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2022年1月16日日曜日

「健康論の誘惑」を読み解く

「健康論の誘惑」を読み解く

本書のタイトルは「健康論の誘惑」である。しかし「みんなで健康について楽しく語ろう!」といった能天気な本ではない。

ここで言う「健康論」とは、身体の状態について人びとが日々語っているもののことだ。健康について語られたありとあらゆることば、私たちはそれを「健康言説」と呼ぶ。また、広告のように図像表象的に健康を語るやり方もある。これは「健康表象」である。それらは相互に連動し、独特の魅力を放ちながら、健康論的言説世界に人びとを誘惑する。それが現代社会の重要な構成要素になっているのではないか。私たちは、それをカッコに括るメタレベルの地点に立って分析する必要があると考えた。

要するに〈健康について人びとが語ることのもつ社会的な構築力〉について論じてみようというのが本書のテーマである。あえて内容告知的な副題をつけると「健康言説ならびに健康表象に関する培養型ナヴィゲート構造の社会構築主義的分析」ということになるだろう。公式の英文タイトルは "Addicted to Health Discourses" にした。分析の焦点は、人びとが熱心に健康について論じるという現象それ自体、あるいは健康について語ることがもつ得難い魅力自体にある。まさに「健康論の誘惑」そのものが本書の研究対象なのである。

そもそも本プロジェクトは、一九九五年夏から野村一夫(社会学)が公開していた個人サイト「ソキウス」の医療問題関連ページを読んだ池田光穂(医療人類学)がコメントを送ったことに端を発する。これがきっかけでメールを介しての討論が始まり、医療問題についての共同研究を立ち上げようということになった。そのさい、池田の旧知の研究仲間だった医師の佐藤純一(医療史・医学概論・社会医学)が加わり、三人で明治生命厚生事業団「健康文化」研究助成に申請した。そのときはとくに詳しい知識があったわけではなかったが、健康というものを構築主義的に見直す線で研究計画を立てた。このプロジェクトは一九九七年度の研究助成に採択されることになり、それで三人の討論が始まった。

翌年このチームは拡大して当時熊本大学にあった寺岡伸悟(社会学)と佐藤哲彦(社会学)が加わり、一九九八年度の吉田秀雄記念事業財団研究助成によって健康関連広告について一年間共同研究することになった。本書はその報告書『日本の広告における健康言説の構築分析』(一九九九年三月、全一二一ページ)をもとに、明治生命厚生事業団での報告を取り込み、さらに本プロジェクトと前後して書かれた池田と野村の個人研究を加えて、全面的に改稿したものである。

全体として、前半にケース研究、後半に試論的な理論研究を配したが、基本的に各論文は独立したものである。陀羅尼助、折込広告、生活習慣病、中米の民間医療、存立構造論、身体論、学説動向といったように、テーマも素材も多様である。まずは対象となった「健康論」の多彩な展開形態にご注目いただきたい。

本書自体がある程度の時間幅を内在させていることと、各自それぞれ自分の研究スタイルをもって取り組んだこととによって、一見して統一感の薄い論文集に見えるかもしれないが、しかし、ここに収められた論文群は草稿段階から頻繁なメーリングリストでの応答と研究合宿での濃密な議論によって相互に深く参照しあっており、微妙なズレをはらみながらも、ある程度の基本思想が共有されていると言っていいだろう。その意味で、確実にこれらはひとつのプロジェクトの産物なのである。

私たちの共有スタンスを一言でまとめると、健康と病いの問題をいったん医療の文脈から解き放つこと、何よりも近代医学および公衆衛生学的視点から見ることをやめることである。

健康になることを語る(騙る?)広告のように「売りたい」「儲けたい」「経営をよくしたい」といった経済的な願望から語られる健康に対して距離を取ることは言うまでもないが、それらを批判する側にありがちな「問題は解決しなければならない」とか「科学的真理に即して俗説を排する」とか「人びとが健康な人生を送れるように願う」ことからも解放されることが必要だと考える。これらのエートスや願望そのものが現代社会を構築する自己言及的な構成要素になっていると考えるからだ。現代社会の批判的分析を志す研究者としては、あえて異邦人の眼で見ることを心がけた。

したがって本書においては、権威ある医学的真理も、制度化された公衆衛生行政も、内外の民間医療も怪しげな折込広告も、そしてそのようなものを理性的に研究する営みも、すべて同じ資格において並列され、研究の対象として批判的に論じられている。いずれも「からだにいいこと悪いこと」を語り合う営みにすぎないからである。その営みの総合こそが独特の信憑性構造を構築してきた。私たちが各人各様に切り込もうとしたのは、その独特の信憑性構造に他ならない。

すでに述べたように、本書は「平成九年度明治生命厚生事業団研究助成」および「平成十年度吉田秀雄記念事業財団研究助成」による成果であり、一九九九年から継続中の文部省科学研究費による研究「病気と健康の日常的概念に関する実証的研究」の中間報告的位置づけをもつ。これらがなければ私たちはそもそも出会うこともなかったし、研究合宿で深夜まで討論することもなかった。そして、長い議論のあと、温泉につかりながらその仰々しい効能書きを即興的に言説分析する楽しみも得られなかっただろう。記して感謝したい。

二〇〇〇年四月

著者一同

目次

「健康論の誘惑」を読み解く

第一章 不健康な医薬品たちへ——陀羅尼助からのメッセージ
寺岡伸悟

第二章 健康クリーシェ論——折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築
野村一夫

第三章 「生活習慣病」の作られ方——健康言説の構築過程
佐藤純一

第四章 健康は普遍的か? ——多元論的健康を考える
池田光穂

第五章 〈健康論〉の存立構造——あるいは、不在についての語り、について
佐藤哲彦

第六章 健康言説の政治解剖学——構築分析から因果論批判へ
池田光穂

第七章 健康の批判理論序説
野村一夫

参考文献

索引

著者紹介

健康クリーシェ論(3)

健康クリーシェ論:健康関連広告におけるクリーシェの諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築(3)

野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年12月6日表示11件

11 ヘルシズムという共同言説空間

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■共同言説空間としての折込広告

折込広告を素材にして健康言説の切り出し作業をおこなった結果、28の健康クリーシェのノードをえた。それらを七つの言説系に位置づけながら、個々のノードの実態を読みほぐしてきた。[表2]

すでに確認したように、折込広告における個々の健康関連広告は、以上に提示したさまざまな健康クリーシェのノードを組み合わせることによって成り立っている。

たとえば「禁煙楽々」(資料5)は、「反響続々」として「他者の承認」(ノード26)のあることを前面に出し、「タバコを吸いたくなったら、代わりに『禁煙楽々』の香りを吸い込んで下さい。爽やかな植物エキスの香りをかぐうち、タバコへの欲求は自然に消えてゆきます」と「お手軽主義」(ノード20)を謳う。「天然の貴重な植物原料」「中国原産の6種類のエキスでつくられた」と「素材よければ主義」(ノード10)に訴え、開発グループの「北京第一医薬大学薬物学教授」のメッセージを顔写真入りで掲載して「非西洋医療権威主義」(ノード5)で正当化する。

裏面では、「タバコの害を知る」との見出しの下に新聞記事を並べ「タバコはこんなに怖い」と「死への恐怖」(ノード15)を語る。新聞記事のひとつは、母親の妊娠時喫煙によって新生児に発ガン物質が伝えられるとする外電が使用されており、「子供のためです……たばこ吸わないで」との白抜きの見出しが目立つ。これは「嗜癖不道徳説」(ノード14)を引用しているのである。コピーされたふたつの新聞記事には「愛知県がんセンター」「米ミネソタ大学がんセンター」といった「医学的権威主義」(ノード3)による「近代医学言説」が語られており、そのようなマスコミ報道が傍証として利用されている。こうして恐怖を煽っておいて「どんなに喫煙歴の長い人でも、禁煙して約5年で、肺ガンにかかる危険が非喫煙者と同じレベルまで下がる」として「まだ間に合う言説」(ノード18)をぶつけてくる。そして「喜びの声!」という体験談が三件掲載され、禁煙に失敗し続けてきた遍歴をもつ人たちの「遍歴言説」(ノード21)と、その人たちが禁煙できたとする「生まれ変わり言説」(ノード22)が語られる。その遍歴の中には「タバコを吸うから病気になり、どんなに治療をしてもタバコを続ける限りいつまでも良くはなりませんよ」と医師から忠告された話もある。これは「リスク放置非難言説」(ノード13)である。そして「そんな私を見て噂も広がり、我が社では禁煙楽々が大変ブームになっています」と、再び体験談で「他者の承認」(ノード26)を強調するのである。(資料5)

なるほどこのケースでは周到に計算されているが、全般的には「その場しのぎのブリコラージュ」といってよく、自分たちにとって必要なノードだけを引用して、それぞれのナビゲート構造をつくりだしているのが実態である。ひとつひとつのノードに対して私たちは批判的でいられるが、ひとたびこうしたブリコラージュが提示されると、読み手は混乱し、とたんに個々のノードが説得味を帯びてきて、饒舌な健康言説によって隠されるものに気づかないまま、ひとつの実践(商品の購入)へと導かれていく。

ただし、それらがすべて広告主の思惑通りに進むわけでないのはいうまでもなく、そこには読者のリテラシーの限界を当てにしているところがなきにしもあらずである。批判的に読むかぎり「実践」への道は遠い。複雑系経済学の指摘する「視野の限界」「合理性の限界」「働きかけの限界」が大いに期待されているわけで、あえて狭い言説宇宙に閉じこもる人たちの少なくないことが、これら甘い戦術の広告主たちにある程度都合よく作用しているのであろう。[注20]

健康を語る他のメディア言説との比較は今後の課題である。また、広告とパブリシティとの比較もしなければなるまい。ニュースでのとりあつかいも将来の課題である。たとえば、今回の調査では意外に精力増進を謳ったものが少なかったのだが、これはマス・メディアにおける昨今のバイアグラ報道の過熱ぶりとはあきらかにちがうものである。所詮、ビッグ・メディアは多数派向けのメッセージしか流さない。精力減退以外に身体的不調を感じないような健康な人たちに向けた言説なのである。ところが、折込広告はそうではない。ビッグ・メディアから排除された少数派の人たちに親身に語りかける。すでに「先取り的自己言及スタイル」として提示したように、概して折込広告は「説得の論理」ではなく「共鳴の論理」によって支えられている。論理的説得ではなく感情的共鳴というべきだろうか。マイノリティのための共感の言説なのである。だからこそ読者の知識在庫にあるクリーシェの範囲内で健康言説を駆使するスタイルをとるのである。たとえそれがローセンスであってもかまわない。呼びかける相手もまたローセンスなのだから。

この点で注目しておきたいのは、ウェッブによる企業広告との類似性である。というのは、このあたりはウェッブ上での直接販売の広告とよく似ており、素人臭く饒舌で理屈っぽいスタイルは、分散型ネットワーク社会における広告表現としてはむしろ現代的とさえいえるかもしれない。いうまでもなく「分散型」とは、広告表現に即していえば、強大な送り手が周到な手を尽くして管理し表現するのではなく、かぎりなく消費者・受け手に近い人たちが直接手を下して表現し、それがそのままダイレクトに流通することを意味する。広告表現としての折込広告は、その意味でウェッブ広告の先駆け的なところがある。それは「一周遅れのランナー」なのである。

そもそも、これまで折込広告を読解してきたのは折込広告の媒体特性を研究するためではない。本研究の目標は、健康にまつわるクリーシェの宇宙を整理すること、そしてそこに存在するベクトルを培養型ナヴィゲート構造(権力作用)として社会学的に理解することだった。私たちが折込広告を研究するのは、私たちが日常生活において健康を主題としてコミュニケーションしている、まさにその言説空間を折込広告が反映していると考えたからにほかならない。対面的コミュニケーションの現場でたえず復唱される健康言説を、折込広告という固定された媒体に観察できるクリーシェに確認してきたということだ。

折込広告における健康関連広告の多くはいささかあやしげな世界の存在を提示している。しかし、それは私たちが内在化している現代文化におけるヘルシズムのあやしげな世界を直裁に投影しているからである。それは私たちが日常生活において感受している健康文化のいわば曼陀羅なのである。

おそらく媒体を拡大してこのような渉猟を続ければ、より豊富な言説群を取り出すことができるであろうし、事例もふんだんに提示できるだろう。今回の調査でおおよその見通しがついた。ノード間の連接関係の考察がまだできていないが、これも将来の課題である。おそらく社会史的な考察が必要になろう。

■民俗宗教としてのヘルシズム

最後に、今回の調査の暫定的結論として(つまり次回からの理論仮説として)一点提起しておきたい。これも近い将来の研究課題としてさらに裏付けをしなければならいないことであるが、今回の作業でおおよその理論的輪郭がえられたものである。

健康関連の折込広告を通して健康言説を精読するという作業の結果、筆者が確信したのは、広告という共同言説空間で自生的に構築されている健康言説の宇宙がすでに民俗宗教の域に達しているということである。ヘルシズムの実体はことば(つまり健康言説)であり、これといった中心はない。一種の中心なきコスモロジーを形成している多種多様な健康言説があるだけである。人びとは健康を語ることによってヘルシズムの言説宇宙の構築に関与し、同時に「予言の自己成就」のメカニズムによって自己言及的に拘束される。健康言説によって自己(そして他者)の身体アイデンティティについてのモニタリングとリアクションが生じるのである。こうした再帰的な循環構造がさまざまな言説主体によって強化されており、その中でも広告をはじめとする各種メディア言説が重要な培養的役割を果たしているのではないか。以上が今回の作業の結果、推論された理論仮説である。

では、なぜヘルシズムを民俗宗教と定義するのか? それには少なくとも七つの理由が考えられる。[注21]

