1995年に出した本。副題は「社会学的リテラシー構築のためのレッスン」と言います。今やっていることも対して変わりませんね。2002年のソキウスのコンテンツをそのまま復元します。1冊全部丸ごとを1ページに収めました。

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
 http://socius.jp ソシオリウム【社会学の学習展示室】

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社会学の作法・初級編
引用文掲示
「いずれにせよ、『専門家の権力』や『専門的能力』の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社会学が専門家だけに任された専門的知識でなくてはならないとしたら、それは一時間の苦労にも値しないだろう。」
 ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』田原音和監訳(藤原書店一九九一年)七ページ。
「知識の探究者が一方では自己を知ること──つまり自分は誰であり何者でありどこにいるのかといったこと──と、他方では他者およびかれらの世界について知ることとは、同じひとつの過程のふたつの側面なのである。」
 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』栗原彬ほか訳(新曜社一九七五年)二一四ページ。
凡例
 「凡例」は「はんれい」と読む。本を読む上での約束ごとが提示される部分である。

 本書は本文(上段)と脚注(下段)から構成されている。脚注は補足説明と参考文献の提示にあてられている。そのさい、文献の表示については次のように統一した。

   著者『書名』訳者(出版社・刊行年)ページ。

 ただし、本書の性格から、文庫や新書などのシリーズものは出版社名のかわりにシリーズ名を表示し、刊行年もオリジナルの刊行年ではなく、シリーズとしての刊行年を表示した。

 なお、一般の作法に反することではあるが、出版社名と刊行年のあいだに入るべき読点を省略した。これは割付上の制約と美的評価を優先させた結果であるが、読点を略しても誤解の生じようがないと判断したからである。

 同じ章のなかで同じ文献をふたたび提示するときは、「同上書」「前掲書」と略記する。直前の文献と同じものであれば「同上書」を使い、すこし離れたところであれば著者名のあとに「前掲書」と表記する。したがって、「前掲書」とあれば、脚注をさかのぼって確認しなければならない。これは一般の作法に準じた処置である。なお、翻訳書の場合は「前掲訳書」になる。

はじめに――流儀をこえて
社会学教育の空白地帯
 本書が想定している読者は次のような方々である。それは、第一に社会学専攻の一・二年生、第二に文系・理科系を問わず一・二年生で一般教養(一般教育科目もしくは総合科目)の社会学を履修している方、そして第三に自主的な研究会や読書会などで社会学系の読み書きや討論を始めようとしている方である。要するに、何らかの縁あって社会学系の知識を学び始めた人に語りかけたいと思う。

 この方々が共通に直面するのは、おそらく次のような事態だろう。

 社会学系の知識の学習の特徴は、たんに暗記をしたり問題を解くといったことよりも、自分で調べてレポートを書いたりゼミで報告したりするといった自学自習的な作業が多いことである。まったくのしろうとであるはずの自分の意見を求められることも多い。試験も小論文形式である。それまで原稿用紙数枚の感想文を書くのにも苦労していたのに、そこではまがりなりにも学問的な知識に基づいた小論文を一時間あまりでまとめなければならない。概して大学の学習がこのようなものであるにしても、社会学はこの点でかなり徹底している。

 しかし、そうした要求をするからといって、学び始めた人に対して教員が「読み書き討論」の仕方を系統的に教えてくれるわけではない。何を読めばいいのか、どう書けばいいのか、いかに報告すればいいのか──かつて教員自身がそうであったように、自力で試行錯誤しろというわけである。

 ここで多くの人たちがとまどってしまう。それは当然のことだ。というのも、大学に入るまでにそうした教育とトレーニングをほとんど受けていないからである。あるいは、少科目入試に過剰適応する受験スタイルをとってしまうために「現代文」や「現代社会」を早々に捨て科目にしてしまう人が多く、日本語の読み書き能力自体が高校一年生程度にとどまっているためでもある。

 この場合、教員は学生を責めるわけにはいかないだろう。学生は受験制度に適応しただけであり、大学に入るまではそうせざるをえない立場だったのだから。他方、教員がレポートの書き方などを教えないのにも、それなりの事情がある。まず、個別指導をともなうためにたいへん面倒であることがあげられる。そして作文には流儀が存在し、ひとつの特定のスタイルを強要できないこと、あるいは強要するだけの自信がないこと。また、そんなことをすれば、学生の個性やオリジナリティを抑圧してしまうかもしれないおそれがあること。じっさいに読み書きについて指導するとなると、とてつもなく時間がかかり、授業時間がおしい。何より、多くの私立大学の一般教育課程がそうであるように、あまりに受講生が多すぎて、じっさいそれどころでないのである。こうして、ここが社会学教育の事実上の空白地帯となってきた。

 その結果、ごく初歩的なつまずきが両者に不信感を生んできた。たとえば「本を読んでまとめたのに評価が低いのはなぜ」と思う学生に対して、教員は「ビジネス書なんかでレポートにするなよなあ。きちんとした本を選ばなければダメ」と思っている。「なぜ著名な学者の本を苦労してまとめたのに評価してくれないのか」と学生は考えるのに対して、教員は「地の文と引用が区別されず、全体が剽窃(ひょうせつ)になっている」と考える。あるいは学生が「解答用紙いっぱいに自分の意見を書いたのに評価はD(不可)だった」と不満をもつのに対して、教員は「授業で教えた基本的な概念や理論をいっさい無視して、独断と偏見と思いつきを書き散らしといて、このどこが科学だ」と怒っていたりする。

 このような行きちがいはさまざまなレベルで生じるが、学び始めた人の場合によく見られるのは、今述べたような、広い意味での「学問の作法」に反しているケースである。わたしの見るところ、両者のコミュニケーション・ギャップは、社会学という学問の作法に関する両者の無為無策によって生じていることが多いと思う。そしてそれは、ほんの少しのアドバイスでかんたんに克服できることなのである。

学問の作法
 そもそも学問には四つの重要な要素がある。それは知識と思想と技法と作法である。このような要素の複合体を、科学社会学では「パラダイム」と呼ぶ。パラダイムとは、科学者集団が共有している思考の枠組みである。いわば「学界の常識」のことだ。天文学でいえば「天動説」と「地動説」はそれぞれ別のパラダイムである。

 さて、学問はそもそも「知識」である。「知識」はしかし中立的なものではない。どの「知識」にもかならず一定の「思想」が前提されている。あえて強調しておくが、その例外はない。経済学なら経済法則を認識してそれを利用して経済に破綻を起こさせないような操作方法を手に入れるために研究するのであり、自然科学なら自然現象を認識してそれを人間にとって有用な資源に変えることをめざして研究するのであり、医学なら人体を研究して病気を治したり健康をコントロールする技術を手に入れるために知識を深め拡張する。これはまぎれもなく「思想」である。そうした「思想」にもとづいて「知識」が生産されるのだが、そのさいの手続きが「技法」である。統制された実験方法・公正な観察・緻密な概念定義・首尾一貫した論理構成・数学的に破綻のないデータ処理など、それぞれの「知識」にふさわしい「技法」が対応させられている。

 さらに学問にはそれぞれ「作法」がある。「作法」とは、人と人とがかかわるさいの適切さの感覚である。学問もしくは科学は、自然物のように客観的に存在するものではない。それはあくまでも人びとの営みである。それに関心をもつ人びとのかかわりによって学問は存在する。特定の主題に対して、専門家たちが論文を書き、教壇で語り、学界で論争する。そうしたコミュニケーションの活動に他ならない。人びとのかかわりであるかぎり、そこには適切な「作法」が必要とされる。

 しかし「作法」は一種の不文律であるから、語られることはあっても、書かれることはそれほど多くない。わざわざ教えられるものというより、具体的な知識を教授するなかでにじみでるものであり、学生はそれを自然に学びとっていくべきものと考えられてきたからだろう。たしかに「作法」とは本来そういうものだ。しかし、教員側にとって自明である「作法」も、さしあたり「よそもの」である学び始めた人にとってそれは不可解なブラックボックスとして立ちはだかるのである。

社会学的生活へのイニシャル・ステップ
 本書の目標は社会学的生活への準備をすることだ。この場合「社会学的生活」とは社会学的知識に基づいた知的生活のことである。といっても、一般教育科目として「社会学」を履修した理科系学生なら週に九〇分ほどの社会学的生活であろうし、社会学科の学生でもせいぜい四年程度のことだろう。多くの学生にとってそれは人生のほんのひとこまのエピソードにすぎない。しかしこのわずかの時間で、ことによるとその後の人生そのものを大きく転回させるかもしれない可能性を社会学は秘めている。すなわち、その後の生活が社会学的な認識によって高度に反省的なものになり、さまざまな経験が自己理解と他者理解の触媒として相乗的に生かされるような生活態度を、社会学はそれを学ぶ人に引き起こすのである。本書は、社会学との出会いが読者の方々にとってこのような本格的な「社会学的生活」への離陸であってほしいとの願いを込めて企画されたものである。そのためには、いま読者の方々が直面しているわずかな時間の社会学的生活を、離陸するのに十分なほど充実したものにする必要があるからだ。

 とくに「読み書き討論」を中心とする主体的な知的作業は、それが社会学的生活にとって重要であるだけに、なるべく効率のよいものでなくてはならない。多くの教員が考えるようにたしかに試行錯誤こそたいせつであるが、じっさいにはたんなる迷子で終わってしまうケースがあまりに多い。ある程度まで──少なくとも初級編まで──は確実な出発地点を用意すべきなのだと思う。そのためには、系統的に語られることの少ない「社会学の作法」についてディスクロージャー(情報公開)が必要ではないだろうか。ときには社会学者自身も自覚していない、その「作法」の根幹にある「思想」を鮮明化することも必要であろう。これが本書の立場である。

 そもそも教育とは本来的に傲慢な行為である。それは教育者側もしくは専門家側の意図を押しつける。わたしたちはそうした押しつけがましさに対してときに反発を覚えるものの、しかし一方で、わたしたちの心と身体は、教育という権力にすっかり慣らされている。だから、社会学教育のように、教員が強権を発動せず、「自分でやってみなさい」という態度をとりつづけると、とたんにわたしたちは何をしていいかわからなくなってしまう。「何をしなければならないかを教えてほしい」というわけである。あるいは「もっとあれこれ細かく指示(指導)してくれ」ということにもなり、ともすれば「教員が何もしてくれない」と不満をもつことにもなりがちである。しかし、それは「社会学の作法」ではない。まずそれに気づくことから本格的な社会学的生活は始まるのだ。

 具体的な「知識」は膨大で、「技法」も奥が深い。しかし「作法」とそれを支える「思想」は比較的単純である。そこを足場にして、積極的に社会学に取り組んでほしい。たとえばあなたが社会学専攻でないとしても、縁あって「社会学」を受講する学生であるなら、あなたはもはや受験生ではないのだから科目を捨てる必要はない。できるだけ広く自分の知的世界を広げることだ。

流儀をこえて──社会学の立場
 本書が他の作文技術本や知的生産本とちがうところは、「どうあるべきか」の根拠を「世間の常識」や「大学の文化」に求めていないことだ。「世間の常識」なら「世間」によって「常識」も変わる。上流の「世間」と中間層の「世間」はずいぶんちがう。「大学の文化」も大学によって変わる。人文系・社会系・理学系・工学系・芸術系によって著しくちがう。国立か私立か、エリート養成校か大衆大学かのちがいも大きい。あるいは教員によっても大きく左右される。いわゆる「流儀」である。「流儀」は必然性をもたない、本来偶発的なものである。好みに左右されやすく、個人の経験や人脈や伝統に規定される。それはそれで意味のあることであり、格別それを否定しようとは思わないが、本書ではこのような「常識」「文化」「流儀」以外に作法の根拠を求めたいと思う。それはコミュニケーション論である。

 そもそも「作法」はコミュニケーションにかかわっている。それはコミュニケーションのルールであり文法である。社会学は、社会法則に関する何かしらの真理をさすものではなく、社会を主題とするコミュニケーションそのものだから、そこには独特の作法が生まれる。そのコミュニケーションの特徴は、ある理念的な社会空間を想定しておこなわれるところにある。その空間を「市民的公共圏」と呼ぶ。あるいは、もっとわかりやすくいえば「討議の世界」である。▼1そこでは、だれもが参加可能で、平等に発言することができ、個人は知識や見識によってのみ評価される。語られたことは真理性・誠実性・正当性においてきびしく吟味され討議される。その結果として、討議に参加した人びとにそれなりの共通了解をつくりだす。そのような民主主義的な社会空間はさしあたりフィクションといってよいが、あたかもそれがここにあるかのように社会学者はふるまおうとする。

▼1 「市民的公共圏」はユルゲン・ハバーマスの概念、「討議の世界」はジョージ・ハーバート・ミードの概念に準じている。なお、後者は「話想宇宙」と訳されている。ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。
 このような作法は、社会学のみならず、社会科学や人文科学にもある程度は共通するものであり、近代大学の理念の核もおおよそこのあたりにある。したがって、これから説明する「社会学の作法」はある程度まで「社会科学の作法」「人文学の作法」にも通じるものだ。その点では、社会学の隣接分野を学び始めた方にも参考にしていただけると思う。ただし、社会学はその営み自体をも理論的に対象化してしまうので、それは「世間の常識」や「大学の文化」に照らしてしばしば無作法なほど辛辣になることがある。それが社会学のいいところであり、同時に社会学の嫌われるところでもある。

 ということで、本書では、社会学者の態度は基本的に「市民的公共圏」もしくは「討議の世界」に立っていると想定して議論を進めてゆくことにしよう。その意味で本書は「コミュニケーション論の立場」に立つことになる。このことは次のようなことも意味する。それは現状の「作法」を追認するだけにとどまらず、ときにはそれを批判的に捉え返すこともありうるということである。社会学者自身も社会学教育においてはこれまで必ずしも社会学的ではなかったからだ。また「コミュニケーション論の立場」に立つのは、わたし自身の経験不足や見聞不足による欠落が本書の大きな障害になるのを防止するためでもある。

 しかし、このような立場もひとつの「流儀」と見なされるかもしれない。特定の「流儀」から見れば、他のやり方はすべて「流儀」に見えるものだ。たしかに「中級編」や「上級編」はもはや高度に流儀の世界としてしか語りえないものになっているから、おそらくこれは「初級編」だから可能なことかもしれない。

 わたしは、いつも教えている一年か二年の学生をたえず念頭において書いた。したがってこの人たちにとって敷居の高いことは──たとえ社会学者から見てかなり初歩的なことであっても──省略し、逆にマス・メディアやパソコンの章のように、今どきの学生にとってそれほどの飛躍を要しないことについては若干踏み込むこともしてある。つまり学生の先有傾向から出発するという意味での「初級編」ということであって、社会学研究の要求水準としての「初級編」ではない。

 社会学の作法にはそれなりの理屈がある。この理屈がわかれば、おそらく何をしようと「無作法」にはならない。作法にさえかなうならば、あなたが何をしても、教員はあなたを「未熟なだけ」と見なして教育的配慮のもとにそれなりに対等なコミュニケーションをしてくれるだろう。本書をマニュアルとして読んでいただいてかまわないのだが、できればその背景にある社会学的な思想を見届けていただければ幸いである。

 いずれにせよ、わたしは、当時学ぶ意欲だけはあったが何を手にとっていいかさえ見当がまったくつかなかった大学一年生のわたしが欲しかった本を書こうと思う。教員としてというよりは、「社会学を学び始めたとき、ああしとけばよかった」と悔やむ者のひとりとして、そのころのとまどいをまだ忘れていない先輩のひとりとして……。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
一 社会の研究とはどういうことか
社会学の特徴
 まずこの章では、社会学を学ぶことが、なぜ自学自習な知的作業をともなうのかについて考えてみよう。ここをしっかり押さえておかないと、「結論だけわかればよい」とか「教科書は絶対だ」とか「処方箋だけを手っ取り早く教えてくれ」といった態度で社会学に臨むことになりがちである。こういう態度のどこが悪いんだと思うかもしれないが、じつはあまり社会学的とはいえないのだ。

 そもそも社会学は社会現象を研究する経験的な理論科学である。すなわち社会学は第一に人びとの営みから構成される社会現象を研究対象とする科学であり(社会科学)、第二に理論形成を目的とする科学であり(理論科学)、第三に複数の人たちによって経験的に確認できるデータに基づいてその理論が形成され評価されるような科学である(経験科学)。社会科学であると同時に理論科学であり経験科学であろうとする社会学は、自然現象をあたかも書物のようにすでに定まったものと考えて済ます自然科学などとちがって、一種独特の特質を帯びる。それは、研究する側と研究される側とが基本的に同じだということに起因する。

 現代の社会学者アンソニー・ギデンスは「『研究領域』に対して主体-客体の関係ではなく主体-主体の関係にある」ことが社会学の基本性格を規定していると述べている。▼1極端ないい方をすると、社会学の研究者が社会について語ることは自分自身を語ることになるのだ。これを「自己言及性」という。

▼1 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)二一一ページ。
 たとえば「日本人の宗教に対する態度は多神教的であり、しかも自分自身の宗教行動を宗教と見なさない傾向がある」といえば、語る人も語られた人も「自分はどうだろう」と意識せざるをえないし、「では、おまえはどうなんだ」という気持ちにもなる。「家族内の性別役割分担は、共働きが過半数をこえた現代にあってはもはや克服されるべき課題である」と男性社会学者がいえば、「じゃあ、お宅の今日の夕食はだれがつくるの?」と聞きたくなる。およそ自己言及性とはこのようなことであって、それは一種のパラドックス(逆説)を引き寄せるのである。

自己言及性
 社会学の自己言及性についてもう少し細かく見ると、ほぼ四つの論点に分けることができる。  第一に、社会という研究対象は、そのなかで生きる人びとによってすでに解釈された世界であるということだ。▼2社会学は、人びとによってあらかじめ解釈された世界を事後的に解釈し直す営みである。ということは、社会学者が人びとに語る前に、人びとの頭のなかにはすでにそれなりの答が存在するということである。だから社会学的説明に対して「そんなこと、とっくに知ってるよ」と一般の人びとは思ってしまうか、あるいは社会学者が常識や俗説を否定する見解をいおうものなら、感情的な反発がさきに立ってしまうことがある。つまり、社会学的知識は、語る側にも聴く側にも、自分自身の知識の点検を──あるいは保守を──迫るのである。

▼2 同上書、二一一ページ。
 第二に、研究対象である社会に、研究する人自身もふくまれているから、社会について公正に観察したり考えたりすることがとてもむずかしいということだ。ふつう人は自分の経験や立場から社会を見ることに慣れていて、なかなかその制約に気づかない。しかし、自分の立場・位置・キャリアなどによって社会はさまざまなヴァリエーションをもって立ち現われるはずである。たとえば医療という社会領域を医者の視点から見るのと患者の視点から見るのとでは大ちがいである。さらに病院理事会の視点からとなるとまた大きく異なる。ジャーナリズム活動にしてもメディア内部から見るのと受け手側から見るのとでは印象は大きく異なる。教育についても文部省・教育委員会・校長・教員・生徒・親・塾などの立場によってさまざまな姿を現わす。まして宗教現象となると、信じる人と信じない人とでまったく異なる認識が生じてしまう。このように社会という現象は、何にもまして公正に測定・観察・調査・思考することがむずかしいし、それを見る目そのものが問われやすい。だから社会学者がどんなに周到かつ慎重に調査した結果であっても、受け取る側は素朴なイデオロギー論によって感情的に解釈し直してしまうことがある。たとえば「評論家や学者はそういうけれども……」「現場にいないからいえるんだ」といったぐあいに。

 第三は、研究自体が、研究対象である社会そのものを変えてしまう可能性をもつということだ。これは社会学で「予言の自己成就」と呼ぶ現象のひとつの現われである。▼3「予言の自己成就」というのは、予言することによって予言された事態が現実のものになるという社会的メカニズムのことである。短いタイムスパンでいえば、たとえば「巷で今○○がウケてます」式のパブリシティがさかんにくりかえされることによって、○○がほんとうに流行するといったことだ。長いタイムスパンでいえば、たとえば「家族とはこういうものだ」という人びとの知識がそういう家族を現実に生みだし、そうでない家族を「ふつう」でないと決めつけてゆくことによって、そうでない家族は「ふつう」でなくなってしまう。あるいはまた、真夏のネクタイ・スーツ姿のように、まったく非合理的な慣習であっても、企業社会においてそれが常識になっているかぎり、クーラーは必需品になり、スーツ姿でないと寒くてやってられなくなる。このように、社会のなかで人びとの知識が現実となって循環する。社会学の研究もこうした循環のなかで作用することになる。

▼3 この概念はロバート・K・マートンに由来する。R・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾・金沢実・森好夫・中島竜太郎訳(みすず書房一九六一年)所収の論文「予言の自己成就」参照。もちろん「自己成就」の場合だけではなく「自己破壊」のケースもある。
 第四に、人はだれもが実践的な社会理論家でありうるということだ。▼4もちろん〈職業としての社会学者〉は存在する。かれらは大学や研究所に勤務し、仕事として社会調査や理論研究そして社会学教育をおこなっている。当然かれらは専門家である。しかし、社会学者だけが社会学の主体(責任ある担い手)ではない。社会に生きる人は多かれ少なかれ自分の社会について考察し、人生の節目には自己反省を強いられる。それは一種の社会学的実践である。したがって、社会学者と人びととのあいだにちがいがあるとすれば、おそらく知識の質的な断絶ではなく、理論的な反省をする意欲の高さと頻度の多さの差であり、それを論争的検証の場へもちこむことであろう。その意味でいうと、社会学はもともと市民に開放された知識なのである。

▼4 ギデンス、前掲訳書、二七六ページ。
 このような自己言及性は社会学の長所でもあり独自の困難でもあった。社会学史は、この長所を生かし困難を克服しようとする社会学者たちの思考の軌跡である。そのなかでさまざまな技法や理論や概念などが考案されてきた。たとえば厳密な数学的処理・膨大な資料の操作・精緻な概念定義・洗練された理論構成などによって、だれもが納得できるような知識を提示することが求められる。これらの手続きは一見すると学者たちの儀礼的行為に見えるかもしれないが、自己言及のパラドックスをなるべく小さくするために必要な特別の〈コミュニケーションのルール〉なのである。

反省のことば
 社会学は「ことば」である。「ことば」以外に社会学はない。しかも、社会学のことばは「反省のことば」である。それは、わたしたちの生活や社会制度そしてわたしたち自身を、その〈内部から〉透視しようと試みる。〈内部から〉であるために、それは高度に知的な能力と感受性のたえざる洗練を要請するとともに、厳密に公正な相互検証を必要とする。この相互検証は統制されたコミュニケーションの過程でなければならない。そうでないと、たんなる主観的発言の連鎖反応になってしまうおそれがあるからだ。それでは自己言及のパラドックスがただちに悪循環に入ってしまうのだ。▼5それゆえ、社会学の作法、すなわち〈反省的コミュニケーションのルール〉を自分のものにすることが、社会学を学ぶさいの重要なポイントになるのである。社会学において「読み書き討論」が重視されるのは、これを実践的に獲得するためである。

▼5 たとえば「おまえはどうなんだ」「おまえは○○だからそういうんだ」の応酬で終わってしまう。
 つまり、社会学を学ぶさい重要なのは、社会学の「反省のことば」をすでに自分のなかにあるさまざまな「ことば」とたえず突きあわせることなのである。子どもが大人のことばを自分のことばに試行錯誤的に組み込んでゆくプロセスと同じプロセスが必要となるわけである。だから講義を聴くだけでは不十分なのだ。何はともあれ使ってみなければ。▼6

▼6 発達心理学者の岡本夏木によると、子どもがことばを獲得してゆく過程は機械的なものではなく、子ども自身の能動的な活動によるところに特徴があるという。「子どもは周囲の人びとから無数に投げかけられることばのなかで育つ。しかし子どもが話すようになっていく過程は、オウムがことばをおぼえていくような過程とは異なる。外からの刺激としてのことばを、そのまま機械的に写しとっていくのでなく、自分の活動をとおし、選択的に自主的に使いはじめるのである。子どもの初期のことばは、形態はおとなのそれに類似したものを用いていても、その意味内容はきわめて個性的であり、文法規則なども自己流にルールを作り出し、みずから試作的にそれを適用していく場合もめずらしくはない。こうした自己活動をとおした取り入れ過程が基底にあるからこそ、子どもは、その後の生活にあって、『自分のことば』をさまざまなかたちで用いながら、自分の創造的なことばの世界をひらいていくことができるのである。」岡本夏木『子どもとことば』(岩波新書一九八二年)五-六ページ。同じことが社会学の「反省のことば」にもいえるのではないだろうか。なお、このあたりについては社会学ではミードの本が基本文献である。ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。
 以上のような理由から、社会学ではたえず「自分がそれについてどう考え、どう行動してきたか」が問われることになる。レポートでもゼミ報告でも論文試験でも。したがって、いわゆる「自分の意見」「個人的体験」は排除されないばかりか、しばしば尊重される。しかし、それをそっくり肯定するわけではない。むしろ否定的なニュアンスで評価することの方が多いはずである。要するに社会学は「反省的評価」(reflexive monitoring)を要求しているのである。▼7この点は自然科学や経済学などとの大きなちがいであり、また「模範的な」学校教育にありがちな「個性」重視ともちがう点である。すなわち、自分とのかかわりを重視する点で、社会学は、「客観性」を重んじて観察主体の問題を厳しく排除する自然科学や経済学などと根本的に作法が異なる。しかも「個性的」なものなら何でも肯定する「模範的な」学校教育の作法とも大きく異なる。社会学者が暗黙のうちに作法の原理としているのは「反省」なのである。これを踏み外すと、高い評価は受けられないはずである。

▼7 ギデンス、前掲訳書、二七六-二七七ページ。
 だから評価も出席や温情でなくことばによってのみなされる。出席はことばではない。出席をとろうとしない社会学者が多いのはこのためである(出席をとる社会学者も諸般の事情で仕方なくとっているものだ)。ただ、社会学のことばと接するチャンスが多ければ多いほど、そしてそれを反省のことばとして主体的に捉え返していくほど、自由かつ明晰に社会学のことばをコントロールできるようになることが期待できるから、そうした場に自発的に「参加」することはたいせつである。たとえば、講義を聴く・テキストを読む・参考文献を読みまくる・レポートを書く・ゼミで討議する……。刺激が多ければおのずと反応も多くなる。受け売りから始まるにせよ、こうした参加経験の積み上げがあると、人に語りたくなるものだ。ニュースを見ていてブツブツいうもよし。家族にウンチクをたれるもよし。酒場で議論するのもよし。語る自分に影響を受け、語る自分にものたりなさを覚え、そこから次のステップが生まれる。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
二 読書の作法――何をどう読むか
どう読むか
 大学に入る直前のことだ。古本屋で買った『講座社会学』というシリーズを読み始めたことがあった。若気のいたりというやつで、全巻読破の野望を抱いていたのだが、何度同じ箇所を読んでも意味がわからず、たいへん苦労した思い出がある(結局、第二巻の途中で挫折)。今にして思えば、それはすこぶる無謀な行為だったのだが、その苦労は最近でもハバーマスやブルデューを読むときに精神修養として役立っているといえなくもない。しかし、大方の人はそれでいやになってしまうのではなかろうか。

 最近でも課題図書として古典を読まされることが多い実情があるが、たいていのビギナーは奥深い迷路にはまったような気分になってしまう。たしかに古典はぜひ読まなければならないが、それはおそらく中級レベルである。その前にやっておかなければならない初級レベルがあるのだ。それなしにいきなり中級レベルのものを読もうとするから挫折するのである。では、そうした課題をだす教員が悪いのかというと、そうとばかりはいえない。初級レベルは本来自分で自発的にしておくべきものだからだ。つまり、たとえば古典や専門書を読む課題がでる前に、とりあえず自分が読めるやさしい本を自発的に読みこなし、そのなかで「読書する快楽」をからだに覚えさせておく必要がある。これが読書に関する初級編の作法である。

 結論からいうと、めちゃくちゃに多量の本を読み飛ばすのが、この分野に精通するコツである。線を引いて読んではいけない。読めないと思ったら別の本にする。今は読めない本も、いつか読める日がきっとくると信じて……。

 まずはハンディかつ安価な本を手当りしだいに読んでみよう。勢いをつけることがたいせつだ。さしあたり、やさしいもの・すでに少し知っている問題・好奇心をそそるテーマに身をゆだねよう。「私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい」と加藤周一はいっている。▼1学生時代は多少の背伸びをするようでないと見込みはないが、それでも自分の関心から出発するのは正しい。

▼1 加藤周一『頭の回転をよくする読書術』(光文社カッパブックス一九六二年)二一一ページ。これはマスコミ論の限定効果説いうところの「先有傾向」に見合う指摘だ。先有傾向とは、メディア接触する以前の受け手の考え方や態度のこと。なおこの本は『読書術』(同時代ライブラリー一九九三年)として岩波書店から再刊されている。こちらの版では二〇三ページ。ちなみにここで「むずかしい本」として加藤が挙げているのは著名な社会学者タルコット・パーソンズの本である。
まず何を読むか
 本さえ読めばいいというものではない。本の選択は重要である。

 大まかな目安を示そう。近づきやすさの点からいうと次の順序で読み始めるのが無難である。

(1)ノンフィクション系(ジャーナリストが書いたルポルタージュや社会問題についての一般書)
(2)日本の社会学者の入門書・一般書・新書など
(3)日本の社会学者の研究書
(4)社会学の翻訳書(古典や欧米社会学者の著作)

