着地せよ、無翼の大人たち(4)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第四章 リスク社会と信頼のネットワーキング
一 死を意識して生きる
■生の限界を知る
大人になると何らかの身体の衰えを感じるものである。私の場合、最初に来たそれは老眼だった。四〇代で老眼がやってきたのにはさすがに驚いた。名前に「老」がつくので「ついに老いがやってきた」とばかり、いささか過剰に感じたものである。
人によってさまざまな経緯があるものの、大人にとって、日常的に意識させられるのは、病と死の問題である。老年にならずとも、大人後期ともなると、自分自身の健康状態への不安が出てくると同時に、何より近親の病気や死が増えてくる。病も死も俄然、身近になる。
このことは生き方に大きな影響を与える。何より、生の限界を意識するようになる。これこそ、若者意識と大人意識の分岐点である。
いつまでも上り調子でやっていけるわけでない。それより上には行けない天井が見えてくる。中年でなくても、それ以前に近親者の病気や死などを経験することで、大人意識をもつことがありうるが、若いときに親を亡くした人は比較的早い時期に大人意識を持つものだ。ともあれ、生の限界を知るということは、大人の第一歩である。
いわゆる「中年の危機」というものがある。リストラや病気やうつなどのリスクが並べられるのが通例である。大人とは、けっして平坦な高原状態ではない。大きな揺れを経験するものだ。その揺れは若いときよりも振幅が大きいかもしれない。
リストラにしても病気やうつにしても、その経験ののちには多かれ少なかれ死を意識して生きることになるものだ。ふつうに生きることがいかに奇跡的なことであるかがよくわかり、生に限界があることを強く実感する。大人思考は、こうした身体感覚に裏打ちされて出てくるものではないかと思う。
とくに、大人前期と大人後期の差は、ここにある。大人適齢期のところで参照したレビンソンは必ず「人生半ばの過渡期」が来ると言明しているが、その「過渡期」がいつ来るかは個人差があるだろう。大人適齢期の説明のところで述べたように、レビンソンの説をとるにしても、私の修正説をとるにしても、四〇代が節目になりそうである。若者意識が長く残存した人であっても、この「過渡期」という危機ののちには、おそらく大人意識をもつようになると考えていいだろう。それは身体的な感受性の変化から始まるのである。
ただし、「生の限界を知る」と言っても、死に関して本格的に立ち向かうとなれば宗教になってしまう。無宗教の人でも老人になって急に宗教的世界へ傾斜することがあるが突き詰めていくと当然、宗教に行き当たる。
大人はそこまで行かない。行かないが、あれこれ試行錯誤を始めるのである。その一つの表れが、いわゆる健康志向である。
■健康ブームの表層と深層
病気や死の問題をふくめて、身体の問題は大人の難問である。
だから、私は昨今の健康ブームに対して、一方で厳しく分析はするけれども、他方ではそれなりに好意的に理解するのである(野村一夫ほか『健康ブームを読み解く』青弓社、二〇〇三年。佐藤純一ほか『健康論の誘惑』文化書房博文社、二〇〇〇年)。
健康ブームの中でさかんに語られている言葉を分類してみて、その表層と深層を探っていくと、健康ブームと言っても、もはやたんなる一過性のブームではなく、健康志向社会が出来上がっていると考えたほうがいいということがわかる。それは矛盾した指向性の複合体である。いくつかの代表的な指向性を見てみよう。
第一に、近代医学を模倣する流れがある。健康ブームの主役は「素人」である。素人は、権威のある専門家の語ることを模倣しようとする。つまり、医師やナースや栄養士や公衆衛生の専門家たちの言葉を模倣しようとする。
これはたぶんに「メディア仕掛け」である。メディアでこのような専門家たちが説明するものを受け売りして、自分たちの日常的な会話の中で再利用していく。「テレビで専門家が言ってたけど、これってからだにいいのよ」というような言葉を私たちは何度も語っている。ある種の素朴な科学主義というか、素朴な専門家信仰があって、専門家やメディアの権威を後光効果として利用して、食べ物の栄養的価値について語るというようなことだ。