第一に、そもそもヘルシズムは「健康」という絶対神による一神教ではない。それは相対立する神々の闘争する多神教的世界である。広告において繰り返されるクリーシェはその教義の一部であり、教義の解釈(もちろん正統も異端もあり)なのである。ノードの中には、制度化された近代西洋医学に対する両義的態度がふくまれており、一方では医学言説の受け売りがあるかと思うと、他方では呪術的な要素も反医療・脱医療的言説もふくまれている。単純ではない。健康言説は一枚岩ではなく、大いなる矛盾をふくんだアンビバレントな複合体なのである。なお、この点に関しては、健康文化を構築するさまざまな「解釈の社会集団」(サイード)の存在と相互交渉をあきらかにすることが必要であろう。

第二に、ヘルシズムに満ちあふれた健康言説は、かなり匿名性の高いものである。その言説空間は不断に再創造されているが、その多くは再出情報であり出所不明の引用であり、その言説は責任主体から切り離されている。健康言説に作者はいないといえよう。それゆえ、ヘルシズムは創唱宗教ではなく、かぎりなく民俗宗教に近いのである。

第三に、ヘルシズムの信奉者(コミットメントの深い浅いはあるにせよ)は自らをニュートラルだと思っていること。あるいは「科学的」であると信じていること。これは、民俗宗教において、それを信仰している人たちが自分たちを無宗教だと思っていることときわめてよく似ている。この点については、本稿では軽く接触した程度であるが、西洋近代医学(生物医学)における医学言説および医療言説の精査が必要になるだろう。すでにストレス言説に関連して指摘しておいたが、制度化された医学において語られている言説が、社会的に構築されたものであるというのは、社会構築主義的医療社会学の常識である。

第四に、身体志向集団への正統的周辺参加がめざされていること。[注22]といっても、組織的な教団に入会するような参加ではない。体験談はゆるやかな入信のすすめであり、実践活動は商品の購入という消費行動に置き換えられている。対面的なクチコミのネットワークにおいて「病気自慢」「健康自慢」の形で健康クリーシェという教義を布教することが、せいぜいである。すでに見てきたように、とくに折込における健康関連広告は、その言及行為を促進するようにできている。体験談の実例はじつはそういう機能を果たしているのではないか。「健康法」という身体技法をふくむ実践への自己言及行為は、「予言の自己成就」のメカニズムによって、発話者自身を心情的に身体志向集団へ組み込んでいく。健康言説が重要なのは、言説の自己言及性による語り手の身体の構築である。

第五に、筆者がヘルシズムを無難に「民俗文化」と定義せず、あえて「民俗宗教」と定義するのは、それがあきらかに信仰と救済をふくむからである。これがなければたんなる「新たな民俗文化」と呼べばすむ話だ。一般に健康言説はあやしげなニュアンスをもつ。それは共感的に言説を理解しようとしないと理解できないということである。しかし、救済されるのは信じる者だけである。その点で健康言説はおそろしく信仰言説に似ている。折込広告における体験談と、入信動機を語る手記の酷似は重要である。[注23]それゆえ健康言説はアイデンティティに深くかかわるのである。このような言説を「ファディズム」であると心ある専門家が批判したところで、その批判言説もまた健康言説の一部となってしまう。そもそもファディズムはそのような科学的言説に対する抵抗なのである。このような「信じるか信じないか」という二項対立に陥ることこそヘルシズムそのものなのである。今日のメディアがまさにそれにはまっている。

第六に、保守的な生活習慣の復権が目指されていること。ヘルシズムは、個人に対しては道徳的に批判し指示するけれども、社会に対しては徹底して無批判である。復古的な社会秩序への従順な自発的服従者にのみ救済はあらわれるという構図。すでに指摘したように健康言説のジェンダー・バイアスはその典型である。伝統的な性イメージに仮託しながらも、じつはきわめて近代的なジェンダー観をもつのがその特徴になっている。ここで注意しておかなければならないのは、これがたんに伝統回帰ではなく、むしろ近代的な保守性であり、そこで言及される「伝統」も近代的に再創造されたものであるということだ。

第七に、ヘルシズムは一種の社会的治癒力をもちうるかもしれないということ。治癒するのは「信仰の力」であり、参加する身体志向集団の力である。健康言説は社会的治癒力を高める可能性をもつ。つまり「救済」はありえない話ではないということだ。そもそも社会的構築はたんに観念の構築ではない。それは身体の構築である。身体の本源的社会性・文化的非規定性を真剣に考えれば、それはむしろ当然の話である。

以上の諸点を考慮すると次のようにいえるというのが本研究の結論である。すなわち、健康言説によって構築されたヘルシズムは、民俗宗教の直接的な継承者、あるいは呼び覚まされ再創造された民俗宗教である。

■健康は言説である

ヘルシズムはさしあたり「ことばの世界」「言説の宇宙」である。しかし社会構築主義やその源泉のひとつである言語行為論やエスノメソドロジーなどが指摘するように、言説は指示する行為であるとともに事実行為である。「現実についての報告は単にその現実を鏡のように映し出すのではなく、記述の対象となったものをそもそも現実として創造したり構成したりする行為である」[注24]

私たちはこの観点から今後も共同言説空間としての広告の研究を続行したいと思う。この種の分析方法は、これまで理論的には「社会構築主義」と総称されてきたが、出所も応用分野もさまざまであった。最近は方法論的には「批判的言説分析」(critical discourse analysis)と総称されるようになっている。この視点からのアプローチはまだ全開しているとはいえない。[注25]

最後に確認しておこう。健康は言説である。言説としての健康、ではない。

[この章担当 野村一夫]

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(1) Anton C. Zijderveld, On Cliche`s : The Supersedure of Meaning by Function in Modernity, Routledge & Kegan Paul, 1979, p.10. A・C・ザイデルフェルト『クリーシェ——意味と機能の相剋』那須壽訳(筑摩書房、1986年)21ページ。

(2) Ibid.,p.16. 前掲訳書、35ページ。

(3) Ibid.,p.46-47. 前掲訳書、93-94ページ。

(4) Ibid.,p.56. 前掲訳書、111ページ。

(5) Ibid.,p.60. 前掲訳書、121ページ。

(6) この点については、ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)に関する議論を参照されたい。ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン——社会的判断力批判(I・II)』藤原書店、1990年。

(7) Vivien Burr, An Introduction to Social Constructionism, Routledge, London, 1995. ヴィヴィアン・バー『社会構築主義への招待——言説分析とは何か』田中一彦訳、川島書店、1997年。

(8) Sarah Nettleton, The Sociology of Health and Illness, Polity Press, Cambridge, 1995.

(9) 以下の議論は、Ibid., pp.〓による。

(10) Ibid., p.37.

(11) アーヴィング・ケネス・ゾラ「健康主義と人の能力を奪う医療化」イバン・イリイチ他『専門家時代の幻想』尾崎浩訳、新評論、1984年、53-92ページ。なお、現在ではこの論文をリライトしたものが流通しており、それはアンソロジーなどでアクセス可能である。Irving Kenneth Zola, "Medicine as an Institution of Social Control", Peter Conrad (ed.), The Sociology of Health and Illness: Critical Perspective, Fifth Edition, St. Martin's Press, New York, pp.404-414.

(12) この点については、本研究の前提的作業となった次の報告書を参照されたい。池田光穂・野村一夫・佐藤純一「病気と健康の日常的概念の構築主義的理解」『健康文化』No.4、財団法人明治生命厚生事業団、1998年、21-30ページ。

(13) 医薬品広告については、日本でもすでにいくつかの研究がなされている。松山圭子「医薬品広告にみる日米のくすり観」『社会薬学』第8巻1号、1989年、34-45ページ。松山圭子「大衆薬の新聞紙上広告に関する一考察——健康・病気・くすりのイメージを読み解く試み」『社会薬学』第9巻1号、1990年、54-62ページ。黒田浩一郎「大衆薬広告は何を語るか——医療の言説の政治学」内田隆三編『情報社会の分化2 イメージのなかの社会』東京大学出版会、1998年、109-145ページ。

(14) 折込広告については次の研究がある。坂上康博・橋本和孝・小池保夫『折込広告——歴史と役割』福島県折込広告社、1995年。折込広告の草の根性に注目した論考として、長尾浩二「ガンバレ草の根の広告媒体『折込広告』」須藤春夫編『広告——広告は市民とマスコミの敵か味方か』(21世紀のマスコミ03)大月書店、1997年。配送過程について述べたものとして、『折り込み配送物語——読宣 自動結束システム配送導入史』読宣、1996年。

(15) ハイパーテキストおよびノードの概念についてのわかりやすい解説として、ロバート・E・ホーン『ハイパーテキスト情報整理学——構造的コンテンツのすすめ』アデプト社松原光治監訳、日経BP出版センター、1991年(新装版1995年)。

(16) ただし「近代医学模倣言説」が「まがいもの」で「近代医学言説」が「真正」であるというわけではない。第二節で紹介しておいたように、社会構築主義的研究によれば「近代医学言説」が真正(絶対的真実)であるとはとうてい言えない。それは神話である。この点については、佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、1998年。

(17) 高橋久仁子『「食べもの情報」ウソ・ホント——氾濫する情報を正しく読み取る』講談社、1998年。高橋は近年の栄養学的に語られる「食べもの信仰」を1950年代アメリカで問題になった「フードファディズム」(food faddism)ということばで警告を発している。「フードファディズム」とは「食品や栄養が健康や病気に与える影響を過大に信じたり評価すること」(29ページ)である。

(18) ストレス学説自体への批判としては、A. Young, "The Discourse on Stress and the Reproduction of

Conventional Knowledge", Social Science and Medicine, 14B, 1980, pp.133-146. K. Pollock,"On the Nature of Social Stress: Production of Modern Mythology", Social Science and Medicine, 26, 1988, pp.381-392.

(19) ザイデルフェルト、前掲訳書、132ページ。

(20) 塩沢由典『市場の秩序学——反均衡から複雑系へ』ちくま学芸文庫、1998年、305-326ページ。

(21) 民俗宗教全般については、宮家準『増補日本宗教の構造』慶應通信、1980年。

(22) ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習——正統的周辺参加』佐伯胖訳、産業図書、1993年。

(23) ぬで島次郎『神の比較社会学』弘文堂、1987年。

(24) これを「相互反映性」(reflexivity)という。R・エマーソン、R・フレッツ、L・ショウ『方法としてのフィールドノート——現地取材から物語(ストーリー)作成まで』佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳、新曜社、1998年、437ページ。

(25) Norman Fairclogh and Ruth Wodak, "Critical Discourse Analysis", Teun A. van Dijk(ed.), Discourse as Social Interaction, Sage, London, 1997, pp.258-284.

表1(省略)

表2 折込広告における健康クリーシェの諸類型

健康クリーシェの類型 ノード

■近代医学模倣言説系

(1)栄養学的言説

(2)検査値言説

(3)医学的権威主義

(4)ストレス言説

■伝統回帰・減算主義的言説系

(5)非西洋医療権威主義

(6)伝統主義

(7)自然治癒力主義

(8)薬の忌避・薬害への恐怖

(9)無添加主義

(10)素材よければ主義

■道徳言説系

(11)継続は力なり言説

(12)良薬口に苦し言説

(13)リスク放置非難言説

(14)嗜癖不道徳説

(15)死の恐怖

(16)性的健康

(17)フェティシズム的道徳

■救済言説系

(18)まだ間に合う言説

(19)万病解決言説

(20)お手軽主義

(21)遍歴言説

(22)生まれ変わり言説

■身体アイデンティティ言説系

(23)体質という個性

(24)恋愛共同体への誘惑

■承認言説系

(25)半信半疑言説

(26)他者の承認

(27)マスコミで話題言説

■汎用言説系

(28)健康の汎用性

健康クリーシェ論(1)

健康クリーシェ論:健康関連広告におけるクリーシェの諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築(1)

野村一夫(国学院大学教授・社会学者)2016年12月6日

1 クリーシェの役割

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■本稿の目的

本稿の目的は、健康関連広告におけるクリーシェの諸類型を抽出し、その健康言説が構築する培養型ナヴィゲート構造の基本性格を見定めることである。この点について、まず確認しておこう。

ここでいう「健康関連広告」(health-related advertisement)とは、健康を志向する商品およびサービスに関連する広告のことであり、具体的には医薬品・美容・健康食品・健康器具・整体・ダイエット・セミナーそして身体技法に焦点を当てた呪術的宗教などの広告をさす。もちろんこれでは膨大な作業量となってしまうので、本研究では媒体を絞り込むことにした。今回、調査対象として選択したのは折込広告である。折込広告は総じて洗練度が低く、語り口が直截かつ饒舌なため、かえって読解が容易だと判断したからである。さらに薬事法などを意識した自主規制も事実上ないに等しいという側面があり、あえてそこに期待した。

クリーシェ(cliche`)は、決まり文句や常套文句と訳されるフランス語であるが、そのまま英語でも使われている。型にはまった陳腐な表現のことであり、長年にわたって乱用されてきた通俗的な言い回しのことである。

多彩な広告表現の中で、とくにクリーシェに着目するのは、私たちの研究の目的がヘルシズム全体に向けられているからである。健康関連広告は、ヘルシズムを社会的に構築する言説(私たちはそれを「健康言説」と呼んでいる)のすでに重要な一部をなしており、ある種の典型性をもっていると考えられる。その中核が健康関連広告に表現されたクリーシェ的言説だと予想できる。もちろん、この予想が適切であるかどうかは、これから検証されるべき事項となる。

■クリーシェとは何か

文化社会学の研究者アントン・C・ザイデルフェルトは、理論的指針としてクリーシェを次のように定義している。

「クリーシェとは、社会生活のなかで繰り返し用いられることによって、それがもともともっていた巧妙で索出的な能力を失っている、(言葉、思惟、感情、身振り、行為による)人間の伝統的な表現形式のことである。それゆえにクリーシェは、社会的相互行為やコミュニケーションに積極的に意味を与えることはできない。だがそれは、社会的には機能している。クリーシェは、意味への反省をまぬがれている一方で、行動(認知、感情、意志、行為)に刺激を与えることはできるからである。」[注1]