 このうち(1)(2)あたりがほぼ初級編にあたるのではなかろうか。自力でこなしておくべき領域である。では、なぜ社会学を学ぶのに社会学の専門書や古典から入ることを勧めないのかというと、それはビギナーにとっては「社会」の具体的イメージをつかむことがたいせつだからだ。とりわけ社会問題を具体的に知ること。これが貧困であると、どんな理論もどんな古典もあなたのなかでは抽象的にしか響かない。だからおもしろくないということになってしまいがちである。まず「素材」を知る。分析や理論はあとでよいのである。たとえば、自殺未遂の経験者か、友人の自殺を経験している人でないかぎり、「社会現象としての自殺」といった論点でデュルケムの『自殺論』を読むよりは、たとえば吉岡忍の『死よりも遠くへ』を読む方がはるかに実感がわくはずである。その方が結局『自殺論』を読んでみたくもなるのではないだろうか。

 まず安くてハンディな本から始めよう。ほんとうはこういった本は、オリジナルの論文や単行本(親本という)にくらべると、あきらかに鮮度が落ちているのだが、それでもテレビや新聞や雑誌や世間話にはでてこない事実がいっぱい語られている。その意味で本は現在でも先端的なメディアであることを強調しておきたい。だから社会学の場合「本を読め」というのは、古めかしい伝統に身を浸すことではなく、むしろありきたりのメディアの型通りに語りつくされた陳腐な知識を脱ぎ捨てることなのだ。

 この種の本のなかで鮮度が比較的いいのは新書である。岩波新書・中公新書・講談社現代新書が代表的なもの。ちくま新書も刊行され始めた。学び始めた人にとってなじみやすいのは講談社現代新書だ。ここから始めてみよう。それでも重く感じたら思いきって岩波ジュニア新書を読み飛ばしてみよう。ここにもけっこうよい本がある。岩波新書や中公新書にはその分野のスタンダードになっているものが多いので、調べものをするときやテーマがはっきりしているときは、ここから始めると効率がよい。また新刊であれば興味をもてる現代的テーマにも出会えるだろう。

 次に文庫。文庫が古典中心から現代ものに移行して久しい。おかげで社会系ノンフィクションも次つぎに文庫化されるようになった。この分野で点数が多いのは講談社文庫である。すべてがそうではないようだが、グリーンの背表紙がノンフィクションである。朝日文庫もほぼ全編がノンフィクションだ。とくに本多勝一のものは読んでおきたい。また、ノンフィクションについては、ちくま文庫・ちくま学芸文庫・現代教養文庫などが近年力を入れている。

 そして忘れてならないのが双書である。NHKブックス・別冊宝島・ちくまライブラリー・岩波ブックレットなどがある。NHKブックスは安くしかも社会学系が多いので注目しておこう。別冊宝島はムック(雑誌と本の中間)の代表的存在。雑誌の文体なので読みやすく、その徹底的なフィールドワーク▼2とテーマの選択が秀逸である。一方、ちくまライブラリーは点数はまだ少ないものの先端的な文化論を読むことができる。これらが量的に重いと感じる方は、岩波ブックレットの連鎖読みに挑戦してみよう。薄く広く知るには便利なテキスト(パンフレット)である。すぐ読めるので勢いがつくし、充実感も味わえる。学び始めの段階では、無理して一冊の本にてこずっているより、この方が発展的である。

▼2 フィールドワークとはもともと野外調査のこと。ここでは現場や当事者たちに対する直接的な取材のこと。
 この他にも最近は平凡社・岩波・小学館がND判という判型のシリーズを始めた。文庫本よりちょっと大きくB6より小さいサイズだ。これらは「○○ライブラリー」と呼ばれ、もっぱら学術系だ。文庫ほどではないにせよ、高価な学術書が安く書棚に常備される点では歓迎できる。まだ社会学系は少数だが、今後に期待したい。

 いずれにせよ本の世界には一種の「知の連鎖」があり、その連鎖に乗ると次つぎに読みたい本がでてくるようになる。だから自分なりの連鎖を見つけられたらこっちのものである。たとえば、同じ著者の本を全部読んでしまうとか、同じテーマの本を全部読んでしまうとか、同じシリーズを追求してみるといったように。そして勢いに乗ったら、その周辺の領域の本に少しずつ手を広げてゆくのである。「社会学以前」ともいうべきこの段階が、自分のなかにさまざまな「ひっかかり」をこしらえてゆくことになる。この「ひっかかり」があなたを敏感にするのだ。

 なお、わたしが一般教育の社会学などの講義で最近課題に指定した図書の実例を別表に示しておく(六〇-六二ページ)。「推薦図書」というにはまったく不完全なリストだが、参考にしていただきたい。

なぜ読むのか
 社会学の勉強をするのに、なぜ講義を聴いたり教科書を暗記するだけでは不十分なのか。そしてまた、なぜ本を読まなければならないのか。

 それは第一に、社会のできごとを知りその分析をしなければならないとの動機をもつためだ。これは一般に「問題関心」とか「問題意識」と呼ばれている。「べつにそれでいいんじゃないの」では社会学は始まらないのだ。この問題関心は基本的には社会経験から生まれる。たとえば差別の経験のある人は差別現象全体に対して高い感受性をもつ。企業で苦労してきた人は組織の問題に強い関心をもつ。家庭内のもめごとに翻弄されてきた人には家族問題は切実である。たとえば、通信教育のスクーリングや看護学校のように、さまざまな年齢の人たちが混在しているところでわたしが教えた経験では、六〇代以上の男性や二〇代後半以上の女性となると講義に対する反応がちがってくる。なぜか。それはかれらが社会の不公正さや非合理性をその社会経験を通じて身に染みているからであり、怒涛のように自分を襲ったさまざまの社会的な力のもつれを社会学が分析的に解きほどくからだと思う。社会学を学ぶには、ある程度自分の感受性を高めておくことが必要なのだ。

 その意味でいうと、高校を卒業して一年か二年の若者は、社会学を学ぶには早すぎるのだろう。社会学は大人の学問である。学ぶ人の成熟を問う。だから一般教育課程の社会学は、マイナスもルートも知らない小学生に複素数を教えるのと同じようなものになっている。教育において「過剰」は「無」に等しい。ものごとには順序があるのだ。だからこそ「社会学以前」が重要なのである。ルポルタージュなどによって、できごとの具体的事実を知り、現場のディテール(細部)を知り、自分とは縁のない他人の痛みや思いを知る。それは代理体験にはちがいないが、これも一種の社会経験として機能するはずである。それらがあなたに問題関心を呼び起こし、あなたを敏感にし、そしてあなたに知的個性をつくりあげる。

 しばしば誤解されていることだが、個性はその人にもともと備わっているものではない。個性とは周囲とのコミュニケーションの反応として現象するものなのだ。さまざまな人や自然との出会いがあり、その反応として個性が形成される。知的個性もまた、さまざまな知識との出会いがあって、その反応として形成されるのだ。ところが、わたしたちの社会には、流通しやすい知識とそうでない知識とがある。政治的であれ経済的であれ権力をもつ者が人びとに伝えたいと思うような知識は流通しやすい。逆に少数派の人びとの生活や考えに関する知識は流通しにくい。とくに自分が能動的にアクセスしないかぎり、わたしたちの視野に入ってくる知識は流通しやすい知識である。だから、もっぱら流通しやすい知識との出会いだけであれば、それなりの凡庸な知性しか形成されない。凡庸さを否定するつもりはないが、しかしひとついえることは、そのような凡庸さからは社会学の世界を楽しむことはできないということだ。

 本を読むしかない。その反応としての個性的な問いが自分のなかにでてくるのを確認するために。

図書館を歩く
 まず足を運ぶべき場所は図書館である。大学図書館であれ公立図書館であれ、図書館は基本的にタダである。この経済的な条件は何にもまして代えがたい。それに図書館には歴史がある。たしかに書店で現在はわかる。しかし過去はわからない。

 学生の場合、利用しやすいのは大学図書館である。それを自由に使えるのは、日本社会のなかではむしろ特権といってもよい。とくに社会学系の学部のある大学の図書館を使える場合は多言を要すまい。しかし、それはごく一部の人にとどまるだろう。

 大きな大学の場合でも、キャンパスが分かれていることがある。その場合、キャンパスにあるのは学部図書館である。専門図書館とか学部図書館というと聞こえはよいが、裏を返すと専門外の図書がほとんどないということだ。また、新設大学や新設学部・新設大学院を抱える大学図書館の場合は、設置基準との関係で揃えなければならない図書によって予算の大半がなくなってしまったり、一部の担当教員の専門図書ばかり(洋書や資料の類い)が優先されるという現状がある。そのような場合、学生が読みたい本、読まなければならない本が、大学図書館の場合かえって購入できないという皮肉な事態もしばしば見られる。とくに私立大学の場合は、もともと予算枠が厳しく限定されているために、こうなりがちである。▼3

▼3 通常、図書館員は大学スタッフのなかでもっともサービス精神に充ちあふれている人たちだ。しかし図書館の運営はもっと上層の人たちによって決められ、当然、予算によってかれらのサービスも限定される。学生のリクエストを優先したり、司書が教育的配慮のもとに独自に選定したりといったことがなかなかできない事情がある。その結果、大学図書館には、わかりやすい一般向けの本がないことが多い。
 だから「社会学以前」の段階では、むしろ近くの公立図書館の方を勧めたい。一般向けの本がよくそろっているはずだし、本を借りても近所だから返しやすいというメリットもある。大学図書館のように専門家の配慮が優先されず、市民のリクエストによって蔵書の収集がおこなわれる公立図書館を見直したい。リクエストを尊重して新規購入してくれたり、それぞれの地域ネットワークで他の図書館からとりよせてくれたりと、最近の公立図書館はサービスもよいし、新刊書の購入も早い。じっさい、週に一度はこうした図書館に顔をだすようでなければ社会学はわからないといっておこう。

社会学の場所
 社会学系の本や「社会学以前」の本はどこにあるのだろう。図書館をぶらぶら歩くときチェックすべき場所について説明しておこう。なお、指定された資料の探し方については第四章で述べることにしたい。

 国立国会図書館をのぞく一般の図書館は原則的にNDC(日本十進分類法)によって分類されている。▼4NDCは知識の全体を1と見立てて、それを十区分して分類する方法である。たとえば社会心理学は0.3614となるが、便宜的に361.4と表わす。以下すべてこのように書くことにする。NDCの上一桁(百番台)は次のようになっている。

▼4 もり・きよし原編『日本十進分類法(新訂八版)』(社団法人日本図書館協会分類委員会一九七八年)。この分類法の実際的運用については、鮎澤修・芦屋清『資料分類法(現代図書館学講座4)』(東京書籍一九八四年)を参照した。
0 総記
1 哲学
2 歴史・地理
3 社会科学
4 自然科学
5 技術
6 産業
7 芸術
8 言語
9 文学

 なお、「総記」とは細かく分類できないものという位置づけであり、事実上「その他」と考えてよい。NDCの〇はどの桁にあってもそのような意味である。

 さて、社会学は社会科学の一分野であるから300番台である。360番台が「社会」であり、さらに361が「社会学」だ。基本的にここが社会学の場所である。「社会学」361の内部は次のように区分されている。

361  社会学総記
361.1 社会哲学
361.2 社会学史(国別に配列)
361.3 社会関係・社会過程
361.4 社会心理学・パーソナリティ(国民性・パニック・群衆心理・世論など)
361.5 文化・文化社会学
361.6 社会集団(組織・世代など)
361.7 地域社会・人間生態学(農村・都市など)
361.8 社会的成層(階級・階層・身分・社会的地位・同和問題など)
361.9 社会測定・社会調査・社会統計

 これで終われば話はかんたんだ。ふつう工学の本は工学のところにあり、法学の本は法学のところにある。しかし社会学はふつうでもそうではないのだ。たしかに「社会学」は361にある。しかし、社会学からみて不幸なことだが、NDCの分類規定には、研究対象の特定されている特殊社会学(連字符社会学ともいう)はそれぞれの主題の下に収めるとの原則がある。たとえば宗教社会学は宗教学・宗教思想のなかにあり、法社会学は法学・法哲学のなかにある。したがって「○○社会学」については「○○」のところに行かなければならない。361以外のそのおもな場所(分類記号)を示そう。

宗教社会学 161.3 
法社会学 321.3 
産業社会学・労働社会学 366.9
家族社会学・フェミニズム・女性学・老年社会学 367
社会病理学 368
社会福祉 369
教育社会学 371.3
科学社会学 401と402
医療社会学 490
公害問題 493と519
芸術社会学 701.3
音楽社会学 760.13
言語社会学 801.03

 また社会理論と呼ばれる領域は他の多くの分野と連接しているために、002の「知識・学問一般」や116.5の「科学方法論」あるいは301の「理論・方法論」におかれていることがある。社会学の巨匠ゲオルク・ジンメルは134のドイツ・オーストリア哲学にあり、現代の代表的な社会学者ユルゲン・ハバーマス(「ハーバーマス」とも表記される)も100の哲学に分散していることがある。代表的な社会学者マックス・ウェーバーの原典や研究書は332.06の近代経済史・資本主義あたりにも集中している。日本では経済史の分野でウェーバー研究が盛んだったからである。ちなみにそこでは「ウ゛ェーバー」と表記されることが多い。

 現代文化論(文化社会学)やマスコミ論となると、分散度は高い。もちろん「社会心理学」361.4あたりに集中しているはずだが、「社会学」の棚だけをみて「うちの図書館はダメだなあ」と嘆く前に次の棚も確認しておく必要がある。

情報科学(コミュニケーション論・情報と社会・情報産業など) 007
ジャーナリズム 070
文化事情(日本)302.1
論文・評論・雑著 304
若者文化(児童・青少年問題) 367.6
広告・宣伝 674
放送事業(テレビ・ラジオ) 699

 また都市社会学は361.78にあるが、都市問題となると318の「地方自治」や518の「都市工学」あたりもチェックしておきたい。同じ地域研究でもグローバルなレベルになると、国際関係論や国際政治学だけでなく316の「国家と個人・宗教・民族」も見なければならない。

 要するにNDCではテーマ優先であって方法優先や理論優先ではないわけだ。したがってテーマの分散している社会学書はテーマ先に分散配置されることになる。ここに社会学の本探しのむずかしさがある。なお「社会学以前」の読み物として勧めたルポルタージュやノンフィクション作品もたいていテーマ先にあるが、テーマがひとつでないものなどは916におかれている。またNDCによると双書・文庫・新書などのシリーズは基本的に単行本と同様に分類されるべきとされているが、じっさいには一括して080あたりに並べられることが多い。だから社会学関連の場所を探すだけでは、とんでもなくポピュラーな本を見失うことになりがちだ。

 書店を歩くときも、図書館の場合と同じように、社会学のコーナーだけでは不十分である。書店における社会学コーナーの定義は図書館よりもはるかに狭く、そのわりに行き場のないノンジャンルな本が集まっているものだ。「社会」「現代思想」「哲学」「人類学」「民俗学」「文化」もまわってみよう。家族社会学のようにテーマやフィールドのはっきりしたいわゆる特殊社会学(連字符社会学)なら、「家族」「教育」「宗教」「政治」「法」「女性」「マスコミ」「広告」「都市」「差別」などのコーナーを回ってみなければならない。

学術書特有のアイテム
 いわゆるノンフィクションやルポルタージュといわれるもの、そして新書などは、他の本とそう変わっているところはないが、社会学の専門書となるとそうはいかない。学術書であれば、そこにはふつうの本に見られないものがついている。注・索引・文献目録である。これらのアイテムが付属していることによって学術書はたんに読むだけでなく自由に利用することができるようになっている。これらのアイテムについて説明しておこう。

 注には、本文の説明不足を補うための注と、引用したり参照した文献を示す注とがある。前者は、本文の流れにとって枝葉に当たるが、どうしても確認しておきたいことがらを書いたものであり、補足説明だからそれほど気に止める必要はない。注意しなければならないのは後者の「文献注」だ。これは研究者が引用した文献や参照した文献あるいは読者に参照してもらいたい文献のデータを提示したものである。たとえば次のように–

 (1)野村一夫『社会学の作法・初級編』文化書房博文社、一九九五年、四五ページ。
 (2)同上書、一〇三ページ。
 ……
 (7)野村一夫、前掲書、七八ページ。

 注(2)の「同上書」は直前の(1)の本をさす。また注(7)の「前掲書」も(1)の本をさしている。注のつけ方にはいくつかの流儀があるので一様に説明できないが、ここだけでも押さえておけば読むのに困らないだろう。ただ、もうひとつの有力なやり方として次のような略式のものも増えている。

 [野村一夫(1995)45]

あるいは

 [野村一夫,1995:45]

 このような場合、本や論文の詳しいデータは後ろの参考文献一覧に一括されている。このケースは、野村一夫の一九九五年の著作の四五ページを指定している。

 次に索引について。索引は自由な検索性を提供する。索引があれば、その本は一種の小事典として活用できるわけで、じっさいに読まなくても「使える本」になる。わたしの師匠にあたる先生は「索引のない本は研究書と認めない」といわれていたほどで、それは極論のようではあるが、「読者に勝手に検索されても大丈夫」との品質保証の側面もある。じっさい、本を仕立てるときに索引は見事にアラを示してくれる。だから著者や出版社は索引をつけるのをいやがるものだ。しかし読者には重宝な「もうひとつの目次」である。

 最後に文献目録や参考文献一覧について。参考文献は注と密接につながっている。詳しい注はそれ自体が文献目録であり、略式の注は参考文献一覧と一体で機能する。注のない文献ではしばしば参考文献一覧が注の代わりになっている。それをたどることで、わたしたちは「知の連鎖」のなかに入り込むことができる。つまり、それは次にあなたが読む本のリストでもあるのだ。

 本格的な社会学書はむずかしい。だから、学び始めからそれらをスラスラと読むことはできないかもしれない。でも、それなりに利用することはできる。教科書の注や参考文献を見ると、それぞれのテーマについて、古典的な文献はどれか、最近の主流になっている考え方が示されている文献はどれか、代表的な事例にはどんなものがあるか、突っ込んで調べるときにはどの学者の文献を読めばよいか……などを読み取ることができる。索引はその本で論じられた小テーマが一覧できるから、目次で内容を予想できないときに役立つ。また、索引は複数の本に散在する小テーマも提示してくれる。何か特定のテーマを追っているときは、多少やみくもであってもかまわないから、手あたりしだいに関連書の索引を繰ってみるべきである。

社会学書はなぜむずかしいか
 社会学への導入として提示した六〇-六二ページのリストに社会学者の書いた本はほんの少ししかない。なぜかというと、一般に社会学者の文章はとてもむずかしいからだ。だから一般教育科目の授業ではなるべく社会学者の本をはずすようにしているのである。あまり大きな声ではいいたくないのだが、じつをいうと、社会学の本はなまなかな読書家では太刀打ちできない場合が多いのだ。なぜだろうか。理由は少なくとも四点ある。

 第一に、日本では社会学の概念がほとんど知られていないからである。「核家族化」や「カリスマ」のような例外もあるけれど、社会学の概念はごく基本的なものでさえ一般には流通していない。流通しているように見えるものは、たとえば「役割」のように、たいてい日常語を借用したものである。知られていないから、一般読者が社会学書にふれるとき、まったくの異世界に入ったような気分になる。社会学のテーマが身近な分、かえって「なぜこんなわけのわからない概念を使わなきゃならないんだ」という反発を招きやすいのである。これはもっぱら読者側の事情であるにしても、経済学・法学・政治学・哲学などの本にくらべて社会学書は始めからハンディを負っているのである。▼5

▼5 この原因は、高校までに社会学教育がほとんどなされていないことにある。また、大学における社会学教育が従来あまり影響をあたえてこなかったこともあるかもしれない。
 第二に、ブルデューの説明を借りると、複雑なものは複雑な仕方でしかいうことができないからである。複雑な社会的現実をその複雑さのままに捉え記述しようとすると、どうしても複雑な文章になる。しかも「自分が描いているものに対して、自分がどの位置にあるか」を述べようとするからよけいである。▼6

▼6 ピエール・ブルデュー『構造と実践–ブルデュー自身によるブルデュー』石崎晴己訳(藤原書店一九九一年)八六ページ。ここでブルデューはプルーストの文体に関するシュピッツァーの説明を借りて、自分を含めた社会学者の文体の難解さについて弁明している。ブルデューは「専門語彙の厳密性を放棄して、読みやすくやさしい文体を選ぶという戦略は、危険だと思います」とさえ述べている。八七ページ。
 社会学書は足場に囲まれた建物のようなものだ。常識やパラダイムといった固い土台にかんたんに依拠できない社会学者は、足場を固めながら書かなければならない。だから、できあがったものは足場だらけの構造物になる。ここが評論家たちの書く文章と大きくちがうところである。足場だけでは困るが、科学にとって足場はたいせつだ。したがって読者は反芻(はんすう)するように読むしかない。

 第三に翻訳の問題がある。これは日本の輸入学問ひいては近代日本文化全体にいえることだ。たとえば”I am a farmer.”という文を訳すと「わたしは農夫です」となる。しかし今ならさしずめ「農業やってます」というところだろう。しかし、学術書の翻訳では「わたしは農夫です」式が主流である。それどころか「わたしは第一次産業従事者である」式のものさえある。だから一般の人にはピンとこない。そのときは「わたしは農夫です」という翻訳文を、実感の伴う「農業やってます」に再翻訳しながら読まなければならない。じつは社会学者だって、とくにそれを研究対象にしている人をのぞけば、たとえばシステム理論の最先端をゆくニクラス・ルーマンのいうことをそのまま理解するということはめったにないのであって、たいていは自分の分かることばに再翻訳して納得しているものである。▼7

▼7 これは何も社会学にかぎったことではない。社会科学系の本のむずかしさの最大の理由は翻訳語にある。これについてはぜひ柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書一九八二年)を参照していただきたい。なお、ここで翻訳書の読み方をくわしく述べる余裕はないが、たとえば課題図書として古典の翻訳書を読むことになったとき、心理的に初心者の負担になりがちなふたつのことばにふれておこう。ひとつは「諸」である。マルクス主義的訓古解釈の伝統ともいえるが、社会科学者は「諸」のあつかいに鈍感である。「諸個人」「諸集団」「社会的諸関係」など翻訳書には「諸」が満ちあふれている。欧米語における複数形の深い意味を逃してはいけないが、初心者はさしあたり「諸」を「さまざまな」と読み換えて読んでいけばよい。「さまざまな個人」「さまざまな集団」「さまざまな社会関係」といったように。もうひとつは「性」である。「性」も濫用されている。「合理性」「内在性」「志向性」のように。これらはそれぞれ「合理的であること」「内部に含まれていること」「特定の目標に向かっていること」を意味する。これらの場合の「性」は「そういう現象・状況・らしさ・性格・傾向・能力」などを表わしている。あるいは「公共性」を「公共圏」や「公共領域」と読み換えたり、「宗教性」を「宗教心」と読み換えると具体性が全然ちがってくることもある。
 第四に、社会学者に概念フェティシズムの癖(へき)があるからである。フェティシズムとはモノに特別な愛着を感じることである。「物神崇拝」「物神性」と訳される。性的な文脈では、たとえば女性の身体ではなく下着に愛着を覚えるのはフェティシズムである。宗教的文脈では自然物を神と崇める信仰がフェティシズムである。社会科学の文脈ではカール・マルクスが『資本論』で貨幣や商品のフェティシズムを指摘して以来、広く使われるようになった。たとえば、ただの紙切れにすぎない紙幣に対して、わたしたちがあたかも一定の価値が備わっているかのように感じるのがこれである。どの社会科学者もそうであるが、とりわけ社会学者は理論的概念を愛好する傾向がある。これにはそれなりの科学的理由があるのだが、なまじ身近な現象を研究しているだけに、それはいささか目立つらしい。一九五九年にラディカルな立場に立つチャールズ・ライト・ミルズが『社会学的想像力』という有名な本のなかで、機能主義の旗頭だったパーソンズの難解な文章を徹底的に批判したにもかかわらず、これはパーソンズ批判以後の若い世代にも一種の「心の習慣」として引き継がれている。▼8理論社会学とくにシステム論関係の文献となると極致である。

▼8 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)。
 しかし、初心者の方々も、はじめはまったくわからないかもしれないが、修行を積んでゆくと、しだいに読めるようになるものである。しかし、読めるようになったら今度はくれぐれも「概念フェチ」に陥らないように気をつけよう。すでに「現代思想」の分野では、概念フェチによる概念フェチのためのディスクール(語られたこと)が市場を形成し、秘教的な魅力を競っている。現実との通路を見失わないことがたいせつだ。

 本書ではあくまでも現実的に等身大で語りたいと考えているが、しかし、少しは背伸びもしてほしい。そうすれば少しずつ身の丈が伸びてゆくものである。いつも背伸びをするようにしていないと、すぐにステレオタイプや我見に縮まってしまう。好奇心を満たして、ゆくゆくは社会学の研究書にも挑戦してほしい。

戦後史を押さえる
 歴史の好きな人でも案外手薄なのが二〇世紀の歴史すなわち「現代史」である。とくにここ半世紀の日本の歴史、これを「戦後史」と呼ぶ。これがきちんと頭のなかに入っていれば、社会学で学ぶことが相当すんなり入ってくるはずだ。というのは、社会学的説明において事例として引き合いにだされるのは、きまって現代のできごとだからであり、いつも最新の事例とはいかないので戦後史の範囲内で説明されることが多いからである。その意味で、戦後史は社会学の必須科目である。これは高校までに学習済みであるということになっているが、じっさいには相当優秀な人でも空白に近いことがあって油断できない分野である。

 社会学の場合、ポイントになりやすいのは、二〇世紀前半ではファシズムである。戦後史では一九六〇年代の高度経済成長、一九七〇年前後のカウンターカルチャーや反公害運動などの動き、一九七三年のオイル・ショック、一九八〇年代の成熟消費社会である。

 文化史と社会史を押さえたコンパクトな社会学的戦後史があればいいのだが、現状ではない。次善の策として、次の四冊をお勧めしたい。まず、宮本憲一『昭和の歴史10経済大国』(小学館ライブラリー一九九四年)。高度経済成長から昭和の終わりまでをフォロー。公害などの社会問題を重視しているところなど、社会学と相性がよい。もっと薄く広くとなると、中村政則編著『昭和時代年表増補版』(岩波ジュニア新書一九九〇年)。年表といっても各年ごとにできごとをコンパクトに説明した概説書。ルビ(ふりがな)が多く、親切。資料として手元にあると便利なのが、正村公宏『図説戦後史』(ちくま学芸文庫一九九三年)。苦手意識をもっている人は、榊原昭二『キーワードで読む戦後史』(岩波ジュニア新書一九九四年)から入るといいだろう。なお、一九九五年は戦後五〇年という括りになるので戦後史の再評価がさかんになされるはずである。新刊をチェックしておこう。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
三 マス・メディアの利用――感受性を高める
ニュース・ウォッチャーになる
 専門書を読むことだけが社会学の学習ではないということは、接触すべきメディアそのものについてもいえる。つまり、本というメディアだけではなく、あらゆるメディアを駆使してそれはおこなわれるべきだ。その代表は何といっても新聞とテレビだろう。現在の社会について研究しようとするかぎり、このふたつは欠かせない。だから、ひとり暮しの学生の場合でも、テレビをもっているだけでは不十分で、一般紙を購読するよう勧めたい。

 まず新聞から。社会学的な社会認識への第一歩としては、宅配されている一般紙を購読することがたいせつだ。できれば二紙を読みくらべるぐらいであってほしい。一般紙とは朝日・毎日・読売・産経・日本経済の各紙のこと。前の二紙がリベラルで後の三紙が保守的といわれているが、じっさいにはかなり性格がちがう。東京本社版でみるかぎりの論評を加えておくと、朝日新聞はあいかわらず新聞ジャーナリズムの優等生的存在として高い信頼性をもつ。しばしば右翼の暴力や保守的メディアの攻撃の標的にされているが、最近の紙面は、かつての反権力的・批判的論調が影を潜め、温厚なリベラル路線に大きく転回している。最近は医療問題の記事が目立つ。毎日新聞は一九七〇年代の激しい新聞拡張戦争のいわば敗者で、経営難から新規再建されたという経緯をもつ。そのため最近は記事や紙面の思いきった刷新が進み、署名記事が多く、記者の自律性も高い。まるで雑誌のような紙面になっている。教育問題や宗教問題に強い。読売新聞は新聞拡張戦争の勝者として発行部数世界一を誇る。中曽根元首相のブレーンでもあった渡辺恒雄社長による社論の統一が大きな特徴である。社内民主主義に問題があり、紙面に多様性はないが、オピニオン性の高い新聞である。読売のパワーによって産経新聞のかつてのオピニオン性もめだたなくなっている。なお、読売と産経はともに憲法改正を提唱している。日本経済新聞も保守的であるが、経済ジャーナリズムというより経済情報紙の色彩が濃い。▼1