これは、見方を変えれば、長年医療関係者や保健衛生関係者や栄養学者がやってきたことに忠実であろうとする大人たちがたくさん育ってきたということである。今どきの大人は「食べれればいいんだ」とか「腹がいっぱいになればいいんだ」とかではすませない。科学的な(じつは疑似科学的な)言葉がふりかけられていないと気が済まない。専門家たちの長年の教育・啓蒙活動の成果である。と同時にメディアが生活情報記事・番組で流し続けてきた言説の影響も大きい。私が「メディア仕掛けの健康」と呼ぶ理由である。
第二に、伝統回帰と減算主義がある。これは第一の指向性とは反対に、近代医療や近代科学に対する不信や失望を含んでいる。伝統回帰というのは、「伝統的なものは調和がとれていた」と考えて、それを「とてもよいもの」と見なす考え方である。この場合「伝統」「自然」「田舎」といったものが権威になる。和のブームや民族的・土着的な風習を見直そうという流れがこれにあたる。この文脈ではノスタルジックなものが新鮮に感じられる。
反近代・近代批判という指向性では伝統回帰と同じであるものの、少しベクトルがちがうのが減算主義である。要するに「引き算の発想」である。こちらはあまり情緒的なものではなく、むしろ知的洗練度が高いかもしれない。
たとえば「無添加食品がよい」という考え方は、なるべくよけいなリスクを減らしていくことが健康につながると考えている。「よけいなことは何にもしない」というのがポリシーになる。病気に対しては「自然治癒力」という魅力的な言葉が持ち出されると、減算主義は俄然積極的な行為に見えてくるし、過剰医療や薬害に対する対抗原理にされることも多い。
素材の出産地にこだわるというのも、減算主義的発想のひとつである。わけのわからないものがないほうがいいということでもある。
第三に、レトロな道徳をよしとする保守的な風潮がある。「健康にいいか、悪いか」という基準が何よりも重要なもの・優先すべきものになってくると、ある種の行為を賞賛するとともに、ある種の行為を批判することになる。つまり、とても道徳的になってくるのである。
たとえば喫煙に対する包囲網は喫煙者からは「禁煙ファシズム」と感じられるほどに強力である。副流煙問題があるので、喫煙行為は本人の健康のためというよりは、道徳的に問題であると非難される。コーラを飲んでいても「身体に悪いものを飲んでいる人」として、否定的なまなざしで非難されることが多い。何か嗜好的なものの常用者は、本人の意志の弱さの結果と考えられることが多いので、道徳的違反者かのように見られてしまう。
逆に、「継続は力なり」というような道徳もことさらに復唱されている。特に健康法や健康食品については、「継続は力なり」とばかり、長く続けることが勧められる。そういうものをやっている人たちも長く続けていることを自慢するものだ。
保守的な男らしさや女らしさが自明視されるのも、この文脈である。男であれば精力の保持、女であれば美容が健康産業の中では確固たる地位を占めている。健康食品の広告でも、きわめて保守的な男女観が語られている。つまり、男性はスポーティな肉体をもっていなければならないし、女性は絶えず美容に気を配って美しくなければならないという理想を繰り返し説くのである。そして、そうでない人のためにこの健康食品があると触れ込むわけだ。
第四に、身体アイデンティティの救済という願望がある。かつてナチスは「健康は義務である」とプロパガンダしていたが、現代日本の健康ブームにおいても「健康は義務である」ようだ。ところが、そうはいかない人たちがいる。この人たちにとって健康でない部分はスティグマになってしまう。「スリムなボディライン」や「つるんとしたお肌」あるいは「スポーツマンらしさ」のように理想化された身体の基準が社会の中で圧力として働くとき、基準外のこの人たちにとって身体のスティグマがアイデンティティの重要な局面を占めるようになるのである。このマイナスのベクトルを持つ身体アイデンティティを抱えている人たちは苦しい。この苦しさを一気に解消したいと思う。