つまり、クリーシェは、使い古されていることでヴィヴィッドな意味は失われているが(言語上の化石)、しかし、それなりの機能を果たすというのである。たとえばザイデルフェルトは次のように指摘している。「クリーシェは、実体化されているという性質をもっているために、そしてまた繰り返し用いられるために、それ自身の自己推進力(モメンタム)を獲得しがちである。すなわちクリーシェは、社会のなかで個々人に対して相対的に自律的になる傾向をもっているのである。クリーシェは、内容と形式をあまり変えることなく世代から世代へとひき継がれ、他方、個々人は、日常的な社会生活のなかでクリーシェを使うことを学びながら、それらのクリーシェに適応していく。社会化の重要な部分は、クリーシェとそれに対する適切な感情的反射を教え学ぶことから成り立っているのである。」[注2]健康言説もまた無反省に語り継がれることで、語る人たちを社会化すると考えられる。そこに注目したい。

ザイデルフェルトは近代社会を「クリーシェ促進社会」だという。なぜかというと、近代社会においては「対抗し合っている複数の状況の定義が存在し、しかもそのいずれもが拘束力をもっていない」(ウィリアム・アイザック・トマスのことば)からである。近代社会においては、規範・価値・意味・動機がもはや伝統的な制度と結びついていないので、認知的に曖昧で、感情的に不安定で、倫理的に不確実である。こうした浮動的な状況においてクリーシェは確たる指針として機能する。「クリーシェは、認識を成り立たせる定点であり、拠り所となる対象であり、関わりをもつための安定した場所なのである。」[注3]クリーシェは制度の代替物というわけだ。

さらにかれはクリーシェにふたつの基本原理が作動していることを確認する。第一に、クリーシェは認知的反省をうまく逃れて、行動主義的な仕方で(機械的な刺激−反応として)人びとに行動を引き起こすということ(行動主義的な誘発機能)。第二に、そういう機械的反応が生じるまで何度も繰り返されるということ。[注4]

このようなザイデルフェルトの考察は、健康を語ることばにピッタリ当てはまる。「実際、クリーシェを切手やジョークのように収集する人がいるとすれば、おそらくその人は、死亡記事、お悔み状、弔辞のなかに豊富な探求領域があることに気づくだろう。」[注5]まさにその通り。私たちはそれを健康関連広告に見いだし、ゴミの山からチラシ広告を探しては、そこであくことなく繰り返されているクリーシェの「自己推進力」(本稿では「培養型ナヴィゲート構造」と呼ぶことにする)を想像するのである。

2 社会構築主義の視点から見た広告

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■文化としての広告

従来の広告研究が基本的に効果研究であり、しばしば行動科学的分析に依存していたのは、それなりの知識社会学的理由がある。けれども、もはや広告はそのようなマーケティング的なまなざしからのみ分析されるものではなくなっている。それは、現代文化の重要な構成要素であり、日常生活における私たちの意識や行動や身体をかなり深いレベルで規定しているはずである。[注6]私たちは、それをたんなる広告業界の自己正当化的スローガン(「企業や社会のお役に立っているのだ」という言説)としてだけではなく、自己批判的なまなざしでもって分析する必要があると考える。たしかに、すでに印象批評はおこなわれているが、さらに人文学的な深みと社会科学的な組織性が必要だろう。

したがって、本稿では、健康関連広告が受け手に対してもつであろう広告効果の有無を行動科学的に検証することには関心がない。私たちの研究関心は「道具としての広告」の研究ではなく「文化としての広告」の研究にある。具体的には医療社会学・医療人類学的関心がその主たるものであり、基本的な視点は一般的に「社会構築主義」(social constructionism)と呼ばれる視点にほぼ対応している。そこから「人びとが語る健康」がどのような現象であるのか、そして総体としてのヘルシズム(healthism)が現代社会においていかなる作用を発揮しているのかを批判的に見定めることが目下の研究課題である。

■社会構築主義

一口で社会構築主義といっても、じつはかなりヴァリエーションがあり、社会学における社会問題論の領域では激しい議論も行われているが。ここでは最大公約数的な意味において使用することにしたい。ヴィヴィアン・バーの整理を借りると、社会構築主義とは次のように文化や知識を理解する見方である。[注7]

(1)自明の知識への批判的スタンス

世界が存在すると見える、その見え方の前提を疑う。なぜなら、人間が世界を把握するさいに使用するカテゴリーが必ずしも実在する区分を示すものではないからだ。

(2)歴史的および文化的な特殊性

世界を理解する仕方・カテゴリー・概念は歴史的かつ文化的に特殊なものであり、相対的なものであるという認識を徹底する。

(3)知識は社会過程によって支えられている

世界についての知識は、人びとが互いに協力して構築する。具体的には日常的な相互作用によって構築する。したがって、人びとが相互作用において日常的に使用する「ことば」が重要な意味をもつ。

(4)知識と社会的行為は相伴う

世界を特定の「ことば」で理解することは、それ自体ひとつの社会的行為であり、ある種の社会的行為を支持したり排除したりする行為である。つまり知識は社会的行為なのである。

この視点から特定の社会現象を研究するさいに戦略的に重要になるのは、人びとが日常世界においてものごとを理解する仕方であり、そのさいに重要な役割を果たす「ことば」である。社会構築主義では、このような「ことば」を「言説」(discourses)と呼び、その調査研究を「言説分析」(discourse analysis)と呼んでいる。社会構築主義から見れば、世界は言説によって構築されており、歴史的・文化的に規定された特定の言説によって人びとは世界を理解するのであるから、その言説の自明性を疑い、歴史的由来を調査し、文化的布置をあきらかにすることが、その言説の指示する現象の科学的理解につながるのである。

■健康と病気の社会学

さらに医療社会学の文脈では、次の諸点が問題になる。サラ・ネトゥルトンによれば、近年の医療社会学は大きく転換しつつあるという。[注8]かんたんにいうと、その研究対象が変容しているのである。以前の研究対象は病院、医師、ナース、薬、救急箱といったものであった。それが今日ではそれらに健康食品、ビタミン剤、アロマセラピー、民間療法、サイクリング、ヘルスクラブ、エアロビクス、ウォーキングシューズ、ランニングシューズ、セラピー、趣味のよい飲み物、健康チェックといったものが加わった。メディアによる「健康関連問題」(health-related issues)への注意と、専門家以外の人びとによる知識の拡大が、その大きな変化である。要するに、もはや公式の医療制度に属するものだけが医療社会学の対象ではなくなったということだ。もはやそれは「医療社会学」ではなく「健康と病気の社会学」(sociology of health and illness)と呼ばれるべきだというのがイギリス系の社会学的医療研究の新傾向となっている。

ネトゥルトンは「健康と病気の社会学」の焦点が、西洋近代医学とそれに対するさまざまなリアクションにあるとする。[注9]

そもそも西洋近代医学は「生物医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする。このモデルは五つの仮説を基礎としている。

(1)心身二元論(精神と身体は分離して取り扱うことができる)

(2)機械メタファー(身体は機械のように修理できる)

(3)技術的命令の採用(過剰な技術的介入)

(4)還元主義(生物学的変化によって病気を説明して社会的・心理学的要因を無視)

(5)特殊病因論の原則(19世紀の微生物病原説のように、すべての病気がウィルスやバクテリアのように同定可能な特殊な作用因によってひきおこされると考える)

このような生物医学は、この20年ほどのあいだに多くの批判にさらされてきた。ネトゥルトンはその挑戦的批判の論点を六つあげている。

(1)医学の有効性は強調されすぎてきた。

(2)身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗している。

(3)患者を全体的人格ではなく受動的対象としてあつかう。

(4)出産を病気のようにあつかう。

(5)科学的方法によって病気の真実を確認していると想定しているが、じっさいにはそれは社会的に構築されたものである。

(6)医学的専門家支配の存続を許してきた。

このような論点をカバーするものとして「健康と病気の社会学」が位置づけられる。そこで問題となるが医学的知識の社会的構築の問題である。

1970年代あたりに精神医学の現状とそれに対する批判があいついで現れた。ゴッフマンの『アサイラム』やサズの『狂気の製造』がその代表的なものだった。さまざまな診断的カテゴリーの応用は問題を呼び起こし、医学的知識の応用は技術的に中立な営みというよりむしろ政治的な営みだということだった。この精神医学をめぐる社会構築主義者の議論は医学の他の領域にも適用されていく。その結果、あらゆる知識は社会的に偶発的(contingent)であり、医学的知識も社会的に構築されるものだということ、そして、病気に対する人びとの態度や常識的観念も社会的に構築されたものであるということが明確に指摘されるようになったのである。

■医療的世界の社会的構築

要するに、医学的な「事実」は社会的に構築されるのであって、私たちが前提している「安定した現実」もじっさいにはさまざまな言説的文脈の中で現実化されたものなのだ。その中で、あるものが問題とされ、他のあるものが問題とされないのは、ある社会集団が一定の条件のもとで特定の問題を発見し、さらには発明するからである。そのような社会集団が活動しなければ、どんな深刻な問題も「問題」として定義されないまま放置される。そして、ひとたび構築されたカテゴリー(たとえば特定の病気)は現存の社会構造を強化するために応用される可能性があり、その応用は社会関係をあたかも「自然」であるかのように見せる。とくに医療言説は客観的であるとされており、そのためその社会的由来が見えにくくなるのである。社会的由来が隠されるために、医療言説は社会統制の強力な制度としてしばしば作用する。つまり、それは権力なのである。近年は、従来の範囲をこえて、老化・出産・アルコール依存・子ども行動といった生活領域にまで浸透しつつある。これを医療化と呼ぶが、こうした現象に対して社会構築主義は注意を促すのである。

このような研究が、たんに医療専門家に適用されるばかりでなく、一般の人びとの健康観・ライフスタイル・リスク認識に適用されていくのは当然の流れである。「素人の健康観」(lay health beliefs)すなわち「健康についての人びとの理解と解釈、および健康に関連する行為」もまた社会的に構築されたものであり、それはエキスパートの知識的世界のたんなる従属変数つまり「医学的知識のうすめられたヴァージョン」ではないのである。[注10]

私たちの研究はこのような「健康と病気の社会学」の流れに即して構想されたものである。私たちが対象として焦点をしぼっているのは、一般に「健康志向」と呼ばれている現象、かつてゾラが「ヘルシズム」と呼んだ現象である。[注11]

日本では「健康志向」と一律に理解されているが、ヘルシズムという言説空間は平坦な空間ではない。むしろ異質なファクターが複雑にからみあう複合体であると予想される。なぜなら、健康を語る主体はひとつではないからだ。専門家・メディア・素人たちがそれぞれの集団的社会的規定性のもとで健康を語る。また、しばしば「〜といわれている」と受動態表現で引用される、語る主体の不明確な言説もある。[注12]

広告はその一部である「メディア言説」にあたる。とくに注目しておきたいのは、メディアが言説に公共性を付与することであり、できごとを公の場で議論できるできごとに変換する機能をもっていることである。

ただし注意したいのは、一部のメディア関係者だけが特権的に健康言説を作り出し、人びとを導くと考えてはならない。広告言説は共同空間である。これに関して私たちの導きの糸となっている考え方は、ヘルシズムが一種の民俗宗教(folk religion)として分析されるべきだということである。健康関連広告における言説はその「あとづけされた教義」と見なすことができる。人びとの自生的なコミュニケーションの中で培養され、それが広告言説に反映しているという側面に注目したい。広告は必ずしも人びとに先駆し誘導するものではない。あとから来て言説空間を構造的に組織化し公共性を付与する役割を担うのだ。本研究で広告を取り上げるのは、あくまでもこの観点からである。

3 折込広告における健康関連広告

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■調査対象

本研究での基本作業は、さしあたり折込広告における健康言説(健康クリーシェ)を分類し、それらの諸類型間の関連づけを見いだすことである。

素材として使用した折込広告は、筆者の居住する東京都小金井市において1998年7月1日から9月30日までに配達された朝日新聞と毎日新聞に入っていたものと、1998年8月の産経新聞に入っていたものである。これら約15キログラムの中から「健康関連広告」と見なされるものを選択した。この選択過程はかなり恣意的なものにならざるをえないが、すでに述べた定義に沿って選択した。新聞三紙の折込広告を収集したとはいえ、かなりの確率で重複しており、結果的には朝日新聞のみで収集しても大差はなかったというのが実感である。もちろん重複分は排除した。

その結果、63件が得られた。これは当初予想していたものよりもはるかに少なく、このこと自体が意外であった。当時の当地区では不動産関連広告が圧倒的に多く、それに比較すると、健康関連広告はごくわずかである。ただし読売新聞であれば、またちがった結果がえられたかもしれない。

もうひとつ予想外だったのは、もっとも規制のゆるい広告として折込広告を選択したものの、意外に饒舌でないことだった。とくにドラッグストアの折込広告であると、どうしても値段が勝負どころになる。数字がことのほかモノをいうわけで、ここから経済合理性以外の何かを読みとることは困難である。そのため、健康関連広告の代表的商品といえる大衆薬については分析の対象からほぼ抜け落ちることになった。[注13]

■健康関連折込広告の概要

まず、今回収集できた健康関連折込広告の概要を示しておこう。別表の「健康関連折込広告資料リスト」[表1]をご覧いただきたい。これらは、収集した折込広告の中から健康関連広告と認められるもの63点のうち、値段勝負のドラッグストアなどの形式的な健康関連広告やフリーペーパーなど30点を除いたもののリストである。したがって、実質的な健康関連広告と考えてよいと判断したものだ。言説分析はこの33点についておこなう。なお、整理番号の順序は作業の順序によっている。

この33点が売ろうとする商品を種類ごとに分けると次のようになる。(1件重複あり)

(1)健康食品(ニガウリ茶、無添加食品、伝承すっぽんエキス粒、くろ源、シルキースリム、対葉豆、黄杞キトサン、ファット・ストップ・プチキッス、野菜ジュース、低農薬野菜、クロレラ)18件(うちダイエット用食品3件)