▼1 新聞の読み方をごく初歩的なところから説明したものとして、岸本重陳『新聞の読みかた』(岩波ジュニア新書一九九二年)と熊田亘『新聞の読み方上達法』(ほるぷ出版一九九四年)がある。使いこなしの方法としては、現代新書編集部編『新聞をどう読むか』(講談社現代新書一九八六年)。新聞ジャーナリズム内部の問題については、原寿雄の一連の評論を参照してほしい。原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)。原寿雄『それでも君はジャーナリストになるか――続新聞記者の処世術』(晩聲社一九九○年)。入手しやすいものとして、桂敬一『現代の新聞』(岩波新書一九九○年)。
 読んでほしい二紙を選べば、ジャーナリズム性の高さから朝日と毎日ということになるが、各紙の論調のちがいを知るという点では朝日と産経の組み合わせもあってよい。最近識者から注目されているのは毎日で、署名記事や雑誌的コラムが多く、読みやすさでは群を抜いている。一般紙を読みなれていない人には毎日を勧めたい。また、意外にいいのが東京新聞などの地方紙だ。というのも、中央のことやコラムなどが信頼性の高い共同通信の配信記事に拠っているからである。共同通信は日本の代表的な通信社だ。ちなみに通信社とは「印刷所をもたない新聞社」である。あるいは「記事の問屋」ともいわれている。テレビ・ニュースも共同通信の配信記事を読み上げていることが多い。なお、朝日にはメディア欄(といっても番組案内ではなく、社会部が担当する記事)が定期的に掲載されているので、マスコミ自体の動向を知るのに役立つ。いずれにしても新聞拡張員の勧誘によって購読紙を決めるようなことは避けたい。自分の眼で選ぶべきだ。ひいてはそれが紙面をよくする。  つぎにテレビ。ニュースやドキュメントを見てほしい。大教室で「昨日のニュース番組の特集を見たか」ときいても教室内の視聴率はいつも一パーセントあるかないかで、大学生がいかにテレビを利用していないかにおどろくことが多い。活字メディアにくらべて情報量は少ないが、テレビだと要領よく楽に知ることができる。それを利用しない手はないはずだが、テレビを受け身で見ることになれていると、結局うまく使いこなせないのだ。それには「あえて見る」という態度が必要だ。

 マスコミ研究者やジャーナリストの評価が高いのはテレビ朝日系の「ニュース・ステーション」だ。ニュース番組の概念を変えたその功績は大きい。もうひとつTBS系の「筑紫哲也のニュース23」もジャーナリズム性が高い番組。ほかに注目すべき番組としてNHKの「クローズアップ現代」がある。テーマ設定のレベルが適切で見やすい番組になっている。スクープも多い。テレビ番組は頻繁に編成が変わるので、これ以上の具体的コメントは控えたいが、積極的にテレビを利用するつもりで見れば、それが毎日のことであるだけに、社会認識の積み上げに大きな差ができる。▼2

▼2 テレビ報道にもさまざまな問題がある。現場の細部を取材したルポとして、小田桐誠『検証・テレビ報道の現場』(現代教養文庫一九九四年)。放送ジャーナリズムの諸問題については、原寿雄『新しいジャーナリストたちへ』(晩聲社一九九二年)。津田正夫編『テレビジャーナリズムの現在──市民との共生は可能か』(現代書館一九九一年)。岡村黎明『テレビの明日』(岩波新書一九九三年)を参照してほしい。
ニュース日誌をつけてみる
 ニュース日誌をつけてみよう。いまどきの大学生は日記などつけないだろうから、こんなことを書くと読み飛ばされてしまいそうだが、自分のことではなくニュースについてだと意外に書けるものである。書いてみて自分の反応を確認するのは楽しい。

 新聞やテレビで伝えられるニュースについて感想を書くことから始めよう。断続的でかまわない。週一回でもいいと思う。書いてみたニュースは必ず自分の記憶のなかに残るから、ニュースに対する感受性は格段に飛躍する。たとえば日本のエイズが輸入血液製剤による薬害によって始まったというニュースについて一度整理すれば、HIV訴訟のニュースや薬害事件のニュースはもはや耳や目を素通りしないはずだ。それだけ感受性が高まっているのである。このような積み上げがたいせつなのだ。知らなければ鈍感でありつづけ、知ることが自分を敏感にする。

 この場合、書くこと自体に意味がある。書くことが自分の思考を自分に知らせてくれる。さらに自分が書いたことに対して自分の「ほんとうの」考えとずれているとの実感があれば、さらにその溝を埋めるためにわたしたちは考え、そして書く。この反省的な循環を自分に引き起こすことだ。

 しかし、こうした作業をひとりで始めるには、それなりの気力がいる。報酬がなかなか見えないからだ。▼3そこで勧めたいのは、仲間数人で「ニュース研究会」をやってみることだ。わたしも「ニュースの背景研究会」と称して月に一回、それぞれが気になったニュースについて報告しあう活動をしていたことがある。きちんとレジュメ(要約・構成・資料)をつくってやるのはめんどうだが、意欲があるうちはそれもおもしろく感じる。やはり人が集まり人に話すとなると、やる気もでるし、うまく話せればそれなりの充足感も味わえる。自分の理解や感想を他人とのコミュニケーションの過程のなかで検証する経験は、自分を鍛え、我見から自分を自由にする。社会人になるとこうした仲間を見つけるのはむずかしくなるが、大学というところは比較的やさしい。声をかけてみよう。続けてみて、そのうち重荷になったらやめてしまえばいい。もう自分だけでもできるようになるはずだ。

▼3 これをマスコミ論では「遅延報酬」もしくは「延滞報酬」と呼ぶ。
 このような「離陸」をカリキュラムとして支援するのが「新聞利用教育」(NIE)である。わたしも少人数教室の授業のときには講義の前後に「ニュース三分レポート」と称して、持ち回りで新聞記事の報告をしてもらうことがある。何かのきっかけになればいいなという程度のものだが、やはり自分がみんなにレポートするというのは印象深いものがあるようで、アンケートをとると、講義よりも「ニュース三分レポート」のほうがよかったといわれてしまう。

データベースをつくる
 自分のデータベースをつくろう。といっても資金はないし根気もない。しかしそれでもできることがある。それが新聞の切り抜きである。それは、もっともチープなデータベースである。わたしが前に新聞を購読しようと述べたのは、そうでないと切り抜きができないからだ。そしてテレビだけではダメだと述べたのも、テレビ番組では安価に保存できず整理もむずかしいからである。保存性・経済性・一覧性の点で新聞の方が有利だ。

 はじめは好奇心のおもむくまま切り抜けばよい。ただ気をつけなければならないのは、必ず読んでから切り抜くことだ。単純なことだが、これがなかなかむずかしい。切り抜きは、箱か引きだしにどんどんほうりこんでおく。レポートなどを書くときに、ちょっと関連するものを探ってみると、意外な発見があるものだ。分類するというムダなことはしなくてもいいが、やってみると自分の関心領域がかなり狭いことに気づくので、自分の人生を反省するいいチャンスになる。最初は広げるだけ広げることをお勧めする。大学生活前半の二年で広げておかないと、あとは狭くなるばかりだからだ(もちろん深く勉強しなければならないからだが)。

 切り抜くときに必要な道具はハサミとボールペンである。切るだけでは「データ」にはならない。出典を明記してはじめて「データ」なのだ。出所不明の記事は使えない。必要な情報は次のものだ。

(1)新聞名(自宅から離れた場所で購入したものなら「読売新聞(大阪本社版)」のように書く)
(2)朝刊か夕刊かの区別
(3)年月日
(4)掲載面(ページと欄の種類)
(5)版(面によって版がちがうので要注意)
 要するに紙面の上の欄外情報(たとえば「1994年(平成6年)11月1日 火曜日 14版 第二社会 30」)を切り抜きの余白に書いておくのである。めんどうなときは多少かさばるが一ページまるごと切ってしまうか、下の広告だけを捨てるようにして、上の欄外情報を残しておく。一紙しか購入していないのであれば新聞名は必要ないが、たまたま街頭で買った他紙には記入しなければならない。書誌学者の佐野眞は「朝日新聞朝刊一九九二年四月十日第一五面の一三版」を「ア92.4.10(15)13」と書いているそうだ。夕刊ならアを丸で囲む。▼4

▼4 佐野眞『自分だけのデータ・ファイル──新聞情報の整理法』(日本エディタースクール出版部一九九三年)五八ページ。本腰を入れてやりたい方は、ぜひこの本を参照してほしい。
 なぜこんなにくわしいデータが必要かというと、今日の新聞はひとつではないからだ。たとえば「今日の朝日新聞」は朝刊と夕刊があるだけではない。東京本社版と大阪本社版と西部本社版と名古屋本社版がある。しかも同じ東京本社版でも面ごとに版がちがっている。

 さて、社会学的な視点からいうと役に立つのは社説・連載記事・解説記事そしてメディア欄だ。どちらかというと、できごとのあらましと分析がわかればいいからだ。しかし、できごとの細かい時間的経過に注目するときはこれでは荒すぎるだろう。要はこちらの問題関心しだいである。わたし自身は基本的に社会学関係の講義の小テーマ(二〇項目程度)といくつかの関心分野ごとに紙製のホルダーをつくって、そこにほうりこんでおくだけにしている。分類できないものは別の小さな段ボールの空箱に入れるだけである。それぞれの記事にキーワードをつけてパソコンに一覧表をつくれば検索上有利であることはわかっているが、ものぐさなわたしにはできそうにない。たまに眺めたり、必要なときには箱のなかをひっくり返したりして使っている。▼5

▼5 いわゆる「情報収集」「知的生産」の技術にのめり込むのは危険だが(手間とお金ばかりがかかって肝心の勉強や研究がおろそかになる!)、それでも系統的に構築したい方は、山根一眞『情報の仕事術1収集』『情報の仕事術2整理』『情報の仕事術3表現』(日本経済新聞社一九八九年)を参照してほしい。刊行後五年ほどたっているが、少しも古びていない。なお、パソコン通信の商用ネットではクリッピング・サービスをおこなっているところがある(ニフティサーブやPC-VAN)。これを利用すると、主要全国紙を網羅して関心領域の記事を自動的に「切り抜き」できる。そう高いものではないので、テーマをもっている人にはぜひお勧めしたい。
メディア・リテラシー
 ニュース日誌をつけたり切り抜きデータベースづくりを勧めるのは、それが批判的なメディア・リテラシーの成熟を促し、社会学的な感受性を高めるきっかけになるからである。そもそもリテラシーとは、読み書き能力のことである。つまり、メディア・リテラシーとは、メディアを読み解く力のことであり、メディア・リテラシーの成熟とは、リテラシーをより批判的なものに高めていくことだ。

 わたしたちはマス・メディアを通じて現実世界を知ることが多い。もちろんマス・メディアが現実世界を、よく磨かれた鏡のように映しだしているのなら、とりたてて問題にすることもないのであるが、じっさいにはそうではない。マス・メディアは現実のごく一部を増幅して独自の世界を構成している。それは経済的な動機や政治的な意図あるいは演出的効果をねらうために独得のバイアスを生じるのである。しかし、それがわたしたちの現実認識を培養してしまう。

 例をひとつあげよう。精神障害者が事件をおこしたとき、マス・メディアは人権上の配慮から容疑者を匿名にするとともに、精神病院に通院してしていたことをつけ加える。これを「受診歴報道」と呼ぶが、これがくりかえされることによって、受け手は精神病が事件の原因であり、精神病が犯罪と結びつきやすい危険なものと思ってしまう。なぜなら、そういうときにしか「精神障害者」がメディアに登場しないからである。ところが現実には健常者のほうが犯罪発生率は高いのである。このような誤認をマス・メディアの培養効果という。

 したがって、マス・メディアのこうしたクセをあらかじめ熟知しておくことが必要になる。もちろん、マス・メディアによってさまざまなことを獲得し、そして十分に楽しめるようになるためにも、それは欠かせない。メディアを読み解く能力、すなわちメディア・リテラシーの構築が必要なのは、こういうわけである。▼6

▼6 カナダ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー──マスメディアを読み解く』FCT(市民のテレビの会)訳(リベルタ出版一九九二年)。これはたいへんよい本である。もともとはメディア教育をする教師のための読本であるが、一般の市民にとっても有効なレッスン方法が提案されている。
 もう少しくわしく説明しよう。

 わたしたちが接触するメディアにはさまざまな内容がふくまれている。しかし、その多くのものは「権力のことば」と「消費のことば」である。「権力のことば」とは、何らかの権力をもつ人たちが意図的に伝えようとする内容である。このような人たちは、わたしたちの利益のために活動しているということになっているが、じっさいには官僚や政治家や業界など一部の人たちの利害によって動いている場合が多く、額面通りに受け取ることはできない。しかし、たとえば一般紙の記事の九割近くが、官公庁の記者クラブなどで発表された広報や、行政や政治上の権限をもつ人たちの非公式の談話に基づいている。庶民がどんなに重要なことを叫んでもなかなかメディアは取り上げてくれないが、権力行使の現場にいる人たちの声は無料でメディアに乗る。原寿雄はこれを「発表ジャーナリズム」と呼び、その危険性を指摘しているが、要はそれをメディア内部の人たちとわたしたち受け手とが批判的に吟味しなければならないということだ。▼7

▼7 原寿男、前掲書、二三-四五ページ。
 また「消費のことば」も流通しやすい。広告・宣伝・パブリシティはもちろん、趣味や文化に関するメディアも結局「消費のことば」を過度に流通させている。たとえば趣味の雑誌の半分は広告であり、残りの半分はパブリシティであり、その残りも新製品や新しいトレンドの紹介という消費情報にあてられる。▼8依頼されたパブリシティかメディアの自発的な取材かを問わず「消費のことば」はメディアに乗りやすいのだ。

▼8 パブリシティとは、マス・メディアに対してニュースの素材を無償で提供し、話題や商品情報・イウ゛ェント情報として無料で掲載・放送してもらうことをいう。いわば無料の広告であるが、使ってもらえるかどうかはメディアしだいである。
 このように、わたしたちがさほどアクセス(情報への接近)の努力をしなくても「権力のことば」と「消費のことば」はわたしたちの地点まで届く。しかし、それらはわたしたちの社会生活のありようを反省するのに役に立たないばかりか、しばしばそれを阻害することさえある。なぜなら、その発信者にとってわたしたちは「行為の対象」だからである。それは「世論の操作」であったり「価値観の誘導」であったり「ニーズの喚起」であったりするが、いずれにしても発信者は自分たちとわたしたち受け手とを同一視していない。

 それゆえ批判的リテラシーが必要なのである。まず、メディア自身が「ゲートキーパー」(門番)としてそれを批判的に吟味する段階がある。これがジャーナリズム性なのである。批判的吟味をしない「情報産業」では不十分なのだ。日本には国レベルの情報公開法がないために、一般市民にはなかなか批判的吟味ができず、結果的にメディアに依存せざるをえない実状がある。自分たちの生活を的確に捉えることを可能にすることば──これを「反省のことば」と呼んでおきたい──を伝える真にジャーナリスティックなメディアを選択し、それと積極的に接触しておく必要があるのはそのためである。

 その上で、受け手もしくはユーザーであるわたしたち自身が批判的に吟味する段階がなければならない。わたしたち自身が「能動的な受け手」として一種のジャーナリスト的存在に成熟することが、現在のメディア環境に飲み込まれないようにするためには必要である。それには日々の意識的な努力が欠かせないのである。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
四 文献調査の作法――情報探索の初歩
事典を開く
 これまでは「問題」を見つけるまでの話をしてきた。これからは「問題」を見つけたあとの話である。だれでも人生に何度か、ものごとを調べなければならないときがある。それはたとえば、子どもに受けさせるワクチンの副作用であったり、社会人入学できる大学院のリストであったり、引っ越し先の社会環境であったり、衝動買いしてしまったシマリスの飼い方であったりする。あるいは、ささやかな市民運動を始めたさいに特定のテーマについて調べなければならなくなる。専門家に話をきけばいいではないかといっても、ではどうやって専門家を探すのかが問題になる。このようなときわたしたちは、垂れ流しのことばを浴びて満足している受け手であることを脱して、能動的なインフォメーション・シーカー(情報探索者)になる。大学で教員が課題をあたえるのは、その予行演習をしてもらいたいがためである。

 知りたいと思うことがらはさまざまだ。人物・事件・事項・文献・ことばの意味・統計のデータなど。まず最初に見るのは図書館学の用語でいう「レファレンス・ブック」(参考図書)だ。これは辞書・事典・索引・図鑑・年表・書誌などのこと。これらは「読む本」ではなく「調べる道具」である。そのため図書館ではこれらの本は一般の書架と区別しておかれている(たいてい「禁帯出」あつかい)。

 社会学の研究対象はたいへん広く、それは社会そのものといえるほどで、関係する領域も広いので、ごく一般的な説明から始めよう。

 ことばのかんたんな意味であれば国語辞典で一応の意味がわかる。とくに『広辞苑第四版』(岩波書店一九九一年)は国語事典とミニ百科事典を兼ねており、本を読んでいて気になったことばぐらいはわかる。しかし情報量はいかにも少ない。

 そこで百科事典を調べる。いきなり事項を探してがっかりしてはいけない。百科事典は別巻の索引から調べるのが作法である。『世界大百科事典』全三三巻(平凡社一九八一年)なら第三三巻が索引編である。『ブリタニカ国際大百科事典改訂版』全二九巻(TBSブリタニカ一九八八年)は構成が特別なので注意が必要だ。三部構成である。うち二〇冊が大項目主義の読む事典、六冊が小項目主義のレファレンスガイド、第二七巻が総索引である。『ブリタニカ現代用語(最新版)』(一九九一年)もある。たとえば『世界大百科事典』の索引で社会学の巨匠ジンメルを引いてみると六箇所も記述のあることがわかる。「ジンメル」の項を引くだけでは十分活用したことにならないのだ。

 歴史的事象であれば、ここまでで何とかイメージがつく。しかし、最近のできごとやことばについては現代用語事典や年鑑を見ることになる。じつは社会学の場合はこちらの方が圧倒的に多い。なぜなら社会学は現在を分析するところに重点があり、時間的にはここ二〇年前後の状況がとくに問題になるからである。代表的なものとして『現代用語の基礎知識』(自由国民社・年刊)、『知恵蔵』(朝日新聞社・年刊)、『イミダス』(小学館・年刊)がある。コンパクトなものとして『朝日キーワード』(朝日新聞社・年刊)。▼1

▼1 これは自宅にもっていてもいい。千円程度だから毎年買えるし、かさばらない。ただし毎年買うことが重要。
 調べたいことがらの起こった年がわかる場合は年鑑がよい。はっきりしないときは年表の索引を見る。岩波書店編集部編『近代日本総合年表(第三版)』(岩波書店一九九一年)。一八五三年から一九八九年までをフォローしている。年鑑には『世界大百科年鑑』(平凡社)、『朝日年鑑』(朝日新聞社)、『読売年鑑』(読売新聞社)、『世界年鑑』(共同通信社)、『時事年鑑』(時事通信社)がある。これらのうち社会学的テーマについては『世界大百科年鑑』(たんに『百科年鑑』ともいう)がもっとも充実している。

 調べたいことのカテゴリーがある程度はっきりしているときは専門事典を調べることになる。社会学系の事典には次のものがある。

(1)『社会科学大事典』(鹿島研究所出版会一九六八-七一年)–全二〇巻。しかし刊行後ずいぶん時間が経過しており、社会学プロパーに関して記述が古いのは仕方がない。第二〇巻が索引。
(2)森岡清美・塩原勉・本間康平(編集代表)『新社会学事典』(有斐閣一九九三年)–六〇〇〇項目と規模も大きく新しいので、ここしばらくはこれが定番の事典。参考文献も提示されている。
(3)濱島朗・竹内郁郎・石川晃弘編『社会学小事典増補版』(有斐閣一九八二年)–少し古くなってしまった観はあるが、標準的かつ安価な事典なのでもっていてもいい。
(4)見田宗介・栗原彬・田中義久編『社会学事典』(弘文堂一九八八年・縮刷版一九九四年)–社会学の広い問題関心を反映させた個性的な事典。小項目以外には「社会学文献表」がついているので基本文献を調べるのに便利(縮刷版にはない)。ただし「行為」や「社会学」などの超基本概念の解説は独自なのでビギナーにはきついかもしれない。守備範囲が広いので縮刷版が手元にあると便利。
(5)北川隆吉監修『現代社会学事典』(有信堂高文社一九八四年)–全三五項目の大項目主義の事典。構成は事典というより便覧かハンドブックにあたる。標準的な理論体系における位置づけを知るのによい。
(6)石川弘義ほか編『大衆文化事典』(弘文堂一九九一年・縮刷版一九九四年)–巻末にくわしい「大衆文化文献表」がついている(ただし縮刷版にはない)。マスコミ研究や現代文化論などに役立つ。
(7)井上・孝本・対馬・中牧・西山編『新宗教事典』(弘文堂一九九〇年・縮刷版一九九四年)–宗教社会学の現代的焦点となっている新宗教についての事典。
(8)石川・梅棹・大林・蒲生・佐々木・祖父江編『文化人類学事典』(弘文堂一九八七年・縮刷版一九九四年)
(9)今村仁司編『現代思想を読む事典』(講談社現代新書一九八八年)–基本的なコンセプトは社会学ではないが、社会学の基礎概念・社会学者・社会理論などもよく網羅されていて説明もくわしい。これだけの知識量が千円台で手に入るのは驚異である。新書本だから非常にコンパクト。これはもっていてもいい。

 いずれにしても強調しておきたいのは索引を駆使することだ。探したい項目以外にも参考になる解説があるかもしれないことを念頭において調べてみよう。

書誌の世界へ
 比較的新しい論文や著作であれば、その注の始めの部分を見るだけでも基本的な文献はわかる。数本の論文を集めれば、おのずと共通の文献が浮かび上がってくる。それを集めて読めばかなり本格的なものになるはずだ。専門性の高い限定されたテーマであれば、引用文献や参考文献からアプローチするのも案外ヒット率が高い。しかし、ごく学び始めの段階や新しいテーマに取り組むときは、ある程度系統的に調べて文献をリストアップしておくといいだろう。わたしたちの興味や関心は、そうしたリストを眺めていくうちに触発されるものなので、このあたりは早めにやっておきたい初級編の必須課題である。

 まず、先ほど紹介した見田宗介ほか編の『社会学事典』の「社会学文献表」を見ておこう。一九八七年までのおもな社会学文献(著作中心)が六〇の分野別に分類されている。年代順なのでおおよその研究史もたどれる。レポートやゼミ報告程度であればこれで十分だ。▼2しかし知りたいことについて書かれた著作や論文にどのようなものがあるかを網羅的に調べるとなると書誌の世界に入らなければならない。といっても日本語の学術文献を探す程度のレベルであれば、そうむずかしいことではない。

▼2 ただし縮刷版にこの表はないので注意が必要だ。
 著作を探すときは参考資料室(参考図書コーナー)にある『日本件名図書目録』(日外アソシエーツ)の「社会・労働」を見る。一九七七年から一九八四年まではまとまっているが、一九八五年以降は各年を調べなければならない。一九八八年以降の本であれば『ブックページ 本の年鑑』(ブックページ刊行会・年刊)のほうが、目次か要旨がわかるので便利だ。論文を探すとなると『雑誌記事索引 人文・社会編 累積索引版』(日外アソシエーツ)を見ることになる。これも「社会・労働」のところに社会学関係がまとまっている。雑誌論文の場合はとくに<特集>に注意しておこう。これを読めばかなり効率よく問題のありようが把握できる。

 文系学部のある大学図書館であれば『社会学評論』(日本社会学会・年四回発行)が書庫にあるはずだから、これを引きだしてみるのもよい。この雑誌には一年分のうち二回に分けて(うち一回は補充分)日本社会学会会員の全業績が分類されて掲載されている。これで二年前までの著作(図書・翻訳・論文)がほぼ完全にフォローできる。「家族」「都市」「宗教」などのようにテーマが明確になっている人は、ここ十年分ほどをまとめてコピーをとっておけば何かと便利である。

 社会学にとって資料となるのは何も研究文献だけではない。事件や流行に対する「当時の反応」を知るために資料として一般の雑誌記事や新聞記事を読むことも必要だ。現在進行形のできごとについては自分で切り抜きをしていけばよいが、昔のことについては次のようにする。

 まず新聞記事について。一九七三年から一九八〇年までのニュース記事については毎日新聞社調査部編『毎日ニュース事典』(毎日新聞社一九七三-一九八〇年)を、一九八一年以降の記事については『読売ニュース総覧』(読売新聞社・年刊)を引いて具体的な日付を確定した上で他紙の縮刷版を調べる。もっと古い時代の記事については『明治ニュース事典』『大正ニュース事典』『昭和ニュース事典』(いずれも毎日コミュニケーションズ)を見るとおおよそのことはわかる。いずれも総索引がある。

 週刊誌など一般の雑誌については『大宅(おおや)壮一文庫雑誌記事索引総目録』(一九八五年-)の「件名編」が有効だ。五万語のキーワードは壮観である。たとえば「悪徳○○」を見ると一五項目もある。このような項目の切りだしが大宅文庫の特徴である。人名は「人名編」を直接引く。

 ここまでやれば初級編としては十分だと思う。レポート課題がでてからでもよいが、できればヒマなうちに慣れておこう。というのも、卒業論文などの相談を受けると「参考文献がない」という人が多い。それは探し方が悪いからだ。▼3そうならないように文献探索の作法とノウハウは大学生活の前半のうちに身につけておきたい。

▼3 逆に「参考文献が多すぎる」という学生もいる。それはテーマがしぼりきれていないからだ。
文献を集める
 調べてデータの判明した文献の実物を手に入れるにはどうすればよいか。

 本であれば方法は四つある。書店で買う。古本屋で買う。図書館で借りる。図書館にリクエストする。

 文庫や新書を購入する場合は中小の書店で間に合うが、社会学系とその周辺の本を購入するとなると、中途半端な書店をはしごするよりも大型書店に行った方が話は早い。とくに社会学書は書店によってあつかいが著しく異なっていて、よほどのところでないとそろっていない。東京なら八重洲ブックセンター・三省堂書店・ブックセンターリブロ池袋店、大阪なら梅田の紀伊国屋書店と旭屋書店など。午前中にいくとよくわかるが、これらの書店は本の並べ方がじつに的確で、店員の社会学への理解が読み取れるほどである。これらの書店にない場合は即刻注文すべきである。それもなるべく大きな書店で注文する方が早いし確実である。▼4あるいは大学生協か、近くに文系の大学があればその生協に行ってみるのもいい。地方の人は書籍宅配便「ブックサービス」などを利用するほうが早いだろう。これはヤマトによるものだが、有力書店も宅配サービスをおこなっている。▼5電話やファックスなどで注文できるが、送料は有料である。しかし交通費のことを思えば高いものではない。急ぐときはこの方が早いようだ。

▼4 これは流通の問題。くわしくは、小林一博『本とは何か–豊かな読書生活のために』(講談社現代新書一九七九年)。中小書店サイドの苦労話の一例としては、早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん(就職しないで生きるには1)』(晶文社一九八二年)。
▼5大規模書店による宅配サービスは次の通り。紀伊国屋書店(本のクイックサービス)・三省堂(三省堂BOOK急便)・有隣堂(有隣堂のテレ本便)・旭屋書店(ブックライナー)・八重洲ブックセンター(シロネコヤエスの配本便)。能勢仁『書店』(教育社新書一九九一年)一八五-一八七ページによる。
 定番の本であっても、出版事情の問題で、学び始めた人にとっては入手困難なときがしばしばある。これは反省すべきことだが、概して教員は古い本を指定するものだ。そのときは図書館か古本屋めぐりをしなければならない。首都圏では『東京ブックマップ』(書籍情報社)がでているので、その最新版を参考に系統的に探すこと。

 図書館にリクエストするのも有効な方法である。リクエスト制度とか予約制度と呼ばれる方式が、現在、公立図書館に広がりつつある。当然、これを機能させるためには図書館どうしのネットワークが欠かせないが、これもずいぶん進行しつつあり、日本語の本であればほとんど入手できるようになった。ただし、時間のかかることが多いので、早めに手続きをしておかなければならない。もちろん無料である。▼6

▼6 リクエスト制度の現状については、森崎震二・和田安弘編『本の予約』(教育史料出版会一九九三年)参照。
 雑誌記事や新聞記事を手に入れる(もちろんコピーだが)にはふたつのルートがある。ひとつは図書館所蔵の雑誌のバックナンバーや新聞の縮刷版にあたることだ。そこに所蔵されていないものについては、図書館員に相談しよう。図書館でもっとも利用できる資源は図書館員なのだ。どうしようもないときは–これは首都圏の人にかぎられるが–国会図書館に行くことになる。しかし、初級編の範囲であれば、その前でたいてい何とかなる。▼7

▼7 永田町にある国立国会図書館は原則的に初心者の行くところではない。休暇をとって地方から来ている人たちのことを思えば、初心者はむしろ遠慮すべきところである。その前に大学図書館や公立図書館を徹底的に利用することを心がけたい。もし国会図書館に行くときは次の本で事前に予習してからにしよう。国会図書館は分類の方針が一般の図書館とちがうし、参考図書以外は完全閉架だから、ずいぶん勝手がちがうはずである。さもないと、うろうろしたり待ちぼうけをくったりして一日が終わりかねない。ここほど一日の短さを感じる空間はない。『東京ブックマップ』(書籍情報社)。国立国会図書館百科編集委員会編『国立国会図書館百科』(出版ニュース社一九八八年)。
 記事を入手するもうひとつの方法は、パソコンを使ってデータベースにアクセスすることである。これについては第六章で説明しよう。

より本格的な文献調査のために
 文献調査はゲーム性がきわめて高い世界である。「宝探し」という比喩が古くさいなら「ダンジョン・マスターの世界」といってもよい(これも古いかもしれない……)。要するに奥が深い世界だ。そこで中級編への案内となるマニュアルを紹介しておきたい。

 よりくわしい–しかもわかりやすい–マニュアルとしては、次のものをお勧めしたい。

情報アクセス研究会編著『現代人のための情報・文献調査マニュアル』(青弓社一九九〇年)。
大串夏身『チャート式情報・文献アクセスガイド』(青弓社一九九二年)。
藤田節子『学生・社会人のための図書館活用術』(日外アソシエーツ一九九三年)。