これに対して「癒し」となるような言葉がさかんに語られている。癒しブームも、じつは健康ブームのひとつの局面なのだが、苦しさを一気に救済するような健康食品や健康法がさかんに喧伝されている。
何にでも効くという健康法や健康食品は、ふつうに考えればあやしげなものに見えるのだが、それがかなりの支持を受けているのは、救済願望が健康ブームの底辺によどんでいるからである。身体に対する切実な「生きづらさ」を一気に救済してほしいという願望が、これらの癒し系健康産業を支えているのだ。
■健康志向社会と大人社会
大人は、日々の生活において、仕事や家族やおつきあいのことで頭がいっぱいなものである。しかし、無病息災な大人は少数派であろう。たとえ無病息災であっても健康不安の意識は持っているものである。たいていは身体的に不調を感じながら日々を過ごす大人が多いはずだ。「問題状況としての身体」が人を大人にする。健康ブームは、こうした緊張関係の表現なのだ。
これは若者中心社会から大人中心社会に移行した証でさえある。つまり、人口構成の比重が変化したというだけではなく、生活意識の比重も若者意識から大人意識へ徐々に変化したということだと考えることができる。一般に大人の自覚のほうはかなり遅れてくるのに対して(あるいは若者意識の呪縛から自由になれないのに対して)、身体への関心が先行して社会の重心が変化しつつあるということだろう。だとすれば、健康ブームは大人中心社会の前兆であるとも言える。
健康ブーム、正しくは健康志向社会は、身体を生活原理とする社会である。生の限界を自覚する大人たちが、よくも悪くも、自分の身体状態を優先して生きるというのは、社会のありようとしては「あり」だと思う。身体という原理が、生き方を決める上での拠点となっていることは悪いことではないと私は思う。
というのは、この身体というきわめてミクロで個人的な局面は、じつは「リスク社会」という社会のきわめてマクロな現代的な局面に直結しているのである。私たちが健康を気にするという日常の瑣事は、漠然とではあっても「リスク社会」に対するきわめてまっとうな反応なのである。
二 リスク社会の人間的条件
■リスク社会とは何か
だれにとっても重要な身体という拠点から発想するとして、新しい大人が大人として生きていかなければならない社会とはどういう社会だろう。もちろんそれは抽象的なものではない。身体に関連するきわめて具体的なものであり、日常生活を丸ごと包括しているものである。社会学者のウルリッヒ・ベックが命名した「リスク社会」という捉え方は、まさにこうした観点から注目に値する。
ベックによると、現代のリスクは次のような特徴を持つという(山口節郎『現代社会のゆらぎとリスク』新曜社、二〇〇二年)。
第一に、空間的にも時間的にも影響範囲が限定できない。リスク社会のリスクは、空間的に限定されない。チェルノブイリ事故がそうであったように、その影響は国境を越えたグローバルなものになる。産業によって排出される有害物質も国境を越えて森林の枯死や動植物の生死に影響を与える。しかも、その影響力はきわめて長期間にわたる。
第二に、責任の所在を突き止めることができない。光化学スモッグや大気汚染などは、汚染源が一つでないし汚染物質も複合的である。健康被害との因果関係を立証できないし、「この工場が原因だ」とも言い切れない。特定できないからこそ、責任も問えない。その結果、汚染者を免責することになってしまう。
第三に、被害を補償することができない。保険制度や福祉国家は、事故・労働災害・失業・病気・障害などに対して、それなりの補償や対策をしてきた。しかし、現代のリスク社会では、これらによる補償の限界を超えているものがたくさんある。遺伝子組み換えや原子力利用や大規模開発による生態系破壊などは、ひとたび問題が生じてしまうと、取り返しがつかないことが多い。
私たちは、このようなリスクに囲まれているのである。考えれば考えるほど、私たちの身体と生命は危ういところにおかれていることを思い知る。
端的に言うと、リスクとは生きることの不確実性のことであり、リスク社会とは、こうした不確実性を視野に入れて行動しなければならないような社会である。