(2)健康器具(禁煙楽々、シルク綿ブラウス、ピュアアロマボディソープ)3件

(3)化粧品(オージオスキンケアセット、酵素イオンパワー化粧品、基礎化粧品、天然原液スキンケア)4件

(4)ボディケア(脱毛、しわたるみ、美肌、ダイエット)3件

(5)療法(骨髄療法、気功、整体)3件

(6)セミナー(療法について)1件

(7)住宅(健康住宅、室内化学物質汚染対策)2件

まず健康食品であるが、これらの特徴は、基本的にメーカーによる直接販売が多いところである。流通・小売り業者のものではないので、広告としてはかなり饒舌かつローテクで、センスはよくない。しかし、ハイセンスかつイメージ中心戦略でないところがかえって素材として興味深い。

健康器具については、もっとたくさんあるのではないかと予想していたが、案外少なかった。通信販売業者のチラシにないことはないが、健康関連広告と見なすには説明が少なすぎる。無料で配布される通信販売カタログのように豊富なスペースがあってはじめて説明もゆったりなされるのだろうが、通信販売業者(流通・小売り)は返品やトラブルを恐れるため、過剰な説明を忌避するのではないかと推測される。今回の資料においても、「シルク綿ブラウス」と「ピュアアロマボディソープ」はじつはほとんど説明はなく、饒舌な「禁煙楽々」はメーカーによるものである。

化粧品の広告は折込においてもしばしば見られる。しかし、大半はドラッグストアなどの小売り業者によるもので、ほとんど値づけがすべてである。これらは美容に関するものではあるが、健康関連広告とはいえない。今回ピックアップされたものはメーカーの直接販売ないし営業所の広告であり、ドラッグストアなどに陳列された大手メーカーの商品との差別化をするために、健康関連言説を駆使しようとするのである。

ボディケアとまとめたものは、美容サービス一般と区別されている。美容そのものは「身体の美」に関するものであって「身体の健康」に関するものとは別系列である。今回リストアップしたものは、それらの中にあってあえて「身体の健康」を志向しているものであり、その分、イメージ依存というより生々しい比較写真と体験談が主役になっている。

療法の広告は一種の医療広告である。新規開院の診療所のチラシとそれほど変わりはない。ただし、醸し出される雰囲気は伝統的な中国風で、ぶっきらぼうで漢字が多い事典説明のようだ。

1件しかなかったセミナーも療法の一種なのだが、実体がよくわからない。その説明自体が商品なのだから当然だが、思わせぶりな説明には注目したい。

最後に住宅であるが、これについては若干の注意事項がある。近年、ホルムアルデヒドなどによる室内汚染が問題になっており、シックハウス症候群として社会問題化している。今回の調査においても、折込広告の相当数を占める住宅関連広告についてこの点を注目していたが、予想に反してこの点を強調したものは少なかった。現在の標準的な工法では抜本的な対策がむずかしいため、安易に強調できないためと思われる。今回は2件だけがそれをメインにしていただけだった。

素材については以上である。サンプルは少ないだろうか。その選択性に問題はないだろうか。数量的配慮がなさ過ぎるのではないか。そういう疑念は存在する。けれども、健康言説の見取り図を得るという本研究の目的と、社会構築主義という方法論に照らしていえば、ほとんど問題にならないだろう。調査件数の不足は本研究にとって網羅性を若干損なうだけである。それはまた別の機会に別の媒体などで補えばいいのである。少なくともいえることは、「健康を語ることば」を求めている人がこの三ヶ月間に折込広告に見いだすことのできるすべてを網羅しているということだ。

折込広告の特徴は、それが読まれる現場において、自己完結した世界が提示できることである。スポットCMのように前後の広告に左右されない。新聞や雑誌の広告のように、隣接する広告に左右されない。読者が新聞に挟まれた多くのチラシをめくって、一枚を引き出したその瞬間に、チラシは完結した世界観を提示できる。したがってその広告が提示する世界観が重要である。ここにも注目していきたい。[注14]

健康クリーシェ論(2)

健康クリーシェ論:健康関連広告におけるクリーシェの諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築(2)

野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年12月6日表示12件

4 健康クリーシェの諸類型(1)近代医学模倣言説系

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■ノードと言説系

折込広告という媒体において語られる「健康」はどのようなベクトルやバイアスをもつのだろうか。あるいはどのような文脈や世界観に位置づけられるのだろうか。読者・消費者との共鳴点はどこにあるのだろうか。また、これらは健康を語る(騙る?)ことで何を語らないのか。そして、クリーシェとしていかにして有意味な事象を無反省な機械的プロセスに変換するのか。これらの点について、抽出した健康クリーシェの諸類型を考えてみたい。

なお、ここで「ノード」と呼んでいるのは、ネットワークにおける結節点のことである。折込広告上で展開されている健康言説の宇宙は一種のハイパーテキストと見なすことができる。クモの巣状に拡散し、相互にリンクし合った言説のハイパーテキスト、その結び目のひとつひとつを「ノード」(node)と呼ぶ。[注15]折込広告はけっして言説を創作はしない。折込広告は、健康言説のハイパーテキストの中から商品に都合のよいノードを引照するだけである。それらを即興的にリンクして、ひとまとまりのある言説としてひとつの紙面に再構成しているにすぎない。まずはそこからアプローチを開始しよう。なお、記述の順序に深い意味はない。素材に即してクリーシェを束ね、それをひとつの有意味なノードとして順々に定義しているだけである。それをさらに束ねて、計七つの言説系に位置づけて整理した。

作業上とくに留意したのは、言説は何かを語ることによって語られていないことを隠すということである。多くの人たちはそれを言語化できないために、健康言説を距離化できていないように思う。まさにそれこそが健康ブームの実体であり、自明性に覆われて問題化しない要因なのである。ここではあえてそれを理解社会学的スタンスで言語化してみたい。

まず最初に類型化するのは「近代医学模倣言説系」である。西洋近代医学(生物医学)における言説を模倣した語りである。折込広告のそれはあくまでも演技されたものであって、一般の人びとが抱いている西洋近代医学への信仰をそのまま自分たちにも振り向けようとする行為である。その点で厳密な意味での「近代医学言説」とは区別される。[注16]

■ノード(1)栄養学的言説

健康食品の広告において顕著に見られるのは栄養学的言説である。「ニガウリには、豊富なビタミンCやカロチン、カリウムが含まれていて、それらが健康な体へと促す役割を果たしていると考えられます。」(資料1)というのが、もっともありふれたクリーシェである。「くろ源」という粒状食品の広告では、梅肉・根昆布・黒ごま・黒豆の四品を強調し、それぞれに含まれているクエン酸・アルギン酸・必須アミノ酸・リノール酸・レシチンが健康にどう役に立つのかを説明した上で、「くろ源一日△△粒でこれだけの栄養が摂取できます!」とアピールする。そして「毎日これだけ食べられますか!?」と問いかける(資料7)。ダイエット食品「カイアポックス シルキー・スリム」の広告では、商品写真の横に四つの栄養素(といっても水準はバラバラ)が並び、強調されている(資料8)。たとえば、そのひとつ「活性酵素除去抗酸化物質ピクノジェノール」の説明にはこうある。「ピクノジェノールは、老化の原因物質として話題になっている活性酵素(フリーラジカル)を、ビタミンEの50倍、ビタミンCの20倍もの強力な抗酸化作用により除去し、さらにコラーゲンの持つ美肌・美白パワーを何倍にも引き出す働きがあります。」(資料8)問題なのは、かりにこの説明がピクノジェノールの説明として妥当だとしても、それを含んでいるとされる商品の説明としては妥当でないということである。

ここに見られるロジックは、「身体に作用するのは個々の栄養素であって、それが該当商品に含まれている」という二段論法である。それは、「こんなに優れた人がいる。その優秀性は疑いない。だからその人が住んでいる東京都の住民は優秀なのだ」という論法と同じである。マイナス要因に即していえば「だれが見ても悪い奴がいる。だから、そいつが属している集団には気をつけろ」というような差別と偏見の論理とじつは変わりない。こうした言説は形式論理としては破綻していても、具体的カテゴリーに適用させて言説化したときには、反論しにくく、異議申し立てもしにくい。

栄養学的言説は、健康関連広告およびパブリシティにおいて、薬事法の網をかいくぐる一種の便法であるともいえる。それゆえ濫用される。濫用されるがゆえに、こうした知識は長年にわたって人びとの常識となり、科学的意匠をまとっているだけに信用されるのである。マス・メディア上でくりかえされてきた大衆薬と食品の広告の蓄積が、カロチンやレシチンをありがたい神の名前としている。折込広告はその蓄積に依存しているだけである。「画期的」な食品であるといいながら、その栄養学的説明はすでによく知られたありふれたものばかりで、ちっとも画期的でない。むしろ読者に周知のことだからこそ、広告主にとって効果的だと見なされているのだろう。

栄養学的言説には別の理由も存在する。たとえば「カゴメ健康直送便」(資料19)では、「今のままだと、緑黄色野菜が、ぜんぜん足りない。健康維持には、どうしても毎日150g以上必要だ。」と訴え、それがたった一缶で補給できるとして野菜ジュースの通信販売をすすめる。私たちはすでに慣れっこになってしまって自明のことと思っているが、なぜ缶入り野菜ジュースに「天然のカロチノイドをたっぷりとれます」という栄養学的言説をわざわざいわなければならないのか。なぜわざわざ難しい用語が必要とされるのか。おそらくそれは、加工してあるものだからではないか。素材を強調しながらも、商品は素材の原形をまったくとどめていない。だからこそ、いったん栄養素に話を還元して、栄養素については素材と等価(あるいはそれ以上)であることを主張しなければならないのだろう。

サプリメントを販売するファンケルの商品では、もはや栄養素自体が自立した形でカタログ化されていて(33種)壮観である(資料24)。ここでは「キトサン」も「レシチン」も「プロテイン」も商品名である。あか抜けたスタイルは栄養学的言説の席巻する現状をそのまま形にしたようだ。

このような栄養学的言説は、昨今のテレビ番組では主役といっていいものだ。今日の「みのもんた」の影響力は栄養学的言説ぬきにはありえない。すでに一部では問題にされているが、ここではその科学的真偽には立ち入らないことにする。[注17]本研究にとって問題なのは、このような言説が私たちの健康観と緊密に連動しており、健康市場を立ち上げ、人びとの社会行動を左右しているということであり、その現実に対して人びとがこのようなことばで自己理解しているということである。

■ノード(2)検査値言説

栄養学的言説のヴァリエーションとして、数量化された検査項目への言及がある。これを検査値言説と呼ぶことにしよう。たとえば「ニガウリの苦みや渋みの成分には中性脂肪濃度を下げ、脂肪を取り除く作用があるといわれています。ニガウリには利尿作用もあり、そのことが尿酸値を下げ、痛風の痛みを和らげる働きもするようです。」(資料1)中性脂肪濃度にせよ尿酸値にせよ、数値として表現される検査項目は、一方で科学的な意匠をまとい、他方で複雑な身体状況を一元的スケールに置き換えるわかりやすさも備えている。それゆえ医療現場ではこれらの数値を目安にして患者を説得したり管理しようとするし、医療関係者自身が教科書的に把握しやすいこうした数値を判断材料にする。そして、若者たちが(肯定しようが否定しようが、関与しようが離脱しようが)偏差値にしばられているように、慢性疾患や老人性疾患を抱える中高年にとって検査値は、健康と病気のはざまにおかれた自分の身体アイデンティティの重要な構成要素となっている。

資料1で「……といわれています」「……もするようです」と伝聞の形を取っているのは、広告主が明確なデータをもっていないことによるだけではなく、常識として読者がその知識を共有しているはずであり、そうでないとしたらこの商品のすばらしさを理解できる読者の資格はないということを暗示しているとも読める。読者としては「そうか、そう言われているのか」と、こういう言説を読むことでそのつど再学習するしくみである。

中性脂肪濃度や尿酸値などの特定の検査値が、健康言説においては一種の呪術的シンボルとして機能していることに注意したい。それは、粉塵や喫煙や排気ガスや農薬や洗剤や寄生虫やウイルスや紫外線や放射能などのさまざまな危険因子についての知見をいったん御破算してダイオキシンの危険性を語るのと相似形である。

■ノード(3)医学的権威主義

ニガウリ茶の広告では、解説主文の中でヒポクラテスが「医聖」として登場し、さらにシュバイツアーとキャメロンが登場する。「ノーベル賞」が二回もでてくる。シュバイツアーは食事療法で病気を克服した先人として、キャメロンはビタミンCの発見者として登場するわけで、ニガウリ茶との関連は、ビタミンCがふくまれた健康「食品」であるということにすぎない。わざわざ語る必要のないことが語られているのは、医学的権威の後光効果をねらってのことである。こうした表現が老人たちのクチコミにおいて容易に「ノーベル賞をとったエライ博士たちも言ってるよ」という言説に変容することを見越してのことであろう。じっさい、プロポリスの広告に関連して筆者自身がそれを経験したことがある。

一方では近代西洋医療の不備・欠陥を指摘し、他方で医学的権威を正当化の道具にする。これは動揺しているというよりは典型的なダブル・スタンダード(二重基準)の行使であるが、多くの場合、読者はそれに気づかないし、語る主体も気づかない。

利用できる権威は利用するというのが健康言説のひとつの傾向である。禁煙グッズの広告では「愛知県がんセンター」「米ミネソタ大学がんセンター」「厚生省白書」(じっさいは「厚生白書」であるが、それでは権威と見てもらえないおそれがあるので、あえて「厚生省」としているのであろう)の発表が引用されている(資料5)。「ホームエステモニター募集」のチラシにおいても「レーザー脱毛法は、現在、美容整形医院等でも盛んに、行われるようになりました。当ショップの脱毛レーザーは、医療レーザーとはちがい美容レーザーとしてソフトに開発されていますので、当ショップでも、もちろんご家族でも、安全にお使いいただけますし、費用も大変安くすみます。」「今回ご紹介するのは、アメリカを初め、世界各国において医学の分野でも広く使用されているマイクロカレント(微弱電流)部分痩身美容です。」というように、よく読むと商品とほとんどつながりがないにもかかわらず、医学という権威が引き合いに出されている(資料12)。