学術的な文献に重きがおかれているものとして–

斉藤孝・佐野眞・甲斐静子『文献を探すための本』(日本エディタースクール出版部一九八九年)。

 卒業論文のことを思うとこれらのいずれか一冊を買っておくとよいだろうが、図書館には必ずある本(015にある)なので、とりあえずはそれを参照してほしい。▼8

▼8 さらに書誌学的なものになるが、網羅性の高い案内書の定番として、長澤雅男『情報と文献の探索(第3版)』(丸善一九九四年)。なお、現時点で徹底的に調査するにはオンライン・データベースを使用することになる。それについては第六章でふれる。ところで、わたしは図書館学もしくは書誌学が大学の選択科目になればいいなと考えている。欧文資料の探索となると、これはもうひとつの学問である。データベースの利用法など、もはや現代人の必須科目と思うのだが。
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社会学の作法・初級編【改訂版】
五 レポートの作法――どう書くか
作文の種類
 知的生産者とはいわないまでも、ひとまずは、成熟した知的消費者になること–それが初級編の第一目標だ。しかし、じっさいにはそうとばかりはいっていられない。大学生であればレポートを書かなければならない。社会人であれば報告書を書かなければならない。市民運動にかかわっていれば調べたことを会報に書かなければならない。たいていの場合「まず必要ありき」で文章を書くことになる。これはしばしば義務ではあるが自分を知的に成熟させるチャンスでもある。書く経験があると、社会学の「読み書き討論」能力–第一〇章で説明することばを先取りすれば「社会学的リテラシー」–は格段に進歩する。

 社会学系の学生が書かなければならない作文は三種類ある。小論文試験とレポートと卒業論文である。このうち卒業論文は中級編の部類だろうから本書では述べない。小論文試験については第八章で論じることにして、本章ではレポートにしぼって論じることにしよう。

 レポートにも種類がある。課題が決められているもの、自由課題、そしてその中間のものである。じっさいレポートにはある程度の自由裁量の余地があり、その裁量の程度はさまざまでありうる。それぞれについての取り組み方を考えてみよう。

書評を書く
 第一に課題図書を読んで書くもの。この場合は「感想文を書け」といわれることが多い。そうでなくても課題図書が指定されたとき、多くの学生は「感想を書けばいいんだな」と、小中高校の読書感想文の連続線上で受け取りがちである。しかし、それはまちがいだ。

 そもそも「感想」は主観的で情緒的な反応である。それは学問でもなければ科学でもない。だから感想文は学問を主題とする大学教育にふさわしいものとはいえない。しかし現実には、一年に一冊も本を読まない学生(この学生は実在する!)やまったく専攻の異なる学生に専門書を読んでもらうのだから、まともなレポートを期待できない場合がしばしばあり、そこで仕方なく「読んだ証拠–アリバイ–として何か書いてこい」といったニュアンスで「感想文でいいよ」というのが多いのではなかろうか。教員の妥協の産物としての「感想文」なのだ。したがって「○○を読んで」と題して「ここが好き」「ここがきらい」「むずかしくてよくわからなかった」といった作文は、アリバイ以上のものではなく、もちろん社会学でもない。

 では、課題図書を読むレポートの場合、何が求められているのか。

 簡潔にいおう。それは「書評」(book review)である。書評とは、(1)本の紹介をし、(2)その重要な論点を整理して、(3)各論点について自分なりに考察することである。したがって書評レポートのアウトライン・フォーマットもだいたいこの三部構成になる。

(1)本の紹介–著者はこの本で(a)何について(テーマ)(b)どのようなアプローチで(方法・着想)(c)いかなる主張や結論をだしているか。目次を眺めながら、思いきりよくまとめる。

(2)論点の提示–著者にとって重要な論点と、自分にとって重要と思われる論点を明確に提示する。あわせて三点程度に集約させるのが無難。「第一に」「第二に」とパラグラフ(段落)を分ける。

(3)考察–各論点について論評する。これは各論点を提示した直後にそれぞれ論評してもよいし、あとでまとめて論評してもかまわない。論点によっては、さしてコメントすることもないものもあるだろうから、そういうものについては丹念に要約しておけばよい。ただし一点ぐらいは若干のこだわりをもって議論してみよう。

 さて、そうはいっても、自然とアウトラインは浮かんでくるものではない。それはむりやりに自分の内部に生じさせるのである。そのためのいくつかのコツがある。

(1)本の読み方–書くために読むときは、あらかじめチェックを入れながら読まなければならない。5B程度の濃い鉛筆でチェックするか、借り物のときは付箋紙をはさむ。引用したい部分に傍線を引くのはけっこうだが、それ以外にも引くとなるとわずらわしいので、縦書きの本は該当文章の上部に横線を引き、横書きの本は該当文章の左側に縦線を入れておくとよい。重要度の高い箇所は二重線にしておく。

(2)チェックの入れ方–著者が強調しているところ。自分が重要だと思うところ。引っかかるところ。疑問を感じたところ。同時に、それを読んだときの自分の反応も書き止めておく。長くなるときはポストイットのようなメモに書いてはさみ込んでおく。これは多ければ多いほど、あとがらく。

(3)論点のつくり方–チェックを入れたところを何回も眺めて、それらをグループ化する。三つ前後が標準的。枝葉にあたるようなチェック項目は思いきって捨てるのがコツ。そしていったん論点を決めたら、本を読み返して関連することがらを加えて多少ふくらませる。

(4)要約の仕方–本文ツギハギ型は最悪である。そして困ったことに最悪のケースが圧倒的な多数派なのだ。本文を見てかんたんなメモをつくり、今度は本文を見ないでメモだけを参照しながら自分で文章を書く方がうまくいく。「わたしはこう読んだ」というつもりで書く。要するに、自分というフィルターを通すことだ。徹夜仕事にありがちな「自動書記」は絶対避けなければならない(それは知性的でもなく主体的でもなく能動的でもない)。

(5)引用のあつかい–必ずかぎカッコに入れる。入れないと自分が書いた文章として読まれてしまう。これは剽窃(ひょうせつ)である。原稿用紙五枚程度のレポートであれば、引用文は短いのをひとつかふたつ程度がふつう。あまりに長いもの(一枚以上におよぶもの)や多量の引用は「枚数稼ぎ」と見られてしまう。どうしても必要なときは、その分、多めに書いたほうがよい。

(6)論評の仕方–読んだときの自分の反応をつなぎとめ、それを反省的にふくらませる。それでも書くことがないと感じるときは「比較」をしてみよう。第一に、同じテーマをあつかった他の文献との比較。別の本を一冊読むのはたいへんだから、事典や教科書などの記述とくらべてみる。第二に、常識との比較。世間で一般に考えられていることとのちがいに注目してみる。社会学系の本では「脱常識」的なものが多いので有効である。第三に、自分の思い込みとの比較。書評レポートのねらいは自分を変えることだ。今までの自分の考え方にとどまる「感想」を乗り越えることがテーマなのだ。だから、従来の自分の考え方をその本を鏡にして批判的に反省してみることは、社会学の作法にかなっている。第四に、現在との比較。どんな課題図書も執筆された時点からそれなりに時間がたっている。このタイムラグにこだわってみるのもおもしろい。いずれにせよ比較してみると「ずれ」が見えてくるはずだ。その「ずれ」について考えたことが、あなただけのオリジナルな論評になる。

テーマ指定のレポート
 第二に課題テーマが指定されているレポートについて考えよう。たとえば「少子化現象について」「マックス・ウェーバーのカリスマ論について」「犯罪報道の抱える問題について」「外国人労働者問題について」といったようにテーマが指定されたレポートだ。この場合は、出題の意図を十分にくみとることがたいせつだ。

 この種のレポートのねらいは三つある。第一点は「自分で調べる」経験を積んでもらうことだ。基本的に文献調査のトレーニングを要求していると受け取ろう。文献調査の基本については第四章ですでに述べた。よくいわれることだが、まず「足を使って調べる」ことだ。事典・教科書・概説書の索引を利用して概要を知って、土地カンを養うことから始めよう。そしてそれらが共通に参照要求している文献に直接あたることである。本を選ぶ眼がたいせつで、それが的確であれば、教員も「社会学仲間」として読んでくれるはずだ。ここが勝負どころである。このあたりはスタンダードにこだわりたい。その上で新しい文献を補足すると初級編としては申し分ない。なお、参考文献はあけっぴろげにしておくこと。手の内をすべてさらした上で議論するのが社会学の作法である。

 第二のポイントは「問題をつかむ」ことだ。文献を読むなかで、そのテーマの問題点が何なのかをきちんと整理しなければならない。文献を読めば読むほど、さまざまな問題が見えてくる。むしろ錯綜してくるという感じにとらわれるのではなかろうか。そのときは各文献の最大公約数をとるつもりで整理していこう。▼1

▼1 中級編以上になると、それ以外の要素を細かく研究することが多いが、初級編では深入りせず最大公約数程度にとどめておく方が無難である。ただし、とくに興味をもったところがあれば別である。
 そこでお勧めしたいのは「疑問文で考える」ということだ。「○○とは何か」「○○とは具体的にどういうことか」「○○にはどんなタイプ(パターン)があるか」「なぜ○○が必要なのか」「なぜ○○が問題になったのか」「この問題に対してどのような立場があるか」「では、どうしたらよいのか」これをきちんと文章にして、そののちにそれに答えるつもりで書くと、すっきり論旨が通る。そしてさらに疑問形を重ねる。「では、○○はどうなるのか」「ということになると○○が問題になってくる」「それはそうかもしれないが、こっちの問題はどうすればいいのか」といったように。問題がしっかり提示されていないと答もしどろもどろになりがちである。レポートが試験と異なるのは自分で問いを立てるところであり、あくまで自問自答が基本である。だから文献調査の段階から意識的に問いをふくらませて–それを記録しつつ–いくことが重要だ。▼2

▼2 このことは、名詞つまり概念ではなくて文で考えるという意味もある。概念中心で考えると、どうしても話が抽象的になり、抽象的な議論に慣れない初心者はコントロールできなくなってしまいがちである。それを防止する意味でも疑問形の効用はあると思う。
 第三のポイントはやはり構成である。書評レポートのアウトラインを拡張したものになるので繰り返さないが、注意点だけを補足しておこう。それは、主観的なものをはじめにもってきてしまうことだ。自分の思い込みや偏見や体験などはイントロダクションにすぎないので、後半にもってくるものではない。それはレポートのなかで批判的に捉え返されるべきものである。しばしば強調される「自分がどう考えたか」は情緒的な感想ではなく、あくまでも論理的に「どう考えたか」だからだ。

自由課題
 第三にまったくの自由課題がある。案外途方に暮れるのが、この自由課題ではなかろうか。「なんでもいい」という課題は、すでに自分なりのテーマを見つけている学生には最良のものだが、そうでない学生にとっては巨大な迷路にひとり取り残されたようなものになる。もちろん、科目名が「家族社会学」であったり「マスコミ論」や「都市社会学」であれば、おのずと範囲は限定されるが、「社会学」であれば範囲はほぼ無制限に近くなる。その意味では、このような課題のだし方は卒業論文レベルの中級編に属すものであり、初級編として好ましいものではない。しかし、でたものに対しては対処しなければならない。教員の期待が大きいのだと考えよう。さて、こういうときに、これまでの章で述べてきたような読書やマス・メディアとのつきあいがものをいう。しかし「明日からにしよう」と引き延ばしつづけてきた人は仕方がない、次のようなことから始めるしかない。いわゆるネタ探しである。

 手がかりとして考えられるのは次のようなことだ。

(1)新聞一週間分を隅から隅まで読んでみる

(2)ある日のすべての新聞を集めて読みくらべてみる

(3)現代用語事典(『現代用語の基礎知識』『知恵蔵』『イミダス』など)を繰ってみる

(4)『日本の論点』(文芸春秋社・年刊)から興味のもてる争点を探す

(5)社会学事典や教科書から気になることばや問題を拾い上げる

 もちろんこれらの資料だけでレポートを書き上げるのは論外である。これらはたんなる糸口にすぎない。▼3ひとたびテーマを決めることができたら、今度は徹底的に文献調査をすることが必要だ。

▼3 とくに『日本の論点』は政治的なねらいをもって編集されているので、とりあつかいは慎重に。
 あるいはフィールドワークしてみるのもいい。図書館が苦手な人はぜひ一度試していただきたい。

(6)注目点を決めて街を歩く–いわゆる路上観察である。一時期流行した「トマソン」はその一例だが、今どき「トマソン」に注目しても何の新鮮味もないから、そっくりそのままのマネはしないように。人のふるまいや生活のありようを考える上で指標になりそうなものを探す。

(7)ひとつの地点から人を一日中定点観測する–街頭でもいいし、駅頭でもいいし、ある場所に集まる人びとでもいい。

(8)聞き書きする–インタビューは社会調査の基本である。これには三つのパターンが考えられる。第一に、ひとりの人物に徹底的にこだわって、その人の生活史を書いてみる。年輩の人や特殊な体験をした人にすると効果的だ。第二に、同じカテゴリーの人たちに話を聞く。若いお母さんたちに子育てのあれこれについて聞いたり、看護婦や警察官の人たちにその職業的生活について聞く。第三に、共通の質問をさまざまな人にたずねてみる。家族や友人のツテを頼ってみよう。案外、道は開けてくる。

(9)アルバイト体験をルポする–業界のしきたりや掟は外部から見えないものだ。アルバイトして初めて知ることも多い。それを潜入ルポのつもりで報告する。▼4

▼4 やみくもにやってみるのも意味がないわけではないが、ある程度の心がまえを学ぶことは必要だ。参考書として、佐藤郁哉『フィールドワーク–書を持って街へ出よう』(新曜社一九九二年)。
 この種のレポートのポイントはふたつある。第一点は「まともにやってみる」ことだ。中途半端はよくないし、弁解がましいのも見苦しい。そしてまともにやるために必要なことはただひとつ。テーマを一点に絞ることだ。第二に、データをとことん具体的に提示すること。具体的であればあるほどよい。学生は「某大企業」とか「某新聞社」といった書き方を好んでする傾向があるが、これは「自主規制」といって好ましいことではない。レポートは教員ひとりしか読まないのであるから、こうした自主規制は–たとえ冗談めかしたニュアンスで書かれていたとしても–事実から逃避する態度に見える。これは社会学的ではない。事実を事実として明確に提示するのが原則だ。もし他にもれるとつごうの悪いことがあるときは、秘密保持のお願いをレポートに注記しておけばすむ。

かのようにふるまう
 ここで、作文に対してどういう態度で臨んだらよいかについて原理的に説明しておこう。この態度があいまいだと作文は息苦しい作業になりがちである。では、それは何か。

 それは「演技して書く」ということだ。文章のなかで「かのようにふるまう」ことである。

 そもそも「ものを書く」という作業は演技である。自分のなかに生じる多様な意見のなかから特定の意見を選択して書くとき、書き手はあたかもその意見の持ち主として演技することになる。まるでその意見しかもっていないかのようにふるまうのだ。だから「自分の考えをありのままに書けばいい」といった国語教育の指導法は、じっさいに「書く」ということをしていない人のいうことだ。「ありのままに」書かれた文章なんて、とても読めはしない。▼5

▼5 社会学者である清水幾太郎は『論文の書き方』(岩波新書一九五九年)において、ひとつの章を「『あるがままに』書くことはやめよう」に当てている。初心者向けに書かれた本で、じっさいミリオンセラーになったものだが、むしろ中級者や上級者にとって得るものの多い本である。
 「演技して書く」ことによって首尾一貫した文章が書けるのである。わたしたちはさまざまな問題に対してあらかじめ解答を用意できるわけではない。むしろ迷いだけがあるといってもよい。初心者であればなおさらである。その状態でものを書くと「ああでもない、こうでもない」と、どこにいくのかわからない迷いばかりの骨格のない文章になってしまう。判断の迷いはかんたんに解消できるものではないから、いっそのこと決めてしまうのである。課題図書のレポートの場合は、著者に説得されてしまおう。テーマ設定の明確なレポートの場合は、新しい文献の立場に立ってしまうと、あとがらくだ。自由課題の場合は、自分がそのテーマに興味津々である人間としてふるまおう。もちろんそれぞれの逆もありうるだろう。特定の立場に立つと決めれば、それ以外の見解は自分のなかでいったんペンディングしておくことになる。こうして作成に臨めば、それなりに首尾一貫した文章になりやすい。

 ただ、たんに首尾一貫した文章ができるということだけが「演技して書く」ことの唯一の目的ではない。わたしたちは「演技して書く」ことによって、自分の頭のなか(あるいは胸のうち)にある考えや感情をはじめて知ることができる。そしてまた、それによって、書かれた意見や感情以外のものも自己認識することができるのだ。つまり、自分が書いてしまったことを読み返してみると「どうもちがうなあ」と感じることがあるはずだ。その「ちがい」をさらに明確にことばにしていく。それが「考える」ということなのだ。迷ったままの文章だとこうした「ちがい」が見えてこない。いったんわりきり、あとで修正する。こうしてわたしたちは自分自身の知識や価値観を反省的に捉えることが可能になり、また、今までの自分を超えることも可能になるのだ。▼6

▼6 ここでわたしが想起しているのは、マックス・ウェーバーの理念型論とゲオルク・ジンメルの距離化論である。一見むずかしい方法論も実践的に捉えなおすと他人ごとではなくなる。
 いったん立場を決めておくことは、もうひとつの効用がある。それはことばに責任をもつ態度を自然につくりだすのである。立場を決めなければ無責任でいられる。しかしひとたび特定の意見なり立場に身をおいて語るとなればそうはいかない。それが慎重な知性的判断を導く。すなわち、留保が必要だと考えたり、例外の存在を考慮したり、批判されたときの弱点を補ったりすることになる。社会学はおそらくここから始まるのだ。

提出前のチェック
 レポートの場合、形式はとてもたいせつである。教員によっては、形式を学ばせるためにレポートを課すことも多い。気負いのある人ほど形式に無頓着になるものだが、初心者はまず形から入るものだと観念しよう。内容上の形式(構成)についてはすでに述べたので、今度は清書形式について確認したい。下書きがあがった段階で以下の項目についてチェックしておこう。

(1)句読点が適切についているか–とくに句点(「。」)が明確でないものが横書きレポートに多い。自分ではピリオドのつもりでも、読点(「、」)と区別できないレポートが意外に多いのだ。縦書きと縁のない工学系の学生が横書き原稿用紙に書くときは、とくに注意してほしい。

(2)適切に改行されているか–四〇〇字詰め原稿用紙にひとつかふたつ改行するとよい。改行は、たんに読みやすさのためだけでなく、パラグラフの設定として重要な意味をもつ。書く人の論理性が改行のタイミングによってある程度わかってしまうのだ。原則的にひとつのパラグラフにつきひとつの小テーマにする。

(3)原稿用紙の使い方が標準的な作法に統一されているか–信じられないことだが、文と文のあいだに一字の空白を入れる学生や、改行後のパラグラフの冒頭に一字の空白を入れない学生がいる。原稿用紙の使い方自体は大学以前に習得すべきものであるけれども、現実にはそうなっていないようだ。清書原稿の場合は、行頭に句読点や括りのカッコをおかないように気をつけよう。そうなりそうなときは前の行末に詰める処理をする。▼7

▼7 これを「禁則処理」という。すべての印刷物は禁則処理をしてあるので、迷ったら手近の本を参照すれば済む。ただし新聞や雑誌は処理法が若干異なるので、本の方を参照すること。
(4)誤字脱字がないか–パソコンやワープロを使えば日本語変換そのものがスペルチェックになるから、同音異義の熟語だけ注意すればよい。手書きの場合は逐一、辞書でチェックしよう。国語の課題ではないから減点対象になるわけではないが、誤字脱字があると印象は格段に悪くなる。大学生の書くものとしては論外だからである。そして、たかがそれだけのチェックもできないほど大急ぎで書かれたと見なされるからだ。試験の場合はそうでもないが、レポートの場合、見た目と内容はほぼ相関する。▼8

▼8 じっさい、留学生が書いたのではないかと思うような日本語のレポートが少なくない。ただし、ほんとうの留学生の書いたレポートに誤字脱字はほとんどないのだが……。もともと留学生に優秀な人が多いせいもあるが、それだけではなく、おそらくかれらはこまめに辞書を引いて確かめるからだと思う。日本人学生も負けずに辞書を引こう。なお、留学生・帰国子女・障害者の方で、日本語表現に困難を感じている人は、そのことをレポートに注記して教育的配慮を仰いだ方がいいかもしれない。社会学の日本語はかなり高度にならざるをえないのだから。
(5)用語を統一してあるか–「門」「歴」「機」などを略字で書かない。「です・ます」調と「である・だ」調をまぜない。接続詞は原則的にひらがなに統一し、「又」などは使わない。「コンピュータ」と「コンピューター」のように外来語の表記を不統一にしない。▼9

▼9 用語法については『記者ハンドブック–用字用語の正しい知識』共同通信社(年刊)を参照するのが無難。
無作法なレポート
 昨今、読書界・思想界に「作法」と名のつく本が増えている。これらの本を一括して論じるのは無理かもしれない。しかし、あえて共通点を探ると次のようになるのではないか。それは、学問総じて知的活動を客観中立な存在と見なしてきた従来の学問観から距離をとり、学問をあくまでも人びとの営みとして自覚するところにある。そのとき「作法」が浮上してくるのだ。とりわけ作文技術に関するものは「書く者」と「読む者」の社会的関係にかかわるから「作法」がしばしば使われるのである。▼10

▼10 たとえば、鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法』(三一新書一九九二年)、ウンベルト・エコ『論文作法–調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳(而立書房一九九一年)など。
 レポートの評価も、社会学の作法に則っているかどうかによってまず決まるといってよい。その上で内容上の細かな評価(よく調べているか・文献の選択は適切か・構成がしっかりしているか・論点が明確か・オリジナリティがあるかなど)が加わるのである。後者についてあまり期待されていない(?)初心者の場合は、したがって前者が採点評価の要になる。「無作法」なレポートはまず評価されない。では、具体的にどのようなレポートが「無作法」と見なされるのか。六種類の代表的なパターンをまとめておこう。

(1)剽窃(ひょうせつ)

 地の文(自分が述べているところ)と引用(他人が述べているところ)の区別があいまいなレポートは無作法である。学生の書くレポートの三分の二は他人の述べたことの要約である。学問的知見に謙虚であろうとすればおのずとそうなるはずだ。したがって、ある意味では要約の仕方がレポートの勝負どころといってもよい。ところが、初心者に多いのは引き写し的要約である。引用と地の文とが区別されていない。著者とそれを論じている自分が区別されていない。だから「なかなかしっかりしたことを書いているな」と思うと、それが参考文献の丸写しであったりする。これは一種の詐欺である。

 といわれても、そのテーマについて自分のなかに何もないと感じるときが初心者には多いはずである。それをむりに書くとすれば丸写しするしかないではないか、と思うかもしれない。では、どうすればいいのか。

 作法に則ったそれなりの処理の仕方はある。第一にかぎカッコを使って〈「○○」と著者は述べている。つまりこういうことだ。〉といったように、文献の引用はかぎカッコで括り、自分のことばと明確に分ける。第二に独自の論点(柱)を立てて要約する。この論点は思いきりよく立てたほうがよい。第三に注をつける。自分なりに要約できたという自信がないときは、つまり剽窃のおそれのあるときは、要約のさいに参照した箇所の情報をつけておく。レポートの場合は文末に「(同上書、二〇-二九ページ)」程度の注でよい。

 結局「書く主体」のスタンスのとり方の問題なのだと思う。要するに対話的に書くよう心がけることだ。つまり参考文献の著者に対して自分が話をきくというスタンスをとるのである。たとえば「ここで著者が問題にしているのは二点ある。第一に……。第二に……。第一点は著者のいうように……。わたしがとくに問題にしたいのは第二点だ。そもそも……」といったぐあいに、レポートを書いている自分自身を文章のなかで定立することだ。そうであれば剽窃は発生しにくくなる。▼11

▼11 一般に論文に「わたし」は不似合いであると信じられているが、よく使われる「思われる」「考えられる」という受け身の文体は「書く主体」をぼかして責任の所在を不分明にする働きがあり、明晰な文体とはいえないのではないかと思う。「わたし」をタブーにすべきではない。ただしこれは日本の現状では少数意見なので注意すること。
(2)表記の問題

 なぐり書きや誤字脱字ばかりのレポートは無作法である。教員は読者として「清書ぐらいしろよ!」とか「辞書ぐらい引けよ!」といいたくなる。瑣末主義でいうのではない。これは能力の問題ではなく、あきらかに時間の問題だからである。かんたんな熟語のひとつやふたつも調べる時間がなかったとすれば、レポート全体にかけた時間も相当少ないということになる。内容上の深みや厚みも当然期待できない。

 対処の仕方はかんたんだ。第一に時間をかける。少なくとも早めに手をつける。第二に提出前に他人に見てもらう。第三にワープロかパソコンを使用する。

(3)安直な批判–感情的なこだわり・頑迷な精神・居直り

 社会学系の本はどこか常識に逆らうところがある。事実に対して知的に誠実であろうとすると、結果的にそうなってしまうのだ。その結果であろうか、反感に彩られたレポートに出会うことがある。世間一般より社会学の寛容度は大きい。非道徳的な考え方も社会学は認めてしまうところがある。道徳的な人はその道徳性をかえって誘発してしまうのかもしれない。マスコミ論でいうところの「ブーメラン効果」である。議論を元の黙阿弥にしてしまう感情的なこだわり、経験外のことを受け入れられない頑迷な精神、そして「それがどうした」「べつに知ったことじゃない」「だからどうなんだ」という居直り–いずれにしも自己防衛的であるのが気にかかる。社会学的であるとはわたしには思えない。

 とくに書評レポートは、本をけなすことではなく、魅力を紹介することに主眼がある。なぜなら課題図書は教員がそれなりに評価した作品だからだ。▼12魅力を伝えるためには、よく読まなければならない。逆に、けなすのはかんたんだ。本を読まなければよい。

▼12 まれなことだが、批判的に読むことを学んでもらうために、批判しやすい本を読ませるケースもある。これは一種のショック療法である。
 そもそも著者たちは思いつきの〈意見〉を提示しているのではない。本のなかで提示されているのは、対象そのものへの理解とそれについてのこれまでのすべての研究をくわしく検討した結果なのである。ちなみに研究者は研究対象について書かれたすべての資料を読む、すべての資料を、だ。それを初心者が思いつきで反論しうるだろうか。反論とか批判といっても、せいぜい、自分の数少ない体験をもとに推し量ったり、自分の常識に抵触するために生じる感情的反応に身をゆだねた結果ではないのか。

 その意味で、基本的に評価する方向で書く方が無難である。批判的に書くのはたいせつなことだが、とくにその問題について多くの本を読んで考えてきたという人以外は、思いつきの感想や揚げ足取りになってしまうことが多いのでお勧めしない。きちんと評価した上で補足的な問題点を指摘するようにする。▼13

▼13 このようなことをいうと「学生の個性を型にはめてしまって、その個性を殺してしまう」という人がいるかもしれない。しかし、個性とは、型にはめてなお型をはみでるものをいうのであって、型にはめることによって失われるような個性など、就職したら跡形もなく消滅してしまうような個性であって、過渡期特有の一時的な光彩にすぎない。それは、子どもがしばしば斬新な絵を描いてみせるのに似ている。真の個性はそれを社会の圧力のかかる中年壮年期にも描き続けられるかにかかっている。もうひとつ社会学系の教員に多いパターンとしては、本を要約したってそこに独創的なものがないから、自分なりの意見をしっかりもつために(そしてきちんとそれを表現できるように)感想を書けということも多い。しかし、個人的な意見を評価するのはいかがなものだろうか。一種の思想管理になりはしないかという危惧がないではない。感想や意見は科学としての社会学にとっては二次的なものに過ぎない。むしろそれらを相対化する視点を獲得したかどうかが重要なのだ。むしろ「味気なさを埋めるために独創する」と考えたらどうだろうか。
(4)自分の意見だけのレポート

 社会学において各自の意見は尊重されると述べた。しかし、意見だけというのは無作法である。自分なりの意見を書いてもいいが、課題図書の内容紹介や調べた内容に基づいて書くべきだ。一般にこのようなレポートは、何も読まず何も調べていない場合が多く、意見に説得力がない。いかにも友人のレポートを読んで即興的に書いたものという印象を受ける。それが事実かどうかは問題ではなく、そういう印象をあたえること自体も無作法なのである。

(5)著者の属性にこだわりすぎる

 課題図書について論じるとき、著者がどんな人かはあまりこだわらない方がいいのではないかと思う。自然科学や人文学であればそれほど問題にならないのだが、こと社会に関する書物は素朴なイデオロギー論が適用しやすいので、著者が「東大出のエリートだから」「女だから」「現場を知らないから」で批判できてしまう。というより批判できたつもりになってしまうのだ。そのような門前払いは一種の偏見による排除であり差別なのだと気がつこう。奥付の著者紹介など気にしないで書くこと。本に書かれた内容だけで評価するのが社会学の作法である。▼14

▼14 これは「対等性の作法」ともいうべき思想が前提になっている。くわしくは最終章を参照してほしい。
(6)みんなといっしょ

 社会学の場合、答はひとつでない。レポート内容もひとつではない。しかし、さまざまな条件が重なると、似たような内容のレポートが続出することがある。「みんなで渡ればこわくない」のだろうが、「青信号なのにだれも渡らない」なんてことも多い。これは完全に「談合体質」の現われである。「談合体質」は建設業界だけの話だけではなく、わたしたち自身にも存在するのだ。このようなレポートが続出するのを見るとき、わたしは「社会学的でないなあ」とつぶやいてしまう。

