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「社会学の終わり」から始める旅

 
そろそろ理論的放浪の旅はスローダウンさせる。いったん着地して、概念的整理の作業に入らなければならない。この5年、新しいことをたくさん学んできたが、全くの無前提で進んできたのではなく、それなりの前提仮説のようなものはあった。それを軸足にして、大きくリーチを伸ばし、回転し、深追いし、けもの道を歩いてきたのである。「前提仮説のようなもの」というのは、ジンメル研究会とデュルケーム/デュルケーム学派研究会の合同研究会「高野山カンファレンス」(高野山大学)において2004年9月25日に報告したペーパーである。このカンファレンスにはブライアン・S・ターナーがゲスト・コメンテイターとして参加していて、初日の私の報告と岡崎さんの報告は事前に英訳されて、ターナーが私たちの討論者だった。ターナーは「社会学の終わり」から始める私の議論には共感しなかったと思う。じつはカンファレンス全体も「社会学は終わることはない」という反感が主流だったようだ。私は初日の報告のあと、会を抜けて高知医科大学の集中講義に行ったので直接は聴いていないが、それは報告書の他の報告に露骨に表現されている。しかし、あれから10年たって、私の予感はそれなりに的中していると思っている。一言で言うと「複合領域化」である。それに伴って、日本の大学における社会学理論系のポストは確実に減っている。社会学のディシプリンを正面から論じる理論社会学や社会学史や社会学概論といった科目は敬遠される傾向にある。残るのは領域の明確な実証的調査研究を伴うものだけである。相当な絞り込みがなされていると実感している。だから、若い研究者の多くは、そういう成果を要請される。全体を俯瞰したり、深層構造を探ったりする研究は、なかなかできない。
このときの私の報告はソキウスに公開してある。「社会学の終わりとジンメル的エートス──ディシプリン的知識空間をめぐって」
これに対するブライアン・S・ターナーの、そのずっと後の反応として(と私が主観的に理解している本として)、次の入門書がある。Bryan S. Turner  and Anthony Elliott, On Society, Polity, 2012.
正直、こういう人たちにはかなわない。世界的には社会学は終わらないようだから、けっこうなことである。しかし、私はグローバリゼーションの問題から始まって、近代的な社会理論の立て直しが急務だと考えて、いろいろ読むのであるが、どうにも社会学理論だけでは見えてこない。神の視点から眺望することは理論的に不可能だとしても、形式社会学や比較社会学のように、社会内在的でありながら、社会を包括的に理解する「支点」(「視点」ではなく)探しの旅に出たのだった。英文法・世界文学・近代日本文学・世界史・宗教学・現代思想・経済学・日本思想・日本史・日本古典文学など、これまで封印してきた分野を1から勉強し直してきた。こういうと同業有名人から「腐臭がする」とののしられるのであるが、この10年、衣食住から根本的に立て直してきた文脈の方がはるかに重要なので、残り少ない自分の人生は、思うところを実行するのみである。最初に英文法から始めたのは「文法」という表象にヒントがあると見込んだからである。実質的には言語学である。そこから歴史的世界を俯瞰する一連の研究やテキスト類を読んだ。宗教史や文明論も読んでみた。経済学も1から勉強した。そこからあとはフェイスブックやブログにそのつど書いてきたので省略するが、1年前に収束点(あるいは支点)を定めることができたので、そこからぐるっと多彩な領域を見回してきたという形になる。着地点は意外なことにレヴィ‐ストロースの神話論理だった。ほんとに「猿の惑星」そのものである。となるとヤコブソンの言語学がつながって、元に戻ったというわけである。
これから1年間以内の予定で自分なりの整理をつける作業に入る。「支点」探しの旅、いったん着地。