これに関連して今回気になったのは、そういう「いかにも権威らしい」権威だけでなく、身近な専門家もそういう権威づけ機能を果たしているということだった。身近な専門家とは看護婦である。ダイエット食品の広告の「ダイエット奮闘記」に登場する42歳の看護婦の手記(?)は、「仕事が忙しくてダイエットどころでない生活」(資料8)とあるように、主婦に対する有職既婚女性の代表として登場しているが、しかし、彼女の職業が結果的に商品の健康度を強調するしかけになっている。医師や大学教授はエリートであり、たいていの場合、それは男性である。それに対して看護婦は基本的には庶民であり、女性であり、多くの読者にとって共感できる数少ない専門家なのである。

■ノード(4)ストレス言説

健康言説全般を考えると「ストレス」というクリーシェほど頻繁に使われ、しかも絶対的な意味の重みをもつものはない。すべての社会的要因はストレスに解消されるかのようである。とりわけ医療関係者が素人向けの解説などでよく使うクリーシェの代表的存在である。クロレラの資料21で紹介されている漢方医の談話でも「活性酵素を作り出すのは、ストレス・喫煙・大気汚染・間食・アルコール・便秘・化学薬品などです。」(資料21)という一節がでてくる。

しかし、折込広告における健康クリーシェの中では意外にストレス言説は多くない。観察できるのは、きまって体験談の中で一般ユーザーが使用している事例である。たとえば、「リストラで慣れない営業部へ移動になった私は、ストレスからか、もともとのアレルギー体質が悪化し、ひどいアトピー性皮膚炎になってしまいました。」「あせればあせるほどに、ストレスは大きくなり、アトピーも悪化するという悪循環です。」という45歳男性の話はその典型である。(資料14)。

社会学的にいえば、ストレスは社会学的認識の浅さをはからずも示す用語であり、複雑な社会関係の具体的因果連鎖を隠ぺいする(はやらないことばではあるが)イデオロギー的なことばである。「仕事上でのストレスのせいで……」といえば、あたかもストレスが原因であるかのようであるが、それはむしろ仕事上の人間関係やトラブルや多忙や失敗といったさまざまな社会的要因の結果として意識されるものなのである。つまり、原因と結果を取り違えている転倒した表現なのである。[注18]

5 健康クリーシェの諸類型(2)伝統回帰・減算主義的言説系

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西洋近代医学を引照してその権威の後光効果を期待する言説がある一方、制度化した近代医療の欠陥と失望に対する人びとの共通了解を前提にして、非西洋医学および伝統的な民間療法に権威を求めようとするのも健康言説の有力な系列である。その意味では伝統回帰がひとつの傾向といえる。

他方、いわゆる市民派・知性派の人たちにも支持されやすいのが「なるべく夾雑物は少ない方がいい」という志向性である。本稿では、これを「減算主義」と呼んでおきたい。こちらは伝統回帰ではなく、反対にある種のポストモダン志向が濃いものであり、しばしば「ニューエイジ」という呼称があたえられている。要するに、身体環境に対する近代的な現実を批判的に見る言説である。

伝統回帰言説系も減算主義的言説系も、社会全般に対しては基本的に保守的であるが、一部の近代的現実に対しては批判的であって、それに対抗して正当化戦略をとろうとする点では共通しているので、ここでまとめて整理しておくことにする。

■ノード(5)非西洋医療権威主義

「ツボダイエット法」の広告である資料33では「東洋医学でらくらくダイエット」というように「東洋」をリフレインする。体験談にも「もともと漢方薬の材料としても使われているニガウリが、体に悪いわけはありませんね」(資料1)というクリーシェが登場する。資料11の「対葉豆」も「インドネシアでは誰もが知っている民間薬、いわばジャワ版漢方薬です」と紹介される。「和漢のチカラは凄いとドンドン愛用者が急増中」という見出しもある(資料13)。もちろん漢方医も引き合いにだされる。クロレラの資料21では、長髪ひげ姿のそれらしい漢方医の談話が掲載されているが、内容はその専門とは異なる話である。これは図像学的に興味深い。

ただ、今回調査した資料では予想したよりも東洋医学に権威を求めるものは少なかった。健康雑誌やテレビ番組の方が事例は豊富かもしれない。ただし例外なのは気功整体である。この分野はいたってまじめであり、「もともとあやしげなものだから権威を持ち出す」というのではなさそうだ。この場合は中国、ひたすら中国である(資料30,31)。かえってここでは「本場」というクリーシェが少なかったのも意外だった。

■ノード(6)伝統主義

中高年が健康食品に関心をもっているであろうということは容易に推測できる。広告主はそのような世代が「伝統」「田舎」「自然」といったことばに弱いことを知っている。これらは権威として機能する。

たとえば「くろ源」は粒状の食品である。写真で見るかぎり、それは合理的に計算されつくされコンパクトにまとめられた宇宙食という感じに近い。しかし、広告において一貫して主張されるのは、それが「伝統」の直接的な継承者であるということだ。「日本の山河で育った自然の恵みを、私たち祖先は、上手に料理して、その食卓を飾りました。胡麻和え、昆布巻き、梅干しなど。それらはまた毎日食することによって、日本人の健康を守り、病気を予防する役割も担ってきました。ところが現代の食卓には、残念なことに、これらの滋養食は、隅っこに追いやられています。」(資料7)だから「くろ源」だというのである。小見出しには「おばあちゃんの料理は体にいい!」とある。それゆえ「くろ源」は「伝統食 くろ源」なのだ(資料7)。伝統的なものにノスタルジーのある中高年には受け入れられやすいクリーシェである。

しかし、注目しなければならないのは、そうしたノスタルジーのもとになるような経験をもたない世代にも、こうした伝統的なるものへの信頼(「伝統的なるものは調和が取れていた」という幻想)が存在するということである。60年代ブーム・70年代ブームを反映したグッズを見て、十代の若者たちが「なつかしい!」と発する、あの感覚に近いかもしれない。伝統自体が権威であるという感覚(かつてマックス・ウェーバーは「伝統的支配」と呼んだ)は、健康言説にあっては今でも健在であり、そうした感覚を再創造していると考えることができる。

■ノード(7)自然治癒力主義

「健康ステーション荻窪」は次のように語る。「ほとんどの病気は『自然治癒力』が働らかなければ治らないのは常識です。本来、人間の病気は最終的に『自分の治す力で治している』のです。これが自然治癒力で、これらを高められれば病気は治ると言われています。」(資料2)資料2では42の慢性疾患および愁訴が列挙されている。では、何をすれば自然治癒力が高まるのかは語られていない。「自律神経の調整・活性療法」と自称しているのだが「基本を整えながら、全身の血行を促進し、気をあげ、活性酵素を取り除き、骨密度を高めて、病気別のツボ刺激療法と、今まで例のない痛みのない方法で行います。」(資料2)「気」を使用しているところから、おそらく霊術系宗教の関連事業と思われる。「基本を整える」という抽象的なフレーズがポイントであろう。

これに似たものとして「日本医療協会本部」のセミナーの広告がある。「薬を飲まない話題の療法」として「健康は、脳の活性と自律神経の調整/自然治癒力を科学することにあった」(資料22)としている。内容はよくわからない。

アトピーに効くとされる「対葉豆」の広告においても「自然治癒力が高まる!!」というクリーシェを筆頭のコピーにしている(資料11)。「対葉豆」の場合、悪評高いステロイド治療が攻撃対象とされるため、それに対置するものとして自然治癒力が強調されているのであろう。

自然治癒力は基本的に「何も手を加えないのが一番いいのだ」という原理主義的な志向性を体現する言説である。「何もしない」という減算主義である。しかし、これが過剰な人為的医療に対して対抗的にもちだされると、それはテキストの中で積極的な意味をもちはじめる。

■ノード(8)薬の忌避・薬害への恐怖

自然治癒力主義と一対になっているのが過剰医療および医薬品への恐怖である。療法系の広告ではしばしばここが強調される。「薬も飲まず、痛みも消えて…良くなった」との見出しを掲げる資料2は「下記に思い当たる方は《無料健康相談》を受付けております」とし、その中に「薬害を恐れている方」を挙げている。

アトピー性皮膚炎に効くとされる「対葉豆」の場合も、ステロイド治療への呪詛が紙面に満ちあふれている。クローズアップされている医師と美容ケア・アドバイザーの対談の中で「私自身、小さなころからアトピーでずっとステロイドを使ってきました。大人になってからも治るどころか、副作用でたいへん苦労しました」とアドバイザーの女性が慨嘆している。その裏面には四つの体験談が並んでいるが、そのうち二件がステロイドの怖さを指摘している。たとえば「そして私は決心したのです。こんなことになったのは23年間もステロイド剤に頼りきっていた私のせい。お腹の赤ちゃんのために、もう2度とステロイドを使わない……と。」(資料11)ステロイドの副作用はよく知られているが、治療のための薬剤がかえって事態を深刻化してしまうという近代医学的処置のパラドックスが、自然治癒力や前近代的な民間療法への期待を高めていくのであろう。

■ノード(9)無添加主義

減算主義的言説の典型が無添加主義である。いささかあやしげなセミナーから生協の共同購入まで、無添加を謳う広告は多い。あやしげなものから見ていくと、「無添加食品を食卓に」とする泉澤物商の折込広告がある(資料3)。手書きと切り抜きの赤一色のチラシは、八百屋のチラシと雰囲気は同じである。しかし、この広告は無添加食品の広告ではない。セミナー参加者には「アイエス丸大豆醤油」(午前の部)「アイエス味噌」(午後の部)がプレゼントされる。「りんご5コ100円」「巨峰1パック100円」も呼び水にすぎない。コピーにはこうある。「お届けするのは健康です。当店は自然食品専門店の宣伝を行う仮店舗です」そして「セミナー参加の方にかぎります。尚、お子様連れはごえんりょ下さい」と但し書きがついている。商品はセミナーであり、そのセミナーで集団催眠的に販売される「無添加」の「何か」(おそらく高価なもの)なのである。しかし、その商品がいくらワケありであっても、あるいはまた高価であっても、手に余るものであっても、のちに家族などから非難されるであろう消費行動を購入者はきちんと自己弁明できる要素が残されている。それが「無添加」というクリーシェである。「無添加による健康」が、愚かな買い手にとっても狡猾な売り手にとっても一種の護符になっているわけである。

折込広告において化粧品が登場するケースも、たいていは無添加がテーマになっている。たとえばカワイ化粧品の「素肌美通販」では、「増え続けるトラブル肌に"添加物"化粧品」という見出しで、生々しい実例写真を並べ、「全品無添加」を対置している(資料19)。「メイクもしっかり無添加に替えて悪循環を避けて下さい」(資料19)と、すべてのトラブル要因は添加物で、解決は無添加しかないという構図だ。

同じく無添加化粧品の資料10は「余計なスキンケアはいらない。私は与えすぎないことの大切さに気づきました」をメインコピーにしている。この「私」とはオペラ歌手の中島啓江のことである。インタビューの中で中島はいう。「何より嬉しかったのは、あれほど敏感だった私の肌に使ってもなんともなく、肌もイキイキとしてきたこと。これって無添加だからかしら。」それに対して司会は「それもありますね。それに天然成分の植物エキスが中心なので肌にも安心なんです。」とたたみかける(資料10)。「無添加」と「天然」がほとんど互換的に使用され、商品のキーワードになっている。

このような無添加主義は、過剰に装飾し添加する現代的な商品に批判的な人たちにアピールしやすい。減算主義あるいはシンプル志向といってもよいベクトルであるが、このような傾向には、商品を消費者にとって把握可能なものにしたいという知的欲求もあるのではなかろうか。失われて久しいモノへの計算可能性を取り戻そうとする試みと見ることもできる。そういう点では知的な心性である。資料10において、あまり化粧品の広告に似つかわしいとはいえない(本人も「正直言ってこの私が?と耳を疑いました。(笑)」と述べている)短髪で太め体格の中島がクローズアップされているのも、オペラ歌手という職業の知的雰囲気が無添加主義と共鳴するからである。

基礎化粧品の「アスカ」の広告も似たところがあるが、ここでは「原液」にこだわっている。「アスカは混ぜない。うすめない。これ以上はありません。天然原液スキンケア」というのがメインコピーである。そして「無添加・無着色・無香料=天然成分100%ではありません。表示指定成分が入ってないものを、そう表示する場合もあります。アスカは天然原液100%です」(資料23)と、他社との差別化をしようとしている。この場合の「天然原液」とは胎盤のことである。それを「医療用の素材」といいかえてはいるが、隠してはいないところを見ると、むしろそれが商品の純粋性を示すことになると考えているからだろう。

「ヘルシーを宅配でお届けします」という生協の宅配サービスの広告は、さらに知的度が高まるといえるかもしれない。ここで強調されるのは、原理主義的な「無」ではなく現実主義的な「低」だからである。「低農薬で自然の力をそのまま使っているからホクホクおいしいじゃがいもが育つんです。」「ぼくらの牛乳は風味や栄養がそのまま生きた低温度殺菌処理。みんなに安心の牛乳だよ。」「良質のお米が採れる気候と土壌に恵まれた低農薬の安全で安心のお米です。」(資料20)農薬をまったく使わないというのは現実的でない、必要最小限のものでいいのだという現実主義的な対応が、この生協のコンセプトのようだ。ちなみに豆腐の説明では「遺伝子組み替え原料は使用していません」としている(資料20)。これも「無添加」ということになろうか。

■ノード(10)素材よければ主義

無添加主義の別の表現として「素材よければ主義」がある。そもそも素材のインパクトに依存する健康食品は多い。典型的なのは「伝承濃縮すっぽんエキス粒」(資料4)。すっぽんの効用はよく知られているから、素材を強調するのが基本である。健康関連広告の場合、素材への信頼が重要なひとつの依拠となるのは、「人為的に手を加えないのが一番安全なのだ」という減算主義的思想があるからである。

