏り)は、かなり恣意的なものであることを知らなければならない。その上で、楽しむものは楽しめばいいし、そこで得られる情報の信頼性をあらかじめ値踏みしておけば、事故にはならない。しかし、ネットを始めたばかりの若い人たちがネット詐欺に遭いやすいのは、ナヴィゲート構造の恣意性に無頓着だからだ。情報は中立的なものだというのは幻想である。

この種の批判能力を育成するためには、メディアや情報環境に対する社会科学的な基礎知識も必要である。その上で具体的な実践を積み上げていくことだ。


■情報調査能力

第二に、日常的なことがらから学術情報にいたるまで、何らかの調べものをする能力を高めるということだ。ものごとを調べる環境は大きく変わった。かつては「まず図書館で百科事典を調べて」というのが相場だったが、今はちがう。「まずサーチエンジンで検索」というところだろう。とりあえずは何かがでてくる。各種データベースも充実してきた。オンラインショップでさえ商品情報データベースとして使うこともできる。これら情報環境の変化のおかげで人びとの情報調査能力は高まった。しかし、検索結果を鵜呑みにするようでは甘い。信頼しうる情報源にたどり着くのは意外と困難だ。知識の迷宮から目的の情報を的確に引き出す検索の世界は奥が深い。

そもそも図書館学的な世界になじむことが先決であろうし、文化全般についての幅広い教養的知識が要求される。

また、たんに情報と向き合うだけでなく、情報が集中し、知識や経験の豊富な集団・人脈・コミュニティとの日常的なかかわりもそうした能力にふくまれる。インターネット上のコミュニティであれば、若い学生も専門家や事情通の人たちと同じ土俵で知識や議論と向き合うことができるのであるから、そうした場に積極的に参加していることも調査能力を高めるはずである。


■コミュニケーション能力

第三に、コミュニケーションする能力である。この能力にはいろいろあるが、代表的なものとしては発表能力、そして他者との集団的討議能力がこれにあたる。

発表能力とは、たとえばプレゼンテーション、メール、そしてサイト構築において適切なインターフェイスを駆使する能力のことである。サイト構築では、企画力や構想力も重要な要素になる。ネットワークに送り手として参加する仕方としては、コンテンツ制作法を学ぶ必要がある。コンテンツ制作の動機づけ、読まれる文章の書き方、HTMLの文法、ハイパーテキスト編集の方法などについて学ぶことだ。こういうことは、じっさいに、テーマを設定してサイトをつくって公開し、相互批評の目の洗礼を受けて、ようやく上達するものである。

後者の討議能力については、同期的コミュニケーションである会議などでは、声の大きさや押し出しによって大きく左右されるが、非同期的コミュニケーションであるネット上においては「ことば」だけで討議を進めていかなければならない場合が多い。じつはシビアに討議能力が検証される場面なのである。

と同時に、ネットワーク上では共学習と共同知構築の作業が進めやすい側面もある。この点を日常的にきたえることが大切だ。こういうものはネットワーキング技術と呼んでいいだろう。議論の仕方やネットワークの広げ方、公共の場に自分を開いてゆく仕方を学ぶ。これもまた、メーリングリストや掲示板を運用して、実地にネットワーク・コミュニケーションの経験を積まないと学習のしようがない。


■シティズンシップ

第四に、シティズンシップ。この場合は「市民権」という意味ではなく「市民的能動主義」といった意味である。これは「市民的」であることが、現代の情報環境において、ひとつの「落としどころ」であるという認識に立っている。

まず「能動主義」でなければならないのは、こうでないと「多くを与える者が多くを得る」という形の互恵的関係が生まれにくいからである。受け身のフリーライダー(あとから来てタダ乗りする人)では、「ことばの市場経済」の恣意的なナヴィゲート構造にとらわれやすい。つまり、それで何かを獲得したとしても、後で何かを払わされる関係になりやすいということだ。互恵的な関係を作っていくことが、そうした構造からはみ出す力をつくるのである。

次に「市民的」でなければならないのは、自分を守るのはあくまでも自分であるということを表している。市民とは、たんに自律的に動く個人を総称するだけでなく、歴史的には、自分の財産と家族を守るためには、ときには武器を取って戦う人間を指している。闘争の武器は、現代日本社会において狭義の武器とは限らない。これまで述べてきた情報調査能力も武器になるし、討議能力は有力な闘争手段だ。最終的には警察力や法律を利用することもできる。

この社会的セキュリティの逆の側面から見れば、ネットワーク社会にあっては他者を容易に侵害してしまう可能性があるということにたえず注意を払う態度をもつということも重要である。その実態について理解するとともに、他者を尊重した自律的なふるまいかたについて考えること。「情報倫理」はしばしば「ネチケット」に矮小化されて理解される傾向があるが、このような思想的な行為作法であるとの理解が必要だろう。

シティズンシップの歴史的理解のためには視野の広い勉強が必要だが、とりあえずはネットワーク文化論が欠かせない。ネットワーク・コミュニケーションの文化・作法・倫理・歴史・ダークサイドを学習することで、たとえば「匿名の発言のどこが問題なのか」について思想的な理解をすることができる。

シティズンシップが確たるものとして個人に定着するには、文化の多元性への理解もなければならない。言語・障害・社会的障壁への配慮と具体的手だてを知ることが重要なので、いわゆるユニバーサル・デザインの理解は欠かせない。

地理的条件や身体的条件を比較的容易に克服できるインターネットの場合、他の要素とのキーが合わないということが生じやすい。たとえば電話で性急な返事を期待するとき、相手の標準時や生活時間へ配慮するのが当然であるように、他の属性についても想像力豊かに考慮し対応できる注意力が不可欠である。


■情報システム駆使能力

第五に、情報システムと対等につきあう技術的能力。プログラマーでもないかぎり、これには二種類の力があればよい。それは、まず第一に、大きな情報システムに参加する力である。すでに構築されたシステムに適応する技術力である。クライアントあるいはユーザーとして相応の適応力をつけることだ。

もうひとつの力は、小さな情報システムを構築したり運用したりする力である。非プログラム系開発者(発想・企画・コンテンツにおいて)のレベルである。たとえば、小規模サイトのコンテンツ制作と管理をおこなう能力がそれにあたる。中小企業や学校やNPOや地域社会のような、何もないところで手作りの情報システムやネットワークを構築したり運用したりすることになることがある。厳しい採算性の要求に応えつつ、それぞれの現場で有効なネットワークを作動させてコミュニケーションを促進しなければならない状況はけっこうあるものだ。市民論的に言い換えると、交渉の武器を使えることにあたる。そういうネットワークを構築するための開放的かつ実践的な情報技術もまた、コミュニケーション技術とともに、身につける必要がある。

これらに共通することであるが、セキュリティ管理の能力も必要である。たとえば個人情報について、どこまで開示するのかを決めておいて、適切に運用する能力。ある程度の技術的な知識がなければ、自分を守れない。そしてこれは、そうした作業をするさいの健康管理も含むのである。


¶三 メディア・リテラシーの先へ


■精神のデータ処理モデル

批判概念としてのインフォアーツの含意のひとつは、「情報」の名の下にコンピュータが導入されることが思考に与える副作用を注意深く排除することにある。

この点について明確に警鐘を鳴らしていたのはローザックである。かれは言う。「コンピュータが用いられているときにはいつでも(この効果を相殺しようとする注意深い努力がなされないかぎり)教え込まれている潜在意識的な教訓は精神のデータ処理モデルである」(セオドア・ローザック『コンピュータの神話学』)。この「精神のデータ処理モデル」こそ、情報教育の「隠されたカリキュラム」であり、「コンピュータ科学者たちをかりたてている」ものだという。ローザックは「このおそるべき圧力にたいして、教育哲学の一つの絶対的な原理、すなわち、けっして安売りしてはならない、に立ちもどる以外、何ができよう?」と警告する。

要するに、情報概念が一見中立的に見えるために、知性の全領域にわたって「精神のデータ処理モデル」が「隠されたカリキュラム」として機能するようになっていることを強く批判しているのである。情報教育はその典型事例なのである。この傾向は、情報教育が台無し世代に対してインフォテック的着地をしつつある現代日本でも同様である。

しかし、だからと言って、コンピュータやインターネットを排除するようなラッダイト主義に退行するのは非現実的な選択である。注意深く抵抗するという方法しかないだろう。


■メディア・リテラシーの考え方

そもそも情報とは意味や価値の平準化である。ゆえに意味づけや価値づけという解釈的な実践こそが、情報を工学的世界から人間的知的世界へ引き戻す有力な行為になるはずである。そういう行為としてもインフォアーツを位置づけておきたい。

