2025年11月1日土曜日

2025年8月15日金曜日

ソキウス30年

 1995年8月15日、ちょうど終戦50年の日にASAHIネットでFTPが使えるようになった。たしか6月か7月にNetscape1.1が販売されて、それを5000円で買ってきて、ちょうど夏休みの自由研究のような気持ちでソキウスを作って公開した。ハイパーテキストを自分で作れるというのがHTMLのすばらしいところで、ちょうど社会学教育三部作を書き上げたところだったので、草稿を公開していったのが始まりである。あれから30年。ずいぶん人生が変わった。今年度で経済学部生活が終わるので、残された時間はここでほんとうに書きたいことを書きたいと思う。

2025年3月16日日曜日

中間考察 インターネットとシティズンシップ(1997年)

『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社1997年刊)第4部 中間考察 インターネットとシティズンシップ

1 インターネットのダークサイド

「インターネット・バブル」と呼ぶ人がいる。熱に浮かされたような今のブームはなるほどバブル時代を彷彿とさせる。これはたしかにアワのようなものなのかもしれない。どうせアワなら「踊るアホウに、見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損々」ということになるのだろうか。けれども、踊るにせよ見るにせよ、どちらの「アホウ」も場所をまちがえているのではないか。そんな思いもある。

 現在のインターネットにはさまざまな問題がある。もともとルーズなシステムだったのだから、いろいろ問題が出てくるのは当然だが、たちの悪い問題の多くは、どうもユーザー側の問題らしい。

 たとえば、わいせつ問題にからめインターネット上の表現の法的規制問題が起こっている。H系の行為が、トラフィックの増大だけでなく、インターネットに対する行政当局の過剰な規制を誘引する機能をもってしまうことをもう少し自覚してほしいと思うこともある。とばっちりがインターネット全体におよぶのはごめんである。もちろん、たんなるリンク行為が「わいせつ図画公然陳列」として摘発されるという現状は、あまりに理不尽だと思うが。●

●1996年9月30日、広島県警は、プロバイダーの幹部をわいせつ図画公然陳列の疑いで書類送検した。このケースの場合、会員がホームページから「わいせつ画像」にリンクを張っていただけである!

 電子メールのマナーの問題もある。女性ユーザーへの無作法なメールも多いときく。名前を名乗らないでいいたいことをいうメールもある。「スパム」と呼ばれるダイレクトメールの問題もある。郵送されるダイレクトメールとくらべ、電子メールの場合は、受信そのものに費用がかかる。日本ではまだ大したことはないが、これから大きな問題になる可能性がある。

 電子会議室やメーリングリストでの匿名のコミュニケーションにも影はある。匿名だから気軽に発言できるという側面もあるが、同時にそれは無責任な発言や夜郎自大な発言を誘発しやすい。発言に責任が伴っていないからだ。先発の大手パソコン通信が匿名のコミュニケーションを推奨したことは基本的には営業政策だったわけで、気軽に書き込みしてもらうためである。そのため、無責任なコミュニケーション文化がオンライン上に展開しつづけたのは、長い目で見ればいいことではなかったと思う。パソコン通信だとASAHIネットが「責任ある発言を」ということで当初から実名主義をとっているが、そろそろそういう意識的な転換が必要ではないかと思う。ただし、匿名のコミュニケーションに肥大化させた自分を感じる自我の貧困は、オンライン上の問題にとどまるものではない。

 コマーシャリズムの問題もある。今やインターネットはビジネスチャンスの狩場でもある。その中で一部のプロバイダーや企業は最初からお金を取ることばかりを考えている。企業だから営利追求自体は当たり前のこととしても、それに見合うサービスになっていないのではないかと思うことも多い。しばらくはフリーで運営するという発想がとれないものだろうか。

 同様のことに組織の参加もある。大学や研究所や業界団体などの組織がやっているものでも、個人がフリーで提供しているコンテンツにかなわないことが多い。組織がダメだというのではなく、組織のプロジェクトなら「もっとプロフェッショナリズムを!」といいたい。他方、せっかく組織内の個人(社員・職員・教員・学生など)が個人としていきいきと自由に活動できるメディアであるにもかかわらず、組織内部の規制や事なかれ主義によって台無しになっているケースも多い。

 情報格差や情報弱者の問題も顕在化してきた。インターネットは、特定の発信手段を所有しない情報弱者の人びとに大規模なコミュニケーションの可能性をあたえた。もちろん、これ自体は歓迎すべき側面もある。けれども、同時に、新しい情報弱者も生んでいる。情報格差の多層性である。しかし、これはたんに「パソコンを使えない人たちがかわいそう」というのではない。もう少し複雑だ。

 たとえば、会社で好き勝手にやってきた管理職のおじさんや、学生をバカにしてきた大学の先生たちが、若い社員や学生に教えを乞うたり励まされたりするのは、ある意味ではいいことではないだろうか。つまり社会のあちこちで上下関係の「どんでんがえし」「かき混ぜ」が生じているわけで、社会に「配分の差別」が必然的に生じるものである以上、このような「どんでんがえし」が多ければ多いほどいい。なぜなら、従来の物質的な資産の配分や権力の配分の不平等によって不利なポジションを強いられてきた人びとをそれなりに引き上げる力があるからだ。

 ただし、現状のオンライン状況が必ずしも望ましい方向ではないとは思う。これまでワリを食ってきた人たちをすくい上げるような「支援システム」(たとえば障害者の在宅勤務を一気に加速させるといった形で)を構築する方向がもっと強くならなければ、結局、資産や権力をもった人たちがネットワーク資源までも喰い尽くしてしまいかねない。「ネットワーク資源配分の非対称性問題」とでもいうべきか、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」というマタイ効果が生じかねない。

 インターネットが、商業主義的に編成されていくのか、国家の法的な制度的枠組みにくみこまれていくのか、それとも市民の自発的な展開に委任されるのか。今が瀬戸際だという気がする。それにしても、マス・メディアのインターネット報道はこのあたりの見識に欠けているのではないか。ずいぶんよくなってはいるものの、ビジョンが感じられない。総じて場当たり的である。

 ……いささか「ぼやき漫才」風になってしまったかもしれない。ともあれオンラインの世界には以上のようなダークサイド(暗部)が存在する。こういうダークサイドにあえて光を当て、しかも「あなたのプライバシーがのぞかれている!」といったオールド・ジャーナリズム好みの悪趣味なセンセーショナリズムに染まるのではなく、主体的に事態を反省し、個人の日常生活に即して実践的な展望を構想する必要があると思う。

2 主題を共有すること

 インターネットのコミュニケーションは、都市部における地域社会のコミュニケーションに似ている。つかず離れず、めいめいが勝手気ままに活動していて、たまたま何か共通の問題が浮上したときに相談したり論争したり助け合ったりする。濃密なコミュニケーションではないけれども、それはけっして散漫でもないのだ。なぜなら、そこではしっかり主題が共有されているからだ。

 たとえば家族は「血縁」と「婚姻」でつながる。組織は営利追求や教育や治療などの「目的」でつながる。地域は「空間的近接」でつながる。そしてオンライン・コミュニケーションはもっぱら「主題」でつながるのだ。ネットワーク上のコミュニケーションは基本的に主題媒介的な関係である。パソコン通信にせよ、メーリングリストにせよ、WWWにせよ、基本的にわたしたちは特定の主題を媒介につながるのである。このことの意味は大きい。

 たとえば、わたしがホームページに「電磁波被爆問題」について書く。すると、それを見てくれた人から電子メールが届き、議論が始まる。あるいは参考書を教えてくれたり、自分の調べたことを教えてくれる。自分のホームページでそれを発表している人がいればリンクしあう。それによって相互に学ぶ関係ができる。「主題でつながる」とはこのような相互学習過程に入ることなのである。これはメーリングリストになるともっと明確であって、たとえば「薬害エイズ」のメーリングリストに入れば、それに関心のある人たちやじっさいに運動にかかわっている人たちと非常に専門的な意見を自由に交わすことができる。とっさの必要や気まぐれに応じて、わたしたちはその気にさえなれば電子会議室やネットニュースの中で同じ主題に関心を寄せる仲間たちと出会うことができる。

 学術的なことであっても、趣味性の強いことがらであっても、生活上のノウハウであっても、はたまたプライベートなことがらであっても、ネットワーク上においては特定の主題が人びとをそのつどつなぐのである。

3 ハイパーテキストとしての社会

 主題を共有する人たちのコミュニケーションはテキストデータとしてネットワーク上で転送され、保存され、コピーされる。その点に注目すると、オンライン・ネットワークの世界は文字どおり「ハイパーテキストとしての社会」なのである。網の目状に連結したテキスト群がその社会の実質を形成している。コンピューターはそれをネットワーク上に転送し、保存し、何度も何度もコピーしているだけである。

 「オンラインな人」が現実にしていることは、具体的には、コンピューターを使って「ハイパーテキストとしての社会」に書き込む行為である。電子会議室でコメントをつけることにせよ、メーリングリストやネットニュースで発言するにせよ、ホームページを公開するにせよ、それらはオンライン上に実在する「ハイパーテキストとしての社会」を構築する行為であり、それによってネットワーク上の「知の連鎖」に連なることなのだ。

 主題ごとにそのつどつながる「見識ある市民」。けっして「ひとつにまとまる」のではない。自律的な個人が「ハイパーテキストとしての社会」においてそのつど「つながる」だけである。個人は個人のままで「知の連鎖」を形成するのだ。

 だから「インターネットやって何かメリットあるの?」と聞かれても「その人による」というしかない。 その人がそこで自分の主題を見いだし、能動的にアクセスし発言し表現することによって、そのつどコミュニケーションのネットワークを形成する、そういうメディアなのである。その人が他人まかせに黙って待っていてもおそらく何も起こらない。したがって「メリット」なるものも生じない。「インターネットは大したことないな」という人は、その人自身の貧困を語っていることになってしまうような「自分を問うメディア」なのだ。