「じまんできるトマトが、できました。」「自然のままトマト本来の味」と、素材のよさを強調するのがカゴメの「健康直送便」(資料19)である。缶ジュースなのに素材の新鮮さを強調するのは奇妙なことではあるが、健康商品というジャンルとなると、素材のよさで勝負することになるのだろう。

資料11の「タイヨウトウ」は基本的にはお茶のようであるが(よく読まないとわからない)、終始強調されているのは対葉豆というインドネシアのマメ科の植物である。「インドネシアでは毒蛇の解毒剤として知られる!!対葉豆パワー」がメインコピーとなっている。

さらに健康食品の場合、同種商品との質的優位性を強調するために、原材料のよさをアピールすることも多い。クロレラの資料25では「ご注意下さい!……クロレラ、クロレラといっても違いがあります」として自社製品が消化吸収に優れた「細胞壁破砕クロレラ」であることを強調する。要するに「ウチのはヨソのものとちがう」という単純な差別化のための素材言及なのであるが、こうしたコンテキストにおける「素材よければ主義」は、有効性がはっきりせず、しばしば詐欺的な商法に利用される健康食品の販売での常套手段でもある。一週間のセミナーに参加したすえに「霊芝」60万円を購入した筆者の縁者は、一般に販売されている霊芝の素材が粗悪であるために「霊芝が効かない」と悪評が立っているようだが、自分たちの霊芝は素材がそういうものとはちがうのだという話を再三きかされたという。しかし、素材についての検証の機会が購入者に用意されていないのがふつうである。

6 健康クリーシェの諸類型(3)道徳言説系

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健康言説はしばしば道徳的である。ある行為を非難し、ある行為を賞賛する。この非難と賞賛のノードは一貫しておらず、しばしば矛盾するが、絶妙に組み合わされることによって、その言説の使用者に一定の態度を生じさせる。健康関連広告ではそれをねらって道徳的な言説が頻繁に語られている。

■ノード(11)継続は力なり言説

近代医学の処置のように短期的かつ劇的な効果を望めない健康食品や民間療法は、かつての受験界のお守りことば「継続は力なり」と似たような道徳的言説をくりかえす。「このようにいろいろ健康に役に立つ成分を持ったニガウリですが、大事なことは、とにかく毎日とり続けることです」(資料1)「効果があっても使い続けなければ意味がありません」(資料14)「健康食品は続けることがまず大切です」というファンケルの広告では価格が勝負どころになっている(資料24)。安いから続けられるということらしい。

広告主にとって「継続は力なり言説」は、商品の長期使用による大量消費へ誘導する効果が見込まれている。それゆえ、洗練されたイメージよりも、自己正当化のイデオロギーを過剰に提示する方法をとる。だから健康関連広告は、他のどのジャンルよりも饒舌になりがちである。

これにはもうひとつのウラがあって、それはたとえばセミナー形式でなされる高価な健康食品の販売現場においてしばしば強調されるものである。すでに筆者の見聞としてふれた事例で、一週間連続セミナーで「霊芝」二年分60万円の商品を購入したケースでも「これだけ続けなければ効果ない」と念を入れられたという。「継続しなければ効果はでない。だから辛抱強くやるんだよ」と道徳的に励ましているように見えるが、この場合、少なくとも二年間はだまされたことに気づかないというしかけであった。飲み忘れが重なれば「時効」はもっと延びるだろう。クレームに対しても「それはきちっと飲み続けていないあなた自身のせいだ」と言い逃れることができる。プロモートする側にとって都合のよい、そういう「道徳」なのだ。しかし、古い世代はかつて国家的に推奨された乾布摩擦やラジオ体操をはじめとして、こういう道徳によく親しんでいるために、そのトリックには気づかないのである。

■ノード(12)良薬口に苦し言説

わざわざ「ニガシブ君マーク」が「厳選された品質」を保証するニガウリ茶の場合「ニガウリの苦さと渋みがあなたをヘルシーに変える!!!」(資料1)というコピーが付されている。もちろんこの言説には「良薬口に苦し」という古いことわざ(元祖クリーシェ!)が対応しているわけで、読み手はそのことわざのロジックをなぞることによって、このコピーを肯定的に理解する。このロジックは一種の等価交換の論理である。代償を支払うことが望ましい結果を担保する。この交換形式が計算高い人たちにも説得力を生むのである。かつて一部で評判になった「あー、まずい!」の「青汁」も、同じロジックである。

こういうとインチキくさいもののカモフラージュという印象を生んでしまいそうだが、じっさいにはこの言説こそ、現代の医療現場において日々連呼されている当のものなのである。注射は痛い、検査はつらい、インターフェロンはぼろぼろになる、抗ガン剤は副作用がひどい……しかし、それは必要なのだと医療専門家が説得するとき、「良薬口に苦し言説」が多用されてきた。健康食品の広告はそれにただ乗りしているだけである。

■ノード(13)リスク放置非難言説

「お肌のダメージを放っておくと大変なことに」(資料6)と「美白コース」の見出しにある。この場合の「ダメージ」とは「シミ、ソバカス、くすみ」のこと。どう大変になるのかは説明されていない。女性読者にとっては自明のことなのかもしれない。このようにダメージやリスクをそのまま放置すると取り返しのつかないことになると警告し、暗に非難するクリーシェを「リスク放置非難言説」と名づけておきたい。

クロレラの資料21では、赤地に白抜きで「今、真剣に考えて下さい/こわい糖尿病・高血圧・心臓病!」と大見出しを打っている(資料21)。そして脳卒中の種類をこまかく説明するのである。

これもまた医療専門家や公衆衛生実務者がよく使う言説である。健康の分野において制度化された権威と同じ身ぶりをすることによって、その権威の横滑りの錯覚を生じさせる言説である。

■ノード(14)嗜癖不道徳説

ドラッグにしても飲酒にしても喫煙にしても、それが悪いと知りながらやめられないでいるという状態には「不道徳」というレッテルが貼られやすい。なぜなら、それは能力の問題ではなく意志の問題だと見なされるからである。そのため、とくに生真面目な人たち(厚生省、公衆衛生関係者、自然環境主義者、生協関係者、リベラル派)によって語られる健康言説には、嗜癖愛好者に対する露骨な非難と憎悪が含まれている。それはしばしば道徳十字軍を組織することになる。

問題状況を抱えることになるのは、じつはそうした道徳十字軍に包囲された人たちである(道徳十字軍の中で非難の声をあげる人たちは通常自分たちを問題視しない)。折込広告はそこに目をつける。「最近、我が社ではオフィス内での禁煙が決まり、タバコを吸うにはわざわざ小さな喫煙ルームに行かなくてはならなくなりました。一時もタバコを離すことの出来ない小生にとっては、1日に何回も行ったり来たりとしてタバコも落ち着いて吸えないばかりか、席についてもタバコを吸うことばかりを考えてしまい、仕事も手につかず、能率も大変悪くなってしまいました。」(資料5)このような人たちに共感する人たちは多いだろうし、道徳十字軍側の人たちにとっても、このような戦略は有効であると見なされる。当然、このようなクリーシェは何らかの問題状況解決へ人びとを動かすことになる。

■ノード(15)死の恐怖

健康言説の背後にはたえず死への恐怖がまとわりついている。それは語る側にも語られる側にもある。しかし、病気が苦しく、死への道に通じることはだれもがよく知っているから、とりたてて死の恐怖を煽るのは広告にとって回避すべきことである。したがって多くの健康関連広告において死の恐怖については沈黙されるのが常である。けれども、嗜癖に関することだと話がちがってくる。というのも、それが「不道徳」でもあるからである。この場合は、ことさらに死の恐怖が語られる。その典型が喫煙である。

「禁煙楽々」(資料5)では、喫煙者に同情的でありながらも、新聞記事の切り抜きを示してタバコの害を説明する。「ドキッ…『もう後の祭り』」「子供のためです…たばこ吸わないで」がその記事の見出しである。いうまでもなく、これは「嗜癖の不道徳」を非難している見出しである。タバコには「地上最強の猛毒ダイオキシン、イタイイタイ病を引き起こしたカドミウムも多く含まれ、なんと青酸カリにも匹敵するほどの猛毒とされています」と追い打ちをかける(資料5)。悪玉として認知されている化学物質のそろい踏みである。さらに「喜びの声!」という体験談のコーナーには、タバコの害について話し合ったことのある友人が40代にして肺ガンで死んだ話がでてくる(資料5)。

このような死の恐怖を煽りたてる言説は、他の道徳言説系のケースと同様、むしろ医療や公衆衛生に関わる専門家や実務家の得意とするところであり、またメジャーなマス・メディアの得意分野でもある。公的なヘルス・プロモーションの常套手段であるだけに、むしろゲリラ的な折込広告では影をひそめるという感がある。折込広告の世界では「あぶないぞ!」と大声をあげて注意するばかりでじっさいには何もしてくれない狼少年に用はないのである。むしろ、どうすればいいかを具体的に指示し、じっさいに楽になれる術をもっている魔女がほしいのだ。折込広告の魅力はそこにある。

■ノード(16)性的健康

「伝承濃縮すっぽんエキス粒」(資料4)は健康言説のジェンダー・バイアスを典型的な形で示している。「すっぽんの効力は広く世間に言われている男性だけに限られたモノではありません。女性にも、身体の芯をきれいに保ち、美容・健康などの悩みの解消にも適します。」(資料4)この広告でおもしろいのは、すっぽんではおきまりになっている「精力」ということばが意図的に避けられていることだ。すべて「活力」ということばに置き換えられている。「男性にも/女性にも」(資料4)と、とくに女性に向かって呼びかけているようでもある。

しかし、一見ひねっているようでいて、結局、すっぽんが連想させる性的活力の範囲を出ないところがじつはポイントである。つまり、男性の精力増進については読者の側の知識在庫があるのだから、あえて語る必要がない。そのクリーシェに対抗する形で「女性の美容」という性的魅力を高める機能を強調することで、ささやかな常識批判のスパイスによって、性的領域への効果を語り直すしかけである。「男は精力、女は色気」という保守的な世界観に変わりはない。このように健康言説が語られる世界観は保守的なジェンダー構造をもっていることに注意しておきたい。

■ノード(17)フェティシズム的道徳

かつてマルクスは「商品が逆立ちしている」として、商品の物神性(フェティシズム)について批判したことがある。消費社会において、このような転倒は日常茶飯事であり、私たちはそれを何とも感じない。消費社会の典型的言説ともいえる健康言説には、もちろんそういうフェティシズム的転倒が見られる。とくに美容関係の言説にとってそれは大前提である。

たとえばエステティックサロンの折込広告にある次のフレーズ「秋のファッションを着こなすために、矯正下着もガードルも必要としない理想のプロポーションを目指します」(資料6)はその一例である。ここでは「身体にフィットしたファッション」ではなく、「ファッションにフィットした身体」が目指されているが、それはもはや「転倒」とは意識されていない自明のこととして語られている。あくまでも保守的なジェンダー構造に沿いながら、表層的にはヴァージョンアップした新しい道徳が「健康」を媒介に正当化された姿で語られているのである。

7 健康クリーシェの諸類型(4)救済言説系

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折込広告では、どうすればいいのかを具体的に指示し、問題を抱えた人を励ます言説が、頻繁に登場する。警告するだけでなく、きちんと処方箋を提示するわけだ。もちろん、それが広告したい商品でありサービスである。このような系列の言説は「救済言説系」と呼ぶことができる。まさにここが民俗宗教の「御利益」の部分であり「現世利益」に対応する側面である。

■ノード(18)まだ間に合う言説

健康関連商品の場合、リスクをすでに抱えている人こそ、よい顧客になりうる。この人たちをいかにして取り込むかが課題である。リスク放置を非難するだけではだめ。いったん追い込んでおいて、それから引くのである。それが「まだ間に合う」というクリーシェだ。

禁煙グッズの広告では「タバコはこんなに怖い」ことを説明したすぐあとで「あと5年以上生きるつもりなら…」と題して次のように述べている。「『何年、何十年とタバコを吸っているから、どうせ肺は真っ黒。いまさら禁煙しても意味がない』と思っている方はいませんか?[中略]ところが『どんなに喫煙歴の長い人でも、禁煙して約5年で、肺ガンにかかる危険が非喫煙者と同じレベルまで下がる』ことが明らかになっています。誰だって、ガンで苦しむよりは健康な生活を送りたいですよね。つまり、残りの人生が5年以上ありそうなら、年齢や喫煙率にかかわらず、すぐに禁煙すべきなのです。」(資料5)お見事というしかない。「まだ間に合う」という希望的観測は、具体的行動への直接的な引き金になる言説として、健康言説全体の中でも重要な意味をもっている。

「間に合うかもしれない、今なら……」はダイエットにもあてはまる。「痩せることはとても無理と、あきらめていたのですが、ある日、50代のきれいな女優さんを見て、ハッとしました。[中略]『絶対に痩せる!』と誓いました」と43歳の主婦は「ダイエット奮闘記」で述べる(資料8)。「30代の後半からぽっちゃりしてきた私は、更年期を迎え、体質が変わったのか、ここ2年で急激に太ってしまいました。あっという間に11号が、13号そして15号になったショック!大げさですが、自分の人生がほとんど終わってしまったようで、すっかり落ち込んでしまいました。」(資料13)と体験談を始めているのは46歳の女性。これなどは体験手記の形を取ってはいるが、結果的に11号・13号・15号の服を着ている女性読者を追いつめているといえる。そして体験談が「まだ間に合う」とダイエットを始めた人のサクセスストーリーを提示するわけである。

セミナーへの案内広告でも「あきらめていませんか?」が大きなテーマのようだ(資料22)。「痛い、つらい・・・・いろんな所へ行って、いろんな事を試したけれど、一時しのぎ、同じ事の繰り返しではありませんか。」と誘いかける(資料22)。あとで述べるように、多くの遍歴を重ねている人に呼びかけているのだ。

