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ウルリッヒ・ベック「社会のコンテナ理論」批判に始まる

リスク社会論で有名なウルリッヒ・ベックが亡くなった。長生きしてほしかった社会学者である。私は彼についての研究者ではないが、翻訳は読んできた。中でも6年前ぐらいに読んだ『グローバル化の社会学』(国文社、2005年)の冒頭部分は、それ以後の私の問題関心を大きく変えた。そこでは、これまでの社会学は国家という枠の中で社会を考えてきたことが批判されている。それを「社会のコンテナ理論」と呼ぶ。国家というコンテナの中に社会を閉じ込めて研究するのが自明であった社会学のやり方を根底から覆す時代がとっくに生じているのに、それにしっかり対応できていないのではないかというのである。まったくその通り。日本では「国際社会学」の名の下にそういう試みは20年前から始まっていて、私も理系医学系向けに「国際関係論」を10年あまり担当してきた関係で、ずっとフォローしてきたが、まだ一大勢力とは言えないだろう。
グローバルな文脈(連関性)を意識すると、従来的な社会概念はくずれる。国家的秩序を前提にした社会概念はいったん無効と考えた方がいいのではないか。これが、その後の私の研究目標を大きく変えてしまった。
では、どこから手をつけるか。まずグローバリゼーションの理論を読みあさった。これは、いっぱいあるし、英語圏では毎年毎年、研究書がスゴイ勢いででる。
そうすると、世界史をしっかり押さえ直す必要が出てきた。グローバリゼーションが1500年から始まるという説が有力のようだが、それはあくまでも西洋近代のそれである。中国とかモンゴルとかイスラムとか、世界史をたどっていくと、「世界化」自体は相当に昔からあって、しかも多元的に展開してきたことがわかる。まあ、これは歴史学では常識だが、社会学は近代社会に限定しているので、ほとんど扱われない。
なかでも宗教の役割が相当に大きいことがわかってくると、今度は世界宗教史を学ぶことになる。社会学者はマックス・ウェーバーをよく知っているので、これ自体は常識である。しかし、ウェーバーは「西洋に特有の合理化」という問題に導かれていたので、西洋中心史観は残存している。この枠を外してみたらどう見えるのか。エリアーデの世界宗教史をはじめ、宗教学の本を系統的に読んでみた。宗教社会学とは、かなり異なる世界だった。
次に視野に入ってきたのは文明論である。シュペングラーに始まってトインビーが壮大な世界文明史を提示したところから始まり、日本では70年代によく議論されたものだった。ハンチントンの「文明の衝突」とかマクニールの『世界史』とか、その系譜である。比較文明学というジャンルもある。ただ、文明論は総じてアカデミズム側の評判が悪い。「文明論」というだけで眉唾をつけられてしまう。まあ、そういうところはある。逆に、かつてトインビーの『歴史の研究』に対して社会学者のソローキンが「社会学の概念を使えば数ページで記述できるところをトインビーは史実を連ねて数百ページで説明する」(概要)と批判したこともあって、かなり概念整備やメタ理論を準備しておかないと無理という側面もある。
ごく最近、気がついたのは、逆に東アジアからの視点からだと全体がよく見えるのではないかということ。これはよく言われることだが、たとえばニーダムの大著『中国の技術と文明』を見ると(通読まで行かない、図版を見ているだけだが)中国発のグローバリゼーションもすでにあっただろうと考えざるを得ない。印刷技術なんか典型例である。日本文化も「衛星文明」なりに独自の展開をしている。
ベックの言うように、社会学のディシプリンが「社会のコンテナ理論」になってしまいがちなのであれば、過渡的な処置として複数のコンテナを用意するというのはどうだろう。いきなり「トランスナショナルな社会空間」を描く枠組もコンテンツも用意されていない今日では、やむを得ない。「トランスナショナルな社会空間」は均質なものではなく、さまざまな基準において分化している空間である。さしあたり私たちが注目すべきは、この分化の状態──つまり差異と多様性 ──ではないかと思う。
だから今ではウォーラーステインの世界システム論にはかなり批判的になっている。かつては熱狂したもんであるが。
そんなこんなで、ベックの影響で、ここ5年ぐらいは、ずっと「外回り」を読み続けてきた。社会学プロパーには全然タッチしていないし、これらの読書を何かアウトプットに変換するつもりもなかった。松岡正剛さんみたいにはいかない。まあ、こういう時間は必要だったと思うし、いわゆる「読書の愉しみ」を味わった。しかし、なにせ人生の残り時間が少ない。熟成させる時間はあまりないだろう。ベックは70歳で亡くなったそうだ。ちょうど今、危篤状態の同級生もいて心配しているところでもある。社会学者の端くれとして(ほんとうに端くれなのだ!)何か貢献できないものかと考えている。