4 フリーライダーから支える人へ

 社会学には「フリーライダー問題」ということばがある。フリーライダーとは「ただ乗りする人」のことだ。たとえば労働組合が賃金値上げを交渉して勝ち取ったとしよう。すると賃金体系は会社一律なので組合員でない人の賃金も上がる。この場合、非組合員はフリーライダーである。となると、何かと負担の多い組合員になるよりも、非組合員でいる方が得だということになる。こうして組合離れが進み、組合員の負担はますます重くなる。こういう悪循環を「フリーライダー問題」という。●

●ランドル・コリンズ『脱常識の社会学――社会の読み方入門』井上俊・磯部卓三訳(岩波書店1992年)。

 オンラインの世界、とくにインターネットの世界にも同じことがいえるのではないだろうか。「ゲットする」ことばかりが強調され、「トクする情報」「おもしろい情報」であふれているかのように煽られる。「プットする」や、そこで何を「する」のか、そういう側面がないがしろにされている。現在のマス・メディアの伝え方の最大の問題点は、インターネットでフリーライダーになることを故意にすすめるものが多いことだ。

 結局、支える人びとの問題ではないかと思う。「インターネットが社会を変える」と巷を席巻している技術決定論は、事態の半分について語っているだけである。インターネットが今後どのようなものになっていくかも、インターネットでわたしたち自身が何をそこで獲得するのかも、インターネットでどのように社会が変わるのか(あるいは変わらないのか)も、じつはわたしたちの使いこなしにかかっているといえる。

 「ハイパーテキストとしての社会」が豊かな世界になるか否かは、ひとえにそこに書き込む人たちしだいである。つまり、「使える情報がない」とか「信頼性がいまひとつだね」とかいっている人がいくら1億人いたって、いつまでたってもハイパーテキストのリソースは貧困なままだということだ。インターネットのいいところも悪いところも、じつはここから発生する。

 オルテガ・イ・ガセットのことばに次のようなものがある。「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。」●「救う」ということばがいささか強いことをのぞけば、ネットワーク上のわたしたちにとって何か示唆的なことばではないだろうか。こういう思想の「オンラインな人」が増えることを切に願う。

●オルテガ・イ・ガセット『ドン・キホーテをめぐる思索』佐々木孝訳(未来社1987年)65ページ。

5 市民スタイルという思想

 以上のように考えていくと、インターネットでのふるまい方もおのずと見えてくるのではないか。それは以下のような原則で表現できると思う。

自己決定の原則――それは基本的に個人の自由である。自分で決めればいい。組織の原理にふりまわされない、拘束されない、依存しないことが基本である。自分で考えて発言しよう。

相互性の原則――相手のいることであるから、おのずと落としどころというものはある。なぜなら自分も他者にとっての「相手」としてかかわることになるからだ。その落としどころを「作法」と呼ぶ。「作法」とは他者との折り合いのつけ方である。その前提は自分は自分の責任で自由にふるまうということであり、自由であるからこそ、自分の意志で他人のことや公共のことを考慮できるということである。そこに不自由さがあれば、それは「作法」ではないのだ。

能動的参加の原則――「ROMからアクティヴへ」という流れ、すなわち「ハイパーテキストとしての社会」を読む人から書き込む人へという流れは、相互的な交流にするための必須条件である。早々に他人まかせもフリーライダーもやめて、シティズンシップを発揮しよう。他人に何かをしてもらったら、きちんと礼を返すか、あるいは別の機会に別の人に何かをしてあげればいい。そういう意志が自分の世界を広げ、「ハイパーテキストとしての社会」を豊かにしていく。

自己責任の原則――自分の責任のとれる範囲で自在にふるまおう。発言には責任をもとう。匿名の議論はやめよう。新聞記事や公文書のような無署名原稿に見られる非人称的文体の発信はやめよう。一人称の「わたし」を主語にして語ろう。 自分らしく、けれども「独断と偏見」ではなく、個人としての「個性と見識」をもって発言したいものだ。

開放の原則――なるべくオープンにいこう。オープンにいくということは知らせることである。自分から進んで知らせないことは隠すことになる。自分の知的世界をオープンにしていくことでハイパーテキスト上の共有知識の拡大をめざそう。どこを隠しどこをオープンにするかは自分で決めればいい。もちろんカミングアウトしない自由もあるのだ。

 このようなふるまい方を「市民スタイル」と呼ぼう。じっさい、これまでこのようなスタイルで人びとがネットワークに参加してきたからこそ、「ハイパーテキストとしての社会」も、自ずと相乗的になり、実り多きものになったのである。これからネットワークに入っていく人も「市民スタイル」で参加する意志をもって入れば、きっとネットワークをいっそう豊かに構築することにつながるにちがいない。スタイルにこそ思想は宿る。その思想が現実を少しずつ書き換えるのである。これが本書『インターネット市民スタイル』の提案である。

6 演劇的世界としての仮想現実

 インターネットの世界は仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)だといわれる。「仮想現実をほんとうの現実を混同している人たち」を「病理的」とみなす見方もある。しかし、それはちがう。「ほんとうの現実」と称されるオフラインな現実は、たんに「利害関係の絡んだ現実」というのにすぎない。前者の「仮想現実」も後者の「利害的現実」も、いずれもある程度までは「仮想」的であり、ある程度までは「ほんとうの現実」なのである。●

●社会学ではリップマンやブーアスティンの「疑似環境」論、シュッツの「多元的現実」論などがそうした見方に立っている。有名なところでは「トマスの定理」といって「もし人が状況をリアルであると決めれば、その状況は結果においてもリアルである。」という有名な定理もある。

「仮想現実をほんとうの現実と混同するな」という人は、利害、要するに「物理的に生きるために必要な関係」を第一次的な現実とみなしているわけである。けれども「意味的に生きるために必要な関係」もあるのだ。どんなに充たされた生活の中にも人生の空虚は宿っている。逆に、追いつめられた生活にも人生の充実はある。どちらが第一次的とはいえるものではない。

 オンライン・コミュニケーションの世界は、一種の「社交の世界」である。たとえば18世紀前半のコーヒーハウスやサロンなどのように、いわゆる「対等性の作法」によって営まれる「新しい社交の世界」という現実である。

 それは「仮想の世界」というよりも、むしろ「仮装の世界」に近い。それはとりもなおさず「演劇的な世界」なのである。つまり、参加者があからさまな利害関係をもちこまないで、利害から自由かつ対等に発言する「見識ある市民」を演じる演劇的世界である。

「対等性の作法」を尊重しつつ自律的な市民を演じる――たしかにそれはある種の白々しさをともなう。けれども、各人が市民として自分を反省的にコントロールできていることをたえず表現しながらでないと相手にそのつど信頼を保証し続けることができないという点で、オンラインのコミュニケーションはあやうく脆弱なものなのである。この脆弱さこそが理性的コミュニケーションの源泉になり、あたかもそこにあるかのように仮定される「対等性の作法」こそが、主題を共有するという独特のつながりを保証するのだ。

 イデオロギー対立の時代が終わり、混沌とした思想状況の中で「市民社会の再構築」という論点が浮上している。産業主義に彩られた19世紀的な市民社会ではなく、啓蒙の光に満ちた18世紀の市民社会のイメージがそこには感じられる。このような市民社会のありようを構想するとき、不特定の人びとがさまざまな主題を媒介に対等につながろうと意識的に参加しているという事実は、その現実性を予感させるものである。

7 自分を再構築するメディア

 社交の基本は「おしゃべり」である。特定の主題をめぐって行きつ戻りつ、収束しては拡散する「おしゃべり」。ネットワーク上でなされるこうした「おしゃべり」には効用がある。「おしゃべり」は人を選ばない。主題さえあればいい。だからこそ、さまざまな出会いを生む。その出会いはまたさまざまな「おしゃべり」を生む。こうした循環は、個人の思考の幅を広げ、利害に拘束された思考の制限をゆるめる。それは狭小な日常生活に内閉され自己中毒をおこしがちなわたしたちを少しずつ解放してくれるはずである。

 じっさい、これまでわたしたちは「おしゃべり」の相手と十分めぐり会えていなかった。自分の生活範囲を超えたところに「その人たち」が待っているかもしれないのに、わたしたちはなかなかそこを超えることができないでいた。便利なテレビのような理解をされがちなインターネットだが、そんなことよりも、そのような人たちとの「おしゃべり」コミュニケーションの回路を開く技術的かつ文化的な可能性をもっていることの方がはるかに重要である。

 利害から自由に討議できる開放されたコミュニケーションの場が日常的に存在するということが、今度はシティズンシップの基礎条件になる。つまり、シティズンシップをもった自律的な個人をはぐくむことになるのだ。

 「市民」というと、妙に毛嫌いして構える人がいる。「政治的に正しい」生き方を強制されるように感じる人が多いようだ。たしかにそういう党派的な使い方をする人たちがいることは事実であり、そういう気持ちはわからないではない。しかし、今では、そういう拒否反応自体がきわめて政治的な現象だと考えるようになった。そろそろ、わたしたちは自分の語感に宿る政治的文脈を反省しなければならないのではないか、と。

 市民とは、利害に拘束された一群の固定された役割(しばしばそれは職業上の役割や家庭内の役割である)から自由にふるまえる人のことである。先入観による誤解を防ぐために、あえて「個人」と呼んでもいいようなものだが、そうはいかないのだ。じっさいにわたしたち個人は「個人」でないことが多いのである。それは会社や組織の一員として行動する人間であり、家族や親族の一員として行動する人間であり、職業人として行動する人間である。さまざまな、しかし、たいていは決まり切った役割を担った人間として、わたしたちは考えたり行動を決めたりする。つまり、わたしたちは意外に自分の考え方や発言や行動を自分自身で決めていないものなのだ。

