10: 第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理
一 コミュニケーション論へ
二 コミュニケーションの理想的局面
三 市民的公共圏の理念
10-1: 一 コミュニケーション論へ
10-1-1: 脱物象化とコミュニケーション
社会学的なリフレクションはたんに「意識を高める」といった啓蒙主義的レベルでは終わらない。そこまでなら「自分を知るための哲学」で十分であろう。しかし、わたしたちが生きている現代社会は、そのような主観的な覚醒によって調整できるような牧歌的な光景ではもはやなく、わたしたちの生のすべての局面を巻き込む複雑きわまりない活動の複合体である。わたしたちの意識も人格形成もさりげない挙動でさえもこの社会の権力作用の網の目にからみとられているわけで、ドライな認識をもつかぎり、素朴な「哲学的啓蒙」でことたれりとするわけにはいかない。リフレクションの実効性の観点から見れば、哲学の時代は終わり、すでに社会学の時代になっていると思う。ただし知識と社会的条件のあいだにはタイム・ラグがつきものだという例にもれず、哲学はなお多産なのに対して社会学はいまひとつ出遅れているとの感はいなめないが……。
さて、前章では、わたしたちの行為が生みだす権力作用の局面に着目して検証してきた。そして権力作用が社会のコミュニケーションのありようによって固定され自明視されていることを確認してきた。ディスコミュニケーションによって物象化的錯視が固定される。しかしリフレクションの理論系譜によれば、脱物象化の可能性もやはりコミュニケーションにある。コミュニケーションという概念は、もともと特定の理念をふくんでいて、脱物象化はこの理念──それはしばしば潜在化しているのであるが──を現実のコミュニケーション過程に顕在化させることによって可能になると考えるのだ。結局わたしたちはコミュニケーションに立ち返らざるをえない。とりわけコミュニケーションの潜在的な力に。
伝統的なマルクス主義に依拠する従来の社会理論によく見られた、抑圧された現実から一挙に解放されることをめざす疎外論や、フロイト主義を加味した「抑圧─解放図式」はもはや有効ではなくなっている。そうではなくて、わたしたちのコミュニケーションの風通しをよくすることによって、つまり社会におけるコミュニケーションの反省作用を活性化させることによって、たえず問題状況を陽の当たるところにおき、社会を改訂しつづけるためのメタ環境を整備しておくことの方が実効性は高いのではないか。その意味で総じて現代社会学はユートピア的革命路線に対して概して批判的である。しかし、かといって素朴で反主知主義的な現実肯定主義に与するものでもない。やはりそこには現実内在的であると同時に現実超越的な理念もしくは思想が存在する。その方向性を本書ではこれまで「脱物象化」という包括的概念によって示してきた。いうまでもなくこの概念はあまりに粗雑であり、より具体的な議論を必要とする。本章ではこの点に焦点をあわせて脱物象化の視界について説明していきたい。
10-1-2: コミュニケーション論的社会像
コミュニケーションの理想的局面に理論的根拠をあたえたのはミードである。かれのコミュニケーション論は現在でも社会理論のひとつのゼロ地点である。ゼロ地点とは、すべてがそこから始まるということであるとともに、十分には洗練されていないけれども、いつでもそこへ戻って思考を再開すべき場所であることをさしている。さっそくミードの理想的社会像が集約的に表現されている部分をかれの有名な講義録『精神・自我・社会』から引いてみよう。
「人類社会の理想は、人びとをその相互関係において緊密に結びつけ、そうすることで、自分の特殊な機能を行使している人びとに自分が影響を及ぼしている人びとの態度を採用できるようにするコミュニケーションという必須のシステムを十分に発達させることである。コミュニケーションの発達は抽象観念の[交換という]問題にとどまらず、有意味シンボルを通してコミュニケートし、他人の態度の位置に自分の自我を置く過程でもある。他人に影響を及ぼす身振りがまったく同様に自分自身に影響を及ぼすという事実こそが、有意味シンボルの本質だったことを想起しよう。他人に与えた刺激が自分自身にも同一もしくは同様の反応をひきおこしたときにだけ、シンボルは有意味シンボルである。人間のコミュニケーションはこういう有意味シンボルをとおしておこる。だから、それを可能にする共同体をどう組織化するかが問題である。もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である。したがって話想宇宙が、コミュニケーションの形相上の理想である。」●1