この点でインフォアーツをさらに具体的に構想する手がかりになるのがメディア・リテラシーの考え方と実践活動である。

メディア・リテラシーの基本的な考え方は、以下の八項目にまとめられている(鈴木みどり編『メディア・リテラシーの現在と未来』世界思想社、二〇〇一年)。

(1)メディアはすべて構成されている。

(2)メディアは「現実」を構成する。

(3)オーディアンスがメディアを解釈し、意味を作り出す。

(4)メディアは商業的意味をもつ。

(5)メディアはものの考え方(イデオロギー)や価値観を伝えている。

(6)メディアは社会的、政治的意味をもつ。

(7)メディアは独自の様式、芸術性、技法、きまり/約束事(convention)をもつ。

(8)クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを創りだすことへつながる。

要するに、メディアは現実をそのまま映し出す鏡のようなものではなく、独自の現実を構築するものであって、その背後には商業的・社会的・政治的要素が存在している。そのため、オーディエンス(オーディアンス)が読み手として批判的に関わっていく必要がある。そのトレーニングをしよう。メディア・リテラシーとは、つまりこういうことだ。

すでに述べたようにインフォアーツも、このようなメディア・リテラシーを含んでいる。カルチュラル・スタディーズの考え方などもあわせて大いに参考にできる。

ただし、これまでのところ、メディア・リテラシーはマス・メディアに対する「消費者教育」の側面が強い。クリティカルであれというのは、マス・メディアに対して人びとが受動的な存在だったからこそ強調されるのであって、現状への抵抗の試みという側面がある。しかし、ネットワークにおいて私たちは消費者としてではなく、まさに支え手であり、それ以上の役割存在になりうることをだれもが承知している。もちろん感受性開発は大事だが、しかし現実構築力を付ける実践へと展開していかなければ実効性をもたないだろう。


■情報システムを疑うこと

しかし、メディア・リテラシーの延長線上でインフォアーツを考えてみると、いくつかの重要な論点が浮かび上がってくる。

第一に、コンピュータや情報システムを絶対視するのではなく、社会的な構築物として批判的に見るということ。聖なるものとして神聖視するのではなく、さまざまな個人や組織の利害や制度的産物として情報システムを見ること。

第二に、つねに他の手段があるのではないかと想像してみること。目の前にあるコンピュータを使うのが最善の手段とは限らない。コンピュータを使うにしても、たまたま目の前にあるOSやアプリケーションが適切とは限らないし、インターネットを使うにしても、その中でもつねに多様な手段があることを意識することだ。

第三に、インフォアーツにとって、やはりことばが重要であるということ。マルチメディアやヴァーチャル・リアリティなどと言っても大したことではない。どのみち、それらへの批評は、ことばでしかできないのだ。ことばの能力を磨かなければ、批判的に距離をおいてメディアとつきあうことはできない。

その他にもインフォアーツの実践上のポイントはありそうだが、このあたりにしておこう。インフォアーツの思想を論じる本書としては、むしろ、この種の議論の前提に遡及して論じておくことのほうが先決である。そう、インフォアーツ論が想定する「理想」とは何か。


¶四 ネットワーク時代の人間的条件


■現実の構成要素としての理想状態

理想というものは、語り始めると陳腐なものである。しかし、じっさいにはどんなものにも理想というものは「目指すべきモデル」なり「洗練されたスタイル」なりといった形で、暗黙の前提となって、現実の重要な構成要素となっているものだ。どんなにシニカルな態度にも理想が隠れている(しばしば本人も気がついていないのであるが)。だから想定されるフォーカスの「虚点」として理想像を思い描くことは、分析的に重要な作業である。所詮、社会は演劇的世界。ある程度のシナリオ(つまり理想)がなければ行き詰まってしまうものなのだ(ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳、ちくま学芸文庫、一九九九年)。

たとえば広告の場合「この商品が売れますように」という理想が多大なコストを企業に支払わせている。ジャーナリズムの場合も「権力が何を考え何をしようとしているか」を伝えることが民主主義社会を空洞化させないために必要なことだという規範的動機がある。だから、ジャーナリストはときには砲火の下でカメラを構えるのである。

このように、ある種の理想や理念が現実構築に重要な役割を果たすということは社会学の基本的了解事項と言える。マックス・ウェーバーが『宗教社会学論集』で述べた有名な一説を思い出そう。

「人間の行為を直接に支配するものは、利害(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミズムが人間の行為を押し進めてきたのである。」

ちなみに「転轍手」とは線路のポイント切り替え装置のこと。理念という転轍手が、人間の行為という列車の進む方向を決める役割を果たすことがあるというわけだ。だから、ある行為領域を分析するときには、そこに現実的構成要素して組み込まれている理想的局面を明らかにしておくことが現状分析として必要だということになる。ファシズムの研究者がファシストでないように、理想主義者だから理想をあつかうのではない。むしろ逆である。

じっさい、情報教育の現場において、ある特定の課題を与えて作業させることが学生にとってどんな意味があるのだろうかと自問することがある。その作業を通して、どこに向かえばいいのかがはっきりしていないと、学生はもちろん教員もとまどう。明確な理念的モデルの不在は、あくまでも現場を混乱させる現実の問題なのである。

ヴィジョンなしのやみくもな情報教育は事態をますます悪化させるだけであり、危険な状態をつくりだす。それは、マス・メディアにおいて報道倫理が要請されるのと同じである。ちなみに、それを身体化していないメディア人が多すぎるためにマス・メディアはたびたび社会を混乱させ、しばしば人びとを理性的議論ではなくモラル・パニックに導いてしまうのである。

では、インフォアーツの目指すべき理念、とりわけ人間像はどのようなものなのか。

もちろん、ひとつの統合された価値観にもっていくのはもともと無理な話である。しかし、私は、知識と人間の関係からアプローチすることで、ある程度はそれについて語ることができると思う。


■知識と人間の三つの関係

現象学的社会学者アルフレッド・シュッツのあるエッセイに沿って説明しよう。シュッツは、知識と人間の関係を三種に分けている(A・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳、マルジュ社、一九九一年)。

第一は「専門家」(expert)である。専門家のもつ知識は領域が限定されているが、そのかわり、その専門領域においては明晰で一貫しているものである。「専門家」はその専門領域においてすでに自明と見なされている準拠枠を受け入れている人たちである。たとえば医師という専門家は西洋近代医学という枠組みを自分の仕事の土台としている。

第二の類型は「しろうと」(man on the street)である。シュッツは、処方箋的な知識で満足する者という意味で使っているので、私は「しろうと」と訳してよいと思っている。また、知識の側から見ると、文字通り「通行人」とも言えそうである。この「しろうと」の知識は基本的に実用本位のものである。その知識は、たしかにかなり広い範囲に渡ってはいるものの、首尾一貫してはいない。「しろうと」は実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処し、一連の思い込みや明晰でない見解を構成し、自分の幸福の追求にさしさわりのないかぎり、素朴にそれらに頼っているとシュッツは述べる。

そして第三の類型が「眼識ある市民」(well-informed citizen)である。「多くの知識(情報)をえることをめざしている市民」の省略形とされている。シュッツによると「眼識ある」(well-informed)とは「当人の手許の実用的目的に直接関係がなくても、少なくとも間接的な関心はあるとわかっている分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること」を意味する。社会生活のあらゆる領域について事情通であろうとする取り組み方である。なお、以前から私は「見識ある市民」という、社会学では定番の訳語を用いてきたが(野村一夫『リフレクション——社会学的な感受性へ』文化書房博文社、一九九四年)、どうも「見識」ということばのニュアンスから「人格高潔」のような人でなければならないかのような無用の誤解をもつ人が多いことがわかったので、今回から「眼識ある市民」という訳語を用いることにした。情報通の市民、眼が肥えている事情通ということである。人格は関係ない。これは知識との関わり方の問題である。


■民主主義の前提

三種類の人間がいるのではない。要するに、私たちは、社会において生産され流通している知識に対して、いつもこの三者のうちのどれかでありうるということである。

しかし、とくに意識的に自分を鍛えないかぎり、私たちはいつも「専門家」か「しろうと」のいずれかである。自分の仕事についてはウルサイけれども、それ以外については何にも知らないし、知ろうともしないし、ときには「なぜそんなこと勉強しなきゃなんないんだ」と居直ったりするものだ。結局、人間というものは、自分に直接関係のあるものは学ぶけれども、そうでないものにはとんと無関心になってしまうものなのだ。

しかし、ひとつ言えることは、そのままでは成熟した民主的社会は成立しないということである。

民主主義には、ひとつの大前提がある。それはひとりひとりの市民が社会全体のことを知っているということだ。もちろん専門家レベルの知識をもっているということではない。専門家ほどではないけれども、そこそこの基本知識があるということである。あるいは、それを知ろうとする意欲・技術・能力をもっているということだ。つまり、「眼識ある市民」の役割を担おうとする人たちが大勢いるということが重要なのだ。それがなければ民主的な集合的意思決定は空回りする。

社会学者のロバート・ベラーらは『善い社会』(中村圭志訳、みすず書房、二〇〇〇年)の教育の章において次のように述べている。「経済のテクノロジー化が進むと、教育ある技能労働者が不可欠となる。だが、途方もなく複雑で相互依存的な世界にとって、さらに必要なのは、教育ある、そして事実をよく知った市民である」と。