 しかし、いろんな役割を担いながら、それらの役割におけるさまざまな自分に折り合いをつけている〈もうひとりの自分〉がいる。それこそ「市民」としての自分なのである。

 たとえば、自分がたまたま医者であっても、薬害問題における医者の責任について一般の人たちと突っ込んだ議論ができるとすれば、その人は医者としてではなく市民として発言しているのである。医者という職業役割がその人のすべてを規定しているのであれば、そういうことはできないものだ。医者として感情的に反論するか、たいていは黙ってしまう。こうした反省的な自己言及ができるかどうかこそ、自律的市民としての自分が確立しているか否かの分かれ目である。

 自律とは、自分のことを自分で決めることだ。つまり、組織の中にあって組織の慣行や文化に埋もれない人。地域社会に根ざした生活をしながら地域の掟や常識や考え方にしばられない人。自分の専門領域をもちながら、さまざまなテーマ領域に関心をもちつづけられる人。自分の経験にしばられず、他人の体験を自分の体験として受容できる人。このような人(あるいは、そのような人であろうとする意志をもつ人)が自律的個人すなわち市民なのである。

 さまざまな問題を抱えながらもパソコン通信やインターネットがいま成し遂げようとしているのは、ふつうの人がまさにこのような自律的市民として自己形成するための基礎条件の構築であるように見える。とくにインターネットは自分の行為的世界を意識的に再構築する可能性をもっていると思う。

 ネットワーク上の「ハイパーテキストとしての社会」を演劇的に構築し、そこで〈もうひとつの社会〉を経験した人が、それを利害関係の社会で再演するチャンスも増えるだろう。結果的にあちらこちらで「風通しのよい社会」への道を拓くことができるかもしれない。そうなったときにはじめて「インターネットが社会を変える」という事態が発生するのだ。所詮、社会や自分を「変える」のはわたしたち自身であり、インターネットはその手段のひとつにすぎない。つまり「インターネットを利用して市民が自分たちの社会を能動的に再構築していく」ということなのだ。そもそも一連の技術によって他律的に変えられてしまうような社会は、わたしたちにとって望ましい社会とはかぎらない。わたしたちが自覚的に変えようと思って変えるときに「社会が変わる」ことが望ましいのだ。

 以上の話をいささか理屈っぽいと思われる方もおられるかもしれない。要するに、こういうところから発想して、あとは自分でそのつど判断すればいいということなのだ。ビジョンと意志さえあれば、あとは何とでもなる。

 本書の冒頭でわたしは「だれかがあなたを待っている」と書いた。もちろん、それはこれからめぐり会うであろう人たちのことである。しかし、その中には、自律的市民として自在にふるまう新しいあなた自身もいるはずである。

あとがき

 わたしがインターネットに出会ったのは1995年の初頭あたりである。パソコン通信経由でネットニュースやWWWを読んだり、telnetを試みては失敗ばかりしていた。本格的にPPP接続してネットサーフィンし始めたのは6月ごろだ。当時は2400bpsのモデムを使っていて、「雄々しくサーフィン」というより「海に浮かぶ椰子の実ひとつ」という感じだった。しかたないので、イメージ(画像)をロードしないでやっていたものだ。

 8月にASAHIネットで自由に個人ホームページが設定できるようになり、さっそくエディターでタグづけして「SOCIUS(ソキウス)」という社会学入門ウェッブを公開した。以来、インターネット三昧の生活である。

 生活は一変した。毎日、Eメールを点検しては読み、返事を書いた。全国に知り合いができた。ずいぶん親しくなった友人もできた。それまでとんと縁のなかった業種の人や専門家ともやりとりするようになった。ほんとうに優秀な人がうようよいることもわかった(ほんとうにわかった(^^;)。じっさいに会って話した人もいる。会いに来てくれた人もいる。今まで考えなかったことにも興味をもつようになった。幸いなことに、自分の書いたものにすぐに反応してくれる人たちもできた。こうなると、これはやはり一種のコミュニケーション革命である。

 ところが、95年初冬から始まった一連のインターネット・ブームの中で、「マルチメディア」ということばが踊り始めた。とくにテレビの取り上げ方は不見識なものばかりで、とても見るに耐えなかった。煽るばかりで、自分が現に体験しつつあることとあまりにかけ離れているとの強い思いがあった。その一方で、「何ができるのか」教えてほしいという人も多くなってきた。みんなもピンとこないのだ。その溝は埋めなければならない。そんな感じでくすぶっているわたしにインターネット解説書執筆の話が来たわけで、一も二もなかった。

 といっても、わたしはわたしなりにもうひとつの文脈があった。わたしは1994年夏に『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社)を書き、「反省する社会」の可能性について考えていた。1995年春にその実践編のつもりで『社会学の作法・初級編――社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社)を出した。「社会学」といっても、社会科学の一専門分野のことというより、社会に対する反省的かつ脱領域的なコミュニケーションのことである。このような理念的構想はそれ自体抽象的なものだが、インターネットをやりだしたとき、まず驚いたのは、そこではすでにそうしたコミュニケーションが具体的に実現しているということだった。この驚きをきちんと「ことば」にしたいとの思いが、この本へのモチーフになった。

 じつは本書はもともと3人で書く予定だった。3人で分担すればすぐに出せると思って安請け合いしたのが運の尽き。いろいろあって、結局、ひとりで書くことになってしまった。当初はかなり盛りだくさんの本になる予定だったのだが、そういうわけで、わたしの担当していた【知的作法編】がひとまず世に出ることになったしだいである。

 もちろん「インターネット市民スタイル」ということでは、もっとさまざまな「スタイル」がありうる。本書では知的生活にかかわるほんの一領域を説明したにすぎない。「市民スタイル」の表現形式はさらに多様であり、実践のスタイルもさまざまあるはずだ。その中にはすでにスタイルの確立したものもあり、まさに「ただいま構築中!」というものもある。論創社でも本書につづいて【社会運動編】などを予定しているので、今後はぜひそちらも参照していただき、個性的な「インターネット市民スタイル」を構築していただきたいと思う。

 すでにお気づきの方もおられると思うが、この本では一貫して「個人」にこだわってきた。組織の公式ホームページではなく、その内外で自発的かつ自律的に発信されている個人のウェッブを中心に紹介してきた。そこにインターネットの可能性を見るからだが、「等身大のインターネット」を描いてみたいという意味もあった。また、技術的な解説はわたしのテクニカルな能力とチープな環境ではとてもフォローできないので、テクニカル・ライターの方々の解説書にゆだねることにして、本書ではもっぱらモチーフや意味づけや展望構想に重点をおいて説明してきた。本書を読んで少しやる気のでてきた初心者の方は、ぜひ他のインターネット解説書や専門誌を読んでいただきたいと思う。昨今はそれほどむずかしいものではなくなったものの、それでも、なめているとうまくいかないものだ。

 本書の執筆作業はわたしにとって異例なことが多かった。まず、すべての取材をEメールでおこなったこと。じっさいにお会いした方はほとんどいない。ひとりのユーザーから見える「等身大のインターネット」の世界を描きたいという思いがあったので、ネットワーク上の友人たちにも登場していただいた。せっかく友だちになったのに、その友だちをネタにする側面がないわけではなかったにもかかわらず、すべての方が好意的に取材に応じてくださった。そもそもEメールによる取材は、答える側もたいへんである。文章にしなければならないからだ。重点的に取材させていただいた方にはたいへんな負担をおかけしてしまった。ここに厚くお礼を申し上げたい。

 第二に異例だったのは、対象があまりに急速に変化することだった。初夏に調べたことを秋に再確認すると激変していたりする。量が数倍になっている分野もあった。この変化に単行本で対応するのはむずかしい。おそらく読者がこの本を手に取られる時点で古くなった記述もあると思う。事情が許せば、今後も少しずつ改訂していきたいと思う。

 また、今回の執筆はURL確認の必要もあって最初からHTMLで書いた。当初は共著になる予定だったので連絡用としてのWWW公開でもあったし、URLの確認用でもあり、ハードディスクの予期せぬクラッシュに備えてのバックアップでもあった。HTMLで書いたファイルを順次「SOCIUS」上で公開しながら、修正を重ねていったわけだ。いわば試行錯誤のプロセスをそのまま見せてしまうという実験的な書き方である。早い話が、フリーウェアがユーザーに使われているうちにしだいにバグを減らゆくあのやり方を著書についても一度やってみたかったのである。

 幸いなことに、さまざまな取材の協力をいただくことができた。おかげさまで、たくさんのバグも取り除くこともできた。「SOCIUS」のリピーターの方からもあたたかい励ましや貴重なアドバイスを受けた。わたしも4度目の書き下ろし作品になるが、こういうことは初めての経験である。編集者をのぞけば、ふつうはだれも励ましてくれないし、チェックもしてくれないものだ。

 その意味で、この本はわたしとわたしのインターネット仲間との共同作品であり、わたしはネットワーク上の結節点(結び目)のひとつとして、ただリンクを張っただけといえるかもしれない。モニターに向かってキーボードを叩いているとき、わたしはひとりではなかったような気さえする。そのぬくもりをあたえてくださったみなさんに深く深く感謝したいと思う。

 ありがとうございました!(😊)/

             1996年11月22日  野村一夫

2022年2月28日月曜日

セオリー道場007ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」旧訳(佐藤勉訳)を読む

読解対象

ニクラス・ルーマン『社会システムの視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳、木鐸社、1985年。

レッスンのポイント:論文読解練習

 ここのところジンメルとフロイトを読んでいたが、じつはアリストテレス・デイも丸1日あった。ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」の旧訳(佐藤勉訳)を読んでいて、アリストテレスの未解決の問題というのが出てきたから。それは『ニコマコス倫理学』等で追究された「人と人のつながり」の問題系列と『政治学』で追究された国家と政治の問題系列とがつながっていないということ。「なるほど、そういうものか」と思ったが哲学の勉強をしているわけではないのでアリストテレスについてこのさい概要を押さえておきたいと思って、中公「哲学の歴史」シリーズのアリストテレスの項目を読んだ。薄い新書1冊分ぐらいあって、ちょうどよい。『政治学』は「世界の名著」に入っているし『ニコマコス倫理学』は光文社古典新訳文庫に新訳がある。後者は人生論として読む人がいるよね。