一歩先へ
 さらに心にとめておいてほしいことを補足しておこう。▼15

▼15 作文技術についてさらにくわしく学びたいときは以下の本を参照してほしい。鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法–高校生からの小論文』(三一新書一九九二年)。木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー一九九〇年/ちくま学芸文庫一九九四年)。木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書一九八一年)。論文執筆関係では、斉藤孝『増補学術論文の技法』(日本エディタースクール出版部一九八八年)。中村健一『論文執筆ルールブック』(日本エディタースクール出版部一九八八年)。上級編の参考書として、ウンベルト・エコ『論文作法–調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳(而立書房一九九一年)。
 第一に、枚数に制限がないのであれば、できるだけたくさん書こう。どんなテーマでもひと通り書くとなると一〇枚から二〇枚程度はいるものだ。指定枚数に上限がない場合は、そのくらいを目標にして書いてみよう。一度でも長いものを書いておけば、以後レポートを書くのが楽になる。こと読み書きの初歩に関して、量は質に転化する。

 第二に、「今はどうか」と考えてみよう。わたしたちが参照する本は多かれ少なかれ古い。だからこそ「自分たちの時代・自分たちの世代はどうだろう」と考える余地と自由がある。参考文献の完成度が高いと「この上に何を付け加えられるというのか」と感じてしまいがちだが、タイムラグの点では、おそらく頭のいい著者より有利だし、オリジナリティのうまれる余地もある。最近の新聞記事や時事用語事典をヒントにして自分なりに議論を付け加えてみよう。

 第三に、読む相手を意識して書こう。そもそもレポートはコミュニケーションのひとつの手段である。印刷される場合をのぞけば、それはひとりの教員に対するコミュニケーションであって、不特定多数の相手を想定したコミュニケーションではない。だから、どうしても書けないときは、いったん「です・ます」調で書くとうまくいく。「です・ます」調は読み手を意識させる文体である。主題になっている事実に対して自分と教員とがともに向き合って討論するスタンスで語ってみよう。それを「である・だ」調に–いわゆる論文調に–リライトすればよい。

 第四に、自分を変えるために読み書きするつもりで書こう。すでに述べたように、レポートは学生を型にはめるための作業ではない。むしろ自己学習的存在に高めるための予行演習である。保守的で頑迷な知性でもなく、受動的にしか反応しない鈍感な知性でもなく、それらを内側から変えていくことのできる知性への触媒として読み書きするのだ。本を読み、考え、書くことによって、つまり、科学的に洗練されたことばの海を通過することによって、以前の自分の考えを相対化する視点ができていなければならない。自分を変えるために読むのだ。だから、たとえばノンフィクションや新書本を安易に「むずかしい」といってはいけない。それは正直ではなく、たんなる甘えである。聡明な大人としては、むしろ受験によって自分が捨ててきたものについて気づくべきなのだ。自己反省へと向かいたい。

 第五に、何度も何度もリライトしよう。リライトの重要性はいくら強調しても強調しきれないほどだ。自分で読み返すこともたいせつだし、人に読んでもらうのも効く。一度の書き下ろしで完成できるのはプロだけであって、ビギナーは最低二回のリライトが必要だ。じっさいにはプロだって何度もリライトをくりかえす。ことほどさようにリライトはたいせつ。そのためにも早い時期に課題に手をつけることだ。もしそれをおっくうに感じる場合はどうするか。リライトを容易にする方法はただひとつ。ワープロやパソコンを使って書くことである。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
六 パソコンの利用――現代人のメディア・リテラシーとして [1999年改訂版]
パソコンの早期導入を
「この本はおそらくこの章から陳腐化する」と初版(一九九五年春に刊行)で書いてから数年。じっさいその通りになった。この章の文章は改訂版にするにあたって一九九八年末に書き改めたものである。しかし、数年を待たず、再び陳腐化するのは確実である。それほどパソコンをめぐる環境は変わりつつあり、かつまた、わたしたちのかかわり方も著しく変化している。だから、ディテールにこだわった議論はしたくない。

 結論からいえば、現代の社会学的生活にパソコンはもはや欠かすことができないものになっている。それはインターネット時代に入ってパソコンがコミュニケーションのメディアとして社会に定着したからだ。もはやたんなる事務処理機でも文書作成機でもなくなってしまった。

 したがって、パソコン導入だけでなくインターネット導入も不可欠になった。プロバイダーへの加入もしなければならない。こういうことは初級編段階で習熟しておくとあとあと有利である。早めに自力で身につけてしまうことをお勧めする。

インターネットの利用
 今はパソコンを買ったその日からインターネットに接続しようという時代である。コマーシャル・ベースの関連情報も格段に多くなった。多言は要すまい。ここではいくつかの典型的な学術利用の仕方を提示するにとどめよう。

(1)電子メールを使う。
 携帯電話も便利だが、電子メール(以下「メール」と省略)もたいへん重宝する。つい最近まではメールを送る相手が限られていたが、これからは電話並になるだろう。メールは相手が不在でも(毎日メールボックスを確認する相手であれば)確実に連絡がとれるので、忙しい人との連絡では欠かせないものになっている。また、ネットワーク文化の産物としてある種の「軽さ」がともなうので、目上の人・疎遠な人・はじめての人に対しても比較的コミュニケーションをとりやすいところがある。こうしたメディア特性を上手に生かしたいものだ。

(2)ウェッブ(ホームページ)を見る
 昔はパソコンを買っても使わない(使えない)まま放置する人が少なくなかったが、今はウェッブを見て回るだけでもキリがない。ポイントはサーチエンジンの使いこなしにあるが、はじめのうちは Yahoo!Japan のような、定番サイトを集めたディレクトリ・サービスで調べるとよい。網羅的なサーチエンジンだと、かえって手間がかかるものである。いくつかの定番サイトでリンクされているものを軸に見ていくとハズレが少ない。▼1

▼1 なお、文献情報・学術情報を得るためのノウハウや場所については、私のウェッブでサポートしているので、インターネットへの接続ができるようになったら、Socius(http://socius.org)を参照してほしい。
(3)メーリングリストなどに参加する。
 インターネットは「メーリングリストに始まり、メーリングリストに終わる」とも言われるように、インターネットの特徴であるヴァーチャル・コミュニティはメーリングリストで形成されているのが常である。▼2 なるべく知的なメーリングリストに入っておくと、けっこう勉強になるものだし、何かあったときなどに予想外の支援を得られたりする。仲間内で新規に立ちあげるのもいいが、できればさまざまな社会人の参加しているメーリングリストに入ることをすすめたい。

▼2 古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書一九九六年)一七三ページ。
(4)ウェッブを公開する。
 インターネットは、受け手として参加するだけでなく送り手として参加できるメディアである。自分の趣味や勉強を生かしたウェッブを構築して公開することは、発信者自身に一種の社会参加の機能を果たす。社会(他者)のまなざしの中に自分の世界をさらすことから予想外の交流が始まることも多い。ウェッブそのものはインターネットのサービスの中でも一方通行でもっとも放送に近いメディアであるが、それでも相互にリンクしあうことで、ゆるやかなネットワークを形成し、さまざまなコミュニケーションが始まるものである。このようなネットワークに参加していることがたいせつだ。

ネットワークの作法と無作法
 パソコンの利用法そのものに作法はない。けれども、ひとたびそれがネットワークにつながってコミュニケーション・メディアとして利用されるとなると、そうはいかない。接続先に人間がいるとなると多少の作法が必要になってくる。ここを軽く見てはいけない。

 たとえば、メールでのレポート提出が認められていないにもかかわらず、締切に間に合わなかったために添付文書としてレポートを送信する人がいる。「出席もしてないし試験もできなかったけど、このままでは進級できないので単位ください」という虫のいいメールもある。こんな使い方をしていると、そのうち教員のアドレスが非公開になってしまう事態さえ生じかねない。ダメモトでこういうことをするのはまちがっている。オープンであることに甘えてはいけない。

 そもそも、未熟な若者が本質的にオープンなインターネットに参入する方法にはふたつある。ひとつは、新人であることを自覚して、そこから少しずつメンバーとして必要なネットワーク文化の知識を身につけようとするやり方である。もうひとつは、はなから温情的配慮をアテにして身勝手にふるまうやり方。極端な場合では、自分のプライドを守るためにネットワーク文化を頭から否定して強気の野蛮主義に走るケースも少なくない。「身勝手」にしても「荒らす」にしても、そういうことでしか自分の存在意義を見いだせないのも悲しいが、未熟とはそういうものであろう。だから大人はそういうふるまいに対して黙ってただ無視するのである。

 自分自身がネットワーク上で何かを得ようと思うなら、ネットワーク文化に謙虚に学ぶ姿勢が必要だ。そして自分自身が人に何か貢献することが必要である。ことのほか「誠実と感謝」がものをいう世界でもある。学校社会で見られるパターナリズム的な人間関係や、組織社会に見られる利害関係や支配関係などとは異質の原理(コミュニケーション合理性?)で動くことを意識しておきたい。相手は生身の人間であることを忘れずに臨みたいものだ。

必要な能力は何か
 以上のようなことを考慮すると、大学などでおこなわれている「情報リテラシー教育」の目標とすべきことは、ネットワーク・コミュニケーションの能動的な主体となるチャンスの提供であり、市民として公共の場で発言できるコミュニケーション能力を開花させることであろう。つまり、理想的なネットワーク・コミュニケーションの思想とスタイルを学び、じっさいにそれをモデルとして学習者自身が実践して、その社会的意味を反省的に把握することこそ、大学教育における「情報リテラシー教育」の主軸になるべきなのだ。▼3

▼3 ここでは「ネットワーク・コミュニケーション」ということばを、インターネットだけでなくイントラネットやパソコン通信などをふくむ広い意味で使っている。CMC (Computer Mediated Communication) ということばもある。
 しかし、情けないことだが、現状ではOSや表計算ソフトの使い方を学習するのが関の山のようである。ほんの数年でスクラップ化するような技術の修得が中心になってしまっている。これでは、交通規則をまったく知らないドライバーを大学が量産しているようなものである。もっとしなければならないことがあるはずなのにと思う。となれば、学習者自身が自分でマスターするしかあるまい。それはたとえば以下のような項目である。▼4

▼4 基本書として、古瀬幸広・廣瀬克哉、前掲書。村井純『インターネット』(岩波新書一九九五年)。村井純『インターネットII――次世代への扉』(岩波新書一九九八年)。ネット上の作法を解説したものとして、ドナルド・ローズ『ネチケット入門――インターネットの行儀作法』池尻千夏訳/(株)メディアプラス編(海文堂一九九六年)。その他、岩波新書・講談社ブルーバックス・ちくま新書のインターネット関連書を参照してほしい。
(1)ネットワーク文化論(理論)
 ネットワーク・コミュニケーションの文化・歴史・作法・倫理・ダークサイドの学習。たとえば「なぜ匿名の発言が問題なのか」について思想的な理解をすること。

(2)リソース利用法(受け手としてのスキル)
 ネットワーク上のリソースの具体的な利用法について学ぶ。特定の目的を達成するためのアクセスの仕方や検索の仕方や情報の信頼性の見極め方など、受け手としてネットワークを活用するためのノウハウを学ぶ。

(3)コンテンツ制作法(送り手としてのスキル)
 ネットワークに送り手として参加する仕方を学ぶ。コンテンツ制作の動機、読まれる文章の書き方、HTMLの文法、ハイパーテキストの編集方法などについて学ぶ。じっさいにテーマを設定し、ウェッブを構築して公開する。必ず作品の相互批評をおこない、読者という他者の目の洗礼を受けることがポイントである。

(4)ネットワーキング技術(関係形成のスキル)
 ネットワーキングとは、人と人との対等かつゆるやかなつながりをそのつど自発的に形成して問題を解決していくことをさす。▼5 有効な議論の仕方やネットワークの広げ方、公共の場に自分を開いてゆく仕方を学ぶ。これは実地にネットワーク・コミュニケーションの経験を積むしかないが、このさい、関係形成にともなって生起するさまざまな問題に対処する技術も学ぶことができれば、それに越したことはない。

▼5 J・リップナック、J・スタンプス『ネットワーキング――ヨコ型情報社会への潮流』正村公宏監修・社会開発統計研究所訳(プレジデント社一九八四年)がこのことばの発祥地。通信システムで使われていた「ネットワーク」を比喩的に社会運動の形成局面に適用したもので、日本でも広く用いられるようになった。インターネットの議論でこれを持ち出すと「技術としてのネットワーク」と「人間関係としてのネットワーク」がかなり重複して混乱するが、実態としてもそういうところがある。
 以上の項目は高度と言えば高度かもしれない。また、きりがないと言えばきりがない。けれども、むしろこういう文脈に身をおいてこそ、パソコンの技術的操作を覚え、パソコンを使って説得力のある文章を書き、ネットワークについて理解が深まるものなのである。パソコンでレポートや論文を書く段階は、むしろそのあとの話である。

パソコンで文章を書く
 パソコンの普及によって若い人たちもずいぶん饒舌に文章を書くようになった。レポートを読んでみても、その量におどろくことが多い。その理由はいくつかある。まず、それはどこからでも書き始められるから、とりあえず文章を書き進めるさいの敷居が低い(心理的抵抗が少ない)ということ。また、リライトや推敲がかんたんだから文章の完成度が確実に高くなるということ。しかも構成案と下書きと清書がひとつの文書の時間的生成過程として位置づけられるわけだから、作業上の二度手間・三度手間が省ける。文学的な気負いがとれる効果があり、結果的に創作意欲・表現意欲を高める。

 そもそも、従来、原稿用紙を使用して論文を書くとき、プロが使う道具は鉛筆や万年筆だけではなかった。消しゴムと修正液はもちろん必要だが、それだけでなく、さらにノリとハサミが欠かせなかったものだ。何度も草稿を読み返し、微調整を加えながら効率よくリライトするにはそれしかなかったのである。

 わたしの師匠にあたる先生も、仕上げ段階で使っていたのはもっぱらノリとハサミだった。世界的に著名な社会学者が一字一句のためにせっせと切り貼りする姿に一種の感動さえ覚えたものだ。ちなみに、ノーベル賞作家となった大江健三郎も、その最後となるかもしれないと言われた小説を「書き上げた」瞬間に使っていたのはノリとハサミだった。ことほどさように論理的な整合性を高めるためには、書きなぐった文章ではダメなのだ。プロのもの書きほど何度もリライトを繰り返し、切り貼りの労を惜しまない。それゆえ、もの書きは職人芸たりえたのである。

 ところが、パソコンとワープロ専用機はこの職人芸を一挙に身近なものにしてくれた。いつでもどこでも文章を書き換えられる。パラグラフの順序を入れ替えたり、文中に書きたしたり、用語法を機械的に統一したり……と自在である。これらを駆使すると、わたしたちのようなものぐさでも何とか整合性のある文章をものにすることができる。

 というわけで、パソコンを手に入れたら、文章をどんどん書いてみよう。もちろん、じっさいにはメールを書いたり、メーリングリストに投稿したりというところから始めるのはいいことだ。相手があってこそコミュニケーションは始まり、文章を書く意欲もわくものだ。そして、文章の独りよがりなところも相手の反応によってチェックされるもの。当初はこういうことに意識的に取り組んでほしい。

 それと並行して、自分自身の勉強のために、知的な文章を書くようにしてみよう。ニュース日誌、読書ノート、思索ノート、授業ノート、そして課題レポート……。これらはやがて自分にとってのデータベースになる。パソコンのよいところは自分の知的世界が良くも悪くもあからさまになるところで、それだけに、居直りさえしなければ健全な発展も望める。

 このような文章はなるべく同じ種類のソフトで書いた方が、あとあと再利用するのに便利だ。通常はワープロソフトで書くことが多いが、たしかにレイアウトに凝ることができて、しかもプリントするのに便利だが、互換性が少ないのが難点。長い目で見ればエディターソフトで書くのが無難である。エディターソフトは装飾なしのテキストファイルで保存する。このほうが、どのソフトでもどのOSでもインターネット上でも読めるという互換性と汎用性があり、何かと便利だからである(若干の変換は必要だが、かんたんにできる)。プリントするときにはワープロソフトに読み込ませれば不自由はない。あるいはワープロで書いたとしても必ずテキストファイルとしても保存するとよい。ここでは「テキストファイル保存法」と呼んでおこう。

 さらにクロスプラットフォームで行こうとすれば、HTMLで保存する手がある。HTMLはウェッブを作成するときに使用する約束事だが、これで書いておくと、将来どんなにパソコン事情が変わろうが、ソフトがヴァージョンアップしようが(消滅しようが?)、自分のマシンのOSを変更しようが、読めないということはまずないだろう。多少勉強が必要だが、ウェッブ作成用のオーサリングソフトを使えばかんたん。最近はワープロソフトでもHTML書類として保存できるようになったので、そうむずかしく考えることはない。HTML(正確にはHTML4.0とCSS)で書くと見栄えも操作でき作表も容易なので、私自身はエディターを使って最初からHTMLで原稿や講義ノートを書いてしまうことも多い。HTMLを使うと、そのままハイパーリンクするノートになるし、MacintoshでもWindowsでも使える融通さが貴重である。

書評レポートを書いてみる
 さて、パソコンでどのようにレポートや論文を書くか。指定された課題図書を書評するレポート作成のケースを考えてみよう。

 まず課題図書を読む。ただし、ものを書くために読むときは、鉛筆か付箋紙で気になったところや重要と思われるところをチェックしておくのがコツである。読み終わったらチェックしたところだけ何度も読み返す。これによって論点がおぼろげながらまとまってくるはずだ。そこでまず本の順序にしたがってデータを書く込む。チェック箇所で引用したい箇所はあらかじめかぎカッコつきで打ってしまう。長いものはその段階で要約する。このとき本の文章をそのまま打ってはいけない。「著者はここで○○○が○○○であることを指摘している。p.107」といったぐあいにしておく。これを全編にわたって打ち込んだあと、それらを眺めながら、カット・アンド・ペーストをくりかえしてまとまりをつくっていく。三つぐらいの論点にまとめることができれば上出来だ。この過程でいくつかのチェック項目は捨てることも必要。捨てることで論旨がすっきりする。従来この作業はメモやカードでやってきたことだが、パソコンだとはるかに効率よくできる。ここがすでに構想の段階である。

 いったん論点がまとまってきたら、それぞれに項目名をつけて「第一点は、○○○」とまとめておく。今度はその論点を頭におきながら本をパラパラ読み返してみる。すると関連する箇所が新たにでてくるはずだ。それを補いながら各論点についてバランスよくまとめていく。そのさい、ひとつの論点をふたつにわけたり論点をずらしたりして修正するといったことがあるかもしれない。そのあと、それぞれについて自分なりの評価を加える。すでに論点として提示したこと自体が自分なりの評価だから、すべてに論評することはないが、ひとつぐらいはきちんと論じてみたい。論じてみたいが論じることが何もないときは──こういうことはよくある──「◆ここで一考」なり「◆ここで決めること!」なりと打って、しばらくほっておく。何ごとも時間は必要である。そのあいだにイントロ・序論・結論・タイトルなど書けるところを書けばいい。未確認のことについては「◆要確認」と打っておく。アイデアが浮かんだら、とりあえずどこかに書き込んでおく。これで第一次稿のできあがりだ。

 次に第一次稿で不十分なところをひとつずつ埋めていく。確認すべきことを確認し、考えるべきことを考える。そのために、本を読みなおしたり、図書館で事典を引いたり、同じテーマを論じた他の本や記事を手にとってみたり、友人と議論したり、感想を並べたりする。自分のなかからことばを引きだすには、必ず何らかの刺激が必要である。何かをじっさいに行動しなければならない。何かの行動の反応としてことばがうまれるのだ。──こうして第二次稿つまり下書きが完成する。

 ここから推敲(すいこう)に入る。いったんプリントアウトしておいたものに赤字を入れるようにすると効果的だ。赤字を打ち込む。それをプリントアウトしてさらに赤字を入れる。これを何度も繰り返す。ときには大胆な構成変更もあるだろう。むしろそれがふつうである。「どうもイマイチだな」と手を入れる──この「ずれを埋める作業」こそが「思考」そのものなのだ。

 最後に仕上げである。エディターで作成したテキストファイルをワープロソフトに読み込んで、指定された様式でプリントアウトする。ワープロソフトは自動的に禁則処理をしてくれるから、それ以外について点検すればいい。表紙をつけることも必要だ。

 ゼミ報告や卒業論文なども、結局、書評レポートでの作業を複数化するだけの話だ。テーマや資料を調査して自分で決めるところがちがうだけである。

アウトライン機能を使う
 このような作業を効率よく実行できるのがアウトライン・プロセッサーである。アウトライン・プロセッサーは、ツリー状(階層的に)に配列された細目次のひとつひとつの項目にカードがぶら下がっているようなエディターである。文章を書いたカードに項目名をつけ、それをツリー状に配列したようなものであるといってもよい。そのひとつひとつのカードに文章を書き込んでゆく。位置を変えたいときには目次の項目を移動するだけで中味の文章も移動する。

 最近はたいていのワープロソフトにアウトライン機能が装備されているので、とくに購入する必要はなくなった。目次構成案を発展させながら、各項目に付属する文章を書いていくやり方は、少し大きめの構成的な著作を書くのにたいへん適している。初級編ではあまり必要ないが、百枚程度の卒業論文では有効な機能である。とはいっても、欧米の作文教育は全体のアウトライン(目次構成案)を決めて書いていくそうだから、学び始めの段階から使い始めるメリットはあると思う。積極的に使ってほしい。

 具体的には、全体の構成案を箇条書きにして、それを目安にして、書きやすいところから本文を書いてゆくことになる。ある部分がふくらんできたら、項目を細かく分けて、それぞれに小見出しをつける。なかなか書けない項目があれば、思いきって切り捨ててしまう。全体のバランスを考えて、足りないところや過剰なところがないか吟味する。

 一種のトップダウン方式で書いているようだが、じっさいには、ばらばらの素材があってそれを徐々にとりまとめて項目化していくボトムアップ方式的な側面もある。ある程度いいたいことがたくさんあって、それをどのようにいおうかというときはトップダウンの色彩が強くなろうし、逆に、まだいいたいことがなくて材料集めの段階から書き始めるときは──原稿用紙に書くときはこれができない──ボトムアップ的作業が前面にでることになる。

 たとえば講義ノートのように一年なり半年なりに講義する内容の膨大なものは、とてもエディターには手に負えない。テーマごとにファイルを分割する必要がある。アウトライン・プロセッサーならひとつのファイルとして一括して管理できる。構造上、ファイルが巨大になってもかなり高速で作業できることもあって、わたしは、型遅れの低速なマシンでガマンしていた時期にはたいへん重宝し、さらに進行表としても使っていたほどである。

 そもそも文章の書き方にはおよそ三つのやり方がある。第一にシーケンシャル・ライティング。始めから連続的に書くやり方だ。リニア(直線的)に書く。読む順序と同じように書く。流れを重視する文章法だ。第二にコンストラクティブ・ライティングともいうべきスタイル。構成感を重視した建築的な書き方である。全体のアウトラインをトップダウンで決めてから書いてゆく。たとえば結論から書き始めて本論を書き、最後に序論を仕上げるといった書き方がこれだ。第三はハイパーテキスト。非連続的な文章が相互にリンクした状態(相互参照状態)で、どこからでも読める書けるテキスト群である。

 社会学のような理論科学に関する知的作業には第二のタイプが作法にかなっている。それは結論なり主張なりがあって、それを説得するために論拠や証拠を提示するタイプのディスクール(言説)だからである。原稿用紙やノートに作文するときには、おのずと第一のタイプになってしまうが、そのままでは成り行きまかせの文章構成になってしまいがちである。だから切り貼りやリライトが欠かせなかったのである。電子情報時代にふさわしい新しい文章法として近年注目されている第三のやり方では、テクストの解釈がすべて読む側にゆだねられてしまって、書き手の意図する文脈はほとんど無効化されてしまう。社会学的な文章は、書き手によって緊密にコントロールされていなければならないから、これでは困る。しかし俗にいう「構想を練る」とはこのような状態をさすのではなかろうか。さまざまな要素がさまざまにリンクして、もつれた糸のようになった状態。そのしがらみを少しずつほどいて、よけいなリンクを切り、ひしめきあう要素をグルーピングして柱(論点)を立ててゆく。ひとたび柱が立ったら、今度は昔から柱が立っていたかのように記述を整え、前から順番に読むであろう読者の意識の流れを想定して演出してゆくのである。結局わたしたちは三種の文章形式を潜り抜けて文章を書き上げるのだ。

自分のデータベースを構築する
 自分の知的世界をパソコン上に展開するとなると、データベースソフトが必要だと考える人が多い。じっさい高価なソフトを買って(あるいは高価なデータベースソフトがバンドルされているパソコンを選んで)せっせと蔵書やCDのデータを打ち込んでいる人が多い。しかし、データは利用してはじめて価値の出るもの。入力する手間はなるべく少ない方がいいし、たいてい挫折するだけである。

 それよりも、もっとかんたんなやり方がある。それはあえてデータベースを構築しない構築法である。それが、さきほど言及したテキストファイル保存法である。自分の書いたメモ・ニュース日誌・読書ノート・授業ノートなどをテキストファイルで保存しておけば、マルチファイル検索のできる検索ソフトかエディターで特定項目についての記述をすべて拾うことができる。

 マルチファイル検索機能のこのような特性は次のことを意味する。それはデータをあらかじめ分類整理する必要がないということだ。プレーンなテキストファイルにさえしておけば、どんな書きようであってもかまわない。これはたいへん実用的で、つまり思いつきやヒントはただどんどん書き込んでおけばいいのだ。あとで必要に応じて検索し、次のステップの踏石にすればいいのである。まさに自分だけのデータベースである。

 社会学は哲学ではないのでひとりで思索すればよいというものではないが、問題関心を広げたり深めたりすることについては、それなりに思索が必要である。それは結論をだすといったことではなく、自分なりのテーマをみつけることを目標とするような思索である。文系学生であれば卒業論文に備えてそれは必要である。卒業論文のない学生や社会人の方も、自分を自己学習的存在へと高め、自分で自分に影響をあたえ、それによって自分をさらに変えてゆく反省的循環を確立するためにも必要である。このようなありようを「自己組織性」(self-organity)というが、知的側面でこれを自覚的に成し遂げることは、かつては相当にまめな努力を要した。ノートやカードやファイリングシステムなどの使いこなしが必要だった。それがパソコンを使うと比較的かんたんにできる。わたしもパソコンを使うようになって、ずいぶん悩むことが少なくなった(とくに文房具についてのこだわりから解放された)。そして、一〇代末期から二〇代にわたって書き上げたあのノート群はいったい何だったんだろうかと、かえって悩んでしまう今日このごろである。

送り手になること
 パソコンを使いこなすというのは、じっさいどういうことだろうか。マシンやソフトの新製品情報に詳しいことだろうか。裏ワザ的な操作法を知っていることだろうか。いやいや、おそらくそうではない。それらは所詮、ゲームやアニメのおたくと同様、消費行動の一ヴァリエーションにすぎないのだ。

 忌憚なく言えば、そもそも学問のほとんども知的消費であって、知的生産とか知的創造といえるものはほんの少しである。その意味では学び始めは知的消費に徹するというやり方もあるとは思う。しかし、じつはそうした受け身な態度では、なかなか一歩先の知的創造の局面に踏み出せないものである。ならば、さきに一歩踏み込んでやってみて、それを反省することで半歩後退し、ふたたび次を展望するというやり方のほうが実際的ではないだろうか。

 そのやり方というのは「送り手になること」だ。具体的には、メディアをつくってコンテンツを公開することである。

 たとえば「演習」であれば「ゼミナール報告」略して「ゼミ報」の発行をすすめたい。クラスの仲間で「ニュース研究会」「社会問題研究会」「時事問題研究会」をつくって会報をつくるのもいい。音楽がすきなら「音楽社会学研究会」──べつに社会学でなくてもいいのだが──をつくるということがあってもいい。以前は経費を集めなければならないのでかんたんにはいかなかったが、今はパソコンとコピーのおかげで、ずいぶんかんたんになった。

 もっと安価で効果的なのはウェッブ形式にしてインターネット上で公開することだ。著作権侵害に注意してさえいれば、それほど問題にはならないだろう。コンテンツとして充実していれば、それなりの反応がえられるものである。もちろん批判されることもあるだろうが、それもふくめて「矢面に立つこと」がたいせつなのである。それが自分を知的に鍛える。そういう道具としてパソコンを利用できれば、それこそ生産的な使い方ではなかろうか。

 送り手になる経験は社会学的見地から見ても重要である。というのも、こうした作業は、やや大仰ないい方が許されるならば、ジャーナリズムの系統発生的な歴史を自分たちの経験として個体発生させることになるからだ。「教室に印刷機を」とピエール・フレネはいったそうだが、草の根ジャーナリズムを体験することは、成熟した主体的市民となる第一歩である。ひとりひとりがメディアをもつことによって、いうべきことがいわれないままになることを防止する。これは健全な市民社会の基本的条件だ。ぜひ自分の知的生活にこのような好循環をつくりだして創造的な局面を切り開いていってほしい。▼6

▼6 すでに個々のデータが古びてしまっているが、以上に述べた考え方の詳細については、野村一夫『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社一九九七年)。
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社会学の作法・初級編【改訂版】
七 授業の作法――能動的な受け手として
講義を聴くということ
 これまではおもに自分ひとりでおこなう知的作業について述べてきたが、これからは大学や研究会などの具体的な学問的場面におけるコミュニケーションについて述べていこう。その第一のものは講義である。

 朝日新聞によると、明治学院大学法学部政治学科B日程において外国語一〇〇点と講義理解力二〇〇点の二科目だけの入学試験がおこなわれ、定員二〇名のところ一〇〇〇人以上の人が受験したという。▼1講義は「ポスト冷戦と国連の役割」というタイトルでおこなわれ、それを受講して次の問い(全三問)に答えるものだった。