■眼識ある市民とインフォアーツと情報倫理

インフォアーツの前提はおよそこのようなことである。逆に言えば、「眼識ある市民」のもつべき情報資質の総体こそがインフォアーツの理念的意味なのである。メディア・リテラシーの批判的態度や、シティズンシップの能動性や、ネットワークや情報システムを駆使した調査能力や討議能力が必要だというのも、ネットワーク時代において「眼識ある市民」として情報環境と関わるさいにこれらの資質がどうしても必要になるからである。古式ゆかしい教養主義では、もはやネットワーク時代の情報環境には対応できない。かと言って、すべてを技術的問題に解消しようとするインフォテックな知性では、せいぜい受動的適応が関の山である。私たちの生きている情報環境がたゆまない政治的・経済的・社会的・文化的産物であるとの現実認識が欠けていては話にならない。

以上、ネットワーク時代の人間的条件としてインフォアーツを論じてきた。このような議論を私はけっして無邪気な理想論とは思っていない。たとえば医療倫理・生命倫理・環境倫理と呼ばれる議論が要請されるのは、産業や技術の内在的論理によるやみくもな発展の結果として、人びとの生活世界や自然環境が侵犯されるシビアな現実を目の前にして、それに対して批判的かつ能動的に関与する必要が出てきたからだ。この場合の「倫理」は、シビアな現実に立ち向かうための根拠としての理念的モデルのことであり、一見中立に見える産業や技術が「政治」であるのと同じ意味で、積極的に「政治」に関与しようとする態度なのである。ここでの議論も同様の問題意識において「情報倫理」(しばしばネチケットのようなものとして矮小化されているそれではなく、危機的な情報環境の現実問題を批判的に問い直すものとしてのそれ)を問うてきたつもりである。


『インフォアーツ論』第五章 着地の戦略──苗床集団における情報主体の構築

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第五章 着地の戦略──苗床集団における情報主体の構築

¶一 状況に埋め込まれた学習

■情報主体の構築問題へ

もしインフォアーツの育つ場所というものがあるのであれば、どこで・いかにしてその「レッスン」は、おこなわれうるのだろうか。インフォアーツ的な情報主体の構築はいかにして可能なのか。ちなみに、この場合の情報主体とは、あくまでも人間のことであって、マシンや情報システムはすべて情報環境に属すると考えるべきだろう。

インフォアーツ的な情報主体の構築の問題について、私はおおよそ次のように考えている。

インフォアーツは実践的な資質であるがゆえに、正統的周辺参加によってのみ、よく学習されていく。市民主義的コミュニティがネット上で有力だったころは、それがネット上でなされた。しかし、それらが孤島化した現在では、ネットからの「着地」を構想しなければならないだろう。つまり、フェイス・トゥ・フェイスの人間関係を中心とする中間集団が苗床の役割をすることだ。これを「苗床(なえどこ)集団」と呼ぶことにしたい。

インフォアーツの苗床集団の原型は、情報教育、それも拡張された意味での情報教育である。学校や大学だけが舞台ではない。生協やNPOやボランティア組織など、さまざまな舞台が考えられる。インフォアーツは不断の学習過程になる点では、生涯学習の概念に加えていいだろう。それが獲得される場所は、とくに年齢を問わない。

このような着地を構想するならば、いわゆる「リアル−ヴァーチャル」の二元論はあまり意味をなさなくなる。というか、その呪縛から自由になるべきだ。考える土俵としては不適切で、むしろ「主体−環境」と分けて戦略を構想するべきだと思う。演劇モデルでたとえると、情報主体がアクターで、情報環境がシアターである。情報環境については次章で検討しよう。本章では情報主体の構築について考える。


■正統的周辺参加

さて、「正統的周辺参加」ということばは聞きなれないことばかもしれない。これは認知科学の研究者であるレイブとウェンガーの共著『状況に埋め込まれた学習』(佐伯胖訳、産業図書、一九九三年)で提案された概念である。

ふつう私たちが学習ということばで連想するのは、あらかじめ定まった知識を教師が生徒に教授するというものであるが、レイブらはそれをまったく逆の事態と考える。学習とは、実践的な状況に埋め込まれているものであり、なんらかの共同作業に新参者が参加するときに、具体的な実践活動とともになされることであるという。たとえば古典的な徒弟制では、新入りはいきなり親方や兄弟子たちの仕事に加えられる。それは実践共同体(仕事仲間)への「正統な」参加であり、仕事全体に影響の少ない「周辺的な」参加である。この、責任は小さいがあくまでも正式の仕事をすることによって、新入りはそれに必要な知識を学習するのである。教える行為がなくても新入りは自ら学習するのであって、学習させられるのではない。また、学習される知識は、その実践共同体そのものに宿っているのであって、親方のような特定の個人の頭の中にストックされているのではない。

この学習理論から考えていくと、インフォアーツも、本質的には、何かパッケージされた知識や技術として教室内で教授されるものではないだろう。ひとつ言えるのは、何らかの実践共同体がなければインフォアーツは学習されないということだ。問題は、それが何かということである。


■インターネット・コミュニティ

まず考えられるのはネット自体がその役割を果たす可能性である。ネット上では多様な人びとと接触する機会が非常に多い。とくに市民主義的なコミュニティでは、ネット上で議論が進む中で、新入りの参加者は、相槌を打ったり、かんたんな情報提供をしたりといった周辺的な参加から、そこで必要なルールや作法や議論のテーマについての基礎知識を身につけていく(第一章二参照)。

とくに市民主義的というわけでない「ことばの市場経済」(たとえば各種の匿名掲示板)の場合でも、頻発するトラブルに対する解法として、それなりのルールを決め、それなりの作法というものを要求する動きが出てくるものである。そうした中で参加者の学習が進むものだ。それが適切に機能すればいいのだが、話はそうかんたんにはいかない。

出会い系サイトにせよ、趣味のメーリングリストにせよ、掲示板にせよ、ウェブ公開にせよ、個人は必ず他者とのコミュニケーションをすることになる。日常世界では慣れない他者とのコミュニケーションを(子どもたちでさえ)ひとりの個人として遂行する。それは「個人化」のプロセスにとって一定の効果を生むはずだ。多くの大人たちが経験しているように、ネットワークにはまればはまるだけ鍛えられる。

しかし、現状ではその鍛えられる内容が「市民化」の方向(つまりインフォアーツ)ではなく、ダークサイドに向かってしまっている。たしかに「ネットずれ」した人たちはいる。しかし、ほっておくと、ローカルなジャーゴンや言い回しをはじめとして、恫喝や茶化しなどの姑息なコミュニケーション技術ばかりを学び取り、その場その場の「勝者」側に立つことばかりを志向するようになる。どうしてそうなるのかは分析が必要だが、とくに若い人たちがネット上で集まる場所がだいたい決まっていることに由来するのだと思う。もったいないことだ。もちろん、そういう傾向についてゆけない人も多いようだが、だからと言って積極的に居場所を探そうとはしないし、そもそもどうしていいかわからないのが実態のようだ。

とくに日本語圏の場合、北米やヨーロッパのように、ある程度成熟した市民文化が前提できない。ネットで鍛えられたネットワーク市民もたくさんいるが、今となっては「先住民」あるいは「少数派」になってしまった。このようなネット文化をキャリアの浅い世代(年齢ではなくネット経験年数の少ない人たち)に継承していくためには、ネットだけでは限界があって、大なり小なり対面的な関係が必要である。

社会学の知見が示すように、人間は個人である前に集団成員である。人は自分の準拠集団にそって自分の考えを定め、行動をとる。準拠集団は必ずしも所属集団であるとはかぎらないし「想像の共同体」であってもかまわないのだが、それでもやはり第一次的関係である直接的な人間関係「パーソナル・インフルエンス」は強力なのである。私たちは、ネットのありようを考えるとき、ネットの特殊性ばかり追おうとして、この基本的な事実を忘れているように思う。その意味では、インフォテックを利用して対面しないままに教育しようとする、昨今ブームの遠隔教育やEラーニングは、この点で大いなるカンちがいをしていることを指摘しておきたい。ここでも「インフォテックの教育」はことごとく逆向きである(助成金の方を向いている?)。


¶二 苗床としての中間集団


■苗床集団での育成

私が「苗床集団」と呼ぶのは、正統的周辺参加を内包した実践的状況を用意できる集団のことである。

そもそも「苗床」(なえどこ)のイメージは、二段階の成長過程を前提している。つまり、いきなり種を田んぼに植えても稲は育たない。まず、よくコントロールされた環境で、ある程度まで育てたのちに、自然な外界の田んぼに植え替えるやり方が効果的だということだ。

ネット上の社会化についても、同様のことが言える。いきなり何でもありのネットにでていくのはリスクの多いことである。ウェブに話を限定したとしても、ナヴィゲート構造は複数の恣意的な構築物である。たまたまアクセスしたところが「吹き溜まり」のようなところだと、初心者はあっという間にそこでの流儀に染まってしまい、その周辺のサブカルチャーにとどまってしまう。こういうケースのなんと多いことか。

それゆえ、現在においては、インフォアーツを具体的に構築し発展させるための重要な戦略は「苗床集団での育成」である。つまり、自分のインフォアーツを「育成」したいのであれば、自分がのびのびと活動できる安心な苗床集団をみつけることだ。そこを苗床にして根を張り枝を伸ばせばよい。