新しい大人が生きるのは、このようなリスク社会であるとすると、私たちが自分の身体というものを生活原理として生きていくことは、悪いことではない。たとえば、踊らされているとわかっていても、より健康によいもの、安全なものを求めていくという行為は、リスク社会の生き方としては理にかなっている。
しかし、身体を生活原理として生きるにしても、リスク社会の構造を考えたときには、もう一段、より理にかなった生き方があると思う。
■循環するリスク
社会学者のアンソニー・ギデンズによると、リスクには二種類ある(アンソニー・ギデンズ『暴走する世界』ダイアモンド社、二〇〇一年)。それは、外部リスクと人工リスクである。
外部リスクとは、伝統や自然に起因するリスクであり、凶作、洪水、疫病、飢饉などを指している。それに対して、人工リスクとは、人間の知識が深化することで生じるリスクである。環境問題がその典型である。これは、人間が外部世界に介入することによって生じるリスクである。交通事故や気候異変もそうだ。問題なのは人工リスクである。
リスク社会とは、人間が人間にリスクをまわす社会である。すなわち、自分たちの活動と生活がまわりまわって自分たちに循環するような社会である。言ってみれば、因果応報的な循環があるのだ。ここでは、責任ということの処理が難しい。それがリスク社会の特色である。
富の分配は階級や階層を作り出すが、リスクの分配は平等である。労働者の生産した富が資本家によって収奪されるというようなものではない。いささか極端な言い方だが、皮肉なことに、リスクから見れば、みんな平等である。
そのようなリスク社会においては、いつも社会的ディレンマが生じうる。つまり、自分たちの活動が、自分たちに災難をもたらすというディレンマである。もちろん、この場合の「自分たち」が同一とは限らない。公害問題や薬害問題のように、明確に加害企業と被害者が分離されている場合もあれば、原子力発電所の事故のように、原発によって何らかの利益を受けている膨大な人たち(電力会社や関連企業の人たちから、電気の供給を受けている人たちまで)と、被害を受けた人たちがかなり重なる場合もある。
リスクを生み出す活動の恩恵を受けている人たちのことを、環境社会学の用語を借りると「受益圏」という。私たちは、高速道路にせよ、鉄道にせよ、原発にせよ、受益圏に属していることが多い。つまり、リスクを生み出す構造に加担しているのである。この加担自体に道義的な責任を感じる必要はない。それは大きな社会の構造なのだから。
そうではなくて、被害を受ける側の視点をいつも持って生活することが重要なのだ。被害を受ける側のことを環境社会学では「受苦圏」と呼ぶ。私たちは受益圏にもいるが、多くの場合、受苦圏にも身を置いている。たいてい、どちらからも逃げられない。ならば、この両面性を意識しつつ生活するしかない。
■リスク社会に生きること
自分の便利な生活が、日々リスクを生み出している。このリスクの循環を前提に、受苦圏の発想から、少しずつ生活をずらしていく工夫をしていけばいい。このときに「身体という生活原理」から発想することが意味を持つ。たんに健康によいとされるものを買うというのにとどまることなく、リスク社会という広い視野でもって、自分の生命と身体を守っていくということだ。
こういうことは消費生活の文脈では、よく語られることかもしれない。しかし、リスク社会の循環構造を考慮すると、それだけではまったく不十分であることがわかる。まして、社会生活の重要な場面に立ち会っている大人として、なすべきことがあるはずである。
大人がリスク社会に生きるというさいに重要になるのは、加害を最小限に食い止めることである。そのために組織内での行動が決定的に重要である。
リスク社会に生きることは、とりもなおさず、被害者になるという経験だけでなく、加害者になるという経験が大いにありうるということである。