ミードの議論はそれなりに明解なのだが、その即物的なまでにプラグマティックな発想──かれはそれを「社会的行動主義」(social behaviorism)と呼ぶ──がわたしたちの常識的思考になじまないため、理解するのにたいへん苦労する。このままでは多くの読者にとってここが〈つまずきの石〉になる怖れがありそうだ。そこで現代人のコミュニケーションに即して、ここで述べられているかれの考え方を徹底的にほぐして説明してみよう。これまでもそうだったが、ここでも「原典に忠実な解釈」からはいったん身を退いておきたい。
10-1-3: コミュニケーションの三水準
わたしたちのコミュニケーションは質的に大きく異なる三つの水準として分析することができる。第一水準は「身ぶりに媒介された相互作用」第二水準は「記号に媒介された相互作用」第三水準は「メディアに媒介された相互作用」である。ちなみに「相互作用」(interaction)は「相互行為」とも訳される。本書では「相互作用」に訳語を統一してある。
コミュニケーションのもっとも原初的な水準をミードは「身ぶり会話」と呼ぶ。人間Aの身ぶりPに対して人間Bが身ぶりQの反応をしたとき、人間Aは身ぶりQに対して反応してRという身ぶりをする。これがコミュニケーションの最小単位である。つまりお互いの身ぶりに反応しあって身ぶりを交しあうことがコミュニケーションなのである。この場合、共通のことばも知能もいらない。だから動物たちにもコミュニケーションは生じているし、次のようなケースも考えられる。「外国人が向こうから近づいてくる。語学の苦手なわたしはそれを見て思わずうつむいてしまう。それを察知した外国人は、わたしに道を尋ねるのをあきらめる。」この場合、コミュニケーションは始まっていないように見えるかもしれないが、ミードのいう身ぶり会話の水準では、すでに終わっていることになる。「近づいてくる」という外国人の身ぶりに対して「わたし」が「うつむいてしまう」という身ぶりを反応としてしてしまったために、外国人は「道を尋ねるのをあきらめる」という反応をしたのだから。このようにコミュニケーションの第一水準においては、送り手の意図や思惑とは関係なくコミュニケーションは事実的行為の反作用(じっさいのふるまいに対して、じっさいのふるまいで応えること)として進行する。相手(わかりやすく「受け手」と呼んでもよい)がどう反応したかが、現実に生じたコミュニケーションの「意味」なのである。この場合の「意味」は観念でもなければことばでもない。相互作用に客観的に存在する相手の反応そのものである。
ところが人間の場合は他の動物とちがって特殊な身ぶりをすることができる。その身ぶりとは「音声身ぶり」すなわち話しことばの使用である。この音声身ぶりが他の身ぶりとちがうところは、自分の身ぶりが相手に引き起こす反応とほぼ同じ反応を自分のなかにも引き起こすことができることにある。なぜなら話しことばは相手にも届くが、同時に自分にも聞こえるからである。つまり自分がひとりの人間に話しているとき、それを聞いているのは目の前の相手だけでなく、相手と自分の「ふたり」なのである。この場合、自分の身ぶりによって生じた相手の反応の身ぶりをまるで自分の身ぶりの解釈であるかのように理解することが可能になる。たとえば「ダメ!」という音声身ぶりと、それが相手に引き起こす反応とがひと組の「記号と意味」として認識される。ミードはこれを「有意味シンボル」(significant symbol)と呼ぶのである。これがコミュニケーションの第二水準であり、人間的な反省的コミュニケーションの水準である。
しかし、現代人のコミュニケーションがこの水準にとどまらないのは実感として自明である。わたしたちはしばしば何らかのメディアを使ってコミュニケーションをおこなう。それは手紙かもしれないし電話かもしれない。ラジオやテレビであることもあるし、カラオケやギターであるかもしれない。とにかくいえることは、現代人のコミュニケーションは「メディアに媒介された相互作用」だということだ。これをコミュニケーションの第三水準に位置づけよう。
おおむね以上の三つの水準が重層的に積み上がることによって、わたしたち現代人のコミュニケーションは成立していると考えることができる。たとえば、恋人たちの深夜の長電話は、まず、電話というメディアを媒介したコミュニケーションである(第三水準)。つぎに、話しことばによって、相手にほぼ伝わるであろう意味を自分自身で確かめながら話しつづける、という点で第二水準のコミュニケーションである。しかし、最終的には、自分がしゃべったことばは、相手によって、その声の質や話し方・積極性や通話時間(時刻も)など、電話によって確認できるすべての身ぶりとともに照合されつつ解釈されてしまう身ぶりの一要素として、現実の相互作用過程に投げ出される刺激にすぎない。それは当人によってさえもコントロールできない本質的に偶発的な性質を帯びている(第一水準)。