 ルーマンのこの本は『社会構造とゼマンティク2』第4章「社会秩序はいかにして可能になるか」として新訳が出ているが、今回は読書会の題材として簡便な古い翻訳を使用した。まだルーマンの翻訳に難のあった時代で、佐藤勉訳ということで出版されてすぐに読んだ懐かしい本である。貧乏な大学院生時代である。たまたま私の学部ゼミの先生がビーレフェルトのルーマンの下に在外研究に出ていたので、ルーマンの存在は身近だった。論文のためにダブル・コンティンジェンシーに関する英語論文は読んだ。しかし、当時は哲学的な素養がまったくなかったので本論文のアリストテレス周辺の記述は理解できてなかったと思う。だったら、この論文全体も理解できてなかったということになるので読み直すしかない。

 ルーマンの言う「2つの秩序問題」というのは、一方で「人と人との間の関係の分析」があり、他方に「独自存在としての社会的現実の分析」があるということで、要するに両者がつながっていない事態を指している。アリストテレスは前者を「倫理学」で、後者を「政治学」で論じたが、両者の接続については論じなかった。つまり二分法を前提とした社会観になっているのである。これはアリストテレスに限った話ではない。今でもミクロ社会学とメゾ社会学+マクロ社会学の間には深い溝があって、ちゃんとトータルに理解している人は限られていると思う。

 しかしルーマンに言わせると、二分法のまま放置していたのでは、社会学の性質上大きな問題があるという。社会学は限定された対象領域によって定立する他の科学と同じではない。社会学は主題定立によって成立する科学である。社会学にとって存在意義に関わる重要な主題定立は、この両者を接続することである。それは常識や自明でなくてもいいし解決済みである必要もない。社会学が自己準拠的に定立すればいいことである。その問いが「社会秩序はいかにして可能か」という問題である。つまり「人と人との間の関係」がどのようなプロセスで組織や国家などの「独自存在としての社会的現実」を産み出すのか、そして逆のプロセスはどうなっているのかという問題である。

「いかにして可能か」という問題定立は、所与の現実のコンティンジェンシーを前提にしている(ルーマン1985: 23)。つまり、そうなる場合もあれば、そうならない場合もあるという前提で問いを立てるのである。

 社会学以前のルネッサンスから近代にかけて、この問題は主として主体アプローチからなされてきた。それは社会が階層化された伝統から機能的に分化した社会へと例外的な進化をし、友愛が影響力をもつ政治から、目的追求の集合体が支配する経済へと社会の主軸が移行したからである。(ルーマン1985: 61-67)

 主体アプローチの基本線を担うのは、意識を主体性とするデカルトであり、主体が現実を統一するとしたカントである。しかし、これでは他者はいつでも現象にしかすぎないということになり、他者が固有の意識をもつことが理論的射程に入ってこない。87これが独我論の限界であって「相互主観性は錨を下ろすことができないし、社会化は『疎外』に帰着するほかない」ことになる。(ルーマン1985: 95)

 ウェーバーもこうした主体アプローチを前提として社会学を構想した。そのため個人と集合体とは強い緊張関係にある。それに対してデュルケームにおいて個人と集合体は最初から調和的であって、社会概念は始原的な義務意識が生まれる場所として神秘化されてしまう。主体概念の場所がないのである。

 かれらに対してジンメルは、個人が主体として社会を成立させていると同時に社会が個人の主体性を基礎として社会自身を綜合しているとした。ジンメルの場合「万人に対する万人の綜合」(ルーマン1985: 112)によって社会が可能になっているとルーマンは述べている。眼目は外部の観察者を必要としない点である。

 ルーマンが引き合いに出しているのは、ジンメル『社会学』第1章の付説「社会はいかにして可能か」である。ルーマンは、ここで述べられていた3つのアプリオリのうち最初の2つを説明している。先に指摘しておくと、第1のアプリオリは「人と人との間の関係の分析」(友愛関係)の系譜に属し、第2のアプリオリは「独自存在としての社会的現実の分析」(コイノニア)の系譜に属すことになる。ここは訳語の問題があるので一部翻訳を変えてまとめることにする。

 第1のアプリオリ。人は対人関係において自己と他者をそれぞれ類型化して、基本的にはその役割類型に即して自己を呈示し他者を認識するのであるが、同時にその抽象化された役割からのずれに自分と相手の個性を認識する。これをルーマンは次のように翻訳する。

そうしてみると、ジンメルの表現にとらわれずにいえば、次のようにいえるだろう。すなわち、社会的コミュニケーションにとって不可欠の縮減がおこなわれているのであり、それによってその人が自分自身を一瞥して同一性を保持しうるものとして捉えうるあの図式が考え出されることになる。それゆえに、社会的な複合性と個人の複合性とが、それぞれ他方の複合性を拠り所としてそれぞれの複合性の縮減をおこないうることに基づいて、個人としての統合が作り出されている。(ルーマン1985: 114)

  第2のアプリオリ。ルーマンが引用しているジンメルの言葉。

「もうひとつの範疇のもとでそれぞれの主体は、自分自身を認め、また互いに相手を認め合っており、そうすることによって諸主体に形式があたえられて、経験的な社会を作り出すことができるのだが、そのような範疇は、次のような平凡ともみえる命題で定式化される。すなわち、同じ集団のそれぞれの要素は、たんに社会の構成部分にとどまらないで、さらにそのほかの何物かである。」(ルーマン1985: 115)

 これについてルーマンは次のように結論する。

 ジンメルからすれば、それぞれの人が、一部はまったくその人によって、一部は社会によって構成されているということ、ならびにそれぞれの人は、まさにこのことが他者にもあてはまるのを知っているということが、社会が成り立つための前提条件にほかならず、より的確な術語でいえば、社会の形式が成り立つための先要条件なのである。換言すれば、社会の形式というものは、十全に社会化されることはありえず、そのことを互いに知っている、諸主体の間の関係のことなのである。(ルーマン1985: 117)

 ジンメルはアリストテレス以来の2つの問題を1つの統一的なゼマンティークで考えるところまで行った。それは超越理論に立脚していたからである。超越理論というのはカントの批判哲学のこと。ジンメルはカントの立ち位置から一歩踏み込んだ形になる。次の章ではジンメルの解決を「縮減/変位のテーゼ」(ルーマン1985: 122)と呼んでいる。しかしジンメルの場合、心理学への傾斜が行き先を止めている。これがルーマンのジンメル評価である。

 最後の大家はパーソンズである。かれは『社会的行為の構造』で行為をシステムと捉え「いかにして行為は可能か」を問うた(ルーマン1985: 122)。より正確には「行為の分析的構成要素の間の関係はいかにして可能か」という問題である。その上で「いかにして社会的行為は可能か」という問題を立てると、「行為の客体がオルター・エゴであるばあいに、いかにして行為はその諸構成要素を関係づけられるか」122が問題になる。そうなると「社会的な反照が錯綜してくる」(ルーマン1985: 122)

 オルター・エゴというのは他者、目の前にいる他者のこと。他者に働きかけることを「社会的行為」という。ただしパーソンズの場合、単位は「行為」(単位行為)である。個人ではない。「行為」そのものがすでにシステムであるという認識になる。

 パーソンズの解決は、いわゆる「ダブル・コンティンジェンシー」の公理として示されている。ルーマンが引用するパーソンズの説明は次の通り。

「相互行為を分析するさいの決定的に重要な準拠点は、(1)それぞれの行為者が、行為する主体であると同時に、行為者自身と他者の双方にとって指向される客体であるということ、および(2)それぞれの行為者は、行為する主体としては自分自身と他者にたいして指向しており、指向される客体としては、その主な様相ないし側面のすべてにわたって、行為者自身と他者にたいして意味を有しているという二点である。そうしてみると、行為者は、認識する主体であるとともに認識される客体であり、道具的手段を用いる者であるとともに、かれ自身手段そのものであり、他者にたいして情動的に愛着するとともに、他者から愛着される客体であり、自ら評価を下す者であるとともに評価される客体であり、シンボルの解釈者であるとともにかれ自身シンボルなのである。」(ルーマン1985: 123)

 これは1968年のシルズ編『国際社会科学事典』の「相互作用」の項目からの引用である。翻訳では1951年の『社会システム』の冒頭部分に「ダブル・コンティンジェンシー」の話が読める。ルーマンは、行為の4つの構成要素である行為者・客体・指向・様相のうち1人の行為者のダブル・コンティンジェンシーしか取り上げていないと批判する。(ルーマン1985: 124)

 しかし、ダブル・コンティンジェンシーの概念は「ホッブス的秩序問題」に解法を与える。これは「諸個人が自らの利害関心に基づいて合理的に行為するばあい、いかにして諸個人は何らかの社会秩序の中で生活しうるか」(ルーマン1985: 125)という問題である。

 というのも、価値基盤がその前提として共通に受け入れられたばあいにのみ、行為者たちは、相互依存の不確定な状況でも行為をすることができるからである。このような価値のはたらきが、行為の先要条件であり、したがってまたその合理性の先要条件なのである。(ルーマン1985: 126-127)

 これがパーソンズの解決であった。ルーマンはそれが不十分であるとしているが、一般理論としては高く評価する。社会学者たちは大学の制度化で増大する夥しい業務に追われて、正しく評価できていないと叱っている。「グランド・セオリー」と呼んで特殊領域に押し込めて済む話ではないというのである。(ルーマン1985: 134)

 問題は超越論的な問題設定にある。ライプニッツから始まってカントによって定式化された超越論的な主体の前提である。これは不可避なのかというのである。(ルーマン1985: 135-136)

 ルーマンは、おそらく不可避ではないというのであろう。それは普遍主義を徹底することでできると考えるようである。普遍主義が普遍的に適用されうる概念や規準を生み出し「いかにしてXは可能か」という問題定立を生み出すゼマンティークを発展させるのである。