▼1 朝日新聞(東京本社版)一九九四年三月一六日付夕刊第4版「窓──論説委員室から」
「問1 講義内容にそって、これまでの国際政治の変遷を整理した上で、今後の国連のあり方について論じてください。」「問2 この講義に疑問を感じた点を指摘し、自分の意見で批判してください。」(問3省略)──合格者は四〇人。そのうち約四分の三は高校時代の成績がABCDEの五段階評価のCで、いわゆる優秀な生徒はバタバタ落ちたという。朝日新聞のコラムではこれを「講義理解力」として紹介していたが、ここで問われているのは、いわゆる優秀な生徒が得意とする暗記力でもなく瞬発的な条件反射力でもない、総合的な実践的コミュニケーション能力である。あるいは「語られたことばへの感受性」であるといってもよい。このデータが物語るように学校教育はこのような基礎的なコミュニケーション能力や感受性を排除してきたのである。

 本来、大学入試はこのようなものであるべきなのである。これなら社会人も高校生とひけをとらないはずである。しかし、大学側の採点作業が地獄化するのは目に見えている。過剰適応するスタイルが一般的になっている現在の受験体制では困難なことだ。だからこそ、それは大学に入ってすぐに再構築しなければならないのだ。

 ところで講義というコミュニケーション形式のメリットはどこにあるのだろう。それはたしかに数多くの学生が一度に受講できる。しかし、それは大学運営上のメリットであって、受講生や教員にとってのそれではない。では、わたしたちにとってどこにメリットがあるのか。

 印刷メディアが未発達な時代の名残りともいわれる講義形式であるが、現代の大学においてわたしたちが講義形式に見いだせるメリットは三点ある。第一に、最新の事例をあつかうことができる。これは印刷メディアに対してもつ講義のメディア特性である。印刷物はかんたんには改訂できない。しかし講義はちがう。いつでも新しい事例やデータや研究成果を盛り込むことができる。第二に、むずかしい本を読まないで概要を知ることができる。現代において社会学系の本を読むことは非常に困難なことである。講義にでていないと、テキストでさえ試験前日まで(あるいは当日まで)読む気がしないものだ。しかし講義を聞けば「ああ、そんなこといってたなあ」という感じでテキストも読める。なぜかというと、全体のマッピングが頭のなかにできていることと、それぞれのテーマについて動機づけがなされるからである。第三に、語る人の人柄と情熱が学問への親しみをもたらす。すべての教員にカリスマ性を期待するのはむずかしい。しかし人を通じてしか学問はありえないのであり、それがコミュニケーションであるかぎり、学問を語る人とのかかわりや交流が学問への道を拓くのである。

 以上三点は、学生にとっては「なぜ出席し参加することがたいせつなのか?」の解答でもある。と同時に教員にとっては「どのような講義をしなければならないか?」の解答でもある。社会学の印刷メディアには盛られていないような現代的事例をたえず取り込み、それぞれの社会学的テーマに対する問題関心を喚起するよう、情熱を込めて講義したいものだ。

ノートをとる
 講義に臨む学生のあるべき作法はノートをとることである。しかし学生には三種類いる。ノートをとる学生、板書だけノートする学生、ノートしない学生である。ノートしない学生はいかにも無作法だが、出席者の多くを占めるノートする学生も板書を写すだけで、受動的な姿勢が気になる。

 「近ごろの学生はノートのとり方がなってない」と嘆く教員は多い。そういうわたしもそのひとりだ。しかし、ノートのとり方をトレーニングさせているという教員にはお目にかかったことがない。これは大学にかぎらない。わたしは十年ほど塾で教えた経験をもっているが、そこで生徒に聞いたかぎりでは、小学校から高校にいたるまで、それはまったく同じなのだ。つまり、世の先生方は嘆くだけで何も具体的に指導しないのである。

 まず何のためにノートするかを確認しよう。まず、試験のときに講義内容を再現できるようにするためである。第二に、講義に対する自分の反応をつなぎ止めるためである。そして第三に眠らないためである。

 第一の目的を達成するには再現可能性の高いノートにしなければならない。板書を写すだけでは客観テストには対応できても、社会学系科目のほとんどがそうであるような小論文形式の試験には対応できない。というのは、小論文にするには当然のことだが文章化しなければならない。ところが板書は、どんなにていねいなものでも、基本的に断片的なものである。「Aという現象が原因となってBという結果になったと考えられている」という文は「A↓B」と板書される。小論文試験では、この「A↓B」から文を再構成しなければならない。そのためには板書だけではダメで、聞き書き的なメモを添えておく必要がある。

 このようなノートをとるには、日本語のディクテーション(聞き取り)を意識的にトレーニングするのが有効だ。ニュースを聴きながらメモをとり、それを文章に復元してみよう。もとの放送原稿とちがっていてもかまわない。自分なりに再構成できることが大事である。トレーニングのさしあたりの目標は、できるだけ長い文章に再現できることである。

 これをしてみると、ひとつのことに気づくはずだ。それは接続語が決定的に重要だということだ。「しかし」「だから」「なぜなら」「というわけで」「たとえば」といったさりげないことばは、けっして板書されない。しかし、それが流れ(文脈)をうみだすのだ。一般には矢印で表示することが多いが、あとでその意味を復元できないことが多いので、かなでメモしておく必要がある。

 また、黒板に向かって細かい字で板書してばかりの理科系の授業と異なり、社会学系の授業は漫談風であることが多い。とくに具体的事例のところは、つい聞き入ってしまったり聞き流してしまうものだ。わたしは比較的多く板書するほうであるが、それでも事例説明になるとどうしても板書が止まってしまう。すると、とたんに受講者のノートも止まってしまう。じつはこの事例のあつかいがクセモノである。ここはしっかりメモして、ディテールにこだわりたい。具体のなかにのみ社会学的事実は存在するのだから。

 文章化するさいに重要な役割を果たすもうひとつのポイントは重要度である。断片的な情報を文章化しようと思えば、それらの情報の重要性の評価をしていかなければならない。本題にとってとるにたりないエピソードを大きくあつかえば、答案はピントはずれなものになってしまう。どれが重要でどれが二次的なことかの判断が適切でないと文章構成に響く。◎○△などの記号を使って重要度を明示するのはごく初歩的なワザであるが、けっこうものをいう。

 とくにわたしが勧めたいのは、ノートの文章化を講義の日の夜に済ませることだ。時間は自分を他人にしてしまうもので、二ヶ月ぐらいたってしまうと、自分のノートでも理解できなくなるものだ。その日のうちに手書きのノートをもとにパソコンに文章化しながら打ち込んでゆく。形式ばった書き方ではなく、その場の雰囲気を再現しておくとよい。おそらくこれがあなたの重要なデータベースになるにちがいない。

 さて、第二の目的を達成するには、自分の反応を書き込む必要がある。ノート段階ではフキダシにしておくと混乱がない。パソコンに文章化するときには[……]なり◆なりの表示を統一して記録するよう心がけたい。この集積があなた自身の問題関心の源泉となりオピニオンになる。これがまた第三の目的を達成することに通じる。やはり楽しくノートすることだ。そのためには、教員の講義内容と自分との仮想対話をノートするのが理想であろう。▼2

▼2 第三の目的について一言。わたしが社会学を教えるようになったとき、成績不良者のすくい上げと出席率向上をねらって毎回レジュメを配って講義に臨んだ。ところがやがて、レジュメ配布の授業はさまざまな要因が重なると眠くなってしまうことに気がついた。レジュメは便利だが、刺激が少なく、昼食後となるとどうしても眠くなる。しかも熱心な受講生にとっては自分なりのノートを構成できない不自由さもあるようだし、要領のいい欠席常習者との差ができないこともあって案外不評なものである。手を動かすという原始的なことも軽視できない。
教室のコミュニケーション
 しかし現代の大学において講義そのものがコミュニケーションとしてどれだけ有効におこなわれているかということになると、なかなかむずかしいものがある。教員と学生、それぞれの事情が、講義というコミュニケーション形式を困難にしている。

 教員側の事情としては、講義ノートの改訂がむずかしく、新鮮な現代的事例を結びつけた授業がなかなかできないことがある。意欲の問題もさることながら、大学行政に関する会議と論文や原稿の締切に追われているのが実態で、要するに時間がないのである。それでもカリスマ性があれば受講者も人物的魅力から学問への興味をもつこともあるだろうが、研究者というものは本来地味なものだからあまり期待できない。それに加えて専門家特有の視野の狭さが講義を硬直的なものにする。とくに一般教育科目は視野を広げることにポイントがあり、受講者もそれを期待するにもかかわらず、教員の狭い専門分野に閉塞しがちである。

 他方、学生側にも事情がある。たとえば社会学系の授業でも、社会学専攻として選択した人であればそれなりの動機づけがなされているだろうが、一般教育科目として選択した人ではそうはいかない。たとえば工学系を専攻する学生が社会科学を二科目履修しなければならないために社会学を履修するということがある。いわゆる不本意履修である。こうなると単位取得以外に受講動機がないから、学生の態度は経済合理的で戦略的なものになりがちである。しかもそういうケースにかぎって大教室や講堂でおこなわれることになるのだ。

 大教室において教員と学生とが濃密なコミュニケーションをすることはまず不可能である。大教室ほど質問がでない。大教室ほど反応が鈍い。あくまで割合の問題だが大教室ほど成績が悪い。そのかわり受講者同士でのコミュニケーションが盛んになり、大教室ほど私語が多くなる。授業中の出入りも多くなる。こうして大教室は無作法になる。▼3

▼ 昨今、大学改革の文脈で文章を書かれる先生方が、大教室の講義でもこんなにうまくできると自分の流儀を披露されることがある。そんなとき、いつも気になるのは「大教室」の概念が必ず「百人以上」という少人数(!)として語られることだ。百人と二百人はちがう。まして三百人や四百人はまったくちがう。じっさい四百人を動かすのはたいへんである。それはすでにひとつの社会である。さまざまな人がいて、さまざまな集団が形成され、流言が飛び交う社会なのである。わたしには経験がないが、受講者一四〇〇人の授業があると聞いた。じっさいに出席するのは半数ぐらいだというが、それにしても異常である。しかし私学における社会学系の一般教育科目の多くは、このような異常な状況でおこなわれている。こういう状況で「知と戯れてみよう」といっても栓ない話である。こういうことは、ごく一部のめぐまれた国立大学だからいえるのだと、わたしなどは思ってしまう。
談合体質
 これは大学当局の責任だろうか。教室不足などのように、それもないわけではないが、最近はそればかりではないようだ。というのも、大教室の授業の多くは自由選択科目あるいは選択必修科目だからである。

 近年の大規模なカリキュラム改革によって、学生の科目選択度が格段に高くなった。その分、人気のある授業や甘い評価の教員に学生が集まりやすいが、その傾向がだれの目にもあきらかである場合「クラスのみんなが受講するから自分もついでに」という便乗組が発生し、その結果なだれ式に学生が殺到するのである。「みんなで渡れば」式の日本的集団主義もあるが、じっさいその方が試験対策が容易だという側面もあるのだ。社会学系の講義は、一見なじみやすいテーマだから──しかも出席をとらないことが多い──しばしばこういうことになりがちである。

 このような学生集団の談合体質が、一面で、成績評価権をふりかざす教員に対する防衛的側面をもつことは否定できない。それは一種の互助的ネットワークである。しかし、それが大学特有の「研究者との学問を媒介したコミュニケーション」を損なう方向に向かっているのは残念なことだ。

 談合体質がもたらすその最たるものは、すでにふれた人マネの同一内容レポートと、もはやだれのものかもわからなくなったノートの大量コピーと、そして授業中の教室に生じる「私語の世界」である。私語は一年生ではそれほどでもないが二年生になると格段にふえる。一年たつと「みんないっしょ」という談合体質ができあがるからだろう。しかも大教室となると、ひとりひとりが匿名性を帯びるから、集合的無責任状態が現出する。

 大学生の私語については他にもさまざまな要因が指摘されている。▼4ふだんのメディア行動──ながら視聴やフリッピング──の延長線上で講義に臨むため、まるでテレビを見ているかのようなお茶の間感覚でふるまうことになるから、というのもあれば、他者指向的性格が強まり、友人関係を維持することが日常の最優先課題となっており、大教室でしか会えない友だちをつなぎ止めるためにじゃべりつづけるから、というのもある。物心ついたころから消費社会にどっぷりつかってきた世代であるために、あらゆるところにお客さま気分を持ち込むから、というのもあれば、高度情報社会にくらしてきたため、情報や知識にありがたみを感じないから、というのもある。授業で語られる知識はじっさいにはほとんど世間にあふれていないのだが、それらとスポンサーのついた情報とを区別できず、めんどうな手続きを要する科学的知識を敬遠し、その存在価値を認めない、一種の反主知主義も背景にある。しかも学生たちの内部でチェック機能が作動しないことも大きい。つまり「おまえら静かにしろよな」の一言がでないから、私語仲間が教室のなかで孤立しない。むしろ注意するほうが孤立しやすい。この構図はいじめと同じである。▼5

▼4 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
▼5 小学校で授業参観が私語で成立しないといった話もあるほどだから、これは学生だけの現象ではなく日本人全体の現象なのかもしれない。ことわっておくが、小学生が私語するのではなく、参観にきた親が私語するのだ。
 社会全体が理性的でなくなるのは、じつはこういうときである。たとえばファシズムやマッカーシズムは、このような談合体質からもっともよく生じるのだ。社会学からもっとも遠い行為であることを知ってほしいし、こうした雰囲気に抵抗することもれっきとした社会学的実践であると、わたしは考えている。

 そして教員の取り組みもまだまだこれからだということも最後に強調しておきたい。とにもかくにも教員と学生のたえまない努力なしに大教室の講義など成立するはずがないのだから。

能動的な受け手になろう
 そもそも大学にはなぜ大教室の講義が許されているのか。数百人が一斉に同じ講義を聴くような授業は小中高校まではなかったはずである。それは大学生が「大人」と見なされているからである。この場合の「大人」とは「市民性をもった自律的な成人」ということだ。つまり、公共のものごとをよく理解でき、それとの関係を考慮しながら、自分のことを自分で決めていく態度をもった理性的な人間である。大学は学生をそういう人間として見ようとする。したがって、勝手な私語によって教室内の公共的コミュニケーションを阻害したり、仲間の動向によっていともかんたんに左右されてしまうような学生を想定していないのである。ところが、大人の概念が青年期の長期化によって人生後期にずれている現在、そのような人間像はかなり非現実的なことになっている。

 談合体質に抵抗することは、自律的な市民への第一歩であろう。そしてそれも、社会学を学ぶ目標のひとつなのだ。

 では、具体的には何をすればいいのだろうか。講義の場合、それは質問である。試験についての質問ではなく、語られた内容についての質問をしよう。具体的に質問しよう。課題レポートがでていれば、題材を集めた段階で、執筆過程で具体的に質問すればよい。質問が具体的であれば、教員はていねいにサジェスチョンしてくれるはずである。そうでないときは、たいてい質問が抽象的だからである。しかも、質問は教員を鍛える。教員が鍛えられていないとすれば、適切な質問をしてこなかった先輩のせいでもある。

 社会学者加藤秀俊は次のように述べている。「知的訓練というものは、じょうずな問答の訓練のことなのである。それは、なま身の人間どうしが対面したときにはじめて可能なことだ。教室の意味は、そこで問答が展開されるというところにある。問答のない教室には、なんの意味もない。」▼6

▼6 加藤秀俊『取材学』(中公新書一九七五年)一〇四ページ。
 たしかに教室が応答的空間になるのが理想であろう。応答的なコミュニケーションそのものに授業のほんとうの意味がある。大教室の授業で直接的な応答が困難なときは、自分のノートに自分の反応を書きつけ、チャンスを見つけて教員にぶつけてみよう。〈出席をとられるための出席〉が現代学生の行動的特徴であるが、コミュニケーションそのものに意味の充実が見つけられるようになれば、出席を取られない授業への「参加」を空しいとは思わないだろう。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
八 論文試験の作法――誠実な応答をめざして
基本的な作法
 試験はいやなものである。される側も、する側も。まして論文試験となるとたいへんである。もちろん、される側も、する側も。しかも社会学系の試験はたいてい小論文試験である。理系の学生は困惑することが多いのではなかろうか。論文試験をたくさん受けている文系学生でも、とりたてて作成方法を教えてもらっているわけではないので、いつも不安はつきまとう。教える側が採点の基準を公開しているわけではないから、なおさらだ。この章では、このようなあいまいさのベールにつつまれた小論文試験の対策について考えてみよう。

 小論文試験といっても、五行前後で解答する短答型の問題と、三〇行一〇〇〇字程度(B4一面)で解答する長答型の問題とがある。社会学系では両者をとりまぜることが多いようだが、短答型の場合はそれなりに書けても長答型が書けない学生が多い。問題は後者であろうが、さしあたり両者に共通するポイントを指摘しておきたい。

 まず記述内容について。とくに指定のないときは授業内容すなわち講義ノートに即して書くべきだ。指定教科書でもなく、まったく別の参考書でもないことに注意しよう。指定教科書でないのは、社会学の場合、教科書どおりに講義が進行するケースがきわめて少ないからである。▼1まったく別の参考書でもないのは、授業内容に対して力点のおき方がずれてしまうおそれがあるからだ。社会学の場合「社会学者の数だけ社会学がある」といわれてきたが、それは現在でもそう変わってはいない。社会学にはそれだけ論争点が多いのである。したがって、まったく別の参考書は使用しないほうが無難だ。あくまでノートが基本である。

▼1 したがって社会学系の授業は出席していないと、まずAはとれない。案外、単位取得がむずかしい科目ではなかろうか。出席を取らない教員が多いだけに、長期に欠席するとフェイントを食らうことが多い。
 ところで、講義にもいろいろあって、「あれもある、これもある」式の両論併記型講義もあれば、「ああではなく、こうだ」式の常識批判型講義もある。この両者の見極めがたいせつで、前者ではバランスが重視され、後者では「なぜ、ああではなくて、こうなのか」という批判点が重視される。解答内容も当然これに即して決まってくる。両論併記型であれば、さまざまな学説をバランスよく説明し、それぞれの特徴や問題点を整理しなければならない。常識批判型であれば、まず一般的な常識や通念を述べて、それがふくんでいる問題点を整理し、そののちに社会学的にはどう考えられているかを提示して、その社会学的見地から見えてくる現実の問題点を整理することになる。

 このような内容上の同調は、教員に媚びることではない。それは応答の感度の問題である。「Aについてどう思う?」ときいているのに「Bについてこう思う」と答えたとしても、それは答になっていない。小論文試験もコミュニケーションの手段であるかぎり、応答が噛み合うことが何よりの前提条件だからである。所詮、試験は厳密なものなのだと観念しよう。

 次に確認しておきたいのは、すみからすみまで文章化することだ。板書をそのまま写しただけの箇条書きの羅列は、よほどでないと評価されない。たしかにキーワード(基礎概念)が入ってはいるが、理解されていないことが明白だからである。そもそも採点のやっかいな小論文試験をするのは、文章化するとその人の理解度がはっきりわかるからである。参照しているノートが自分のものかどうかさえ、ほぼ判別できる。なお、どうしても羅列しなければならないときは「第一に」とか「第一点は」といういい方を使う。

 次に、設問に対応した基本知識が正確にとらえられているかが重要だ。設問が要求している基本知識=基礎命題を最低ひとつはつかまえなければならない。これを損ねたり逆にしてしまうと致命的だ。これは「トピックセンテンス」などと呼ばれているが、どんな問題でも必ずこれに相当するものを要求している。受講のさい、あらかじめノートに「重要」の印をつけておけば、見逃すことはないだろう。

小論文構成の基本型
 今度は長答型の設問にしぼって考えていこう。この場合、構成がカギである。

 設問は大きく分けて二種に分けられる。ひとつは「○○について論じなさい」式の中範囲型である。つまり中範囲のテーマについて自由に説明するタイプだ。もうひとつは「○○の○○について○○の観点から説明しなさい。そのさい○○にも言及すること」式の特定型である。この場合は、説明の仕方まで特定されるので、それにそって記述することになる。

 中範囲型の設問を見たとたん、これを「好きに書いてよい」と解釈する学生がいるが、じつはそうではない。基本的には講義内容に即して書かなければならない。その上で、さらに自分で自発的に調べた内容や、自分なりに考察した内容を付け加えていかなければならない。たしかに自己裁量の余地は大きいが、自分勝手に好きなことを書くわけではないのだ。したがって、このタイプのときは、まず、よりくわしい問いを自分で設定することから始めなければならない。問題設定まで要求されているのであるから、これは本来かなり高度な設問である。しかし、講義内容に準拠して設定すれば問題はない。それに答える形で説明することになる。

 中範囲型にくらべると、特定型の場合のほうがかえってやさしい。問題は、自分がその限定されたテーマ範囲でどれだけいうべきことをもっているかである。ここでも設問に徹底的に対応させることが鉄則である。特定型の場合、書くことがあまりないと感じるケースがしばしばあるが、「埋め草」として設問に関係ないことや周辺的なことを書くのは控えたほうが無難である。それは、設問にきちんと答えたあとか、あるいは設問に全然答えられない場合だけにしておいたほうがよい。前者であれば「ふくらみ」として評価される場合がある。後者の場合はたんに「白紙よりマシ」なだけだ。というのも、特定型の場合、採点基準があらかじめ設定されていることが多く、それは「○○について説明されていたら○○点」という形になっているからだ。したがって、設問が要求していないことがらについて、いくらくわしく説明しても配点しようがないのである。たとえば、ある章のひとつの論点に特定した設問に対して、その章の全体を書いてしまうことがしばしばあるが、これは労の多いわりに評価されない。指定された論点についての説明しか点数にならないからだ。▼2

▼2 もう少しくわしく説明しておこう。たとえば講義(あるいは教科書)の第三章の第三節にふくまれた論点が出題されたとする。ありがちなのが、これを「第三章がでた!」と思い、第三章の最初から順にまとめていくケースだ。この場合、たいていはじめのほうはくわしく書いてしまうものだから第一節はきわめて充実した答案になる。つづいて第二節をまとめる。あせりと疲れから、これはほどほどにまとまる。そして「いよいよ第三節!」というあたりで、もう時間がないことに気づく。見れば答案用紙も字でずいぶん埋まっている。そこで三行ほどでかんたんにまとめて済ますことになったところでチャイム。「でも、よく書いたなあ」とそれなりの充実感が残る……。ところが、である。このような答案は、肝心の設問に応答した部分は三行しかないので、原則的には三行分の点にしかならないのだ。悲劇の一例である。
 さて、具体的な構成について説明しよう。ポイントは、いきなりトピックセンテンスで基本知識を提示することである。イントロはいらない。つまりショートアンサーを最初に済ませておくのである。それを展開するつもりで少しずつ周辺的なことがらに言及していくのが小論文試験の作法である。テーマによってウ゛ァリエーションはさまざまだが、具体的にはおおよそ次のようになるだろう。

問題設定・問題提起(中範囲型の場合)
基本知識・概念定義・結論・概要(設問に対するショートアンサー)
批判されるべき考え方と批判の根拠(常識批判型の場合)
問題の背景・具体的事例・さまざまな類型(社会的現実や現象についての説明)
将来展望・残された問題
まとめ・私見
 このように重要なことから周辺的なことへと説明する構成を「逆三角形型」と呼ぶ。横軸を重要度、縦軸を順序(上から下)とすると、逆三角形のように表されるからである。じつは本来これは新聞記事の作法である。紙面を大きく割いた新聞記事を眺めてみよう。まずリードがある。三段か四段を抜いた、行の長い部分である。ここで事件などのあらましが説明される。いつどこでだれが何をなぜどうしたかという基本的な情報はそこですべて提示されているので、読者はそこを読むだけでおおよそのことを知ることができる。段組みの部分に入ると、記事はくわしい内容説明にはいる。そしてそれはやがて背景説明になり、最後に識者のコメントなどが付されていたりする。

 逆三角形型の記事のメリットは二点ある。第一点は、読者にまずニュースのポイントを伝えるためである。もうひとつは、どこで中断しても文章として成立するからである。たとえば共同通信社の『記者ハンドブック』中の「記事の書き方」には次のように述べられている。「記事はその日の都合やニュース内容の相対的重要度によって、新聞編集者の手で切られ、短くされることが多い。本文が長くなるときは、できるだけワンテーク、一節ごとに記述をまとめ、編集者が記事を切りやすくするよう心掛けたい。逆三角形の文体が求められるのは、このためでもある。」▼3なお、一般的にデスク(新聞編集者)は、取材記者が書いた記事をうしろから削って調整する。

▼3 『記者ハンドブック──用字用語の正しい知識(第六版)』(共同通信社一九九二年)三八九ページ。
 同じことが小論文試験についてもいえる。小論文試験の場合、デスクにあたるのは時間制限である。時間があまるのはそうあることではなく、たいていは時間との戦いだ。その点、逆三角形型は、どこで時間を切られてもダメージが少ない。

 逆三角形型の構成をとるということは、講義やテキストの順序とまったく異なる構成になるということを意味する。つまり、一般の文章と逆なのだ。一般の文章では、結論は最後になることが多いし、講義や教科書もそうした構成になっていることが多い。したがって、ノートの順序でまとめていくと重要なことがらにいたらないまま時間がきたりすることがある。また、教科書の持ち込みが認められている場合、章の冒頭から順に書き写す人が少なくないのだが、そのような答案がまず点にならないのも、このためである。▼4

▼4 持ち込み不可の試験の場合は、ある程度の情報量があれば、多少の評価は受けられる。しかし、持ち込み可の試験では、一般に要求水準が高いので、丸写し的答案はほとんど評価されないと考えたほうがいい。持ち込み可の試験のほうが、じつはむずかしいのだ。
ノートと答案のあいだに
 小論文試験は、客観テストとちがって、始まるとまちがいなく時間との戦いになる。多くの人にとって文章を書くということは慣れないことだからだ。しかし勝負はすでに準備段階でついている。

 社会学の場合、頭の良しあしや要領の良しあしはあまり影響しないように思う。すでに確認したように基本はノートである。授業に出席していたか、くわしいノートを取ったか、それをあらかじめ章ごとに文章化しておいたか──これらの作業の積み上げがあるかないかでほぼ決まるといってもよいのではないか。

 というのも、それなりの理由がある。社会学系の科目の場合、適当に解答用紙を埋めること自体はかんたんである。しかし、そこには落とし穴があるのだ。それは「適当に」書くとき、わたしたちはつい常識的なことを書いてしまうことだ。ところが、社会学的な知識は、しばしば常識と異なるのである。たとえば、何かのまちがいではないかと思うようなことがテキストに書いてあったりする。逆ではないか、と。ところが逆ではないのだ。受講体験があれば──出席していれば──このあたりの免疫が自然とできているのだが、それがないと設問の要求と逆のことを滔々とまくしたててしまいがちである。

 たとえば、わたしはG・H・ミードのコミュニケーション論を説明するさい、コミュニケーションを「情報の移転」と考える常識的な考え方の問題点を批判的に説明するのだが、受講体験がないと常識の範囲で人のノートのコピーやテキストのことばを解釈してしまい、「コミュニケーションとは情報の移転であるとミードは述べている」といったことを書いてしまう。こういうとき、本人はよく書けたつもりでも、教員にとっては「これじゃあ『わたしは授業にでませんでした』といってるようなもんだ」ということになる。

 あるいは、「うわさの社会学」と称して流言研究を紹介した部分を出題すると、必ずあるのが「うわさとは、連続的伝達による歪曲である」という答案だ。講義の主題が、うわさを「連続的伝達による歪曲」ではなく「即興的につくられるニュース」として理解する点にこそあるにもかかわらず。

 まことに先有傾向はおそろしい。わたしたちは常識的な範囲で社会的なものごとを見るのにあまりに慣れすぎているのだ。脱常識の科学である社会学は、ことごとく常識に疑いの眼を向け、常識を自明視するわたしたちに知的反省を迫るわけだから、もはやオリジナルのはっきりしないようなノートのコピーをもとに我見で社会学的な答案が書けるわけがないのである。

知的誠実性
 講義もレポートも試験も、とどのつまりはコミュニケーションの形式である。コミュニケーションにはコミュニケーションなりの要件があり、コミュニケーションを有効におこなおうとすれば、それなりに要件をみたさなければならない。社会学的コミュニケーションの場合、それは知的誠実性といえるのではないか。

 先ほど、社会学は脱常識の科学であると述べた。しかし、社会学は、意図的に常識からはずれるのではない。調査研究や理論的考察を推し進めることによって、結果的に常識(いわゆる公式的見解)がひっくり返ってしまうのである。たとえば、一般には「母子家庭は非行の原因になる」と信じられているが、じっさいには、人びとがそう思っているために、母子家庭の少年の非行は見逃されにくくなり、結果的にあたかも母子家庭であることが非行の原因と見られてしまうことがわかっている。▼5また、いじめは「いじめっ子」の数に比例して深刻になると一般には考えられがちだが、じっさいには、それはまったく関係なく、いじめの深刻さはむしろ傍観者の数に比例する。▼6そんなことはないと思っていても、その事実に対して知的に誠実であろうとするメンタリティがここで要請される。常識に反することを書くのは、じつはたいへんなことなのだ。少数派であることを宣言してしまうところがあり、過剰な責任を問われる。激しい論争に巻き込まれることも覚悟しなければならないし、組織や集団に抗議されることもありうる。しかし、社会学者がそれに身をさらすリスクを引き受けてまで、耳障りの悪い事実を論じつづけるのは、あくまでも知的に誠実であろうとするからである。

▼5 徳岡秀雄『社会病理への分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)。
▼6 森田洋司「いじめの四層構造論」『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集。森田洋司・清水賢二『新訂版いじめ──教室の病い』(金子書房一九九四年)。
 もちろん、そうした社会学的ディスクールに対して、わたしたちは十分批判的でなければならないが、その批判は周到な準備を必要とするものであって、安易になされうるものではない。