10-2: 二 コミュニケーションの理想的局面
10-2-1: コミュニケーションの理想
「もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である」とミードはコミュニケーションの理想について語っていた。●2これをコミュニケーションの三水準に即して説明するとさしあたり以下のような構図になる。
第一水準で確認したように、コミュニケーションとは原理上偶発的で参加者の意図を超えた客観的な過程である。それはあくまでスリリングな過程であって、共通の利害と共通のことばでもって理解しあうといった談合的なものではない。たとえば、たんなる話の導入の手続きのつもりで「昨日の夜、電話したけどいなかったね。どこいってたの?」といったことに対して、相手が「そんなことどうでもいいだろ!」と反応してしまったら、コミュニケーションは予想もしない方向に進んでいってしまう。つまり相手の反応しだいでコミュニケーションはどこへでもいってしまうのだ。
しかし、この偶発性に対して、人間は音声身ぶりすなわちことばを使うことによって、ある程度の反省的なコミュニケーションをおこなうことができる。つまり相手の反応を自分の行為の解釈──つまり「意味」──としてとりいれ、有意味シンボルという共通なものをつくりだすことができる。こうして子どもは「水がほしい」ということばを発すれば母親から「水をもってくる」という反応を引きだせることを学ぶ。
コミュニケーション・メディアの発達は、このような共通の反応をもつ有意味シンボルをより普遍的なものにする可能性がある。特定の地域でしか通用しなかったあることばが、地域を超え国家を超えて共通の反応を呼び起こす(つまり共通の意味をもつ)ことが、コミュニケーション・メディアによって可能になる。
ミードが「話想宇宙」(universe of discourse)──「討議の世界」と訳すこともできる──と呼ぶのは、さしあたりこのような構図を前提としている。ミードは「話想宇宙」を「同一の有意味シンボルにより、すべての個人が、相互に会話する能力にだけ基礎づけられた社会によって代表される論理学的社会」●3と定義する。まったく平等な資格をもった人びとによる会議のようなものと思えばよい。
しかしここまでだと、いわゆる「バラ色のユートピア」構想にとどまってしまう。じっさいコミュニケーション論におけるミードの先行者だったクーリーのコミュニケーション論の方はこの段階にとどまっていた。小谷敏によると、クーリーのコミュニケーション論は、基本的に人間は等質であるとの前提に立つ。だから交通手段やコミュニケーション・メディアの発達によって人間の相互理解がますます進むというわけだ。小谷敏はこのようなクーリーの考え方を「等質性のユートピア」と呼ぶ。●4
しかしそれはあくまでも可能性であって、じっさいには事態はそうかんたんではない。たとえば同じ日本語をしゃべることができたとしても、教師が生徒にいったことに対して、生徒は特定の具体的状況下において教師の意図とは無関係に反作用してしまうものだ。たとえば教師の「バカ!」ということばも、励ましの意味に受け取られることもあれば、親密さをあらわしたり、教師の傲慢さの表現と取られることもありうる。ことばによる理性的なコミュニケーションであっても、第一水準の偶発性からは逃れられない。まして現代人はメディアを使用する。「メディアはメッセージである」(マーシャル・マクルーハン)といわれるように、メディアそのものがひとつの身ぶりとしてコミュニケーションの内容を強く規定する。しかもメディアはそれ自体、自律的に作動する。たとえば電話を使えばそのコミュニケーションは遠く離れたふたりに可能になるが、同時にそれは一対一関係に限定され、音声のみをクローズアップすることになる。恋人たちであればいっしょにいるだけでことばは不要であるが、それでもかれらが電話でコミュニケーションするときには沈黙は回避されるはずである。また電話は匿名性をコミュニケーションに持ち込むので、いたずらやいやがらせのコミュニケーションを誘発するとともに、「いのちの電話」「電話相談」のようなコミュニケーションもしやすくなる。●5このように、第三水準では、第二水準において見られる当事者のリフレクションが作動しにくくなり、メディアそのものの自律的運動に影響されがちである。それゆえこの水準では、コミュニケーションの反省作用をどうすれば活性化できるかが改めて問題になってくるのである。
ミードが立っている基本認識を現代風に定式化すると以上のようになる。だから「話想宇宙」といっても、たんに、世界中の人が英語を勉強して対話するとか、方言をなくして全員が標準語で会話できるといった、何かしら共通の言語を共有することではないし、メディアによってそれがますます現実化すると決めつけることもできない。