■情報教育という場所

このような視角で情報教育という場所を見直してみると、それもあながち捨てたものでないことがわかる。情報教育においてインフォテックが勝っている現状は、情報処理の技術的専門家が動員されてきたことに由来するわけだが、しかし、それをじっさいに担う教員の運用の仕方しだいでは、それなりに意味のあるものにしていくこともできるのではないか。本書では現状を批判してきたが「もともと情報教育とは、そんなもの」と決めつけて撤退する必要はない。

インフォアーツ的な資質を育成するつもりがあるのであれば、ネットワーク社会にとって学校や大学がもつ稀少性に注目して情報教育を組み立てることを考えればよいのである。では、学校や大学がもつ稀少性とは何か。

私は、学校や大学がインフォアーツの「苗床集団」の役割を担いうる典型的な既存組織であることに注目したい。ネットワーク社会の将来を構想するとき、学校にはネットワーク市民の苗床集団として大きな可能性があると思う。それはこういうことだ。

情報教育は、通常、教室で行われる。規模の大小はあっても、それはフェイス・トゥ・フェイスの対面集団である。つまり、そこでは、いわゆる「リアル」と「ヴァーチャル」が同じ場所で作動しているのである。インターネットというと、あくまでも「ヴァーチャル」ということになっているけれども、モニタのこちら側では、教室という空間において学生たちや教員が「ああでもない、こうでもない」と相互作用している。この光景を日常的に見ていると「リアル対ヴァーチャル」二元論というのも、それほど絶対的なものとか固定的なものとは思えなくなる。私たちは、あまりにこの図式に毒されていないだろうか。

学生たちがインフォアーツのないままインターネットの大海にでる。もしそのそばに「情報通」の先輩や教員がモニタのこちら側にいれば、リスクの大きな回り道を多少なりとも減らすことができるだろう。ネット上でどのようにふるまうのが適切かを討論して、自分なりに納得のいくやり方を見つけることもできる。情報の信頼性の吟味やその見極め方を教えあうこともできる。そして、何よりも、ネットで生じている出来事や言説に対して、共同で批判的に対応することができる。裸の個人ではなかなか批判的なスタンスをもつことはむずかしいが、こちらに信頼できる共同関係があれば、それも困難ではない。

要するに、注目すべきなのは、パソコンの中やネットワークの向こう側で生じていることではなく、端末のこちら側の人間模様なのである。

なぜなら、外部に対して働きかけるときこそ、内部においてコミュニケーションが作動し、アドホックな対話的コミュニティが現出するものだからである。ネットワーク活用の場面において、そうしたコミュニティを教室の中にいかにしてつくるかがポイントである。コミュニティの中でこそ学生はやる気を出し、自分で方向性を見いだし、自発的に活動を始める。「状況に埋め込まれた学習」である。言うまでもなく、学生は、情報をインプットすれば機械的に受容するような存在ではない。苗床集団となる対面集団があって、それをきちんと調整すれば、主体的な学びをしていくものだ。


■ネットの着地

無数のコミュニケーションの錯綜するネットワーク社会において、自律的に発言し行動できる個人をどのように支援し育てるか、そしてその苗床となる中間集団の力をどう紡いでいくか。

言うまでもなく、教育の現場は直接的な対面集団の場である。空間的に近接している個人がじっさいに対面してコミュニケーションの調整をすることが容易だ。この利点はネット上の関係には望めないもので、とくに若い人たちの学習には適しているはずである。その点で、教育機関内に形成されたコミュニティは、インフォアーツにとって非常に強力な苗床集団になりうる。

私がこれまで、情報教育をひとつのアリーナとして問題を設定し、そこでインフォテックに対してインフォアーツを対抗的に構想してきたのは、これから始まる本格的な情報教育が非常に重要な分岐点になるだろうとの歴史認識があるからだった。しかし、情報教育が考えるに値する要衝であり転回軸であるとする理由は、以上に述べた点において、情報教育がネットを根本的に見直す要素をもっているからなのだ。それを一言で括れば「ネットの着地」である。二〇〇三年からの高校情報科を重要な節目とみなすのも、「インフォテックの教育」が始まるかもしれない危険がある一方で、「着地」の可能性をもつからである。


■拡張された情報教育

さらに確認しておきたいのは、いわゆる狭義の情報教育だけが苗床になるわけではないことだ。むしろコンピュータやインターネットを主題としない他の普通の授業や講義や演習こそ、インフォアーツ構築には好都合である。いわゆる情報担当ではない教員が、インフォアーツを自分のものとして、それぞれの主題や形態の授業などにネットを組み込んでいくことが苗床としては大きな可能性をもちうる。インフォアーツの学習は、原則的にあらゆるところで可能である。たとえば大学であれば、このような情報教育は、サークル活動を含めて、大学教育の全分野に及ぶのだ。特定の科目において達成されるものではない。こういうことは、教員の意欲と知恵さえあれば、むしろローテクで十分である。ゼミや授業単位でメーリングリストひとつあるだけでも、使い方しだいでは、かなりのことができるはずである。

たとえば大学の学部ゼミで共同でウェブ公開をするとする。学生はウェブ管理という共同作業に参加することによって、その一人前の成員として作業に携わるのに必要な知識を身につけていく。その共同作業が学術的に意味のあることであれば、ウェブの構築と管理はそのまま学習行為になるはずである。この作業の中で、ゼミがゼミとして外部を意識することで、ゼミそのものもまとまりのある集団に形成されるとしたら、大学としてはまっとうなことだろう。苗床集団でこうした「レッスン」ができれば、外部のネットにでても、それなりに賢明に動くことができるだろうし、トラブルに遭遇したときに適切なアドバイスをえることもできるだろう。このような苗床集団が幾重にも学内につくられていくのが理想的である。


■苗床集団としての生協運動

ひとたび苗床集団へ着目すると、今度は学校や大学だけがインフォアーツの育成場所ではないという考えにいたる。インフォアーツ形成の苗床集団は日常のいたるところに存在している。生協、労組、ユニオン、NGO、NPO、同好会、市民サークル、PTA、老人会、同窓会、町おこし、市民運動。条件は対面関係があること、権威と活動理念がしっかりしていることである。これなら「着地」可能である。

学校を含めて、これらの集団や組織は概してネット化が遅れていた。なぜかというと、さしあたり必要がなかったからである。対面的なコミュニケーションが日常的におこなわれており、各自のなすべきことも明確だったからだ。しかし、これらの集団や組織がネットを活用するようになれば、とかく閉塞しがちな活動領域が格段に広がり、影響力を大きくすることができる。

こうした集団や組織の中では、ネット化への適応についても、たえず対面的なコミュニケーションによっておこなわれていく可能性が高い。所属する人たちの環境づくりに留意すれば、インフォアーツの有力な苗床集団になりうるだろう。

一例として、生協運動の場合を考えてみよう。

パソコン通信時代から個人としてはかなり活発な活動があったものの、そしてインターネット先住民文化が生協運動と親和性の高いものだったにもかかわらず、最も生活に密着した地道な市民主義活動とも言える生協組織が全体としてインターネットに冷淡だったことはそれなりの理由があるのだろう。地域密着の生協が、グローバルレベルに拡散しうるインターネットとどう折り合うかの見当がつかないこともあっただろうし、購買活動において重要な決済の問題が残ったこと、つまり初期においてインターネットの最大の弱点である、信頼性の高い決済システムを持たなかったことも響いているのだろう。これは労働運動においても同じことが言えるのだが、上部組織のネットに対する認識の甘さも大きく響いている。

しかし、その生協も新世紀になって、インターネットによる注文やコミュニティ活動の土台となるネットワークの「共通基盤」が普及しつつある。これを採用する生協は今後相当数に及ぶと思われる。ひとつの生協でも、グループ活動をしている数百・数千の対面集団を抱えているという。これは驚異的なことである。この人たちのシティズンシップは高いが、ネットへの関与は低かった。生協としてインフラを整備し、インフォアーツの各資質をまずは生協を舞台にして学習できるようにするだけでも、ネット全体の雰囲気が変わるだろう。

脆弱な市民発信を促進し、社会において欠落しがちな情報を積極的に提供し、市民的ネットワーキングを支援することは、生協運動発展の視点から見ても当然であるし、そこでのコミュニケーションを自浄作用につなげることもできるだろう。たんにIT政策に乗るのではなく、インフォアーツ形成の環境づくりに貢献するとの目的意識を明確にした上で積極支援をしてほしいと思う。


¶三 着地の思想


■出会うこと

「ネットのことはネットにきけ」と言われてきた。基本的にはそのとおりだと思う。かつてインターネットにはシティズンシップを経験するミクロな状況があちこちに埋め込まれていた。それゆえネットはシティズンシップをレッスンし、メディア・リテラシーをトレーニングする場所であり得た。けれども、学ぶべきネットの文化がじつに多様なものになってしまった現在、ネットから適切に学ぶことは中級者でもむずかしい課題になっている。それゆえ、インフォアーツを育てるには「ネットにきけ」では不可能になっている。対面的なコミュニケーションによるサポートが必要だ。