 前に文章は演技だと述べた。「ありのままの自分」をさらけだすのは知的でもないし正直でもない。無作法なだけである。そして知的誠実性も演じるものである。一方で社会学者がリスクを引き受けながらそれを実演しているのに、他方で学生がそれにのってこなければ、その演劇的世界の深みを理解することは不可能だろう。リスポンスの悪い学生が評価されないのはこのためである。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
九 ゼミの作法――討論の主体として
社会学とゼミの相性
 学生時代のわたしはものぐさな学生だった。大学に行かず、かといってバイト人生でも遊び人生でもなく、ただものぐさな日々を送っていた。じつをいうと、わたしは講義を聴くのが苦手だったのだ。だから、このような本を書く著者として、わたしほどふさわしくない人はいないかもしれない。皮肉なものである。

 ところが、である。三年生になってゼミに入ってみると、これが俄然おもしろくなってきた。自分で調べて発表し、先生やみんなと議論する。先生も結論を押しつけるのではなく、そこそこのところで話にかんでくる。授業時間の終わりにも気づかず、いつのまにか陽がとっぷりと暮れているといった日も多かった。それはたんに授業のひとつというよりは、何か特殊な時空であり、そこに何かしら社会学の実体があるという気になったものだ。こうしてわたしはようやく社会学に目覚めた。

 ゼミのこのような効用は昔からよく知られていて、近年のカリキュラム改革のさいにも、一年生から履修できる教養ゼミの開設やゼミの必修化などがその目玉となっているのもそのためだろう。とりわけ社会学は論争点の多い科学であるために、討論の自由度が高く、それだけにゼミとの相性はよい。社会学の実質はゼミにおいてのみよく学習できるとさえいえると思う。たとえば次のようなぐあいである。

 近年の家族社会学のテーマに「少子化」がある。少子化とは出生率の低下のこと。ときに一九八九年に合計特殊出生率が、それまでの最低記録だった丙午(ひのえうま)の年(一九六六年)の一・五八人を下まわって「一・五七ショック」と呼ばれ、一気に社会問題化した。合計特殊出生率というのは、ひとりの女性が生涯に出生する子どもの数である。丙午(ひのえうま)とは干支(えと)のひとつで、この年に生まれた女性は夫を殺すという迷信があった。そのため将来の結婚難をおそれてこの年の出産が大幅に控えられたのであるが、一九八九年はそれをも下まわったわけである。

 この現象について、さまざまな議論が可能である。

 そもそも、少ないといっても何がその基準なのか。なぜ出生数ではなく特殊合計出生率なのか。子どもを何人生むかどうかはそれぞれの夫婦の自由なのだから、平均をとって問題視することにそんなに意味があるのか。少子化によって子どもや若い世代が相対的に少なくなった社会のことを「少子社会」と呼んでいるけれども、結局これもお役所ことばではないのか。つまり国策として危機感を煽っているのではないか。少子化の原因は何か。背景には何があるのか。女性の社会進出が原因といわれるのはなぜか。理由としてあげられている女性の晩婚化をどう考えるべきか。たしかに二〇歳代後半の女性の未婚率がこの二〇年間に約二倍になったのだが、なぜ女性は晩婚化したか。男のほうはどうだ。ひとりっ子は問題か。子どもがいないと家族でないのか。子育てが女性だけの負担になっていることが問題ではないのか。他の国はどうなのか。そもそもだれが困るのか。団塊ジュニアのわたしたちの老後はどうなるの。みんなどうやって避妊するのか。それにしても近ごろの子どもはぜいたくでわがままだ……。

 素朴な質問から各自の価値観があらわになった意見まで、少子化をめぐって討論すべき論点は多い。もちろん結論はひとつではない。けれども、ただたくさんあるというのでもない。多様な考え方のなかには、利害関係を反映しただけの意見もあれば、科学的根拠のある意見もある。自分たちを正当化するための論理もあれば、深い反省を込めた誠実な知見もある。政府にとって意味のある分析もあれば、自分たちにとって意味のある分析もある。それらを集団で吟味するのがゼミなのだ。吟味される意見には、受け売りもあれば信念もあって、ときにはせっかく調べてきたデータの思わぬ政治性を指摘されることもあるだろうし、生まれてこのかた信じて疑わなかった信念を批判されることもあるだろう。その過程でひとりひとりの社会認識が深まってゆく。

 社会学者たちが学界などで議論しているのも、じっさいこのようなものである。ひとりで考えるというのも、むしろ討論を自分の頭のなかで模擬実験しているようなものだ。この「討議の世界」こそが社会学の実体なのである。

ゼミの進行
 基本的にゼミの進行はゼミ学生(あるいはゼミナリステン)の自発性にゆだねられている。しかし「討議の世界」を有効に作動させるのは非常にむずかしく、ある程度の見識が不可欠なので、ふつう当初は担当教員が進行を指導する。

 ゼミの時間の構成は通常次のようなものになる。まず、あらかじめ決められた報告者が二〇分から三〇分程度の口頭発表をおこなう。そのあと、素朴な質問や基本的な概念などについて質疑応答がある。そして討論に入る。ゼミ学生が多いときや、一冊の本を輪読するときは、このサイクルを一回のゼミで二回か三回くりかえす。参加者が慣れないうちや不勉強なときは、討論も不発に終わりがちなので、発表会の様相を呈することが多い(つまり討論がない)。しかし、ゼミ学生間の親睦が深まり、学習意欲が向上すると、ゼミの討論も盛り上がってくるので、ワンサイクルでも時間がたりなくなるはずである。

 ひとりが報告するのでなく、数人がチームをつくって共同で報告するというのも可能である。これは、弱気な人やシャイな人たちに向いているかもしれない。あるいはこんな方法もある。それは格闘技型とでも呼べるもので、報告者だけでなく、あらかじめ討論者も決めておくのである。討論者は必ず報告者の発表についてコメントしなければならないから、とりあえず静寂は回避できる。討論者は「わたしは○○さんが指摘した第三の論点に少しこだわってみたいと思います」とか「○○さんの報告では『△△は××だ』という結論でしたが、ぼくはそう考えません」といった形で切り込んでゆく。どちらかというと、報告者とのちがいを強調すると盛り上がる。けれども、共鳴できるところをきっちり評価しておくのもゼミの作法である。

 ここまでであると、いわゆるパネル討論(壇上で代表者が議論する)になってしまうが、これを口火にして、その他の参加者を巻き込んでゆくことに真のねらいがある。リング上の格闘がやがて場外乱闘にいたるという筋書きである。

 この合わせ技として、報告内容に批判的な討論者と好意的な討論者を前もって決めておくという手もある。プロレスと同じように「助っ人」や「悪役」は欠かせないのだ。ごく最近、小中高校教育で注目されている「ディベート授業」も、ほぼこのような形式である。争点をめぐる立場をあらかじめ分けておいて論を競う。社会学的にいえばロール・プレイング方式と呼べそうだが、「やらせ」とか「八百長」と呼ばれても文句はいえない。しかし、討論の世界が一種の演劇的世界であることは事実で、せいぜい「仕込み」の程度差の問題であると思う。

報告の組み立て――友だちを眠らせないために
 さっそく報告者になったときのことを考えてみよう。問題は何をどのように発表するかだ。

 ゼミの報告内容はレポートの構成とほぼ同じである。ただ、「書く」か「話す」か、コミュニケーション・メディアがちがうだけだ。けれどもメディアがちがえば内容にも若干の修正が必要になる。たとえば、新聞記事をそのままテレビのニュース・キャスターが読み上げても、視聴者はメッセージを捉えきれないだろう。それと同じように、専門書の文章を読み上げるだけでは、だれも理解できない。やはりそこにはそれなりの工夫がいる。

 まずテーマの設定について。社会学系の教養ゼミや基礎ゼミの場合、まったくの自由テーマで報告することがある。そのときは自由課題レポートと同じように中くらいのテーマを選ぶとよい。たとえば『朝日キーワード』などで項目を立てているものは議論しやすい。たとえば「戦後補償」「地方分権」「ゼネコン汚職」「先住民族」「在宅介護」「個人視聴率」「酸性雨」「就職氷河時代」「エイズ教育」「国際平和維持活動」「いじめ」「不登校」「外国人労働者」「看護婦不足問題」といったように。もちろん自分なりのこだわりがあれば、それを取り上げるのが何よりである。二〇分の報告であれば以下のような構成にしてみよう。

(1)歴史・経過――時系列で事実関係を整理して要領よく解説する。一〇分。
(2)問題点の整理――何が問題なのか、どこが問題なのかを提示して、論点を整理する。七分。
(3)自分なりの問題提起――主張したいことや討議したいことをはっきり提示する。三分。

 結論はいらない。しかし方向性は示しておきたい。というのは、報告者は基本的には問題提起者であるべきだからだ。「どう考えますか?」と問うことが重要であって、完璧な解答を用意することではない。したがって報告者の仕事はふたつである。討論素材の提供と論点の仮設定である。その意味では週刊誌記者の世界でいうデーターマン(取材記者)だと考えよう。▼1データーマンが苦労して取材したものをリライトして署名するアンカーマンではなく。おいしいところはもっていかれるかもしれないが、ゼミの場合はおたがいさまである。なお、データーマンといっても、つまらない講義のマネはしなくてよい。たとえば統計データをだらだら読み上げても、それはコミュニケーションにならない。図式化するか、グラフにするか、一覧表にするか――工夫が必要だ。

▼1 本書では「データ」と表記を統一しているが、「データーマン」の場合は、通常このように発音されるので「データー」にした。
 初級編では多いケースであるが、一冊の本(古典や教科書)を章ごとに分担して輪読する形式のゼミの場合は、(1)の部分が章の要約になる。内容は書評レポートに準ずるが、この場合、対象となる本によっては多少の批判的読みが必要かもしれない。そのときはすでに論じた「比較」の手法を駆使して考えよう。▼2

▼2 第五章の「書評を書く」を参照してほしい。とくに九六-九七ページ。
 また、大枠の決まった自由テーマの場合、たとえば、家族・都市・労働・マスコミ・宗教・組織・差別・理論・学者研究といった領域設定が定められていて、そのなかで自由選択になっているときは、基本事項を整理することに目的がある場合と、現代的問題について討論する場合のいずれにポイントがあるか確認して臨もう。いずれの場合も、他方を取り入れることがコツだ。

 さて、内容構成もさることながら、それを話すさいの態度も重要である。とくに、報告の基調が明確であると、訴求力も反発もともに大きくなってゼミは盛り上がる。ウケをねらう・告発する・ともに悲しむ・怒る・迷う・挑発する――いずれにせよ「これでいってみよう」と決めてしまうことだ。不謹慎に聞こえるかもしれないが、感情をコントロールして演技することも重要なコミュニケーション方法である。▼3

▼3 純粋な言語情報だけが相手に特権的に伝わるわけではない。身ぶり手ぶりや口調や意気込みもコミュニケーションの重要な要素である。これらを「ノンウ゛ァーバル・コミュニケーション」(nonverbal communication)という。
 先ほども述べたように、ゼミ報告の主眼は、自己表現や自己提示ではなく、討論の争点を明示することにある。マスコミ論の概念を流用すると「議題設定」(agenda setting)にあるのだ。みんなに「すごいなあ」とほめられることを考えるのでなく、みんなに「むしろこうじゃないのか」といわれる叩き台になってほしい。もちろん「よく調べたし、考え方もしっかりしてる。おもしろかった。じゃあ、この問題はどうなるの?」程度であれば心の傷も少なくて済むのだが……。

レジュメの書き方
 黒板を使いながら報告するというのは案外むずかしい。ふつう初心者は話すだけで精いっぱいなはずだ。そこで、あらかじめ板書すべきことがらを書いたメモをコピーして、それを配布しておく。それを見てもらいながら話すのである。聴くほうも文字を見ながらだと理解しやすいし、それを見ながらコメントできるので、報告のあとの討論にたいへん役立つ。これをレジュメという。

 レジュメの書き方にとくに作法があるわけではないが、少しくわしい板書、もしくは要旨つきの細目次ほどのものと考えるといいだろう。口頭発表には、レジュメを見ながら話す場合と、別のノートを見ながら話す場合とがあるが、もし前者であれば、ある程度くわしいレジュメにしておかないと話につまる心配がある。しかし30分以内の報告であればB4のコピー一枚で十分だろう。

 当然、人に見てもらうものであるから、なぐり書きでは困る。きちんと整理・清書されたものにしたい。そのためにもワープロやパソコンは有効だ。たとえば、あらかじめ報告原稿をパソコンで書き、それがいったん仕上がったら、それを別名で保存する。そこからポイント以外を削除し、細目次よりややくわしいくらいの内容まで整理して、それをプリントアウトすればレジュメのでき上がりである。あるいはレジュメを最初につくり、いったんそれをプリントアウトしたのちに、そのファイルに大幅に書きたして報告原稿とするという手もある。

 レジュメはノートや板書のように、箇条書きや図表を駆使する。しかし、報告の骨子にあたるところはきちんと文章にしておいたほうがよい。そのほうが討論しやすいからだ。また、話しことばではつかまえにくい概念や命題を提示しておくと、初歩的な誤解を受けずにすむ。このさい、話しことばでは表現しにくい参考文献のデータなども加えておくとよい。

 最後に一言。構成をしっかり打ちだすことにも配慮してほしい。論点は全部でいくつあって、どこが結論なのかといったことが明確に伝わるようにアウトラインを提示する。そもそも口頭発表はシークエンシャル(時系列的)なものである。したがって、耳だけで全体の構成を理解してもらうのはむずかしい。構成は建築学的な比喩であり、どちらかというと空間的な性格のものだからだ。報告内容の全体が空間的に一覧できるレジュメは、それを補うのに有効な手段である。

討論の仕方
 報告者が口頭発表を済ませると、今度は全員参加の討論に移る。討論者が設定されているときは、討論者がその口火をきる。さあ、討論の世界へ!――といいたいところだが、これがなかなかやっかいなことなのだ。どのように討論していいのか、だれもわからないからである。▼4

▼4 わたしは、この本を書くために各分野のさまざまな資料を集めて読んでみたが、不思議に感じることがひとつあった。それはゼミ討論に関する本がおそろしく少ないということだ。これは作文に関する本が山のようにあるのとあまりに対照的である。討論という近代コミュニケーションの基本型が日本社会にとって切実でないのは、「以心伝心」を宗とする日本型コミュニケーションが依然として日本社会において主流をなしているからだろうか――などと、社会学的印象批評のひとつも繰りだしてみたくなる。
 では、参加者はどのような態度で討論に臨めばいいのだろう。いくつかのヒントを提示しておこう。

 第一に、素朴な質問を連発しよう。そこから論点が見えてくることがある。

 第二に、同じ意見でも発言しよう。賛成だ、と。そして、なぜ賛成かを述べること。たしかに批判するのも大事だ。でも、評価できるところは、おたがいに評価しあうようにしないと、かえって遠慮なく批判ができなくなる。それに、同じ意見でもじっさいにはニュアンスがちがうことが多い。自分の頭のなかで意見をめぐらせるのではなく、討論の場のなかで発言として具体化させて、思考を進めよう。ゼミの討論過程は、美学者だった中井正一の概念を使うと「集団的主体性」である。要するに、みんなで賢くなるのがゼミである。

 第三に、ありのままをよしとする自然主義ではなく、「かのごとく」ふるまう作為が必要。「ボランティア精神」といってもいい。あえて発言しようとする態度で臨もう。その意味で、お客さま意識や傍観者気取りは無作法である。ふだんの大教室の講義に臨むような態度はゼミにおいては唾棄すべきものだ。わからないなら質問すればいい。ついていけなければ議論を止めればいい。討論に責任ある主体として。

 第四に、討論が進むと「おまえはどうなんだ」という問いがでてくる。この問いは社会学的テーマの場合、必然的にでてくる。たえずこの問いに留意しよう。これが社会学の自己言及性なのだ。しかし、これは自分自身に適用するときには有意義な問いになるが、相手に適用するときには人格批判の武器になりがちである。したがって、自問するとき以外は、この問いはペンディングしておく方が無難である。なぜならこの問いが発せられたとたん、討議の世界は「沈黙が金」の世界に変質してしまうからだ。というのは、発言することが自分を危うくするからである。せいぜい夜の酒場のアフター・ゼミにとっておくことが望ましい。

どうなればゼミ報告は成功といえるのか
 どんなにうまく進行した討論であっても、そこからひとつの合意形成が成就することはめったにない。たいていは歯切れの悪いドタバタで終わってしまうものだ。「これでいいのかな」と初心者は迷う。では、どうなればゼミ報告は成功といえるのか。しかし、これは意外にむずかしい問題である。

 結論に達するのがゼミの唯一の目的ではない。討論によって相互に知識と考え方を照らしあい、それによって各々が社会学的反省を深めることがゼミの目標である。発言を通じて相互に照らしあうことによって、各自が社会学的反省を深める。安易な合意でもなく、険悪な対立でもなく……。互いの意見によって自分の意見を査定すると考えよう。したがって、相互反照の度合いが高ければゼミ報告は成功だったのである。具体的にはさまざまなケースが考えられる。

(1)全員が報告に賛同し、積極的に賛同の理由を発言したとき――賛同があっても、積極的な発言がなければ成功とはいえない。いわゆる「独演会」になってしまう。それがどんなにすばらしいものであっても、参加者の反応がなければ成功とはいえない。

(2)賛否両論半ばして、議論が白熱したとき――多少の感情的なしこりが残るかもしれないが、少なくとも論点が明確になったわけだから成功である。こうなると討論も格闘技の様相を帯びて俄然おもしろくなる。

(3)参加者の興味をひき「これはどうなるんだ」といった質問と応答に終始したとき――参加者に一定の共通了解がえられた。

(4)報告者がこてんぱんに論破されたが、その結果、参加者にある種の合意が達成されたとき――このとき報告者はスケープゴートになる。これも報告者の大事な役割である。この役割を果たした人には最後にねぎらいのことばをかけてあげよう。

(5)報告者自身がそれまでの考えや知識を相対化できたとき――できればその場か次回に「前回の反省」として言語化するとよい。

(6)報告自体は悲惨だったとしても、報告までのプロセスにおいて報告者にとって有益だったとき、たとえば調べ方に習熟できたこと自体・新たな着想や考え方などの副産物をえられたとき――この場合、二回目の報告が格段によくなるはずだ。

 ともあれ、討論の現場にいたすべての人びとが「討論は活発だった」との印象を共有できれば、そのゼミ報告は成功したのである。それまでは自分に関係ないヒトゴトと感じていた問題が、それなりに身近なことに感じられるようになれば、その人にとっては有意義だったのだ。それは、たんなる情報が反省的知識に転換する貴重な経験である。

提案
 さらに、いくつかの提案をしておきたい。

 第一の提案はサブゼミである。ゼミで討論を積み重ねてゆくなかで、自然に共通の課題が浮上してくることがある。そんなときサブゼミを企画してみよう。はじめは単発で、そのうち散発的に開くのが望ましい。サブゼミの特徴は、指導者である教員がいないことだ。ある面では気楽であるし、動機も純粋であるから、案外おもしろいものだ。

 第二の提案は、ほかのゼミとの共同討議をやってみよう。いわば他流試合である。共通のテーマを見つけて討論する。やってみるとゼミの結束がかたくなるにちがいない。

 第三に、ゼミ前のフットワークとして「ニュース三分レポート」はいかがだろう。ひとり三分の持ち時間で、一週間のニュースからひとつ選んで参加者に報告するのである。一回につきふたりか三人、順番にやってみると、一年間でけっこうな勉強になる。

 第四の提案は「ゼミナール報告」略して「ゼミ報」の発行を勧めたい。パソコンの利用についての章で「メディアをつくること」を提案した。ゼミは研究テーマをもった集団なので、ゼミ報はたんなる親睦以上のことが可能である。

 このような活発な活動はゼミのサークル化を促進するはずだ。多少の問題がないわけではないが、ゼミは学問を媒介にしたつながりであるから、大学における集団形成のあり方としては、まずまっとうなことであろう。

公共圏・シティズンシップ・対等性の作法
 最後に、原理的なことを確認しておこう。それは、ゼミという場のもつ理念性である。ゼミは、対等性の作法にもとづいて個人が自由に討論する公共圏である。公共圏とは公的な意味空間のことである。公共領域ともいう。これは、個性的な個人が対等な資格でその場に集まり、社会的な事象について語り合う、仮想的な空間である。歴史的には一八世紀前半のロンドンなどにおけるコーヒー・ハウスや、そこから派生したとも考えられるジャーナリズムや文学などのメディアに、このような公共圏が存在したといわれている。アメリカの伝統的なタウン・ミーティングも公共圏の一種と見なせる。▼5現代ならさしずめパソコン通信におけるフォーラムが一種の公共圏といえるだろう。そしてゼミもそのような理念的特性をもった場なのだ。

▼5 コーヒー・ハウスの歴史については、小林章夫『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫一九九四年)。公共圏全般については、ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。この文脈ではゲオルク・ジンメルの社交論も参考になる。G・ジンメル『社会学の根本問題――個人と社会』阿閉吉男訳(現代教養文庫一九六七年)。
 公共圏では属性(ゼミの場合は教員か学生かの区別)は原則的に問われない。問われるのは知的な能力だけである。だから、ゼミにおいて教員は、教員であるから指導的な立場に立つのではなく、そこで議論されるテーマについて習熟しているから指導的な立場に立つのである。たとえば、ゼミであなたが「ラップ・ミュージックの社会学」を報告するとすれば、教員は「社会学」については指導するが、「ラップ・ミュージック」についてはあなたが指導的立場に立つことになる。このことはあなたがいばってよいということを意味するのではなく、教員をふくめた他のメンバーに対して「ラップ」についてわかりやすく説明する義務を負うということである。だから「ラップ」について教員の理解がえられないとすれば、それはあなたの責任である。「先生は何もわかっちゃいないんだ!」と嘆く前に、するべきことがあるということだ。もちろん同じことが「社会学」に対する教員の態度にもいえる。そして「の」つまり両者の関係については討論のなかで参加者全員で考えることになる。▼6

▼6 現実との通路のない理論は無効である。しかし、理論社会学や社会学史の先生にいきなり理論の無効を主張するのはやめよう。短絡的に反応するのは若者の特権で「若気のいたり」で済まされがちだが、それでも、いきなり現実へ向かうのは悪しき現場主義である。結局、体験をこえられない。だから学生としてあなたがやらなければならないのは、理論と現実をそれぞれ知ることと、たえずそれらを結びつけて考えることだ。この結びつきについては、教員と学生が同じ立場で討論できる。わたしたちが眼にしている現実は、だれにとっても新しい体験なのだから。
 このような対等性の作法は、ひとりひとりを自由に発言可能にする条件になるとともに、責任ある主体として自律的かつ能動的にその場にかかわることを要請する。つまり、公共圏においては、社会や共同体のために隣人とともに参加し、またそれを当然の義務と考える態度が要請され、それが基本的な作法となる。シティズンシップ(市民精神)と呼ばれるのがこれで、前に「ボランティア精神」と呼んでおいたものもそのひとつの要素である。ゼミの作法の基本は、あくまでシティズンシップの発露としての「自発的参加」ということだ。

 そしてあえて指導的立場すなわち「教える立場」に立つことが知的な好循環を招き寄せる。「教える立場」とは、コミュニケーションのなかで自分を変えてゆくことをしいられる立場といってよい。ものを書き、報告し、討論することによって、自分を能動的に変えてゆく。▼7

▼7ニュアンスは異なるが、「教える立場」の思想的意味については、柄谷行人『探究I』(講談社学術文庫一九九二年)が参考になるはずである。
 このような作法の場は、おそらく「日本的」とはいえないだろう。それゆえ日本人にとってゼミとの出会いは異文化間コミュニケーションをともなう。受容のむずかしさはここにもあるが、それだけに貴重な体験といえるのではないだろうか。

 ともあれ、ゼミ討論は、即興演奏のからみあうジャム・セッションのようなもので、参加者の自発性と対等性は保証されているが、演奏がノイズでなく音楽であるためには、主題を尊重し、キーとリズムを守ることが求められる。ひとりでもそれを守らない人がいれば演奏は台なしになってしまうし、逆にみんなが譜面通りに演奏してもスリルも新しい発見もない。もちろんオーディエンスばかりでも盛り上がらない。各自が他の音をよく聴き、すばやく呼応し、能動的かつ個性的に応答することが、結果的にノリを生みだし、ひとりひとりに思いがけない発見をもたらすのである。それが即興演奏の醍醐味である。ゼミ討論もこのようなものと考えて臨めば、そのおもしろさもしだいにわかってくると思う。

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社会学の作法・初級編【改訂版】
一〇 社会学的リテラシーの構築へ――知識社会学的に
社会に還流する知識
 本書ではこれまで、社会学の「読み書き討論」について論じてきた。この章では、それらをひっくるめて、そうした社会学的実践の知識社会学的意義について考えてみたい。▼1

▼1 知識社会学とは、知識を社会的存在として研究する分野である。この場合の「知識」には科学や思想だけでなく常識や偏見もふくまれる。もともとマルクス主義のイデオロギー批判の原理を拡張するところから始まった分野で、ある思想と社会集団や社会階層との関係をとりあつかう領域として発展したが、近年はそのすそ野を広げ、常識を中心とする知識全般がもつ社会秩序形成の役割といった基礎理論的な研究になっている。
 社会学の学習には「読み書き討論」が欠かせない。しかし考えてみれば、社会学を勉強するはるか以前から、わたしたちはすでに日々のくらしのなかで、〈社会というテキスト〉を読み、書き、語りあっている。すなわち、さまざまな社会現象や社会制度について、それがどんなものであり、自分たちにとってどんな意味があり、どうなっていくのが望ましいかといったことについて、わたしたちは他人から聞かされ、メディアから知り、他人と語りあい、自ら納得する。ときにはそれに反発したり、異議申し立てをしたりすることもある。要するに、わたしたちは、社会を主題とするこのような「読み書き討論」をすでに日々おこなっているのだ。その結果、わたしたちの意識のなかに沈澱していくのが「常識」という知識なのである。

 重要なことは、社会を主題とするこれらのコミュニケーション活動自体が、社会の秩序を維持し、あるいは社会を少しずつ変えてゆくということだ。

 たとえば、かつて「適齢期」ということばがあった。男性であれば二〇代後半、女性であれば二〇代前半に結婚するのが「ふつう」であるという常識を集約したことばである。このことばが語られ、このことばを参照して自分たちの現実を評価することによって、それぞれが社会的な圧力を感じる。それがひとりひとりを「適齢期に結婚する」という行為へと導く。その結果、じっさいに多くの人びとが適齢期に集中して結婚する。「適齢期」はこうして社会的事実として結晶する。今なら「三〇の大台」ということばが、このような機能を果たしている。

 結婚したら今度は「お子さんはまだ?」という問いが待っている。子どもがいてこそ家族であるという常識を集約したことばである。それゆえ、多くのカップルはあたりまえのように子どもをつくり、子どものいないカップルは──ディンクスであろうといずれかの不妊症の結果であろうと──たえず社会的な圧力にさらされつづけることになる。

 あるいはまた、働く女性のほとんどが経験することであるが、会社のなかでは、何かというと「女はこれだからなあ」という決めつけが発言される。評価するときにも「さすが女の子だねえ」と、女性という属性に結びつけてなされるのが常である。「らしさ」の感覚がたえず補強され、そこからはみだす者を逸脱視する。

 このように、常識はことばとして語られ、読まれ、書かれ、学ばれる。このようなコミュニケーションの集積が〈社会〉なのであり、わたしたちの生きる条件を基礎づけるのである。

社会学的リテラシー
 人びとの知識は、現にある社会のコミュニケーションの結果であるが、同時にそのような知識は反省的に社会に還流して、現にある社会を維持したり修正したりする。したがって、主体的に考えると、人びとが〈社会というテキスト〉をどう読むかが、社会のあり方を根底から規定してゆくのである。それゆえ、社会を主題とするコミュニケーション(読み書き討論!)が決定的に重要なのだ。

 ところが、そのようなコミュニケーションは既存の常識の範囲内で循環しがちである。その常識がいかに非合理で歪みをもたらすものであったとしても、あるいは結果的に公正な交渉を妨げるものであったとしても、それがきちんと合理的かつ批判的に検証されることは少ない。「昨日までそうだったのだから、今日もそうなのだろう」といった感じで、不公正な活動がくりかえされる。たとえば、「業界の常識は社会の非常識」といわれるように、企業社会においてこれまで反社会的な行動が無反省におこなわれてきた。環境汚染・公害・不正取り引き・談合・天下り官僚の受け入れ・使途不明金として処理される贈賄・損失補填──これらは巧妙に業界内部でシステムの一部として機能してきた。しかし、それらはシステムの外部にさまざまな不利益をもたらすのである。それにもかかわらず、視野の狭さや自己正当化や利害保身といった理由によって、当事者にはそれがなかなか明確に見えない。視野には入っているのだが、常識という知識の自明性のために見えないのだ。こうして多くの悲劇が生まれてきた。

 「問題」を見るためには特別な概念や理論が必要である。常識で見えるものもあるが、見えないものも多い。まして現代社会は複雑なシステムであり、かんたんには見えなくなっている。それゆえ、ものごとを鋭敏に感受するためのセンサーとなる特別な概念や理論が必要なのだ。▼2