 そもそも普遍主義は、12世紀の修道院神学と営利指向の経済から始まる。修道院神学は宗教のあり方の基準を設定することで政治や社会に系列化されることを防止し、営利経済は生産や信用制度についての基準を設定することによって同じく政治や社会に系列化されるのを防止した。これはつまり「第二段階のシステム分化」だという(ルーマン1985: 138)。つまり社会システムから宗教システムと経済システムが分化したのちに各システムが自立していったということのようだ。ルーマンによると、このような機能分化の進展によって「普遍主義にそくした社会構造の洞察」(ルーマン1985: 138)が進行したという。

 そして現代。第三段階のシステム分化が進行中である。個々の学問の内部で科学の原理・原則が問われつつある。これは各専門システムのアイデンティティを問い直す動きである。(ルーマン1985: 142)

 最後の章である「パーソンズを超えて」では、諸システムの相互浸透の理論での打開が提案される。(ルーマン1985: 149)

 相互浸透の概念は、(システム分化のばあいとはちがって)諸システムが交互に環境でありながら、相手に浸透していくシステムの特有の複合性とその可変性とが、他方のシステムの構成素として活用されている、そういった複数のシステムの間の関係をいい表わしている。(ルーマン1985: 149)

 パースン・システムと社会システムの相互浸透領域で共有されているのは「行為」ということになる。あるパースンは個々の行為によって社会システムに相互浸透している。逆に、社会システムを構成する行為集合は複数のパースンが自由に行為することによって成立している。このような場合に「体験処理の形式」として媒介的に作動しているのが「意味」である。「意味」がシステム間を接続するのであるが、厳密に可能性を限定するわけではなく、可能性を開くのである。

 それぞれのシステムには意味によってしかるべき作用空間が開かれており、かかる空間は、それ以外の諸システムからみれば、同一でありながら別種のものであるということによって特徴づけられる。このように、作用空間が「同一でありながら別種のものである」ということは、剰余と選択の基本構造がその意味の中でその瞬間における統一体として提示されているというととに基づいてのみ可能なのである。(ルーマン1985: 156)

 このように意味を基軸として考えると、それ以外のすべてのシステムがその部分システムであるといった包括的なシステムを仮定する必要がなくなる。(ルーマン1985: 158)

 つまりスーパー・システムはいらない、すべて意味概念が調整するということである。全体を包括する1つのシステムは必要ないのだ。そのかわりに意味問題の分析が急がれることになる。相互浸透における意味による指示は事象的次元・社会的次元・時間的次元に区分して分析されるべきである。それゆえ「ゼマンティーク」(意味の理論)になるというわけである。 

 以上、旧訳によって「社会秩序はいかにして可能か」論文をたどってきた。新訳によれば、また少し印象がちがうのかも知れないが、今回は大昔の勉強の読み直しというきっかけがあったので、それはまたの機会に譲る。それはそんなに遠くない時期になるはずである。

 ルーマンにしては珍しい学説史的構成の論文だが、結果としてわかるのは、むしろ学史的断絶である。ジンメルを評価した論文として指定されることがあるのは知っているが「主体アプローチとは縁を切りなさい」と言っているのだから、そこは慎重に判断すべきだと思う。しかし「いかにして可能か」という主題定立そのものには社会の機能分化の帰結であるということだから、それは継承したいと思う。


2022年2月23日水曜日

セオリー道場006言説をめぐる統治へ──フーコー『言説の領界』(前半)を読む

読解対象

ミシェル・フーコー『言説の領界 コレージュ・ド・フランス開講講義一九七〇年十二月二日』愼改康之訳、河出文庫、2014年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 かつて中村雄二郎訳で出ていた『言語表現の秩序』の新訳である。中村訳の時代には、まだ「言説」という言葉が定着していなかったと思う。内容は副題にあるとおり、教授就任記念講義である。フーコーの思考プロセスにおいては、ちょうど折り返し地点にあたる内容であり、ビフォーとアフターを見渡せる好位置にあると思うので、フーコーの思想を学ぶ上でのとっかかりとしたい。今回は前半を読む。

 開講講義は一つの不安から始まる。

 口に出されたり書かれたりするものとしての物質的現実における言説とはいったい何かということにかかわる不安。我々には属さぬ持続に従っていずれ消え去るべく定められたその一時的存在にかかわる不安。日常的で灰色のその活動の下に、想像し難い力と危険を感じる不安。かくも長いあいだ使用されたことでその荒々しさが減少したかくも多くの語を通して、闘い、勝利、傷、支配、隷属が見いだされはしまいかと推し測る不安。(フーコー2014:10-11)

 何かを語ろうとするときに感じる不安の正体は何か。一方では、いっそ語ることをスルーして対象そのものに接近したいという「欲望」があり、他方には「制度」によって管理されているので心配するなという声がある。いずれも「不安」の表れであるという。ある種の危険に対する不安である。このうち「制度」については次のように述べている。

 言説は法の領界のうちにあるということ。言説の出現はずっと前から監視下に置かれているということ。言説に対し、言説を称えながらもそれを武装解除するような一つの場所がしつらえられているということ。そして、言説が何らかの力を持つことがあるとすれば、その力は制度たる我々に、我々のみに由来するということ。(フーコー2014:10)

 言説にはあらかじめ言説制度が管理していて、その法的ルールに従ってさえいれば、そんなに不安に思わなくてもいいんだよということ。直接的には、教授就任講義という公式の場で自説を開陳する自分の不安と、制度的な支えとが、これから講義していく内容を規定するという自覚を述べているのだが、半世紀後の現在にあっては、言説の環境が大きく変化している。発言権は誰にでもあり、それがたんに潜在的な可能性ではなく、いつでも範囲を指定して言説を発することができる。一見して無政府状態に見える言説の領界。しかし、もう少しフーコーの言うことに耳を傾けてみよう。

 ここでのフーコーの仮説は次のものである。

 あらゆる社会において、言説の産出は、いくつかの手続きによって、すなわち、言説の力と危険を払いのけ、言説の偶然的な出来事を統御し、言説の重々しく恐るべき物質性を巧みにかわすことをその役割とするいくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再分配されるのだ、というものです。(フーコー2014:11-12)

 要するに、手続きが用意されている。それを明らかにしようということである。すでにこの段階で、言説には力があり危険があり偶発的であり物質性をもつということが語られている。それに対して管理・選別・組織・再分配という制度的手続きが用意されていて、それによって言説は管理されているのだということまで言及されている。この事態を詳細に論じていこうというのである。

 まず排除の3つの手続き(システム)について語られている。第一に禁忌。

 すべてを語る権利などないということ、いかなる状況においてもあらゆることについて語りうるわけではないということ、誰もがいかなることについてでも語りうるわけではないということ、これは、周知の事実です。対象をめぐるタブー、状況に応じた儀礼、語る主体の特権的ないし排他的な権利。こうした三つのタイプの禁忌が、互いに交叉し合ったり、強化し合ったり、補い合ったりして、絶えず変更を被る複雑な格子を形作りながら作用しているのです。(フーコー2014:12)

 とくに禁忌が強力に作動している領域としてフーコーはセクシュアリティの領域と政治の領域を指摘している。ここでは言説が欲望および力と結びついている。

 第二に分割と廃棄。理性と狂気の分割。狂気の側の者の言葉は効力のないものとみなされ真理も重要性もなく裁判証言もできない。逆に、狂者の言葉が「隠された真理を語る力、未来を口にする力、他の人々の知恵が感じ取ることのできないものを全くの無邪気さのなかで見る力」を持つことがある。

 第三に「真と偽との対立」ここでフーコーは「真理への意志」という概念を導入する。

 すなわち、何世紀にもわたって我々の歴史を貫いてきた真理への意志は、我々の数々の言説を通じて、かつてどのようなものであったのか、そして今なおどのようなものであり続けているのか、あるいは、我々の知への意志を決定づける分割のタイプは、その非常に一般的な形態においてどのようなものであるのか、と。そうすれば、そのとき姿を見せるのはおそらく、排除のシステム(歴史的で、変更可能で、制度的で、拘束力を伴うシステム)のような何かでしょう。(フーコー2014:19)

「真理への意志」が何らかの制限を加えてきたであろうということだが、そのありようが歴史的に大きく転換してきたというのである。便宜的に三段階に整理してみる。

 第一段階。儀礼に則った特別な人物の言葉。

敬意と恐怖の対象とされていた真なる言説、絶大な権力によって服従を強いていた真なる言説とは、依然として、必要な儀礼に従いしかるべき人物によって発せられる言説のことでした。それは、正義を語り、一人ひとりに対して各自の取り分を割り当てる言説でした。それは、未来を予言しつつ、これから起こるであろうことを告げるだけではなく、それに加えて、その実現に寄与し、人々の賛同を促して、自らを運命とともに織り上げる言説でした。(フーコー2014:20)

 第二段階。特定の人物が真理を保証するのではなく、言説そのものの中に真理があるとみなす段階。

 ところが、その一世紀後にはすでに、最も高次の真理は、もはや言説がそうであるところのものや言説が行うことのなかにではなく、言説が語ることのなかに宿ることになりました。真理が、効果的で儀礼化された正義の言表行為から、言表そのものの方へ、つまり、言表の意味、言表の形式、言表の対象、言表とその参照物との関係の方へと自らの位置を移動させる日がやって来たということ。(フーコー2014:20)

 第三段階。科学的な段階。

 この歴史的分割は確かに、我々の知への意志に対し、その一般的形態を与えました。しかしこの分割は、その後も絶えず自らの位置を移動させ続けました。科学的な大変動の数々は、おそらく、時には一つの発見の帰結として読み解かれうるものでもありますが、しかしそれはまた、真理への意志における新たな形態の出現として読み解かれうるものでもあります。(フーコー2014:21)

 ところで、この真理への意志は、他の排除のシステムと同様、一つの制度的支えを拠り所としています。すなわち、この意志は、教育はもちろんのこと、書物や出版や図書館のシステム、かつての学会や今日の実験室といった、諸々の実践の厚み全体によって、強化されると同時に存続させられるものである、ということです。(フーコー2014:23)