■ノード(19)万病解決言説

健康関連広告の特徴は、商品の効用が万能であると主張することである。これが不信感のもたれる原因にもなるし、宗教的な雰囲気さえ漂ってくる理由でもある。では、それでもなお「何でも効く」と主張するのだろうか。

資料リスト[表1]の「対象としている非健康要因・リスク要因・効能」からあきらかなように、今回調査した中で万病解決に近いものはセミナーと気功整体そしてクロレラである。セミナーは何とでもいえるし、気功整体はもともとそういうものである。その意味で興味深いのはクロレラである(資料25,26,27,28,29)。

日本クロレラ療法研究会の折込広告には「解説特報」と「薬効食品通信」の二種類がある。「解説特報」では両面のほとんどが体験談であり、「薬効食品通信」では裏面全部が体験談である。体験談の見出しは病名であり、それらがクロレラのおかげでよくなったとしている。資料25だけでも、糖尿病、自律神経失調症、C型肝炎、尋常性乾癬、高血圧・脳血栓の後遺症、坐骨神経痛・便秘、椎間板ヘルニア、うつ病・更年期・生理不順・便秘・抜け毛、糖尿病・便秘・水虫、アトピー性皮膚炎、脳梗塞・パーキンソンが並んでいる(資料25)。半信半疑言説として述べたように、こうした万能性がかえって人びとの懐疑の目を開かせる。その意味で広告主としてはリスクのあるクリーシェなのである。それゆえクロレラでは詳しい体験談を紙面いっぱいに掲載し、しかも頻繁に新しいものに替えている。プライバシーに配慮しながらも、アンケート用紙に書かれた肉筆を掲載したりもしている。その姿勢は一貫しており、スキがない。読めば読むほど引き入れられる。「その時の医師からは『せいぜい一年ですね』と余命を宣告されました。クロレラを知ったのは退院後間もなくの平成8年10月、新聞折り込の「解説特報」でした。弟は半信半疑の様子でしたが病院の治療を続けながらクロレラ療法も試してみる事にしたと言っていました。」(資料26)このあと、肝臓ガンが治癒することになるのだが、治ったのは病院の治療の結果ではなくクロレラ療法の結果と認識されているのが興味深い(ふつう肝臓治療の効果は遅延してでるもの)。ともあれ、これがこの折込広告の読まれ方の一例である。

ともあれ、一品で一挙解決というのは医薬品には期待できないものである。それはまさに「救済」と呼ばれるにふさわしい解決スタイルではなかろうか。

■ノード(20)お手軽主義

健康へといたる道はかんたんではない。近代医療にもとづいた公衆衛生事業がいくら完備されたところで、そこからはみでた人たちは存在する。そして「画期的な健康法」を求める。その画期的特性は「治らなかった病が治る」というものであることも多いが、もうひとつは「画期的にお手軽」ということだ。すでに述べたように前者が「継続は力なり」を強調するのと対照的である。

たとえば「禁煙楽々」(資料5)は「無理な禁煙は逆効果!」と宣言し、「禁煙の後の一服ほど、おいしいタバコはありません」とさえ述べ、嗜癖を肯定する(資料5)。とにかく「無理するな」というメッセージである。その上で「香りをかぐだけで吸いたい欲求をコントロール」(資料5)できると商品をすすめる。安直な読者にとって徹底的に好都合な話である。

こうした商品のいいところはユーザー側からのクレームの少ないことであろう。「禁煙楽々」では「北京第一医薬大学薬物学教授」が「ひとつの返品もありませんでした」と述べているし、見出しにも「効果のないときには代金をお返しします」と宣言している(資料5)。かりに禁煙に失敗しても、嗜癖のコントロールに対して人びとは寛容で、ちょうど競馬予想のような態度で評価するものであるから(はずれたところで、競馬はこういうものだとあきらめる)、お手軽路線は売り手にとって比較的安全な商売であるのかもしれない。

ダイエット業界もこうしたお手軽さを強調するのがひとつの路線らしい。「パワー・キトサン配合のファット・ストップ プチキッス」の広告では、全日本女子プロレスの納見佳容を起用して「パワーがついて脂肪がつかない」と言わせている(資料15)。納見の一日のメニューを写真で紹介したあと(それはゆうに成年男子三人分はある)「食べても食べてもドンドンダイエット!!」と、お手軽なこと、このうえない。「甘い物がやめられない私でも大丈夫でした」という若い女性の体験も掲載されている。(資料15)

■ノード(21)遍歴言説

体験談に見られるのは、挑戦と挫折をくりかえす遍歴の歴史である。「巡り会えてよかった」という落ちである。ダイエット食品で20キロもやせたという43歳主婦はいう。「挑戦と挫折。ダイエットとリバウンドを繰り返して2年。スイミング、エアロビ、もちろんエステにも行ってみました。結局、ダイエットは食事制限が基本。食事量を減らすのですが、一週間も我慢できません。その上、年が年ですから、無理がたたったのか肌がガサガサになり、いっそう老け込んでしまった自分を見て、もうダイエットはやめよう。と考えるようになりました。そんなときカイアポックスと出会ったのです。」(資料8)他の広告でも「ヤセた〜い!と願い続けて十年。ありとあらゆるダイエットに挑戦してきました。最近だけでもリンゴダイエット、卵ダイエット、ダイエット下着、油抜きダイエット・・・とうとう、食べたものを吐くのが早いと聞いて、食後にトイレで吐くことも。」(資料13)とある。

健康関連商品では、消費者側に遍歴があるのがふつうである。経験を積んだ、目の肥えた人たちであり、その広告を読み、その商品に関心を寄せるだけの理由を身体に抱えた人たちである。だから、折込における健康関連広告は、そういう意味ではむしろマニアックであり知的とさえいえる。広告主が見据えているのは、ぼーっとしている幸せな人びとではなく、具体的な身体的苦悩を抱え、それゆえに多少のリスクを恐れず、能動的に消費行動をする、知識豊富・経験豊富な人たちなのであり、その人たちをよく理解しているというメッセージを伝えようと一生懸命である。

無添加化粧品の「素肌美通販」(資料19)では、多くの人たちが遍歴するプロセスを図式化して、12人の体験談(華麗な遍歴?)の横に提示している。これなどは理屈っぽいほどのアプローチであるが、典型的なユーザー層の遍歴をまとめていておもしろい。それによると、化粧品の大半が添加物の成分であり、これがトラブル肌の起因になっている。そこで、それに対応するために高価な商品や肌に合わせた追加商品を店頭ですすめられて購入するのだが、何一つ解決しないので、今度は医薬品に動いていく。まずは一時的によく見せる医薬部外品を使用する。しかしうまく行かなくなると「体質に合わない」として販売を辞退する会社や店が増えてくる。なんとか悩みを解決したいと思う人たちは、仕方なく薬を求めるようになる。しかし、薬では添加物によるトラブル肌は治せないばかりか、薬の連用と使い誤りによって副作用の危険さえ生じてくる。その結果、しばしば重傷肌へと転じてしまう。赤ら顔・赤い発疹・炎症・ハレ・ウミ・毛細血管の浮き上がり・皮膚が薄くなる・カブレなどの重傷肌がこうしてつくられるというのだ(資料19)。そして、その遍歴の最後の段階(つまりアガリ)に位置づけられるのが無添加化粧品というわけだ。読まなければ無視できるが、これも丹念に読めば読むほど無視できない語り口である。

■ノード(22)生まれ変わり言説

掲載された体験談には一種の「生まれ変わり」の感覚が語られている。たとえばダイエット食品の資料15では「これから新しい自分が見つかりそうです」という見出しで、25歳フリーターの女性のことばが紹介されている。「太っていた頃は、何だか人前に出ることや大勢でにぎやかにすることが恥ずかしかったんですが、何だか最近は自分では変わっていないと思っていても周りの人たちから気軽に話しかけられるようになり、アルバイト先のみんなとも、とてもいい関係になった様な気がします。とても不思議です。」(資料15)にぎやかに構成された紙面の中央におかれた少し地味なスポットに書かれたこのことばは、この広告のあたかもヘソのような存在になっている。新しい自分探し、あるいは現世内での生まれ変わり。健康言説のひとつの側面だと感じる。

ダイエットだけではない。「健康的でない」身体状況は、その人の社会関係を悪循環させる。そこからの脱出がめざされている。アトピー・タイヨウトウ療法研究会の広告で紹介された45歳男性の話もそういうところがある。「リストラで慣れない営業部へ移動になった私は、ストレスからか、もともとのアレルギー体質が悪化し、ひどいアトピー性皮膚炎になってしまいました。やがて湿疹は顔全体に広がり、手はケロイドのように赤く腫れ上がりました。こんな姿で慣れない営業に出るのですから、成績が上がるはずもありません。あせればあせるほどに、ストレスは大きくなり、アトピーも悪化するという悪循環です。」(資料14)転職を考えて、悩んでいたとき、妻のすすめでタイヨウトウを使うようになり、顔もきれいになったという。その結果「なんとなく自信を取り戻した私は、それ以来仕事も順調。心から対葉豆に感謝しています。」(資料14)

ほとんど新宗教の入信動機の語りと変わらない構図がここにある。健康言説が陳腐でありながらも飽くことなく語り続けられ耳を傾けられるのは、このような身体的アイデンティティの再構築に深くかかわるからだろう。そしてその体験談が創作であっとしても、読者がそこに読み込むのは商品購入後に自分がたどるであろう「生まれ変わり」のステップなのであって、べつに創作であろうと実体験であろうと関係ないのである。

8 健康クリーシェの諸類型(5)身体アイデンティティ言説系

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病気やけがに見舞われたとき、私たちはある種の私秘的状態に内向する。そして、非健康な身体としての「特別な自分」を強く意識する。非健康つまり「健康でない状態」になってはじめて私たちは「健康」を意識し、「健康」について語り始め、そのプロセスの中で「特別な自分」を語る。

健康はアイデンティティにかかわる言説である。ここで取り上げる健康言説は、身体に焦点を当てることによってアイデンティティについて語っている。今回の調査では件数がそれほど多くなかったが、健康雑誌や女性誌を素材にすれば、おそらく枚挙にいとまないほどの事例が提示できるだろう。

■ノード(23)体質という個性

私たちが考えることは大差ない。自分らしい個性なんてほとんどありえない。しかし「自分だけは特別」という意識は強く埋め込まれている。現代人のこれが実態であろう。しかし、真に個性的なものが自分にあるではないか。それが「体質」である。負の個性かもしれないが、日常生活において悩ましい思いをしているその要因が「体質」であるとすると、それこそ自分のアイデンティティの中核をなす一大事なのである。体質を語ること、すなわち特別な自分を語ることなのである。少なくとも、そういう人たちがいる。

肌に関する身体現象は体質的なものが多いとされているために、アトピー性皮膚炎に悩む人たちにとって「体質という個性」がライフヒストリーの重要なテーマになっている。たとえば子供の頃から23年間ステロイド剤なしではいられなかった妊婦は次のように述べる。「幸せなはずの妊娠期間は、私にとっては死ぬよりつらい地獄の日々。陣痛への不安を感じる暇もないほどに、襲いくる痒みに振り回される毎日でした。妊娠して体質が変わったためか、これまで、すぐに効いていたステロイド剤が不思議に効かなくなり、いくら塗っても痒みが止まらなくなりました。[中略]そんなことを繰り返しているうちに私の頬や首は赤く腫れ上がり、まるで、象の皮膚のように固くなっていきました。」(資料11)どうしようもない自分の「体質」。医者さえ何もできない。そうした問題状況の中で「特別な自分」を意識せざるをえない。健康言説はそれを承認する。

美容関連の広告は多いが、その中で筆者が健康関連広告と見なすものは、この「体質」にポイントをおいたものである。資料6はエステの広告であるが、「あなたの肌に合わせて処方した化粧品をサロン店頭で1品よりご購入いただけます。●150種類の化粧品の中からあなたの肌に合わせて処方します。」とある(資料6)。たんに見た目のよしあしとしての身体的特徴とは区別された「体質という個性」を意識させる表現である。このように健康関連広告において「体質」は個性の証として認知され、「特別な自分」にふさわしいサービスの提供を申し出るのである。

■ノード(24)恋愛共同体への誘惑

美容系でキーワードになるのは「恋愛」である。恋愛をする人たちの言説の世界を「恋愛共同体」と呼ぶとすると、この共同体の一員であるかどうかが、若い人たちにとって大きなことである。とりあえず「カレシ」「カノジョ」がいるということがアイデンティティの安定要素であり、また現状が不本意だとしても、きたるべき本命への道を保証する状況でもある。

もし恋愛共同体から排除されているとしたら、それは身体の問題つまり異性に対する身体的魅力の欠如であるという思想がある。逆に、精神や性格の問題であれば、それは救いようがない事態なのであって、むしろ身体の問題に還元されて理解されることが暫定的な精神的安定を保証するのである。健康言説が恋愛を語るのは、そういう文脈である。たとえば、体験談の見出しとなっている「スリムな身体と恋が、ニガウリ茶でゲット!!」(資料1)はその典型である。

独身者だけではない。すでに恋愛共同体を卒業した(させられた)人たちにも語りかける。じつはダイエットの体験談で語られるのは、たいていこの種のものである。ダイエット食品「カイアポックス シルキー・スリム」の広告では、チラシ両面のほとんどが体験談で構成されている(資料8)。表一面を飾るのは、体重が62キロもあったという43歳の主婦である。「子供の世話や、家事に追われ、自分が『女』であることをすっかり忘れていた私。独身時代は自分でいうのもなんですが、ずいぶんモテて、街を歩くと、私を熱い視線で追う男性がいたものです。『絶対に痩せる!』と誓いました。[中略]カイアポックスは本当にスゴイです。苦労しないでわずか二ヶ月で、48.2キロ。20年前の独身時代とほとんどかわりません。それに驚いたことに、こんなに痩せたのに、私、ちっともやつれていないんです![中略]この前、思いきって流行のミニスカートを買いました。40才を過ぎてミニが似合う足になれるなんて、まったく夢のような話です。もちろん主人が大喜びなのは言うまでもありません。カイアポックスが私の人生を取り戻してくれました。」(資料8)恋愛共同体への(奇跡の?)復帰というところである。見出しでは「43歳」が強調され、典型的な「使用前・使用後写真」は自然で、なかなか見事である。