もちろん公害企業や薬害企業のように責任が明確に問われる場合は、企業のリスク管理の観点からも気をつけなければならないわけだが、もっと責任の所在が不明確なままに終わるケースがあるということをリスク社会論は示している。そうしたことに対して、賢明に対処していくということが大人の生き方であろう。「身近な環境問題から始めよう」などと世間では言われているけれども、「身近」には職場の仕事も入るのだ。身近な組織が産み出すリスク原因を減らす努力をするという自覚が必要なのである。
それにしても、じっさい、すべてのリスクを視野に入れて意思決定をするのは困難である。時間の制約や、すべての選択肢を正確に分析し結果を推量して合理的に判断するというのは事実上困難だ。
だから、どこかで決断主義的にならざるを得ない。つまり、リスクを覚悟しつつ、決断を下していくしかない。しかし、それによって被害や問題が生じる可能性に絶えずさらされている。完全な安全はあり得ないのだから、リスクを負担しなければならない。そうした準備を整える工夫をすること。これがリスク社会を生きる大人の条件である。第一章で紹介した福田和也氏の大人のイメージは、おそらくこういう文脈に関連させてみると、それなりに位置づけられるように思う。
■大震災の経験
日本の場合、地震のような自然災害もリスク社会の大きな要素である。行政によるパターナリズムは期待できないような大規模災害が繰り返し生じている。とくに阪神淡路大震災の経験は、都市生活における新しい大人の生活スタイルの必要性を提示しているのではなかろうか。私には、新しい大人の登場が期待されていると思う。
阪神淡路大震災と一連の救援活動についていち早く分析し発言した野田正彰『災害救援』(岩波新書、一九九五年)を読むと、いざというときにものを言うのは対等な人間関係をふくむ小集団であるということがよくわかる。
「災害に強い都市とは、常に災害に対して身構えた軍艦都市のイメージであってはならない。大震災の直後には、そんな主張をする識者も少なくなかったが、しょせん一時的反応でしかない。それよりも、大地震にもかかわらず、被災直後から人間のネットワークが無数に伸び、からまりあい、しっかりと人々が支え合う根のある社会こそが地震に強い社会である。」
初動の遅れた公的な救援活動に対して、家屋の下敷きになった人の救出や、避難所での活動や復興のための活動などで大きな力を発揮したのは、被災者の人たちのコミュニティとボランティアだった。
こういう動きができる高度な社会人としての大人になりたいものだ。つまり、孤立した個人としての大人ではなく、人間的なネットワークに参加している大人である。私は、ここがポイントではないかと思う。
大人と言えば「一人で生きていける自立した個人」であればいいのではないかと想定しがちだが、むしろ豊かな人間的ネットワークをもっているような個人であるということが大事ではないかと思うのだ。この点について次節で考えてみよう。
三 大人の力としての信頼
■社会関係資本と大人の力
いざというときに頼りになるのは人間関係である。豊かな人間関係を築けと言われるが、利己的な意味で役に立つということ以上の含みがあると私は思う。ここで「大人の力としての信頼関係」について考えてみよう。
人と人の絆や信頼関係のことを最近の社会理論では「社会関係資本」と呼ぶ。人的ネットワークの力のことである。直訳すると「社会資本」になるが、道路や上下水道や電気・ガスなどのインフラストラクチャーと混同されると困るので、最近は「社会関係資本」と訳される。
社会的局面において「大人の力」というものを考えると、私は、社会関係資本とそれに裏付けられた信頼ではないかと思うのである。
よく「からだが資本」と言われるけれども、人間関係も重要な資本だ。当たり前と言えば当たり前だが、やれ格差社会だ階層社会だという議論になると、こういう側面が吹っ飛んでしまう。小金持ちでも貧乏人でも人間関係はある。多少貧乏でも、豊かな人間関係をもつ人はたくさんいる。
人間関係と言っても「コネがある」というのとは少しちがう。もちろん、そういうものも含むのだけれども、社会関係資本というのは、かんたんに言えば、信頼できる人の輪をもっているということだ。社会から見れば、人びとのあいだに無数の信頼関係のネットワークがはりめぐらされているということになる。