「真理への意志」が多くの言説に対して圧力や拘束力を行使するとも述べている。

 禁じられた言葉、狂気の分割、真理への意志という、言説に課される三つの大きな排除のシステムのうち、私は、第三のシステムについて最も長い時間をかけてお話ししました。それは、最初の二つのシステムが、数世紀前から、第三のシステムの方へと絶えずその向きを変えてきたからです。それは、第三のシステムが、最初の二つをますます自らに引き受け直し、それらに変更を加えると同時にそれらを基礎づけようとしているからです。それは、今や真理への意志に貫かれた最初の二つのシステムが、より脆くより不確かなものとなり続けているのに対し、真理への意志の方は逆に、自らを強化し続け、より根底的なもの、より避けて通ることのできないものとなり続けているからです。(フーコー2014:25)

 以上が外部から行使される手続きである。後半は、内部から行使される手続きに移る。「言説が言説自身によって管理される」(フーコー2014:28)手続きであり「分類、秩序立て、分配の原理として」作用する手続き。一言で言うと、偶然を払いのける手続き。平たく言うと「通りすがりの通行人」には語らせないしくみである。これについては別に扱う予定であるが、とりあえず項目を整理しておく。

 フーコーは、注釈と作者原理と研究分野(ディシプリン)の3つを挙げる。第一に、注釈。第二に、作者原理。第三に、研究分野。

 言説の外からと内からの手続きに続いてフーコーは第三の手続きグループがあるという。第一に、儀礼。第二に、言説結社。第三に、教説(ドクトリン)。第四に、社会的占有。

 哲学の応答。おそらく言説の制限と排除を強化してきた。第一に、創設的主体。第二に、根源的経験。第三に、普遍的媒介。

 言説が宙に浮くという話。それに対抗するためのフーコー自身の三つの決断。第一に、逆転の原則。第二に、非連続性の原則。第三に、種別性の原則。第四に、外在性の原則。

 言説分析についての方針。(フーコー2014:70)

これからのセオリー道場について

 こういうものを授業で説明するということが、これまでの教師生活において皆無だったので(この20年間、私は情報メディアの教員だったから)こういう理論的な話をどの程度までほどいたらいいのか、正直よくわからない。日常的に学生に語るということが、じつはとても大事なのである。それがないので、自分を自分で鍛える道場を始めたわけで、とくに長文引用をあまりしたことがないという自分の弱点にあえてフォーカスして乗り越えようとしているにしても、Facebookに書くようにはなかなかいかないものである。長文引用練習は、精読したあとの二度手間になるからノリが今ひとつということもあるし、こういう作業は文献の著者に従属的になるから、もともと自分が言説世界を切り回したいという性向の強い私にとっては、自分を従属的なスタンスのまま持続するのが難しいのだ。

 長文引用練習に関してはOCRアプリを使用した手順を確定して、だんだん慣れて使えるようになってきたので精読法と引用法まではよしとしよう。

 次の課題は、読むスピードと書くスピードのギャップをなるべく小さくしたいということ。これは、けっこうな難題で、読むことと書くことと考えることなどのなすべきことが明確になってくると、その総量の実質が重くのしかかってくる。この重圧に負けないようにするためには、一方で文献を絞り込んでいく作業が必要で、これは文献のデジタル化の過程で選別を続けている。つまり、線を引いて精読すべき文献と判断したもの以外はどんどんデジタル化している。他方でFacebookに書くスピード並に書いていかないと、いっさいが「祭りの準備」で終わりかねない。

 ここはひとつ個体発生的に進化させてヴァレリー流に切り回すことにしようと思う。つまり隅から隅まで読むことを自分に課さない。多様な読み方を許容するということ。

 書くスピードで言うと、なんとしても文体改造が必要だが、これはこれで荒療治が必要な気がしている。つまり、いったん文体模倣のようなこと(文体練習)を自分に課す必要がありそうだ。いや、その前に模倣したい文体の読み込みを集中的にやる段階がないといけない。これまでも文体については模索を続けてきて、吉本隆明の堅実でマイペースなやり方や木田元や野矢茂樹らの哲学エッセイを研究してきた。評論と哲学エッセイの混合あたりがいいと考えている。

 この文脈で、最近になって大物を思い出して本を取り寄せている哲学者がいる。中村雄二郎である。『臨床の知とは何か』を流し読みしていて、今の私が読んできたものが見事にこなされているのにおどろいた。昔はよくわからなかったが、今の私が模倣すべき人はこの人かも知れない。

 最後に、辻井喬が中村雄二郎について書いている著作集月報の文章の中から、中村に言及する前の記述がおもしろい。下の段に注目。「極めて高い生産性を示す時と、惨めな結果に終り、ついには知的活動を休止してしまう人もいるようである。」前者でありたいと思う。正念場ということだ。

2022年2月15日火曜日

セオリー道場005アンソロジスト・メソッドへの道なのか──ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をこっそり読んでしまう

読解対象

M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 英語圏の大学における勉強の柱は二つ。一つは五〇〇ページ以上はある分厚い標準教科書。もう一つの柱はアンソロジー(あるいはリーディングス)。その領域の古典的文献や基本論文を抜粋したものである。これでテキストで説明されている命題や理論の最初の形を学ぶ。二本柱の間を取り持つのが教員の役割ということになる。

 さて、アンソロジーを編集する視点から考えてみる。おそらく専門性の高い領域であれば作りやすいのではないか。逆に、広範な領域を横断的に眺めるものになればなるほど作りにくいのではないか。領域が広がると選択肢が拡大して恣意性(あるいは選択眼)も高度になるからである。

 テクスト内在的に語りたいというのが当初の私の願いであった。書評ではないようなスタイル、外書購読のような精読スタイルで、なるべく原文(と言っても基本的に翻訳を使用する)を紹介しながら書き進めていくようにしたいと思ったのである。 

 となると必要になる能力は次の通りである。

(1)多読能力。大量の文献を読むことになる。

(2)有益なパラグラフを選び抜く選択眼。精読が前提。

(3)文献が置かれているコンテクストの理解。

(4)多様な読み方。ときには流し読みや部分読みをすること。

 前提条件は有限な時間と文献の質量とのトレードオフ。学ぼうとする者ならだれしもが抱える問題を「代行」しようとしているわけだから、当然、このトレードオフが圧縮されて到来する。一方で日本は翻訳大国である。今の日本の出版状況は、かつて「12世紀ルネサンス」を呼び起こした多数のアラビア語の翻訳書群と似ている。なじみのある社会学を見ていても英語だけでなくフランス語やドイツ語やイタリア語など夥しい数の翻訳が出版されている。ルーマンの翻訳だけでも40冊ぐらいあるが英語圏では数冊にとどまる。しかも私たちが圧倒的に有利なのは日本語も読めるということである。日本にはオリジナルな思想家が少ないかも知れないが、欧米の思想家(とりわけ英独仏)の学説研究の水準は高い。そういう利点を生かしたい。翻訳の問題については、そのうち主題的に取り上げたい。

 問題は読み方である。文献について述べるわけだから精読が基本なのは言うまでもないが、隅から隅までを理解していないといけないというわけではない。

 読書法の世界では比較的正統派だと思うが、アドラーとドーレンの『本を読む本』には四つの読み方が書いてある。(M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年)注:これからは著者が複数の場合は+でつなくことにしたい。

(1)初級読書

(2)点検読書

(3)分析読書

(4)シントピカル読書

 最後のシントピカル読書というのは、同一主題の複数の本を読みくらべる作業のことである。著者はこれには五段階があるという。(アドラー+ドーレン1997:227-233)

(1)問題箇所を見つけること。

(2)著者に折り合いを付ける(著者のキーワードを見つけて使い方をつかむ。これは一種の翻訳作業になる)。

(3)質問を明確にすること。

(4)論点を定めること。

(5)主題についての論考を分析すること。

 この本も「本は隅から隅まで読め」とは言わない。

 エーコの「反読書」となると「読まない本」が当たり前になるが、それは別の機会に。また、遡るとショーペンハウアーの有名な読書論だと「自分を喪失するから本を読むな」的な論調になる。哲学者はそうかもしれないが、いくらネット社会とは言え、凡人は多少とも何か読まないかぎり死ぬまで無知の人である。

 こうした議論にユニークな観点から論じた本がピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。(ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。)

 読書には義務や禁止からなる規範の体系がある。(バイヤール2016:11-13)

(1)読書義務(神聖とされる本は必ず読んでいなければならない)

(2)通読義務(始めから終わりまで読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは読まないのと同じである。)

(3)本について語るためには、その本を読んでいなければならない。

 この規範の体系があるために、多くの人(とくに学者)はウソをつかなければならなくなる。これはおかしいだろうというわけである。バイヤールも本書においてときどきウソをつくのであるが、ある意味、本書は本に関するウソについての本でもある。

 タイトルだけで決めつけられがちな本であるが、内容はすこぶるリッチである。

 ムージルの『特性のない男』に登場する図書館司書は所蔵図書をいっさい読まない。「全体の見晴らし」が重要だという。ヴァレリーは読んでいない本について公の場所で「読んでいない」ということをほのめかしながら、その本や著者について賛辞を送る。ヴァレリーは作品そのものと距離を取ろうとする点で流し読みの名手である。エーコの『薔薇の名前』において殺人の理由となる書物はアリストテレスが笑いについて論じた本であるが、それは中世の修道院図書館が表象する「共有図書館なるもの」を台無しにすると殺人犯が考えたためだった。この場合、話題の本は「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」(バイヤール2016:84)になっているという。フロイトの「遮蔽幕(スクリーン)としての記憶」に由来したフレーズだが、防御壁とか盾とか矛先とかダミーとか不可視化装置などの類義語を勝手に連想してしまうが、要するに書物の名前を出した段階で「ここから先は立ち入り禁止」という指令を出していることになるということだろう。ちなみにフロイトの「隠蔽記憶」「遮蔽想起」は「意識にとって許容しがたい他の記憶を隠蔽すること」を指している。(バイヤール2016:85)