というわけで、モニタの「こちら側」としての苗床集団がインフォアーツにとって重要なのである。かつてパソコン通信で盛んに行われたオフ会の思想を反転させたようなものだが、社会学的には「ネットにおける中間集団の再発見」と言いたいところだ。

ネットと生活世界を媒介する力がインフォアーツの核になる。要するに、地に足のついたネット文化の構築が望ましい。「着地」がキーワードだと私は思う。

この着地は、学校や生協や職場といった社会的文脈での「出会い」を前提している。私たちは、こういう場所で他者と出会い、日常的にコミュニケーションを深めている。こういう人間関係を基盤にして、出会いを広げていくのがリスクのないやり方だろう。

そのまったく逆を行くのが出会い系サイトである。なぜかインフォアーツのない初心者(いつまでも初心者の人)ほど、こういうものに弱いのはなぜだろう。今ではケータイ経由が多いのだろうが、若い人たちが、わずかな警戒心だけで、目的のない出会いをしている。いや、目的はないわけではないのだろうが、ネットでの新しい出会いが豊かさと幸福をもたらす相乗的なものであるようなものになるには、相互に高度なインフォアーツが必要である。出会い系にはまる人たちが、はまったまま、なかなか抜けられないのは、要するに着地に失敗しているのである。成功していれば、その必要がなくなるのであろうから。

私に言わせれば、要するに順序が逆なのである。すでに出会っている人たちが相互に学習しあいながら習熟したのちに、ネット上の輪を広げていくのがスジというものだろう。そして、ネット上にしかるべき文脈を構築して、その中で新しい人たちと出会っていけばいい。やはり文脈構築がたいせつであって、行き当たりばったりはリスキーなだけである。


■「リアル対ヴァーチャル」二元論をやめよう

「着地」という言い方は、暫定的なものである。それはあくまでも「リアル対ヴァーチャル」という二元論(二世界論)を前提とした言い方だ。それは、ネットの世界をヴァーチャルと定義して、リアルな生活世界と分離して理解する仕方である。

着地論に関連して、ここで、「リアル対ヴァーチャル」二元論の中止を提案しておきたい。

私たちが掲示板やウェブについて論じるとき、知らず知らずのうちに、この二元論に立ってしまっている。そして、いつのまにか「ヴァーチャルな世界」を自己完結した世界と見なして議論してしまう。それはテレビドラマを現実の世界とみなして没入する態度と同型だ。

これは、ネット時代の冷戦思想(想像上の二元論!)である。これが、ネット上の出来事を理解するうえでの障害になっており、一種の思考停止に陥らせているのではないか。そろそろ多用するのはやめたほうがいいと思う。

たとえばオンライン書店は書架に関してヴァーチャルな情報空間である。しかし、じっさいにそれが機能するためにはとてつもなく大きな倉庫や流通センターが必要なのである。情報がいくらあっても在庫がなければ、精巧なデータベースも意欲的な情報発信も徒労に終わる。情報空間は自足しない。

だからネット上でのやりとりが特別なコミュニケーションであるというのは過大評価である。たしかに、ネット上のコミュニケーションは、手がかりが希薄であり、ノンヴァーバル・コミュニケーションのもつリアリティが欠けている。そして速度と量は桁違いである。しかし、それだけで自足しない。

冷静に考えれば、新しいメディアとしてのネットは、コミュニケーションの分断線の基準を切り替えているだけだ。つまり、送り手と受け手の範囲を流動的なものに一新したことが新しいのである。だからネットを「ヴァーチャルな新世界」として見るのではなく、ネットが新たにコミュニケーションの分断線を切り替えた効果が新鮮に感じているだけと理解した方が、現実認識として正しいのではないだろうか。


『インフォアーツ論』第六章 つながる分散的知性──ラッダイト主義を超えて

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第六章 つながる分散的知性──ラッダイト主義を超えて

¶一 共有地としての情報環境

■インターネットは共通のメタ言語

インフォアーツはネットワーク的知性である。この知性にとっては、知識を自分が囲い込む必要がない。そのつど情報環境上のリソースから引き出せればよい。インターネットがメタ言語の役割をして、それが構築する情報環境が共有地(共有知!)になるわけである。

では、いかにしてリソースとなる共有地=共有知をプールしてゆくか。知のコモンズとしてのネットをどう育てていくか。自分たちにとって意味あるものにできるかが問われている。共有地にはまだまだ空白地帯が残っている。これには積極的な関与と実践が必要である。

インフォアーツという明確な目的意識をもって、今度はアクターの構築ではなくシアターの構築の観点から、情報環境という共有地(コモンズ)の開墾に取り組むことについて考えてみたい。


■それでもネットは社会化する

私は、ネットがもはや市民をつくりだす力を失ったのではないかと書いた。それゆえ苗床集団において手堅いコミュニティでインフォアーツを育む戦略が必要だと説明してきた。

しかし、よくよく観察してみると、ネット上において、人びとはお気に入りの環境において(たとえば掲示板で、あるいはウェブ日誌で、あるいはメーリングリストで、あるいはマニアサイトやファンサイトで)それぞれの流儀や作法に適応していることがわかる。一般常識的に見て「無法者」系の人びとでさえ、そのコミュニティ特有のジャーゴンを用い、共通のものを「敵」と想定して罵り合って攻撃していたりする。それは社会学的には「集団への適応」であり「集団への忠誠」に他ならない。「市民化」というわけにはいかないにしても、ネット上でも十分「社会化」は生じるのである。

その意味では、あらゆる方向からインフォアーツ的な情報環境を創造していくこともまた重要なのである。かつては苗床の役割を果たしていた市民主義的コミュニティは孤島のようになってしまっているので、それだけに期待するのはもはや現実的ではないだろうが、それぞれの文化において、適切な「社会化」を期待することはできるだろう(ここでも第一章二の「ネットにおける大人のなり方」を思い出してほしい)。


■インフォアーツ支援情報環境の三つの核

共有地としての情報環境整備の問題をコミュニケーション・スタイルごとに考えていこう。インターネットを中心とするネット系の情報環境は、コミュニケーション・スタイルの理念的モデルから見て、ほぼ三つのタイプが核になる。

(1)市民主義モデル

(2)市場経済モデル

(3)公共サービスモデル

第一に、市民主義モデルは、互恵性原則に基づく一種の贈与文化をベースにしている。担い手は個人(しばしばネティズンと呼ばれる)やガバナンス的な集団(正式にはボランタリー・アソシエーションという)である。

第二に、市場経済モデルは、市場原理に基づく経済行為をベースにしている。有料、広告、パブリシティ、無料、オークション主催など、形態的には多様である。担い手は企業である。

第三に、公共サービスモデルは、行政情報サービスや図書館などの活動である。財源があり、営利を目的としていない組織が担い手である。教育研究機関もこれに含めていいだろう。

というわけで、理念的に考えるかぎり、関与の仕方にはさしあたり三種ありうる。

第一に、市民主義モデルからの関与。すでに確認したように、私たちは職業生活や趣味生活などにおいてエキスパートとしての知識をもっている。その一部を、多くの人たちのために整理して公開することで情報環境の構築に参加できる。どんなテーマでも、いかに小さなものごとについても、その知識があれば有益だという状況の人たちはいるものだ。まして、専門家として生活している人たちは、積極的に公共的な役割を担うことができる。

第二に、市場経済モデルからの関与。企業組織によって担われる関与。会員制や有料の場合もあるだろうが、広告であれパブリシティであれ無料にできるサービスはあるものだ。商品情報や企業情報として公開できるものを公開することで、情報環境に貢献できる。消費者側もそうした貢献を評価することで一過性のものでなくなる。やはり持続的かつ組織的な取り組みがないと情報環境は豊かにならない。オークションや掲示板のように、人びとのコミュニケーションの仲立ちとして貢献することもできる。こういう「ことばの市場経済」を活性化させることも重要な役割だ。

第三に、公共サービスモデルからの関与。図書館や各種の情報支援の行政サービスの役割は大きい。情報開示の社会的責任があるだけに、できることをやるとかなりのことができるはずである。国会図書館については、これからに期待したい。

では、どのような情報環境を育てていくのか。知識の供給側として何が必要なのか。ポイントになることをいくつか指摘しておこう。


■「私有地の平安」としての情報の囲い込み

情報環境を共有地として考えると、環境社会学や環境倫理において議論となる「共有地の悲劇」問題が想定される。といってもハーディンのいう「共有地の悲劇」のようなことは情報環境については考えにくい(シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理(下)』京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、一九九三年)。情報環境において「共有地の悲劇」が生じるとすれば、(情報過多によって)損失されるのは人びとの生活時間ということになりそうだ。