大人が社会に人的ネットワークの力をもたらすという局面、つまり社会関係資本を生み出すという局面を問題にしたい。
■大人がつくる社会
大人が社会をつくるという回路に着目しよう。
ロバート・D・パットナムという政治学者がイタリア社会の研究をした。イタリアは地方分権が進んだ国だが、それがうまく行っている地方とそうでない地方が明確に分かれているのが特徴であるという(ロバート・D・パットナム『哲学する民主主義』NTT出版、二〇〇一年)。
パットナムによると、一方では、公的問題に対して人びとが無関心で、自分たちの仕事とはだれも考えないで、だれかが勝手にやればいいと思っている。社会的な組織や文化的なサークルなどへの参加もあまりしない。このような州では、ボス支配があり、汚職が蔓延し、法律は破られるために存在し、そのために法律はますます厳しくなる悪循環に陥っている。
他方では、公的問題に対して人びとが関心を持ち、それらについての新聞記事もよく読む州がある。ここでは合唱団やサッカーチームや野鳥の会やロータリークラブや読書会などが数多く存在し、人びとがこうした活動に積極的に参加している。住民はお互いに信頼し合い、公正に行動し、法律もよく守る。州政府もよく仕事をする。
つまり、一方には殺伐とした民度の低い地域があり、他方には民主主義が息づいている民度の高い地域があるということだ。後者では民主主義のパフォーマンスが高い。
では、政治文化上のこの大きな差はいったいどこから生じてくるのか。
パットナムの考察によると、それは社会関係資本(訳書では「社会資本」)の蓄積があるかどうかだという。
家族や親族のように血縁的な人間関係はたしかに強力だが、閉鎖的になったり、排他的に機能することが多い。農村的な地縁もそうである。よそ者に対して厳しい。民度の低い地域の人間関係は、おおむねこのようなものが中心になっている。
そうではなくて、もっと開放的な人間関係が社会関係資本を生み出すのである。それが、合唱団であったり、サッカーチームであったり、さまざまなサークル活動なのである。こういう集団を「中間集団」と呼ぶが、地域社会にさまざまな中間集団がつくられ、人びとが自由に参加して、古い地縁血縁を超えた新しい人間関係を日々構築しているという事実が重要なのである。
こういう場所で生まれる信頼は、新しい信頼である。日々の何気ない活動の中でなされる協力関係が生み出す信頼である。協力するためには、そこで出会う他人を信頼しなければならない。この信頼は本来は賭けである。しかし、その賭けに自分の活動を賭けることによって、つまり相手を信頼し、相手が自分を信頼していると信じることによって、相手に協力する。このことによって、結果的に相手の信頼を得ることができる。こういう賭けを日常的におこなう大人たちがたくさんいるということが、社会に社会関係資本を蓄積する。
こういう大人は、合唱団のおばちゃんであれ、鉄道マニアのお兄さんであれ、野鳥写真同好会のオヤジであれ、どこかあか抜けたところがあるものである。それは他人への協力を惜しまないところや、積極的にコミュニケーションの輪を広げるところや、基本的に他人を信頼しようとする冒険心をもっているところにあるのではなかろうか。
■落ち葉かきの論理
社会関係資本と言っても、難しい話ではない。早い話が、落ち葉かきの論理である。
庭に木があれば秋になると落ち葉がご近所に広がってしまう。風が吹けば舞い上がるし、雨が降れば汚くなってしまう。落ち葉は早めに掃除しておくのがよい。
雪かきもそうだ。自分の家の前ぐらいは早めに雪かきしておけば、ご近所の人たちも助かる。お互いが家の前を雪かきするだけで、みんなが快適に歩けるようになる。
ゴミの集積場にカラスがたかってゴミを散らかしているのを見たら、散らかったゴミを他人のゴミであっても片付ける。
専門的には「互酬性の規範」と呼ぶのだが、このように、お互い様の気持ちをみんなが持っているということが、その社会に社会関係資本が蓄積されているということなのだ。いいことをすると、すぐに相手からいいことをされるというだけではなく、いいことをすると、いつの日か自分が困ったときにだれかが助けてくれるだろうという一般的な期待が持てるということだ。特定の人に対するこうした感覚を「友情」と呼ぶが、その地域拡大版のようなものである。「大人のコミュニティ」とでも呼んでおこう。