 モンテーニュは自分が著作に書いたことをすっかり忘れていた経験を書いている。そもそも『エセー』のテーマの一つは「記憶の消失」だとのことである。(バイヤール2016:90)

 モンテーニュは、自己消失を繰りかえし経験している点で、これまで言及してきたどの作家にもまして「読むこと」と「読まない」こととの境界を無効にする作家であるように思われる。書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念じたいがいかなる有効性ももたなくなる。どんな本も、それを開くにせよ開かないにせよ、別のどんな本とも等価だということになるからである。

 モンテーニュが書物と取り結ぶ関係は、誇張されているように見えるかもしれないが、われわれ自身の書物との関係と本質的には変わらない。われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。つまりそれは、フロイトのいう〈遮蔽幕としての記憶〉に似た、捏造された書物の切れはしであって、その機能はとりわけ他の書物を隠蔽することなのである。

 したがって、 ここでモンテーニュにならって問題にすべきは、読書というより「脱−読書」である。これはわれわれを絶え間なく引き込む書物忘却のムーヴメントにほかならない。このムーヴメントは、参照項の消失であると同時に攪乱であり、タイトルと何ページかの記述と化してしまった書物を、われわれの意識の表面に浮かぶ漠たる幻影に変える。

 書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失とも結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。これを考慮に入れなければ、読書のポジティヴで蓄積的な側面ばかりを見ることになる。読むということは、たんに情報を得ることではない。それは一方で忘れることでもある(こちらの方が大きいかもしれない)。それはしたがって、われわれの内なる、われわれ自身の忘却に直面することでもあるのだ。

 モンテーニュの文章から見えてくる読書主体のイメージは、統一性のある、自己を保証された主体のイメージではない。それは不確かな、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体、これらの断片が誰のものかも分かっていない主体である。この主体は人生の途上でひっきりなしに難局に直面させられる。そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである。(バイヤール2016:100-102)

 私たちもついに「脱−読書」の境地に到達したようだ。正直を信条とするモンテーニュに倣うことにしよう。

 ここまでが第Ⅰ部「未読の初段階(「読んでいない」にも色々あって‥‥)になる。読んでない、ざっと読んだ、聞いたことがある、読んだが忘れた、といった四段階を見てきた。

 第Ⅱ部は「どんな状況でコメントするのか」である。本書の白眉と言えるものだが、これを踏まえた上で第Ⅲ部「心がまえ」を重点的に検討したい。ちなみに読み飛ばしたわけではない。第Ⅲ部がおもしろいのだ。余裕があれば最後に戻ってもいいが、これは回収されないと思う。

 第Ⅲ部の最初の章「気後れしない」は、デイヴィッド・ロッジの『交換教授』と『小さな世界』が題材である。この二冊によって「キャンパス・ノヴェル」という文学ジャンルが生まれたという。バイヤールが取り上げるのは『交換教授』の中にある「屈辱」と呼ばれるちょっとした会話ゲームである。「自分がまだ読んでいない有名な本を各人で挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得、というゲーム」(バイヤール2016:188)で『ハムレット』を挙げた生真面目で曖昧さが大嫌いなリングボームが冗談だと笑う参加者たちに対して断固として読んでいないと言い放ってしまったために座がシラけてしまったエピソードが出てくる。この気まずい状況をバイヤールは詳細に分析する。

 このリングボームの行為は、曖昧さを残さないという過ちによって「われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである」という。(バイヤール2016:193-194)

 この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。

 書物に関する──いや、より一般的に、教養に関する──このこのコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。

 この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されると、また出された問いにはっきりと答えなければならこの空間内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。(バイヤール2016:194-195)

 つまり、教養とは個人の無知や知の断片が隠蔽される舞台だということだ。(バイヤール2016:195)

 重要なのは、その人間が潜在的書物からなるこの中間領城の外に出ないということだ。この領域のおかげでわれわれは他人と共生し、コミュニケーションをはかることができるのである。(バイヤール2016:197)

 ここでバイヤールは大学教員の世界(「小さな世界」)を一種の社交空間として語っている。社交空間であるから、それは演技される世界であり、偽善の世界である。逆に言うと特別な空間ではない俗物の社交空間にすぎないということだ。こういう見切りが必要なのだ。

 この社交空間において書物の名前とそれがほのめかすものは独自の機能を果たす。

 こうした文化的コンテクストでは、書物は──読んだものも読んでないものも──第二の言語となる。われわれはこれを使って自分について語ったり、他人の前で自己を表象したり、他人とコミュニケートしたりするのである。書物は、言語と同様、われわれが自分を表現するのに役立つだけでなく、自分を補完するのにも役立つ。つまり、書物から抽出され、手直しされた抜粋によって、われわれの人格に欠けている要素を補い、われわれが抱えている裂け目を塞ぐ、そうした役割を果すのである。

 しかし書物は、言葉と同様、われわれを表象しつつ、われわれを歪めて伝えるものでもある。(バイヤール2016:198)

 われわれが他人と書物について語りながら交換するのは、したがって、われわれの外部にあるような情報である以上に、自己同一性が脅かされる不安な状況にあってわれわれの内的一貫性を保証するのに役立つような、われわれ自身の一部である。恥ずかしさの感情の背後にあって、こうした交換によって脅かされているのは、われわれのアイデンティティーそのものなのである。この潜在的な空間があいまいさを保持しつづける必要があるのはそのためである。(バイヤール2016:199)

 相互のプライドとアイデンティティを守るための言葉として書名が使われる。著者名も同様。「ニーチェみたいにさ」「フーコーが言うように」という具合に。文字通り「遮蔽幕」になる。言われた方は「ここから先は突っ込むなよ」という隠れたシグナルを読み取らなければならない。

 この意味で、このあいまいな社交空間は学校空間の対極にあるといえる。学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読書というものが存在するという幻想が働いている。あいまいさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。

 書物に関する議論の空間は、遊戯の空間であり、絶え間ない折衝の、したがって偽善の空間である(後略)。(バイヤール2016:199)

 ここで反省したい。私は柄にもなく学校空間を生きていたのだ。というより、学び直しをする過程で、いつのまにか自らを学校空間においてしまっていたのだ。バイヤールの結論はこうだ。

 読んでない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放すべきである。(バイヤール2016:200)

 次の章「自分の考えを押しつける」ではバルザックの『幻滅』に登場して主人公を翻弄する辛口評論家のやり方を取り上げている。その評論家は本を読まないで批評することを自慢げに主人公に語るのである。まるで生徒や学生が本を読まないで読書感想文やレポートを書いて単位をもらったと自慢するように。

 バルザックがここで披露しているのは、私のいう〈ヴァーチャル図書館〉の諸特性の戯画にほかならない。この小説家が描く知識人の小宇宙で重要なのは、もっぱら、そこで立ち動く人々の社会的ポジションである。書物そのものは、陰に追いやられていて、大きな役割を果すことはない。しかも、書物について意見を言う前にそれを読む者はだれもいない。書物は、社会的および心理的諸力のあいだの不安定な関係によって定義される中間的対象に取って代わられているのであって、それじたいでは問題にされないのである。(バイヤール2016:218)

 ここで問題となっているのはしたがって書物そのものではなく、その書物について人々が交わす言葉の相互作用である。(バイヤール2016:222)

 どちらもある一個の作品を読んだことがないことになっているのだが、もし二人とも読んでいないとしたら、どちらも相手が読んでいない(つまり読んだと言って嘘をついている)ということも分からないはずなのである。ある本についての対話のなかで嘘という言葉が意味をもつためには、少なくとも一方が本を読んでいなくてばならあるいは本についてだいたいのことを知っていなければならない。(バイヤール2016:234)

 このように、このヴァーチャルな空間は騙し合いのゲームの空間である。その参加者たちは、他人を購す前に自分自身が錯誤に陥る。(バイヤール2016:234)

 ここで少し戻る。コンテクストの話。

 彼はたしかにこの重要性を戯画化しているが、コンテクストの決定力を強調している点は見逃せない。コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく、動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである。(バイヤール2016:221)

 書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる──リュシアンよりも決然と──ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。

 テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。(バイヤール2016:224-225)

 これは、かなりすごい考え方である。本は素材として自由に語ってよしというのである。ホールのエンコーディングとデコーディングというコミュニケーションの理にかなっている。本書はデコーディングの話をしているのだ。

 さて、第Ⅲ部第3章「本をでっち上げる」の題材は『吾輩は猫である』である。ここに「金縁眼鏡の美学者」が登場して苦沙弥先生に架空の本について滔々と語るシーンがある。苦沙弥先生は感心しながら聴いているが、あとあとになって美学者は「そんな本はないんです」と言ってのける。これが「本をでっち上げる」ということである。そしてバイヤールは「それでいい」と言うのである。そのためには「〈他者〉は知っていると考える習慣を断ち切ること」が必要だという。(バイヤール2016:235)

 書物についての言説で問題になる知というのは不確かな知であり、〈他者〉とは話し相手の上に投影された、不安を呼ぶわれわれ自身のイメージであって、そのモデルはかの遺漏なき教養というフィクションである。学校制度によって伝播されるこのフィクションが、われわれが生きたり、考えたりする妨げとなっているのである。

 しかし(他者〉の知を前にしたこの不安は、とりわけ書物にまつわる創造の妨げとなっている。〈他者〉は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの創造の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである。しかし、本を読んでいる者も読んでいない者も、望むと望まざるとにかかわらず、書物創造の終りのないプロセスのなかに巻き込まれているのだ。真の問題は、したがって、そこからどのように逃れるかではなく、それをいかに活性化し、その射程をいかに拡げるかを知ることなのである。(バイヤール2016:235-236)

 いま私がやっていることも同じなのだろう。テクスト内在的に思考を進めていくことは、たんなる要約や訓詁解釈だけでなく、ときとして創造的な局面に至る瞬間があるかもしれない。そのためには「読者は読んでいる」と想定することをやめなければならない。ちゃんと説明する、そして自分なりの読みを提示する。それをまた自分の中で吟味する。それをまた別の本について述べるときに提示する。少しずつ思考が進む。それがバイヤールの言う〈内なる書物〉となる。それでいいということだ。