しかし、この場合、注意すべきなのは、たんに性的魅力を増進させるためだけのダイエットでないことである。「私のように健康に気を使う年齢でも安心です」(資料8)とあるように、健康への留意もまたポイントである。資料8の別の「ダイエット奮闘記」でも42歳の看護婦が「体重が減るだけではなくて、体脂肪が減っている点がスゴイと思います。健康ダイエットなので、体力が落ちることもなく、勤務にまったく支障はありませんし、逆に職業病の便秘も解消したぐらいです。」(資料8)だからこその健康言説であるが、中高年になって露骨に性的魅力を高めることへのてらいや恥ずかしさを「健康への配慮」という名目が中和するという構図がここにある。なお、この場合、語り手が看護婦であることは、たんに有職既婚女性の代表というだけではないだろう。

9 健康クリーシェの諸類型(6)承認言説系

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あきらめかけていた人や絶望していた人たち、「なんとかしなくてはなあ」と不安を抱いていた人たちを「救済」する方法があるのだと主張するとき、まず起きあがるのは「ほんとかなあ?」という問いである。この疑問にきちんと応えられなければ、読者による商品の購入は見込めない。したがって、折込広告においては、第三者的他者の承認が執拗に語られることになる。

■ノード(25)半信半疑言説

健康関連商品はどれもあやしげである。それが魅力でもあるが、それが二の足を踏ませるところでもある。そのため「それまで数多くのダイエット食品に失望してきた私は半信半疑。これで最後と思い注文しました」(資料8)とか「自分流のストレッチ体操も始め、食事にも気をつけるようにしましたが、効果については半信半疑。」(資料13)といったことばが体験談に満ちあふれている。これを「半信半疑言説」と名づけておこう。

しかし、この言説がわざわざ広告中で語られるのは、他でもない、その懐疑がまちがいであったことをいうためである。あくまでも前座にすぎない。

概して折込広告の言説は「先取り的自己言及スタイル」とでも呼ぶべきスタイルになっている。読者が半信半疑であることを大前提にして、チラシという完結した世界の中で商品の価値を証明しなければならない。そのためには、外部的権威の引用だけでは不十分で、たえず自己言及的に読者の疑念を先取りしていち早く解決しておく(あるいは解決したと強引に宣言する)ことが必要である。これはセミナー形式で販売される健康関連商品の場合も同様らしく、参加者に取材したところでは、セミナーの語り手たちは、かなり早い段階で「みなさんの中にはインチキくさいとお思いの方もいらっしゃるでしょう」と先手を打って、集まった人たちの笑いを誘う。そして「じつはそういうものもありました」と認め、「でも、うちのはちがうんです。どこがどうちがうかというと……」というふうに畳み掛けるという。いずれ経なければならない心理的関門であれば、早いうちに通過してしまうのが得策だということだ。

■ノード(26)他者の承認

体験談はどのような基準で選択されているのであろうか。かりにそれらのいくつかが広告制作者による創作だったとしても、かれらは何を表現したかったのだろう。要するに「語る主体」はこのさい問題ではない。「何が語られているか」である。

たとえば資料1では4件の体験談が顔写真入りで紹介されている。このうち2件が他者の紹介によってニガウリ茶を飲みはじめたとされている。たとえばこんなふうだ。「自律神経を患って、下痢と便秘を繰り返す毎日でした。そんな折、『腸の働きをよくして、脂肪を溶かしてくれるよ』という友人に励まされて、ニガウリから創られた『ニガウリ茶』を飲むようになりました。」(資料1)「……入院してしまいました。見舞いにきてくれた彼女が、『身体にいい』とポットに入れ持ってきてくれたのが、ニガウリ茶との出会いでした。」(資料1)また、ダイエット食品の体験談でも「そんなとき、同僚の看護婦から、カイアポックスのことを聞いたのです。彼女は私と同じぐらいの体型だったのに、最近、急に細くなって、ダイエットでもしたのかな?とウワサになっていたのですが、その原因こそがカイアポックスでした」(資料8)「食事制限のせいで、貧血で倒れたこともあり、心配した母が探してきてくれたのがカイアポックス」と、体験談三件のうち二件が対面関係の中で商品を知ったことになっている。

これらは、商品をすすめているのが広告主だけでないというメッセージである。もともと体験談という形式自体がそうなのだが、さらにその体験談の中で他者からの紹介であることを述べるのだから、ここは二重に「他者の承認」がなされていることになる。資料1には「健康雑誌に紹介されていた」という体験談もあるが、これも同様と見てよい。たいせつなのは「語る主体」以外にも影響を受けた人間がいたという事実であり、それが対他的に商品の内容を保証する構図が語られているのである。クチコミとの連接に注目すべきだろう。

しかしそれだけではない。その商品を評価する人たちのある種の共同体の存在が暗示されていることにも注目したい。これは「その商品を選択する人は孤独でない」ということを訴える言説でもある。身体的アイデンティティというものは本来個人的なものと思われているが、じっさいには共同的なものである。ある種の健康言説を共有する共同体の存在が、その健康言説を機能させると考えることができるのではないか。たとえば禁煙グッズの広告でも体験談が紹介されているが、タバコがやめられなくて困っている人たちの「喜びの声」は、「ひとりじゃないんだ」という意識を高揚させる。「こっちの世界へおいで」と誘っている新新宗教のようでさえある。

無添加化粧品の資料14では、まさにこの点を主題化している。見出しは「内緒にしたい!話したい! アイ・エム・ワイO2化粧品が多くの方にご紹介頂ける秘密!!」である。四人の体験者の声が写真入りで紹介されたすぐ下に「お使い頂いた方からの口コミで、大勢の方にご愛用いただき、高い評価を得ています。」とダメ押している(資料14)。メディアに懐疑的な人たちは、じつはクチコミを信じる人たちであることが多い。このチラシは、折込広告というメディアの信頼性を低く見る人たちに、あえてクチコミでの評判を強調することで、信用してもらおうとしているのだろう。このクリーシェは陳腐だが、しかし、現代的でもあると思う。クチコミの力は日常生活において群れることの多い若い世代で強い。ここではその語り方の見本を具体的に提示しているのである。

■ノード(27)マスコミで話題言説

折込広告の世界では、ラーメン屋と同様、マス・メディアに取り上げられたこと自体がひとつの権威となる。「平成4年テレビ報道で世界も注目した療法を公開報道」(資料2)おそらく地上波と思われるが、なぜテレビで取り上げられたものが世界へ伝わるのだろうか。じっさい外電で取り上げられたのかどうかは不明である。新聞記事であれば「見せてみろ」といえるが、テレビでは「ビデオに撮っていない」ですむという側面もある。それにしても、わずか一回の取材だけで有名性という資源を獲得したとされるのである。自己言及的増幅をねらう定番の手法といえそうだ。

資料2では、もっと巧妙な(しかし白々しい印象もある)やり方でマスコミによる後光効果をねらう。資料2では新聞風のレイアウトに「健康ステーションを訪ねてみました」という女性リポーターが取材する形式にしている。「……だそうです」「……とのこと」が連発されているその文章は、ひたすら筆者が外部の人間であることだけを主張しているかのようだ。裏面は直接的な広告スタイルであるが、文体がほとんど変わらないのは皮肉である(修飾語句が延々連鎖している頭でっかちの文で、典型的な素人作文。ライターで食べている人のものではない)。

しかし、この二例は今回の調査対象の中では少数派に属する。もちろん栄養学的言説の中で「老化の原因物質として話題になっている活性酵素」(資料8)といったものはあるが、当該商品自体について「マスコミで話題の……」と言及したものはあまりない。基本的には、マスコミよりもクチコミの力やファン・愛用者の存在をアピールしている。そこで考えられるのは「テレビや雑誌で話題になった」という言説がじつはクチコミ用の言説ではないかということだ。「マスコミで話題言説」は、「テレビか雑誌でよくとりあげられてるらしいよ」という一言がローカルなクチコミの中で発話されることを後押しするためのものと考えた方がよさそうである。

10 健康クリーシェの諸類型(7)汎用言説系

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■ノード(28)健康の汎用性

健康が日常生活の主題になっている今日、健康はありとあらゆる商品に付加価値をつけるためのクリーシェとなっている。健康そのものはフンワリとした理想状態にすぎないから、どんなものにもつけられる安全な冠ことばである。今回調査した中では「健康住宅」がそれである。

資料9は住宅展示場の広告であるが「健康住宅モニター募集」キャンペーンの一環として配布されたものである。表1には「冷房を効かせた部屋は、意外と空気が汚れるもの。武蔵野ハウジング・スクウェアでは、きれいな空気を保つ24時間換気システムをはじめ、天然素材や抗菌仕様、バリアフリーなど、健康にこだわった高性能住宅をご提案しています。」とある(資料9)。

ところが中を開けてみると、どこが「健康にいい」のか、ちっとも具体的に説明してくれないのである。展示されてる12のハウスメーカーのモデルハウス写真に付されたキャプションは次のようなものである。「ご家族の健康のために、住まいの役割は重要です。」「家族の成長を見守る家・それが大成の『健康住宅』」「ミサワホームは、健康で快適な毎日を過ごせます。」「高原の空気をあなたの家へ。」「快適な家こそ、高齢者にも誰にとってもやさしい。」「『健康』『快適』『安全』『安心』を標準装備!」「三井ハウス 優良な健康木造軸組住宅。」「9/12(土)オープン!」「高気密、高断熱、計画換気がこれからの住宅です。」「藤和の健康快適住宅『セア』はロングヒット中です。」「健康住宅——それは、三井ホーム『ハートレー地下室付住宅』」「できるかぎり自然な環境の中で健康に暮らせる家」(資料9)

たとえば地下室付住宅がなぜ「健康住宅」なのか。ここにあるのは、フワフワと浮遊するイメージとしての健康でしかない。「健康」と「快適」は互換的に使用されており、せいぜい「健やか」の言い替えという程度の意味である。おそらく設備としては換気システム、素材としては高級ムク材(安価な合板でなく)が使用されている程度であろう。つまり「ふつうの高級住宅」にすぎないのだが、「高級」よりも「健康」の方が冠としては有効だと売り手は判断しているのである。

しかし、今「住宅」に「健康」がつけば、シックハウス症候群にきちんと対策した住宅ではないかと連想する人が多いのではないだろうか。しかし、この折込広告には断じて「シックハウス症候群」などということばは使われていないのである。なぜなら今日の住宅建設の工程において根本的な対策はかなり困難なことだからである。せいぜい換気システムをつけるのが関の山というのが技術的な解決策なのだ。

ただし、シックハウス症候群に対応して「健康住宅」を謳ったものもないわけではない。資料17に採り上げた住宅生協の広告がそれである。ここでは「室内化学汚染物質対策」と見出しを掲げて化学物質過敏症やシックハウス症候群に言及し、それに対応していると謳っている。だから「高耐久性」と「バリアフリーと快適空間」という項目と区別して「健康住宅」という項目を並べることができるのである。つまり、ここで語られる「健康」はまさに「病気でない状態」なのである。しかし、今回調査の対象とした15キログラムの折込広告において、この種のものはこれ1件だけだった。

住宅の他にはブラウスの通信販売の広告があった。「シルクは美肌をつくる健康繊維。血管の硬化を防ぎ、若さを保つフシギな糸です。」(資料16)ところが、よく見るとブラウスは「シルク綿」であり、100パーセントシルクではない。むしろ100パーセントでないからシルクの健康さを強調しているのだろうか。他には「健康直送便」というのがある。要するに缶ジュースの通信販売なのであるが、素材が野菜なので「健康直送便」と名づけられているだけである(資料19)。

これらの言説は、これまで見てきたような濃厚な健康言説とは異質である。それは淡い健康言説だ。しかし、じつはこれが健康言説総体の輪郭をぼかす役割を果たしていることに注意したい。結果的にそれがヘルシズムの宗教性を見えにくくしているといえるのではないか。あたかも「古式ゆかしい神事」と紹介されながら、まったく宗教行動とはみなされない民俗宗教と同じように。

意味空間の輪郭が不明確で、しかも指示範囲の広い一連の健康言説類型については、今回調査した折込広告では事例が少なく、これ以上の言及は控えるべきであろうが、問題としては重要であると筆者は考えている。語る主体の不明確な「匿名言説」、たんに「病気のない状態」ではなくそれ以上の「積極的価値としての健康」を語る言説、想定しうるあらゆるリスクを列挙してそれに備えなければ健康はありえないと脅迫する「予防言説」、そもそも社会全体が健康でなければ個々人の健康もありえないのだとする「社会の理想としての健康」がそれである。これらはたんに健康を語るのではなく、健康を語ることを媒介に社会的な何かを指示しているのである。健康という「自己への配慮」が相乗効果的に支配の貫徹を実現するという権力作用ないし秩序構築作用を考慮しなければならない。また、ファシズム社会や戦時社会、エイズパニック時・バブル期などに見られたように、非健康的なるもの・反健康的なるものに対する道徳十字軍的な攻撃へと容易に転化する危険性を、汎用言説系の一見淡い健康言説はもっていることにも注意したい。「クリーシェはある種の恍惚状態(これは言葉、音の響き、身体上の動きといったものからなる全体のリズミカルな流れに、人びとが感情を込めて参加することを必要とする)を生み出すのである」とザイデルフェルトは指摘する。[注19]そしてかれは、クリーシェである形容詞が呪術的熱狂を促すと警告する。「健康的」を冠した言説もまた例外ではない。