それはともあれ、「共有地の悲劇」以前とも言うべき問題がある。それは特定の組織による情報の囲い込みである。これは「私有地の平安」問題とでも呼べばいいのだろうか。

たとえば、旧・学術情報センター、現在の国立情報学研究所は、多くのデータベースを各種研究学会から上納させて統合させてきたが、その成果は限定された組織と人への有料公開だった。この姿勢の問題性はあきらかである。世代交代と組織改編に伴って、ずいぶんと改善されてきたものの、抱えているリソースの公共性を思えば、未だに社会還元されていないと思う。

このような閉鎖系の組織は、私から見ると総じて発想がインフォテックなのである。インフォテックなところは閉架式図書館のようなもので、不便で一覧性がないからこそ事故も悪さも少ないように見えるし、じっさい少ないのだろう。組織の事なかれ主義と相即していることが多い。

企業でさえ、開放系のところがたくさんでてきている。公共性の高い情報をもつ組織を、閉鎖系から開放系へと転換させることが、まず何より重要である。


■ナヴィゲート構造の対抗的構築

情報環境としてのネットは、けっして均等なハイパーテキストではない。それを形作るリンクはさまざまな主体の意図的行為であって、中性的なものとは言えない。それゆえ、ハイパーテキストは、濃淡の激しいナヴィゲート構造を構成している。

だから、パソコンを使い始めたばかりの中学生はいつのまにか電話回線が国際通話に切り替えられるようなサイトにつかまり、大学の放置されたパソコン教室ではけたたましい音楽があちこちで鳴り響き、オヤジたちはエッチ系サイトの閉じたリンク構造に閉じ込められ、世の中に何か文句を言いたい人たちは特定の掲示板内部のミクロなやりとりから眼を離せなくなるのである。

このようなナヴィゲート構造は意外にも強力である。共有地の密林には「けもの道」があって、そこをたどるのが安易な冒険であるように、ネットにも強力な「けもの道」ができあがっていて、人びとはささやかな冒険をしている気になっている。

そういうものが「けしからん」などと言うつもりはない。言っても始まらないだろう。そもそも情報環境は共有地ではあるが、加算性の共有地である。土地は開拓すればするだけ増える。勝手に私有地を開拓して、通行人たちを呼び込むことはまったくの自由である。力任せにやれば自分たちなりのナヴィゲート構造をネットに構築するのは、だれでもそれなりにできる。

だから結論から言うと、インフォアーツのための情報環境も勝手に作ればよいだけである。つまり、通行人(=しろうと)たちの溜まり場への広い道に対抗して、強力なナヴィゲート構造を整備していけばいいだけの話だ。ところが、これがなぜかかんたんにはいかないのだ。

私の見るところでは、今後、次の三者がどのようなものになるのかによって、インフォアーツのためのナヴィゲート構造は決まる。

(1)専門家の役割

(2)眼識ある市民と苗床集団の役割

(3)組織による公共サービスの役割

それぞれについて、問題点などを考えていこう。


¶二 専門家の役割


■なぜ専門家はネットに出てこないのか

インフォアーツ支援的情報環境の構築ということになると、専門家の役割は非常に大きい。しかし、現状は、大公開時代の幕開けから七年がすぎているにもかかわらず、相対的に貧しいと言ってよい。なぜ専門家は豊富な知識と言語表現能力をもっているのに、専門家としてネットでの役割を引き受けようとしないのか。

第一に、「お金にも業績にもならない文章を書き続けられるか」という、ある意味では思想的な問題が個人的に解決されていない。

第二に、ネットにかける時間がとれない。専門家だけの話ではないが、要するに忙しい。ゆとりがない。じっさいやり始めてみると、予想以上に時間をとられるという問題がある。

第三に、情報過多の問題。比較的限定された専門家集団の言説に対して、ネット上での関連テーマに関する言説には専門家以外の多くの人びとがかかわるので、言説が無数に存在することになる。専門家の流儀にしたがって、これらをチェックした上で、リンク集を作るなり、反論するなり、情報提供するなりのことをするには、あまりにも手間ひまがかかることになる。しろうととしてであればかんたんに発言できても、こと専門家としてとなると、無防備にはいかない。

第四に、専門家は実名で発言する。印刷メディアには当然のように実名とともに論文なり発言なりが公開される。しかし、ネットにおいて実名でそれをやるのはとてもリスキーなことである。少しでもネットの実態を知れば、事なかれ(雉も鳴かずば撃たれまい)の態度になってしまうのは否めない。

第五に、そもそも専門家というと個人の自律的判断が要請される職業であるが、じっさいの判断は専門家集団の標準化され規範化されたルールを適用しているだけである。その意味で専門家は職業集団への忠誠度・埋没度は高い。ところが、多くの専門家集団は、ネットを主要なメディアと定義していない。つまり、長年にわたって公式の報告と印刷物を主要メディアと定義してきた。それだけに、ネットでの積極的活動は専門家集団における「逸脱」と見なされる可能性が依然として高いのである。「先駆的事例」と評価されているケースも、守旧派からは「あんなものは業績ではない」とか「よけいなことをして」といった反応を返されたりするものなのだ。苦労して何かを公開しても、これでは何もいいことがない。たんにリスクを伴う無益な行為である。

というようなわけで、専門家集団においては意外なことに「インターネットなんていらない!」といったラッダイト主義が健在なのである。しかし、私はこれでいいとは思わない。


■インターネットは図書館ではない

ネットを情報環境として評価すると、ひとつ決定的な欠陥のあることが指摘できる。つまり「インターネットには何でもある」と言われながら、じつはもっとも市場価値のあるコンテンツが見事に欠落しているのだ。すっぽり抜けているのが市販書籍のコンテンツである。これはとても大きな限界である。だから「インターネットは巨大な図書館だ」という言説は、たとえとしては大きなまちがいなのである。図書がほとんどないのであるから、「文書館」とは言えても、まだ「図書館」にはなっていない。「デジタルライブラリー」は未だにヴィジョンにすぎないのだ。

本がすっぽり抜けている理由はあきらかだ。出版社側から見ると、販売促進・広報としてのネット活用は理解できても、現に販売中の本のコンテンツ自体を採算の見込みのないネットで公開することはとてもできない。とにかくこの出版不況の中、本が売れなくなるリスクが怖い。だからせいぜい品切書について有料公開を試みるのが関の山なのであるが、これはこれでそれなりの(主としてテキスト化と校正の)経費がかかるため、大きな潮流にはなっていない。

このリスクを飛び越えられるのは、著作権をもつ「著者」だけである。少なくとも理論的には、著者の動き方しだいで何とかなるはずだ。その点で専門家の役割は大きいのである。問題はどのように実践するかである。


■出版物とネットをシンクロさせる

越え方には、いろいろありうるだろう。

第一に、単純に過去を公開するやり方。論文を公開するのはかんたんだ。現役の本の場合も、一部を公開することはむずかしくない。共著の場合の自分の持分だけを公開するのであれば販売への影響は少ないはずだ。品切れの著作は、よほどのことがないかぎり復刊や文庫化はないだろうから、出版社の了解はとりやすい。要はそれをする意志があるかどうかである。問題は若干の費用がかかることで、テキストファイルが残っている場合以外は、テキスト化と校正の費用がそれなりにかかる。しかし、これも自分でやってしまえばタダですむ。

第二に、将来に備えるやり方。とにかく完全なテキストデータを手元に残すことである。出版時に校正で大幅に赤字を入れるケースもしばしばあるものだ。そういう場合は刊行されたものとテキストデータにずれができてしまう。校正作業の中で、そのずれをきちんと処理しておくことだ。本来は残念なことだが、いまどきの本の販売期間は短い。数年たてば品切れのまま放置されることになりがちだ。そのときはネット上で延命させればよい。

第三に、現在に同居させるやり方。ネットとの共存アプローチと言ってもよい。ここが一番高度な合わせ技を必要とするが、すでにさまざまな試みがなされている。

有名なメールマガジンでは連載原稿を次つぎに本にしている。バックナンバー公開については調整をすることもあるようだが、ウェブだけがネットではないわけだから、こういう同居の仕方があるわけである。研究者では、自分の個人サイトを文字通りの「研究室」とみなして、アイデアや資料紹介や草稿から公開してしまうやり方で成功している人も少なくない。ネットでの研究を出版物に仕立て上げていくことで、着実に業績としていけるわけである。この場合、出版物とネットのコンテンツとで異同があったとしても、途中経過から公開するのは読者にとって得がたい学習過程そのものになるはずだから、情報環境の充実には十分貢献していると言える。また、出版社契約を前提にしたシェアテキストのシステムを利用することもできる。割高になるが部数の多少を気にしなくても済むオンデマンド出版の活用もできるようになった。

とくに学術系については、以上のような手法はそれほど困難ではないだろう。学術系出版の場合、著者たちには利益獲得という動機よりも業績蓄積という動機がまさる。多くの場合、著者はすでにそれなりの給与を得ているし、学術系では業績が結果的にポストや給与などに反映するからだ。