 もしわれわれが、本書で分析してきたような多様で複雑な状況において、重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう。なぜなら、いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいう口実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。(バイヤール2016:264)

 これはやはり高めの能力を必要とすることである。作品を語るという行為は、その人の創造力の高さを結果的に表示するのだ。

 読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。(バイヤール2016:269)

 この〈創作者になること〉は、読んでいない本について語る言説だけに関係しているのではない。より高いレベルでは、創造そのものが、その対象が何であろうと、物から一定の距離をとることを要求する。というのも、ワイルドが示しているように、読書と創造とのあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、普物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。みずから個人的作品の創作者になることは、したがって、読んでいない本についていかに語るかを学ぶことの論理的な、また望ましい帰結としてあるといえる。この創造は、自己の征服と教養の重圧からの解放に向けて踏み出されたさらなる一歩である。教養というものはしばしば、それを制御するすべを学んでいない者にとって、存在することを、したがってまた作品に生命を与えることを妨げるものなのである。読んでいない本について語る方法を学ぶということが、創造の諸条件との出会いの最初の形であるとするなら、教育に従事するすべての者にはこの実践の意義を説く責任があるということになろう。彼ら以上にそれを伝達するのにふさわしい人間はいないからである。(バイヤール2016:271)

 教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果さないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思わないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分がもっている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。本は読書のたびに再創造されるということを学生に教えることは、数多くの困難な状況から首尾よく、また有益なしかたで脱する方法を彼らに教えることである。というのも、自分の知らないことについて巧みに語るすべを心得ているということは、書物の世界を超えて活かされうることだからである。言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。わけてももっとも重要なもの、すなわち創造の世界が開かれている。われわれが学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術にたいする感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受ける者を助け、彼らが作品にたいして十分な距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。(バイヤール2016:272-273)

 最後に、自分なりの思考を書いておきたい。それをとりあえず「アンソロジスト・メソッド」と名づけておく。ヒントは日曜読書会をいっしょにやっている池田隆英さん(岡山県立大学)の講義資料の作り方にあった。池田さんは学生に自分で作ったアンソロジーを配って、それについて解説するとのこと。原典を読ませて、そこから議論を立ち上げていくという。それは理想的だなあと思うが、日本語圏では適当なアンソロジーがとても少ないから、手作りせざるを得ないというところがマネできない。私は長めの引用でさえ苦手なのである。かといって、よくある「命題集」では、原典のコンテクストがつかめない。

 たとえばパスカルの『パンセ』を読了した人とは出会ったことがないが、それなりに語ることができるのは、いくつかの有名なフレーズが流通しているからだ。「人間は考える葦である」がそれである。しかし、これは何を言いたいのだろうか。やはり、これだけを抜き出してもパスカルの言いたいことは伝わらない。解釈は自由だが、素材はもう少し多い方がいいのではないか。それが書かれた断章は次のような文章である。

 人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも最も弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一滴の水でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いと言える。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない。

 だから、わたしたちの尊厳は、すべてこれ、考えることの中に存する。わたしたちはその考えるというところから立ち上がらなければならないのであり、わたしたちが満たす術を知らない空間や時間から立ち上がるのではないのだ。ゆえに、よく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ。(断章三四七)(パスカル2012:213)ブレーズ・パスカル『パスカル パンセ抄』鹿島茂編訳、飛鳥新社、二〇一二年。

「人間は考える葦である」というフレーズは、こうしてみると巧みに要約していると言えるが、断章を丸ごと読むと印象はかなり異なるのではないか。要するに「考えよ」と呼びかけているのである。この程度のまとまりがあれば、本全体を読んでいなくても、人類遺産としてのパスカルのメッセージの一部は伝わるのであり、次の局面を想像できるのではないだろうか。これがアンソロジーの美点であり、読まないで堂々と語る主体の創出基盤になるのである。

 単独で大著を書くのもいいが、同じ大著であれば思考に役立つパラグラフを集めたアンソロジーの方が有意義である。なぜならテクストが著者の思考から解放されているから。読者はそのパラグラフだけを読んで思考を始めることができるようにする方がいい。それだけのリソースはすでに人類は作り上げてきたのであり、日本の翻訳文化においてそれはいつでも利用可能になっているからである。池田さんが授業でやっているように、それを素材として池田さん自身が自由に思考を語ればいいし、学生たちがそれぞれに思考を語り合えばいいのである。その結晶が池田さんの来るべき論文や著作になったり、学生たちが自分の人生の中で思い起こして応用する局面が出来するのであれば、それは有益な財産となるはずである。

 逆に言うと、単独で大著(とまでは行かなくとも中規模の書き下ろし作品であっても)を書くためには、そういうプロセスが欠かせないのである。それを抜きにして一定水準の著作は書けないと思う。まして私の場合は理論研究のブランクが長いのだから、入学したての勤勉な大学院生のように、ひたすら文献を読んで書写して自分自身の思考のための教材づくりから着手しなければならない。

 お手本となるものは、学術的なものが少ないというだけで、じつはないわけではない。翻訳の場合、版権の許諾作業が必要なので、どうしても中堅大手出版社のものになる。

 そもそも文学全集はアンソロジーである。そういうブームもあったが、今は過去の話。背景には、もはや大部な作品は読まれないという事実がある。現代の大衆小説であれば大部なものはいくらでもあるが、海外の古典作品の翻訳となると相当ハードルが高くなる。昔からそうだったと言えなくもないが、とりわけ若い人が読書習慣から縁遠くなってしまい、物量をこなすことができなくなった事情が大きいと思う。そこで筑摩書房は、それまでの大全集主義を改めアンソロジーに力を入れた時期があった。文学では『ちくま文学の森』『新・ちくま文学の森』があり、その次に『ちくま哲学の森』シリーズ全八巻が編まれた。内容的には哲学者そのものより人生哲学的な教訓エッセイがほとんどを占める。高校生あたりをターゲットにした感じのものだが、編集力の高さを感じるシリーズである。これに似たのがポプラ社の「百年文庫」で、今これを手放したことを猛烈に後悔している。もうボックスは市場にない。先行する二冊の企画は残しておいた。『諸国物語』と『百年小説』がそれである。「百年文庫」はそのスピンオフになる。これらも文学アンソロジーである。こういうものは出版社にいる(あるいは委託された)アンソロジストへの信頼がないとセールスは成り立たないのだろう。著者名を手がかりにする多くの読書家の目にはとまらなかったのではないか。

 時代的には遡るが、人文社会科学全般に網をかけたのが平凡社の『現代人の思想』シリーズ全二十二巻である。これは全集と言ってもいいような陣容の内容だが、論争的な論文や著作の一部分が大量に収められていて、今や忘れられてしまった著者も多いのである。このうちの三冊が二〇〇〇年に記念復刻されているものの久しく絶版になっていて、平凡社ライブラリーにそっくりそのまま収録できないものかと思う。こういうものでゼミをやって議論すると面白いと思う。

 『世界の名著』シリーズもじつは抄録があって、そのうちのいくつかは中公文庫で全訳化されている。しかし、これは全集というべきだろう。よりアンソロジー的なのは講談社の『人類の知的遺産』シリーズである。全八十巻のうち何冊かは講談社学術文庫で文庫化されている。前半は伝記と著作解題で、後半がアンソロジーになっている。特筆すべきは東洋思想の巨匠にも十分に配慮しているところで、異例なものとしては「達磨」だけで一巻をなすという具合である。フッサールの巻などは学術文庫になっていて読みやすい。これも歴史講座ものと同様にシリーズとして文庫化するといいと思う。買うのは一冊であっても、シリーズの全体観を意識することが重要だと思う。

 じつは大学入試問題集いわゆる過去問集もアンソロジー的な性質を秘めている。現代文という科目の評論文というジャンルがそれである。試しに河合塾による『センター試験過去問レビュー国語』を買ってみた。過去問と解説とで計一八〇〇ページあって八八〇円という驚異の蓄積本だったが、センター試験国語の現代文の設問はすべて日本の著者であった。翻訳は一つもない。同じく駿台予備学校編『京大入試紹介25年現代文2019〜1995』も買ってみたが、ここでもすべて日本人著者である。しかし選り抜かれた文章ばかりで、たいていの場合、他の文献を解説するようなものになっているので、自説をこんこんと述べた大作家の文章ではない。たとえば京大2019年入試問題では、金森修がアガンベンや寺田寅彦の所説を説明している文章が出題されている。もちろん著者の属性にも配慮されるのであろうが、それとともに明晰であることと、何カ所か読み込みに工夫が必要な個所があることが出題の要件である。どこをどれだけ切り取るかは熟考を要する。

 日本語の哲学教科書としてよくできていると思ったのが、菅野盾樹編『現代哲学の基礎概念』大阪大学出版会、二〇〇八年である。引用された文章は基本的に原語の原典である。英独仏というところ。と言っても十行に満たない分量であれば解説付きで理解できる。かつての外書購読に較べるとたいした負担ではなかろう。

 こうして眺めてみると、アンソロジーは索引であり事典であり目録でもあるということだ。小さな図書館の役割を果たしてくれる。

 アンソロジーによって切り取られた原典・著作・論文は思考の道具である。道具でいいのである。踏み台と言ってもいい。これを「亜流」「低俗化」「にせもの」扱いするインテリが大部分であろうが、これまで詳細に検討してきたように、本は必ずしも全部読まなくていいのである。文化総体のテクストの中から切り取った断片をいくつか集めて自分が思考することこそ重要なことなのである。大部な著作を読み切ったところで、それは文化総体のテクストのごく一部分にすぎないということは変わりないのだから。こういう見切りが大事なのだ。その上で、デコーダー(あるいはそう言ってよければ創造的な読み手)としてより創造的な思考やテクストを産出することが大事なのである。そのさい私たち自身は一時的にテクストの奴隷であってもいいが、断じて図書館そのものである必要はないのだ。