▼2 そもそもありのままに見ることなんてできない。わたしたちは常識的に定義された仕方でしか見ない。たとえば「象は鼻が長い」と聞かされた子どもは、長い鼻ばかりを見て、象の太いがけっこう長い足やつぶらな瞳に気がつかない。だからこそ概念をあえて学ぶ必要があるのだ。
 社会学はそのような概念や理論を提供する。社会学的に読む、社会学的に語る、社会学的に書く──このような社会学的実践を人びとがすることによって、常識の拘束から自由に現実を理解し、それを媒介にして社会を反省的に「改訂」することが可能になる。このようなコミュニケーション能力を「社会学的リテラシー」と呼んでおきたい。人びとに社会学的リテラシーを高めることは、不公正な社会を実践的に変革することに通じる。社会学の自己言及性は、このような形で社会に結実するはずである。

 この作業はそれなりの苦痛をともなう。世の中に流通しにくい知識を手間ひまかけて探索し、ときには不愉快な現実を直視し、ときには自分の生活や行動を批判するような知識を受け入れなければならない。

 しかし、それは同時にたいへんおもしろいことでもある。そもそも社会学のおもしろさの本質は、思考の遊戯性や発想の意外性や素材の身近さにあるのではない。社会学のおもしろさは、自分を知るところに本質があるのであって、反省的評価の充足感のことである。反省社会学の提唱者として有名なアルウ゛ィン・W・グールドナーは次のように述べている。「知識の探究者が一方では自己を知ること──つまり自分は誰であり何者でありどこにいるのかといったこと──と、他方では他者およびかれらの世界について知ることとは、同じひとつの過程のふたつの側面なのである。」▼3自分を知ることにまさる快感はない。社会学者とは、その快感を知る人間のことをいうのだ。

▼3 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』栗原彬ほか訳(新曜社一九七五年)二一四ページ。
反主知主義に抵抗するジャーナリスト的存在へ
 たしかに、現代の若い世代は非言語的なリテラシーにすぐれている。音楽・映像・スポーツ観戦・コミック……。しかし言語的なリテラシーが未熟なために、言語でのみ表現可能な抽象的な概念が苦手である。しかし、社会は抽象的な概念がないとつかみきれないものなのだ。▼3

▼3 もちろん古い世代が言語的なリテラシーにすぐれていたといえる証拠はない。近年ノスタルジックに回想されることの多い、かつての学生運動も、結局、高度経済成長期における大学という狭い視野のなかの反主知主義である。むしろ現代学生のほうがすぐれているのではないかと思うほどである。
 加藤周一は『読書術』のなかで「どうせ私はばかですよ」式の態度がマッカーシズムを生んだと述べている。▼4「どうせ私はばかですよ」式の態度を、わたし流にいいかえると、「それでどうなんだ」「そんなことを知ってどうすんの」「何の役に立つの」「差別して何が悪い」式の居直りである。このような態度を「反主知主義」という。ファシズムやマッカーシズムを支えたのは反主知主義である。理性的判断の停止への誘惑はたえず存在する。▼5

▼4 加藤周一『読書術』(同時代ライブラリー一九九三年)一二二-一二三ページ。
▼5 わたしは、日本国憲法があるかぎり、この日本にファシズムや軍国主義が再現されることはないと思うが、マッカーシズムならいつ起こってもふしぎでないと考えている。
 知ることを軽く見てはいけない。反主知主義的風潮に抵抗しよう。お手軽な結論に走るのはやめよう。階層的制約や利害関係の拘束から自由になって、反省能力を高め、社会の反省的メカニズムに参画しよう。それが「反省する社会」を現実につくりだす。

 その担い手となる人びとを、現象学的社会学者アルフレッド・シュッツの用語を借りて、「見識ある市民」(well-informed citizen)と呼びたいと思う。▼6社会学は、ヒマ人や趣味人の「知の戯れ」などではない。複雑化した現代社会において、自律的で責任ある主体として生きようとする「見識ある市民」の基本的な生活能力である。だから、本を読んだりレポートを書くのは、そうした生活能力を高めるためにおこなうのであって、エレガントな知的遊戯では断じてない。漠然と感じる不公正さの感覚を、明晰に論理的な表現へと高めるためにそれをおこなうのだ。それはわたしたちが一種の「ジャーナリスト的存在」として自己を再構築することを意味する。▼7社会学は「ジャーナリスト的存在」であろうとする「見識ある市民」の形成を支援する科学であり、そのような人びとによって生みだされ、強化され、現に必要とされている科学なのである。

▼6 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)第三章「博識の市民──知識の社会的配分に関する小論」。A・ブロダーゼン(編)『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)「見識ある市民──知識の社会的配分に関する一試論」。なお、浜日出夫は「自省的市民」と訳している。これも適訳だと思う。西原和久編著『現象学的社会学の展開──A・シュッツ継承へ向けて』(青土社一九九一年)一五-一六ページ。
▼7 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。
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社会学の作法・初級編【改訂版】
社会学の作法・中級編のために(1999年改訂版を2000年5月4日改訂)
 本書でふれなかった古典の読書・外書講読・卒業論文・大学院入試などは、いわば「社会学の作法・中級編」である。そのため本書ではあえてそれらに言及するのを避けている。
 そもそもわたしが本書を企画した動機は、当時市販されているマニュアルが、学び始めたばかりの初級者にとって、いささか敷居が高いという現実にあった。大学での指導にしても、教員の要求する水準がプロ級に高いため学生がついていけず、結果的に虻蜂とらずに終わってきたところがあったと思う。たとえば「卒論となると、たんに文献を要約しただけではダメだ。批判的に読んで自分なりに考察しなければ論文とは言えない」と要求しても、それ以前に読書する習慣さえない学生には無理な注文である。せいぜい主観的な感想なり「いちゃもん」をつけて「オリジナリティ」めいたものを演出するのが関の山であり、結果的にそういう非学問的な要素を「オリジナリティ」として評価せざるをえないという淋しい現実を生むだけである。
 わたしの実感では、現代学生の器用さはかなり高い。現代学生が社会学のイニシャル・ステップに失敗してきたとすれば、それはある程度まで教える側の責任ではないかとも思う。それゆえプライマリ・ケアが必要だ考えたのである。だからこの本ではごくごく初歩的なアドバイスにとどめ、あまり多くのことを述べないようにしてきた。そのかわり、まずはそれらをきちんとこなしてほしいということだ。
 しかし、いつまでもこの段階にとどまる必要はない。ある程度の自信がついたら、本書から離れ、どんどん掟破りをしながら、自分なりの流儀をつくりあげていっていただきたいと思う。そしてさらに自分のワンパターンをもくずしていこう。
 というわけで、そのような中級編へ離陸する方々のための水先案内役として若干の読書案内をしておこう。なお、我田引水だが本書の姉妹編も含まれている。(一九九八年末現在)

学問あるいは〈ことばの闘争〉について
遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房2000年)。
 東大の上野ゼミに学んだタレントの遙洋子さんの社会学体験記。ゼミとは何か、学問的討議とは何か、知るとは何か、社会学とは何か、フェミニズムとは何か、そしてことばの重みについて考えた記録。ことばを軽く聞き流してしまうくせを身につけてしまったすべての現代学生にまずは読んでいただきたいと思う。
社会学文献案内
見田宗介・上野千鶴子・内田隆三・佐藤健二・吉見俊哉・大澤真幸編『社会学文献事典』(弘文堂一九九八年)。
 社会学の重要文献約千点を著者・訳者自身が要約した画期的な事典。なじみのない分野の基本文献をさぐるのに便利。高価だが手元に置いておきたい事典である。
野村一夫『社会学感覚【増補版】』(文化書房博文社一九九八年)。
 社会学文献案内を意図した社会学概説書。増補版で「ブックガイド・九〇年代の社会と社会学」が加わった。
研究総論
高橋順一・渡辺文夫・大渕憲一編著『人間科学研究法ハンドブック』(ナカニシヤ出版1998年)。
 社会学と心理学あたりに照準をすえた研究法です。観察・面接・実験・フィールドワークなどを網羅しています。内容分析や談話分析も解説した、かなり充実した内容です。
栗田宣義編『メソッド/社会学――現代社会を測定する』(川島書店1996年)。
 多変量解析からエスノメソドロジー、内容分析、生活史法、歴史的資料分析など、小著ながら目配りの効いた解説。
本の読み方
M・J・アドラー、C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槙未知子訳(講談社学術文庫一九九七年)。
 本の読み方もいろいろ。初級読書、点検読書、分析読書、シントピカル読書(同一主題について二冊以上の本を読むこと)に水準をわけて、それぞれの読書技術について説明している。卒論研究を視野においた読書法として最適。
思考法
苅谷剛彦『知的複眼思考法』(講談社一九九六年)。
 ステレオタイプにはまらない柔軟な考え方をするには、どんなところに気をつけなければならないかを懇切丁寧に説明した本。
高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書一九七九年)。
 一般的なタイトルだが、これはほぼ社会学の本。社会学研究探検記といった感じの読み物で、著名な社会学者が多数登場する。
小林淳一・木村邦博編著『考える社会学』(ミネルヴァ書房一九九一年)。
 モデル・スペキュレーションによる思考法中心の社会学テキスト。モデルを仮説として用いて思考する仕方を具体的論点に即して解説したもの。関連書として、チャールズ・A・レイブ、ジェームズ・G・マーチ『社会科学のためのモデル入門』佐藤嘉倫・大澤定順・都築一治訳(ハーベスト社一九九一年)がある。こちらは「考える」という点ではかなり徹底している。
社会調査論
石川淳志・佐藤健二・山田一成編『見えないものを見る力【社会調査という認識】』(八千代出版一九九八年)。
 非常に広い範囲でとらえられた「社会調査」についての概説書で、「社会学の作法・中級編」に相当するような本である。
森岡清志編著『ガイドブック社会調査』(日本評論社一九九八年)。
 じっさいに社会調査をおこなおうとするとき経なければならないプロセスを順々に解説し、各段階で生じる問題と対処の仕方をていねいに解説したガイドブック。教育的配慮と実践的ノウハウに満ちた新世代の基本書。
理論構築の方法
B・G・グレイザー、A・L・ストラウス『データ対話型理論の発見――調査からいかに理論をうみだすか』(新曜社一九九六年)。
 質的データから理論構築するための方法を解説した基本書。「データ対話型理論」と訳されている「グラウンディッド・セオリー」は、まっとうなスタイルで、かつそれなりに実際的な方法論だと思う。関連書として、Barney G. Glaser, Anselm L. Strauss『死のアウェアネス理論と看護――死の認識と終末期ケア』木下康仁訳(医学書院一九八八年)。こちらは「データ対話型理論」の応用研究にあたる。なお「グラウンディッド・セオリー」というネーミングは「グランド・セオリー」(誇大理論)をもじったもの。ちなみに、かれらによるとマートンの「中範囲の理論」でさえデータに忠実とはいえない、グランド・セオリーがデータの解釈を支配しているという。
質的調査法
北澤毅・古賀正義編著『〈社会〉を読み解く技法』(福村出版一九九七年)。
 卒論や修論のために調査するといっても、費用のかかる量的な調査は困難だ。仕方なく既存の大規模調査を駆使して論文を書いたりするわけだが、やはり自分で調査した方がインパクトのある論文になる。そこでひとつの落としどころとなるのは、データの量ではなく質にこだわった調査をすること。インタビュー、参与観察、ドキュメント分析、音声データ、映像データなどの質的データを収集し、それを理論的に裏付けのある方法で分析する。この本は、教育社会学や構築主義やエスノメソドロジーの研究者による質的調査法のテキスト。
フィールドワーク
佐藤郁哉『フィールドワーク――書を持って街に出よう』(新曜社一九九二年)。
 『暴走族のエスノグラフィ』の著者による、この分野の基本書。入門的に書かれている。
須藤健一編『フィールドワークを歩く――文科系研究者の知識と経験』(嵯峨野書房一九九六年)。
 若手研究者のフィールドワーク体験を集めたもの。こういうものから入った方が調査意欲がわいてくるはず。やる気のでる本。
R・エマーソン、R・フレッツ、L・ショウ『方法としてのフィールドノート――現地取材から物語(ストーリー)作成まで』佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳(新曜社一九九八年)。
 さらに一歩踏み出して、具体的な作業について論じた決定版。
ライフヒストリー研究(生活史調査)
ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)。
 いわゆる「普通の市民」をインタビューして、その思想的世界を再構成して分析した研究。同様の手法を用いた研究として、福岡安則『在日韓国・朝鮮人–若い世代のアイデンティティ』(中公新書一九九三年)もある。ライフヒストリーといえば特徴のある特定人物の伝記的事実の掘り起こしという意味が強いが、複数の普通の人たちを対象におこなうやり方もあるはずで、その意味ではいずれも模範的なライフヒストリー研究。見本として利用するとよい。
計量系調査研究
末永俊郎編『社会心理学研究入門』(東京大学出版会一九八七年)。
 実験的条件を操作して観察結果を計量的に処理する分野もある。心理学的方法に準拠する社会心理学はその典型だが、この本はその系統の標準マニュアル。広告・メディア・政治意識などの行動科学系の研究に役立つ。
内容分析
クラウス・クリッペンドルフ『メッセージ分析の技法――「内容分析」への招待』三上俊治・椎野信雄・橋元良明訳(剄草書房1989年)。
 新聞記事や雑誌記事などの研究に内容分析というのがある。日本では貴重なその解説書。
論文を書く
ハワード・S・ベッカー(+パメラ・リチャーズ)『論文の技法』佐野敏行訳(講談社学術文庫一九九六年)。
 著者は逸脱行動論とレイベリング・セオリーで有名な社会学者。なぜ論文を書くのか、論文を書くさいに生じる恐怖といかにしてつきあっていくか――そんな論文執筆の動機づけと覚悟と指針を与えてくれる本。マニュアルではないが、何度読んでも発見がある。
花井等・若松篤『論文の書き方マニュアル――ステップ式リサーチ戦略のすすめ』(有斐閣アルマ一九九七年)。
 国際政治学者がまとめた論文執筆マニュアル。論文作成の全プロセスについて丹念に説明している。この種のもので他に入手しやすいものとして、澤田昭夫『論文の書き方』『論文のレトリック』(ともに講談社学術文庫)があるが、社会学系には向かないと思う。厳しすぎる論文作法はエスタブリッシュな知には向くが、それをはみ出すことの多い社会学や社会理論にとっては足手まといになることもある。
ウンベルト・エコ『論文作法――調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳(而立書房一九九一年)。
 これは人文学系だが、マニュアルを超えてエコの蘊蓄に魅力を感じる本。
パソコンを利用した論文作成
中尾浩・伊藤直哉・逸見龍生『マッキントッシュによる人文系論文作法』(夏目書房一九九五年)。中尾浩・伊藤直哉『Windows95版 人文系論文作法』(夏目書房一九九八年)。
 いずれもパソコンをかなり高度に利用した論文作成論。人文系ではあるが、多言語のあつかいやデータの処理などヒントが多い。
論文スタイル
日本社会学会編集委員会「社会学評論スタイルガイド」(http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~fukuoka/JSRstyle.html)
 1999年8月に公開された日本社会学会の標準スタイルブック。現在はウェッブ上で公開されている。これから社会学系の論文を書く人は必携。
中村健一『論文執筆ルールブック』(日本エディタースクール出版部一九八八年)。
 論文を書くことは特定のスタイルで書くこと。とくに注の書式はややこしいだけに統一しておかなければならない。同じ日本エディタースクール出版部の斉藤孝『学術論文の技法』がこの領域では定番だが、『論文執筆ルールブック』の方が格段にわかりやすく、いざというときにも調べやすい。
ジョセフ・ジバルディ『MLA英語論文の手引 第4版』原田敬一訳編(北星堂書店一九九七年)。
 こちらは人文学系の標準書式を説明したマニュアル。MLA方式は人文系では標準のものだが、社会学系の主流とは少し流儀がちがう。ただ、このマニュアルはかなりディテールまで指定しているので案外頼りになる。
用語法
『記者ハンドブック–用字用語の正しい知識』(共同通信社・年刊)。
 国語的な意味での用語法は、このあたりに準拠するのが無難。
森岡清美・塩原勉・本間康平(編集代表)『新社会学事典』(有斐閣一九九三年)。
 人名や概念の表記で迷ったときは、専門事典に準拠して統一するのがもっともかんたんな方法。社会学ではこの事典。この種の専門事典は図書館の参考図書コーナーにある。
本づくり
『標準 編集必携』(日本エディタースクール一九八七年)。
 印刷製本して報告書を作成するときに役立つ。この本程度の知識があれば版元や印刷所との意思疎通もうまくいくだろうし、こちらの要望も伝わりやすいはず。
研究生活構築術
坪田一男『理系のための研究生活ガイド――テーマの選び方から留学の手続きまで』(講談社ブルーバックス一九九七年)。
 このテーマでは、板坂元・加藤秀俊・梅棹忠夫・野口悠紀雄といった著者たちのものが定番だが、いまどきの研究生活はずいぶん変わってきたように思う。一九五五年生まれの著者によるこの本はちょうど今のスタンダードな研究生活のありようを示していて、かえって参考になる。理系用ではあるが、社会学系もすでにこんなスタイルになっているということだ。
研究計画書の作成
妹尾堅一郎『研究計画書の考え方――大学院を目指す人のために』(ダイヤモンド社1999年)。
 大学院入学したい社会人のためのマニュアル。150ページほどの研究計画の立て方に、200ページ以上の事例集がつづく。経営学ないし経営情報論なとが中心だが、広く社会系にも参考になる。事例集のコメントは教員の指導用参考書としても活用できそう。
社会学を学ぶ意味
野村一夫『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社一九九四年)。
 本書の姉妹編。本書ではかんたんに説明した「社会学の社会的意義」について詳しく考察した、新しいスタイルの社会学概論。
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社会学の作法・初級編【改訂版】
無作法なあとがき
教員側の事情
 本書の前身は、一九九二年春に上梓した『社会学感覚』のなかの読み書き入門についてのいくつかの「付論」である。これを「作法」というキーワードによって統一的に発展させて書き下ろしたものである。

 ここまで読まれた方はおわかりのように、この本は「達人の秘伝公開」といった類いのものではない。たしかに、この種の本は碩学や大家(たいか)が書くものだ。その意味で、三〇代のわたしが「社会学の作法」を説くのはアカデミズムの慣行から見れば無作法なことにちがいない。しかし、わたしがあえてこのような無作法なまねをするには、それなりの切実な反省があるからである。それがどのようなものであるかについて、この場をかりて言及しておきたい。

 わたしは本文においていくぶん高飛車なものいいをしてきたが、それはいくぶんかは演出的なものであって、じつのところさまざまな迷いのなかで、この本を書いてきた。その迷いとは、学生にさまざまな要求や期待を向けている教員側が、それをするに見合う対応をしてきただろうかという疑問である。たとえば私語は批判されるべき問題だが、静かに聴くに値しない講義がおこなわれていたら問題であろう。つまり、教員側にもさまざまな内部事情があって、初心者の方々もそのような現実につきあわされているのである。そうした教員サイドの問題にも言及しなければフェアとはいえないだろう。とにもかくにも社会学教育は教員と学生とがともにつくりあげるものなのだから。

大学教育の現代的使命
 学者仲間ではよく知られたエピソードがある。ある名門大学の大学院生に対して教授が「○○について調べてきてくれ」と頼んだ。ところが当の大学院生は突っ立ったままである。教授が「どうしたの」ときくと、大学院生は半ば呆然とした表情で「どうすればいいのですか」と尋ねた……。「最近の学生はあたえられた知識はよく勉強するけれども、自分で何かを調べるといったことは、からっきしダメだね」というボヤキでこの話は終わる。

 このエピソードはよくある大学生(大学院生)ダメ論のひとつのウ゛ァリエーションである。しかし、わたしはかねがね、このエピソードで反省しなければならないのは教授自身ではないかと思ってきた。

 たしかに大学は自分で学ぶ場所である。教育の場であるとともに研究の場でもある大学において「学ぶ」とは、つまり自分自身で自発的に学ぶことである。しかし、現実に学生にそれができないのであれば、そのような自己教育的存在に高めるよう具体的に支援するのが大学のもうひとつの使命ではないか。高校までの教育において、当の大学を受験するためにこそ、そうした自己教育的存在になるための教育が事実上不可能になっている現実を知りながら、それを大学教育のなかで実現しようとしないのは、どう見ても無責任である。まして現代は、年配の教授たちが試行錯誤してきたような牧歌的な時代ではなく──たしかに戦争も飢餓もないけれども──あふれんばかりの情報がひしめきあっている時代である。試行錯誤の範囲ははるかに広く、そのリスクもコストもふくれあがっている。それゆえ、学生を自己教育的存在へと成熟させるための具体的な支援体制をつくることこそが、現代の大学の重要な教育的使命になっていると考えるべきなのだ。

社会学教育の危機?
 社会学のケースはどうだろう。

 第一に、いわゆる「教養の社会学」のあり方が問われなければならない。それはたしかに社会学へのファースト・ステップであり、基礎概念や社会学の巨匠たちの学説紹介が必要であることは自明のように見える。しかし、それは社会学専攻でない多くの受講生にとっては、社会学のファイナル・ステップでもある。つまり「教養の社会学」は受講者にとって社会学の「最後の授業」なのだ。「これで最後」だからこそ、生活の舞台に生じるさまざまな社会現象への感受性を高め、自分なりに調べ思考できる「反省のことば」を提供しておく必要がでてくる。それは学者の名前を暗記することよりもはるかに重要で社会学的な選択ではないだろうか。

 第二に、社会学教育は影響をあたえているだろうか。社会学的知識が社会に十分還流しているといえるだろうか。たしかに近年この点は大幅に改善されたとは思う。たとえば、一般紙の社説や論説記事などであきらかに社会学の影響を受けたものが散見されるようになった。文化論や女性論や流行論などいくつかのテーマでは社会学的知識がさかんに援用・引用されるようになったこともたしかである。しかし、日々のニュースに対する分析──これはジャーナリズムの重要な社会的使命である──は、社会学という分析装置があたかも存在しないかのようにふるまっている。ジャーナリズムによって援用されたり引用されたりする知識は、心理学や経済学や人類学や政治学や自然科学の知識であって、それらの学者が「社会学風な」分析をしてみせることの何と多いことか。

 べつにマス・メディアに登場することがよいことだと思っているわけではない。ジャーナリストのように言論で勝負している人びとにさえ影響をあたえていないことが悲しいのだ。それに加えて、社会人に対する教育機能としてマス・メディアは格段の重要性をもっており、一種の培養効果として、社会学的には承認できないような偏見やステレオタイプを人びとの知識に固定することがあり、その知識の循環を断ち切らなければ、人びとが自分たちの社会を誤認してしまう可能性が高くなるからである。

 第三に、戦後最大の大学改革といわれる昨今のカリキュラム改革の流れのなかで、社会学が必ずしも正当なあつかいを受けていないのではないか。文部省の規制がゆるみ、カリキュラムに対する各大学の裁量度が高まったとたんに、「社会学」という名の授業がなくなるといった現象がある。もちろんこれは「○○学」といった専門の垣根を取り払う意図をもつにしても、大学関係者にとっての「社会学」のイメージが所詮そのようなものにとどまっているということであり、現在の社会学の現状をきちんと反映していないように感じる。社会学を学ぶひとりとして、この現状は悔しい。その責任の一端は従来的な社会学教育にあると考えるくらいでないと、この傾向はますます加速するのではないか。

 こうした現状認識の下にさまざまな教育的努力をされている多数の社会学者がいるのは事実である。しかし、その多くは個人的努力に負うところが大きく、社会学全体として実を結ぶところまでいたっていない。

社会学教育は社会学そのものである
 ともあれ社会学者は社会学教育に関する自己言及をしいられているのだ。社会学者自身のコミュニケーションのあり方に対する反省もふくめて、社会学教育というコミュニケーションについて根本的かつ組織的に──そして何よりも社会学的に──反省しなければならないのではないかと思う。

 それに対するわたしなりの考え方は次のようなものである。「そもそも社会学教育は社会学研究の従属物ではない。社会学教育は社会学そのものである。それゆえ社会学教育は社会学的でなければならない」と。

 従来、社会学の自己言及的性格は、社会学史のなかでは、科学的信頼性を困難にする要素として語られてきた。しかし、それは同時に、現代社会における社会学の存在意義でもある。この点については本書の第一章と第一〇章でかんたんに言及しておいたし、一九九四年初夏に上梓した『リフレクション──社会学的な感受性へ』において詳しく論じたのでくりかえさないが、たとえば、ブルデューの次の発言に代表できると思う。「いずれにせよ、『専門家の権力』や『専門的能力』の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社会学が専門家だけに任された専門的知識でなくてはならないとしたら、それは一時間の苦労にも値しないだろう。」▼1

▼1 ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』田原音和監訳(藤原書店一九九一年)七ページ。
 ギデンスやグールドナーなどの社会学論もこの線上に位置づけることが可能であると思うが、その通奏低音は、社会学的知識は反省的に社会に還流するということであり、それを有効に作動させることこそ社会学者の社会的使命だということである。つまり社会学的知識は一般の人びとに使われてこそ意味があるのであって、社会学に専門家支配はなじまない。そして、その有力な具体的現場が社会学教育なのである。社会学教育は社会学にとって本質的な作業である。研究に従属するものではないのだ。

 わたしの無作法は、このような反省にもとづいて「さしあたり今できること」としてわたしなりに選択した結果である。▼2「ないよりマシ」といったものではあるが、社会学を学び始めた人に少しでもお役に立てれば幸いである。

▼2 これには、もう少し個人的な文脈もからんでいる。わたしは前作の『リフレクション』を書きながら「これには実践論が必要だ」と感じていた。『リフレクション』が「社会学的な感受性へ」という副題をもつように多分に認識論的な作品であっただけに「実践編」はいわば車の両輪のようなものであった。わたしは『リフレクション』の執筆が煮つまるたびに「実践編」を書きため、前作の作業が終了した昨夏からそれらを編集的に再構成していった。こうしてできあがったのが本書である。
最後に
 「社会学の作法」という、社会学者であればだれもが思いつくようなタイトルの本がじっさいには書かれないのは、それを書けば著者自身が「社会学の作法」にかなった知的活動をしているかどうかが問われかねないからだろう。ともすると不遜と受け取られかねないのだ。ここでも自己言及のパラドックスが生じているわけである。それに関して「ゴーマニズム」と居直れるような実績も才能も戦略も、わたしはもちあわせていない。「まことにいたりませんで」というほかない。「リッパなことをいってるけれども、大した仕事をしてないじゃないか」と批判する側にまわるほうが賢明というものである。情報公開とはヴァルネラブル(傷つきやすい状態)になることだと金子郁容が述べていたが、じっさいそういうことだろう。▼3社会学上級編めざして励みたいと思う。

▼3 金子郁容『ボランティア──もうひとつの情報社会』(岩波新書一九九二年)。
 なお、わたし自身、さまざまな先生方や友人たちに影響を受けてきたので、無自覚なままの受け売りがあるかもしれない。最後に、そのもとになった方々にお礼を申し上げ、「堂々無断転載」の無作法に対するお詫びにかえたいと思う。そして、社会学教育の現場で生かしていくよう努力したいと思う。教育上受けた恩は次の世代への教育で返すのが教育の作法であろうから。

 今回も文化書房博文社の天野義夫さんにお世話になった。厚くお礼を申し上げたい。

 一九九四年一二月一五日

改訂版のあとがき
 一九九五年春の本書初版刊行後に状況が激変したパソコンについての記述を今回全面的に改訂した。「六 パソコンの利用――現代人のメディア・リテラシーとして」がそれである。また「社会学の作法・中級編のために」も、読書案内を大幅に増補して個々の解説を加えることにした。これらにともなって巻末の事項索引もつくりなおした。なお、六〇ページ以下の「課題図書リスト」についても増補を考えたが、この種のものはきりがなく、より徹底したリストはインターネット上で公開しているので、詳しくは私のウェッブ「ソキウス」(Socius)を参照してほしい。

 さて、本書が世にでてからの九〇年代後半は、めまぐるしいばかりの大学改革が進行中で、カリキュラムも大きく改編されつつある。従来型アカデミズムで毛嫌いされてきたハウツウ的な要素が積極的にカリキュラムに導入されているのが特徴である。日本の多くの大学がこれほど教育的配慮に満ちたプログラムを組んだのは前代未聞のことだろう。しかし九〇年代後半には学生像もまた大きく変化しており、そうしたプログラムが必ずしもうまくいっていないようにも見える。そこで痛感するのは、「なぜ学ぶのか」という動機が学生サイドにほとんど存在しないという厳然たる事実である。

 そもそもマニュアルやハウツウというものは、明確な動機をもった人には貴重だけれども、動機のない人には退屈な蘊蓄話にすぎないもの。だから、教育的配慮から大学や教員が親切丁寧にマニュアルを提示しハウツウを伝授することで「知への招待」をしようとしても、聴かされる側はそういう話をそれほど求めてはいないのだ。巷間では「現代の若者はマニュアル世代だ」などという言説が流布しているが、それはもはや時代遅れ。マニュアル世代とはじつは中堅若手教員の世代のことであって、現代学生はむしろクチコミ世代なのである。ストリートで群れるにせよケータイやインターネットを使うにせよ、仲間内のクチコミ情報への依存度がかなり高くなっているように思う。ケータイやインターネットのようなパーソナルな新メディアの普及によって、かえって学生ネットワークのローカル化が進んでいるという印象だ。多くの「ふつうの学生」が、仲間内を流れる「その場しのぎ」のローカルな断片情報で動いている。少なくともその方が孤立というリスクを回避できるからだろう。こんな環境の中で、マニュアルを読んで正面から学問に取り組もうとするのは、かなりまっとうな学生であり、キャンパスでは完全に少数派になってしまっているように思う。

 大学で学問するのが困難な時代。本気で学ぼうとする者には、「その場しのぎ」主義に傾斜する多数派に抵抗する勇気さえ必要になってきた。がんばってほしいと思う。本書が、そんな人たちのサポーターになれればいいのだけれど。

一九九八年一二月三〇日

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