要は専門家個人の裁量にかかっている。専門家が自らの知識を社会にどのように還元していくかについて、インフォアーツ的な考え方をとれば、実行まですぐである。

しかし、納得の仕方さえも、いろいろあってよいのだ。純粋に自分の知的世界を構築する悦びとして納得できればそれはそれでよいし、専門家として社会貢献する仕方として理解することもできる。一市民として専門知識を公開して役立ててもらうという理解もできる。控えめな自己宣伝としてでもよいし、専門家としての自らの信念を啓蒙するという納得の仕方もある。そして危機意識や批判意識の発露としておこなうというのも大いにありうる。せっかくまとめたものだから「もったいない」ということがあってもいいし、「どうせならみんなに使ってもらいたい」という気持ちからでもいいと思う。


■議題設定と科学ジャーナリズム

研究者自身が系統的に専門知識を整理したサイトを公開するとき、わかりやすく気軽なインターフェイスで専門分野について発信することの意義を確認しておこう。それは科学ジャーナリズムの機能を果たすということだ。ラフなスタイルを尊ぶネット文化のおかげで、印刷物ではなかなかできないようなスタイルで専門知識を語ることができるようになった。この効用は大きい。これは一種の科学ジャーナリズムなのだと思う。

日本のジャーナリズムは概して科学ものに弱いと言われる。専門の記者を育てない風土が背景にあるからだが、やはり専門家自身がふだんから専門知識の社会的配分に気を配るべきなのだ。

戦前の思想家・戸坂潤に「アカデミーとジャーナリズム」という有名な論文がある。かれは両者の対立構図を論じながら、〈アカデミズムの専門性と原理性〉と〈ジャーナリズムのアクチュアリティと批評性〉とを連接するような社会科学を構想した。戸坂自身が考えていたものは、たぶん現代では陳腐なものであるが、かれが必要と感じたアカデミズムとジャーナリズムの連接可能性自体は現代においても意味があると思う。ここで私が主張したいのも、このような可能性であり、マス・メディアを介さない学問のジャーナリズム化である。

それはたとえばこういうことだ。ネットワーク上で複数の専門家たちが自発的に研究成果や社会的発言を発信する。それはマス・メディアからの注文ではないメッセージである。つまり研究者自身があくまでも内発的に議題設定から立ち上げたものである。それを眼識ある市民たちがネットワーク上に見いだして勝手に学習する。もちろんマス・メディアがそれに気づけば、それを取材源にすることもあるだろう。専門家自身が「今、何が問題なのか」という議題設定にかかわることがポイントである。


■研究組織の支援

しかし、これまで述べたことも無償のボランティアでは限界がある。大学や学会などの研究組織が長期的な展望に立って研究者のこのような行為を推奨し具体的に支援しないと定着しないだろう。しかも、囲い込みの発想ではなく、分散的知性を集合させるという発想で「この指とまれ」的な役割を担ってほしいものだ。

具体的には、次のような役割がありうる。業績データベースの自主的一般公開。所属メンバーの業績の完全なリソースリスト(ウェブへのリンクや公開メーリングリストの案内など)の公開と更新。機関誌バックナンバーなど全刊行物のネット公開。社会問題・時事問題への社会的発言の場所提供。業績のネット公開への助成・サポート。ネットへの公開を伴ったオンデマンド出版の助成・サポート。

要は、欠落しているコンテンツを埋めるということである。しかし、以上のことは、すでにやられているように見えて、じつはあまりやられていない。業績データベースについても、国立情報学研究所上でのみ公開しているケースが多く、無料の自主的一般公開をしている研究組織は、少なくとも人文社会科学系では少ない。メンバーのサイトのリンク集ぐらいはできそうなものだが(直接アンケートできるのだから)、満足に更新されているものは少ない。できているのは小さな学会や研究会ぐらいである。機関誌バックナンバーの読める研究組織のサイトは数えるほどしかない。

古文書や貴重図書などのウェブ公開は、研究助成が受けられやすいせいか、比較的順調に進んでいるようだ。しかし、新しいメディアが登場するときには「ボトルネック効果」というものがあって、案外古いものは新メディアに移し変えられやすいが、ほんの少しだけ古いものは放置されるというのがある。それには当てはまっているところが多いのではないだろうか。あと「この指とまれ」的な企画も、もっとあっていい。たとえば定義集や事典のようなものを編集するようなことだ。それぞれの専門分野についての情報環境の構築を支援してもらいたいものだ。


¶三 眼識ある市民の役割


■社会問題の構築

知識と人間の関係についてふれたときに「眼識ある市民」という役割についてかんたんに説明した。人は職業生活においてしばしば「専門家」であるが、他の領域については「しろうと(通行人)」である。しかし、この二つの役割に安住しないで、さまざまなものごとを知っていこうとする意欲をもつときがある。そのとき私たちは「眼識ある市民」として情報環境にアクセスし、そして関与しているわけである。このような関わり方(ある種の人間が「眼識ある市民」なのではなく、あくまでも知識や情報との関わり方であることに注意してほしい)も、専門家の役割と同様に重要である。

おそらくそれは社会問題の構築や世論の構築において重要なのだと思う。ここでは「着地」の一例として、社会問題の構築にしぼって説明しよう。

従来の社会問題化のプロセス(「社会問題の自然史」すなわち、ある出来事や現象が人びとによって社会問題として認識され、承認され、公式に解決されていく動的過程)は次のようなものである(J・I・キツセ、M・B・スペクター『社会問題の構築』村上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太訳、マルジュ社、一九九〇年、第七章を参照して作成)。

(1)当事者の苦悩や疑問

(2)異議申し立て

(3)専門家・行政・関係者による問題の定義

(4)マス・メディアによる社会問題化(異議申し立ての承認)

(5)人びとの反応(世論)

(6)公式的政策

(7)当該問題に対する関係者の再定義

社会問題の構築過程では、専門家やマス・メディアが大きな役割を果たし、公式には行政機関が認知して政策を実施する。しかし、これらの各段階で「眼識ある市民」として多くの人びとがインフォアーツを生かして積極的に関与すれば、社会問題化のプロセスは、より自省性の高いものになりうるし、従来以上の速度をもちうるだろう。そして、こうした変化はすでに始まっている。


■眼識ある市民の役割

第一段階「当事者の苦悩や疑問」から第二段階「異議申し立て」の過程では、しばしば切実な動機による情報探索がおこなわれる。ネットを活用すれば、しかるべき専門知識や情報にアクセスできるし、協力者や専門家に接触することもしやすい。異議申し立ては、内部告発としてなされる場合もあれば、社会運動として組織化する形で地道におこなわれる場合もある。クレームサイトを立ち上げて、広くアピールするというのは、むしろ基本であろう。

当事者やたまたま現場に近い人たちが、ネット上でちょっとした疑問をぶつけたり悩みを公表したりすることによって、オーディエンスとして参加していた専門家やマス・メディアの人がそれにいち早く気づく可能性もある。というのは、ネット上ではかなり細分化された主題ごとに場が分かれており、社会構造上の関係者が出会いやすい仕組みになっているからである。つまり主題媒介的な関係形成が行われやすい。

第三段階「問題の定義」というのは、その出来事がどのような意味をもつのかについて、さまざまな主体が解釈をぶつけあうという段階である。専門家集団や関係者が日常的にネットワークを作っていれば、それぞれより洗練された定義が構築できる。

とくに社会問題化において決定的なターニング・ポイントになるのが第四段階の「マス・メディアによる社会問題化」であるが、ジャーナリズム業界では近年、ネット取材やコンピューター利用調査報道の可能性が追求されている。すでに日本の新聞でもインターネットからのニュースソースの発見はぐんと増えている。いずれにしても検索の容易さ・出会いやすさという特性が社会問題化のプロセスを短縮するはずである。

マス・メディアはその情報量ではなく、その知識の統合力と正当性付与力に特性がある。ネットにこれらの力は弱い。マジョリティをまとめる力はない。それは特権的なゲイトキーパーがネットに存在しないからである。その意味ではネットによってマス・メディアが駆逐されるとは思えない。むしろ共生すると見るべきだろう。

第五段階「人びとの反応(世論)」が社会問題の流れを決定づける。人びとの反応はさまざまな場で生じるが、ネット世論は、マス・メディアでの論調に対する批判的論評から始まるものなので、ここが「眼識ある市民」たちの腕の見せ所といえる。つまり、マス・メディアに対する対抗言説・対抗世論の足場となる可能性がある。これは、第七段階においても同様である。

まとめると、社会問題の構築過程において「眼識ある市民」は、言わば楽器の共鳴板の役割を果たすのだ。どれだけそれを聴き取る「しろうと(通行人)」が出てくるかは、条件しだいだろうが、共鳴がなければ「しろうと」はそもそも見向きもしないだろう。


■苗床集団の力

メーリングリストや掲示板などで、専門家というわけではないはずなのに、どんなテーマについてでも知識があって、鋭い批評をする人がいるものである。こういう「眼識ある市民」という関わり方は、自然にできるものではない。ネット上で見かけるこのような人たちは、たいてい実名か固定ハンドルでネットと付き合ってきて鍛えられた人たちが多いようだが、すでに指摘してきたように、匿名主義がメインストリームになってしまうと、ネットの拡大にもかかわらず、そういうチャンスはぐんと少なくなってしまう。今では、いつまでたっても「しろうと(通行人)」としてしか関われない人たちが多数派である。