具体的に落ち葉かきができるかどうかということではない。自発的に協力し合えるか。これが大きな分かれ目なのだ。
社会理論の世界では「集合行為のジレンマ」というのだが、なかなかお互いに協力し合うというのは困難なことである。相手を信頼しない、協力しない、つまりフリーライダー(ただ乗りする人)になるというのが「合理的な選択」なのだ。ここで想定されているのは、合理的だが世知辛くてせこい大人である。
しかし、社会的真空状態ではそうであっても、現実の社会は真空ではない。こういうときに社会関係資本がものを言うのである。
こういう関係に参加し、社会関係資本を増やす好循環に参加することが、これからの大人の条件である信頼をつくるのではないだろうか。
阪神淡路大震災では、震災の救援と復興の過程でこういう関係が濃密に醸成された。社会関係資本は「使うと増え、使わないと減る」ものだというから、震災のような危機的状況において神戸では社会関係資本が豊かになったのではないかと想像できる。
■大人のコミュニティとしての中間集団
昔ながらの町内会や農協のような古い組織は、権力構造や既得権益が定まっていて、そこから新しいものは出にくい。このような垂直的な関係が軸になっている既存の組織ではなく、水平的な関係が軸になっている、もっと開放的な中間集団に期待したい。同じ町内会でも、団地やマンション組合は新しい町内会として期待できる。さまざまなボランティア活動や市民運動の集まりもPTAも可能性がある。合唱団や写真サークルや野鳥の会のような市民サークルもいい。料理教室や手芸教室も可能性がある。
要するにテーマや活動内容はさまざまであっていいのである。水平的なネットワークのある中間集団に参加していることが重要な意味を持つ。大人の条件とは、このようなオープンな信頼のネットワークに入ることである。
他人のために何かしてあげると、いつか自分に返ってくるものだという期待が満たされていれば、他人のために何かできる。こういう状態を「互酬性の規範が成立している」と言う。これが自分にとっての社会関係資本であり、自分の生活空間に社会関係資本を増やすことになる。
インターネットによる自助グループの研究を読むと、中間集団としてのオンライン・コミュニティにも期待がかかる(宮田加久子『きずなをつなぐメディア』NTT出版、二〇〇五年)。ただし、集団としての実体があったほうが望ましい。たしかに『電車男』のような助け合いは日常的におこなわれている。情報としてのアドバイスや、情緒的な励ましはネットでも十分可能である。ネットのコミュニティはテーマによるつながりなので、それなりに濃いつながりである。しかし、匿名のオンライン・コミュニティは壊れ物でもある。何かトラブルがあるとすぐに壊れてしまう。オフ会やイベントを頻繁に行っていたりして、集団としての実体があれば、より確かなコミュニティとして機能するものである。
■弱い紐帯の強い力
社会関係資本というのは思わぬ力を発揮するものである。
たとえば「弱い紐帯の強い力」という現象がある。ネットワーク分析という研究分野で注目されている現象である。
たとえば、転職探しをしている人がいるとする。ツテを頼って仕事を探すわけだが、強い絆を持つ近しい人たちからは意外にいい話がこない。なぜかというと、自分に近しい人たちは自分と同じような情報と人間関係しか持っていないからだ。あるいは、自分と似たような境遇にあったりするから、いい話は出てこない。いい話は「弱い紐帯」つまり少し遠い縁の人からやってくる。これはその人が自分とは異質な世界で生活しているために、手持ちの情報も違えば、日常的な人間関係や生活上のニーズも違うからだ。
「橋渡し型社会関係資本」という概念もあるのだが、薄い縁だからこそ、異なる生活空間を橋渡しする働きができるのである。
大人のネットワークというのは、案外こういうところで威力を発揮するものなのかもしれない。こういう縁こそが強くてしなやかな大人と社会をつくるのだ。