私が苗床集団と呼ぶものに期待するのは、そうした現状を打開する要素をもつからだ。

苗床集団は、いずれも、特定の問題について志向性をもっているものだ。生協であれば商品情報や環境問題であろうし、労働組合やユニオンであれば労働問題である。学校のクラスや大学のゼミであれば「特定テーマについて知る」という志向性をもっている。市民運動や何らかの社会運動組織であれば、議論すべき問題は明確に定義されていて、そこに集う人たちはそれを共有している。それが辺境意識や被差別意識の場合もあるだろう。マイノリティ意識や文化的マイノリティとしての自覚(先端的であるケースもふくめて)が共有されている場合もあるだろう。

つまり、苗床集団は、インフォアーツの苗床であるとともに、もともと社会問題や世論の苗床でもある。言わば社会の「病床」を分担している作業集団なのだ。

それゆえ社会問題の構築については、個人(「眼識ある市民」として関与する人)だけでなく、苗床集団の取り組みが重要な役割を果たしうる。そのさい対面集団としての「濃さ」を高度なインフォアーツによってネット上で表現できるかどうかがポイントである。

まずはローカルなネットワークをつくって、あとでそれらをつなぐ。この順序がたいせつである。学校や大学などでいきなり全学的な掲示板をつくったりするケースがあるが、愚の骨頂だ。クラスやゼミ単位の小さなメーリングリストなどをたくさんつくることから始めるのがスジというものである。もっと小さい、班や小グループ単位からであっていいぐらいだ。

生協によってはグループ活動が相当盛んなようだが、ネットによるグループ内コミュニケーションの活性化と、その途中経過と成果の公開から、さらにそれらをつなぐ上位のコミュニケーションをうまくかみ合わせることで、グループ間に予想以上の連携ができるものである。なぜかというと、もともとネットがなくてもやっていけると思っているけれども、そこで生成しているのはオープン志向の情報だからである。グループに閉じ込められているかぎり、それらのネットワーク連結性はわからないが、ひとたび(生協内部での公開だとしても)公開すれば、連結性は作動するはずである。

ネット利用についても小グループ単位が基本。あくまでも顔の見える範囲でネットに関わることだ。しかし、そこに安住するのではなく、そこから一歩外に出ることにポイントがある。この過程が正統的周辺参加としての「情報教育」なのだ。根拠地を持つ「うるさい人」ほど強いものはない。こういう関わり方のできる人たちが苗床集団から巣立って、ネットにでていくというパターンができるといい。


■語られる社会と文脈編集力

そのためには、このような組織や集団のネット環境を整える人たちが上手にコーディネイトする必要がある。その役割は大きい。つなぐ役割を組織的にしていくことで価値が出る。分散している情報と人をつないでいく文脈をつくりだす高度な力としての「文脈編集力」が問われるだろう。

このようにして苗床集団自体とその周辺にコミュニティをネットでつくりだしていけば、ネットはお手軽で低リスクの「シビック・メディア」(市民にとっての日用品的なメディア)として、社会問題化(社会問題の構築)のプロセスを変容させる可能性をもつだろう。

ここで少し大上段の話をかぶせておくと、そもそも社会は自己言及システムである。社会はたえず社会について語りながら社会を構成する。社会について政府や組織や集団や個人が語り続けることによって社会は維持され・変容する。「語られる社会」そのものが社会の構造的構成要素なのである。したがってネット上で展開される「ハイパーテキストとしての社会」は「語られた社会」として現実の社会の構成要素なのである。いわば「社会の生成」の過程がネットを媒介にして生じているわけだ。

それが「モラル・パニック」になるか「社会の自省」になるかはわからない。しかし、苗床集団とそこを拠点とする「地に足のついた人たち」が大量にそれらの言説を支えていけば、社会の自省に何らかの寄与ができるのではないかと思う。


¶四 セクター組織の役割


■組織による公共サービスの役割

インフォアーツ的な情報環境の構築については、どうしても組織の力がものをいう。データベースはもちろんだが、特定分野のリソースリストひとつにしても、個人で維持するのはたいへんむずかしい。つくること自体は可能だが、それを定期的に更新し続けるというのがむずかしいのである。しかし、それにもかかわらず組織的な公共サービスとして、そういうものを提供できている組織は非常に少ない。たとえば、検索サイト以外で、人文社会系のリソースリストとして「使える」ものは、「アカデミック・リソース・ガイド」や「アリアドネ」でほぼ一覧できるが、じつに限定されていることもわかってしまう。そもそもこのふたつのサイト自体が個人のものであって、組織によるものではないのである。

学術系の場合、こういう仕事は、本来、図書館や研究機関が果たすべき仕事である。この仕事には、データを提供する仕事とナヴィゲート構造をつくりだす仕事のふたつがある。

一例を出そう。我田引水になるが、たとえば私が参加している法政大学大原社会問題研究所の場合、労働問題が対象分野になっている専門図書館と研究機関の役割をかねている。その公式サイトOISR.ORG(オイサー・オルグ)では、データ提供の仕事として、月刊誌の最新号およびバックナンバーの全文公開、年鑑バックナンバー(主要なもの)の全文公開、ポスター資料の全画像公開などを系統的に続けている。これらだけでも相当数のファイルになるが、戦前の貴重な現物資料も順次内容を公開している。所蔵図書の書誌データベース公開は当たり前だが、労働関係の論文だけをすべて集めた巨大な論文データベースなども継続的に更新・公開している。これらは組織内部に抱えているデータをネットに公開する仕事だ。

それとともに、ほとんどすべての労働組合のサイトの系統的なリソースリストも公開し、定期的に更新をしている。そこからリンクされているサイトの全文検索ができるようにしてあるし、それらのアーカイブも保存して、半世紀後(?)の研究に備えている。これらはナヴィゲート構造の構築にあたるだろう。

労働問題の組織ではJIL(日本労働研究機構)が同様のサービスをしており、こと労働問題については、このふたつの組織でかなりの環境整備ができつつある。労働問題について実務的に調べる人も研究する人も、他のテーマ領域に関心のある人よりも恵まれていると言えよう。同じ経済や社会についてであっても、異なるテーマとなると、とたんにさびしくなってしまうからである。


■セクターとしての役割

組織による公共サービスには、じつはもうひとつの仕事を期待したい。それはネット上でのセクターとしての役割である。

これについてはオンラインショップが導入しているアフィリエイト制が参考になる。これは、本やCDなどの商品を個人サイトで紹介してもらうことで、マージンをポイントなどで紹介者に与えるとともに、個人サイトのもつネットワークで顧客をショップにつなげていこうという仕掛けである。また、よく知られたネットオークションのシステムは、人が集まる文脈をつくりだして、そこに数多くの人たちが固有の情報を相互交換できるようになっている。一時問題になったナップスターも発想としてはセクターとしての役割に注目したものだった。要するに「この指とまれ」的な役割である。

オンラインショップの場合、これらは我田引水的な一種のナヴィゲート構造の構築であると言ってよいが、このような方式を学術系や社会問題系サイトが導入することがあってもよいのではないか。

素朴なところでは、テーマの明確な掲示板やメーリングリストのような、一般公開すると手のかかるものを積極的に引き受けられないものだろうか。そして、そこに集った人たちに相乗的な効用をもたらすような形にできないだろうか。NHKはこの点で比較的上手に運用しているように見える。できない話ではないだろう。高価な集中処理方式の巨大システムを構築する時代ではなく、分散処理方式で小さなシステムをリンクして相乗的な効果を生み出すのが、インターネット時代の情報環境のつくり方であろう。それぞれの組織は、所与のテーマについてのみ環境づくりに寄与すればいいのである。


■分散的知性をつなぐ

古典的教養主義は貯蓄型の知性だった。知のストックを自らが担う、この復古的な知性と、クローズドな情報システムはよく似ている。

それに対して、私がインフォアーツ概念によって論じてきたのは、言わばフロー型知性の構築である。個人であれ組織であれ、ストックするものは多くなくていい。また断片的でいい。ハイパーテキスト的な情報環境の、ごく一翼の持ち分を自発的に掘り下げておけばよいのである。それは分散的な知性として、しかし、ハイパーリンク的につながることによって知力を発揮できる。つまり「つながる分散的知性」なのである。

たとえば、私たちは特定の問題についてのリソースをすべて知っている必要はない。リソースへのアクセスの仕方さえ知っていればいいのだ。検索技術を磨き、情報の信頼性を見抜く眼識をつけ、能動的に関与する意欲をもって、たとえば自分が提供できる情報を情報環境に積極的に提供するような日常的実践を積み重ねていくことによって貢献する。そういうネットワーカー的な知性を構想してきた。

問題は、そういう分散的知性を上手につなげる工夫が開発されていかなければ、相乗的な効果がでないということだ。私が「文脈編集力」と呼んできたのは、そういう工夫のことである。情報に重み付けをし、巧みに要所要所をつないでいく高度なエディターシップである。信頼可能な情報環境の構築には、このような編集力、とくに組織的な文脈編集力というものが今後は必要になるだろう。