むしろ、利害の折り合わない人びとにおいても、あるいはまた生活環境や文化のまったく異なる人びとにおいても、自分のことばが相手に同じ意味で受け取られるとともに、相手のことばを相手の意図に基づいて解釈し、個性的な反応を返していくこと──そしてその通りに相手が理解し相手なりの反応を返すこと──なのである。もちろんこれは「みんな仲良く」式の世界について語っているのではない。むしろ逆に、加害者と被害者、資産をもつ者ともたない者、男性と女性、管理職と労働者、差別する者とされる者、教える者と教えられる者、送り手と受け手、売る側と買う側、大人と子ども、専門家と素人、障害者と健常者、医者と患者……といった対立的な役割関係にある人びとが対立的なまま、とりあえず討議する場とことばとが保証されている理性的な相互学習過程を構想しているのである。そして日常的なさりげない対話のなかにもその理念は宿っているというのだ。
だからここでミードが総括的に述べている理想は、わたしたちが通常思いおこすような理想と少し趣がちがう。その理想を「民主主義」と呼ぶとすれば、ミードにとって民主主義とは、みんながみんな似ているような平準化された社会秩序ではなく、個性的な個人が自分の可能性を最大限発達させるとともに、自分が影響をおよぼしている他人の態度に参入できることである。●6それはたんなるバラ色の理想主義ではない。葛藤的な社会像を前提した上での理想である。それゆえ小谷は、クーリーの「等質性のユートピア」に対してミードの社会ヴィジョンを「理性的主体のユートピア」と性格づける。それは「文化規範を異にする者同士が、相互の異質性を前提としながら、話しあいと再調整をくり返すことによって日々更新されていく、そうした社会関係」をめざす。その担い手は科学者のように理性的な態度をとる人びとである。●7
顧みれば、いわゆる情報社会論の系譜では今なお「等質性のユートピア」のヴィジョンが主流である。情報量が多くなればなるほど、チャンネル数が増えれば増えるほど、メディア技術が高度化すればするほど、望ましい社会に近づくという素朴な工学的社会観が今だに広く流通している。この傾向は「ニュー・メディア」や「マルチ・メディア」の名の下にまだまだ生き残りそうである。一種の葛藤的社会像を前提した上で、だからこそ理想的な討論の場が必要であり、反省的コミュニケーションのシステムを追求すべきだと考えるミードのヴィジョンは、今日でもけっして古びていないのである。
「みんないっしょ」だから活発になる「仲良し」コミュニケーションではなく、利害がちがうからこそコミュニケーションがおこなわれるような社会、異質な文化をもつ他者であるがゆえに反省的なコミュニケーションが活性化するような社会、葛藤が深まれば深まるほどリフレクションが作動する社会、自分たちの行為が予想外の反応を呼び起こしたことを当事者自身が的確に認識できるような社会──おそらくこのプロセス自体が「反省する社会」なのである。
ところで、以上のような議論をしていると、「この話、何かに似てるなあ」とある種の既視感にとらわれるのではあるまいか。そう、これはジャーナリズムの話そのものである。ジャーナリズムといっても現実のあれやこれやの報道活動というよりも、社会現象もしくは社会原理としてのジャーナリズムである。ジャーナリズムを広い意味で論じることは近年でははやらないが、戦前のジャーナリズム論では珍しくなかった。戦前の日本の代表的な論客から例をとると長谷川如是閑がいる。
長谷川如是閑は「対立意識というのは、敵対的の対立ではなく、社会的協同生活のそれぞれの立場という意味で、国としても国民としても、その性能や性格にそれぞれ個性があり、その差別に立って全体としての協同生活が成り立っているのだが、その各々の立場の社会意識を、私は対立意識と言っているので、対立意識の表現が即ちジャーナリズムである」●8と述べ、社会意識に内在する差異性に注目する。ここでは、社会の成員のさまざまな差異性を社会的コミュニケーションへ意識的に反映させてゆく活動としてジャーナリズムが捉えられている。
10-2-2: 理想的発話状況とコミュニケーション共同体
ミードの「話想宇宙」概念の現代的対応物をみつけるとすれば、グールドナーの「合理的討議のための共同体」構想、アーペルの「理想的なコミュニケーション共同体のアプリオリ」、初期ハバーマスの「理想的発話状況」概念、後期ハバーマスの「コミュニケーション行為」論が代表的なものであろう。●9これらの諸概念の差異はけっして小さくはないけれども、大局を見失わないようにするため、ここでは一括して展望することにしたい。
かれらの主張──とりわけ理論的動機──におおむね共通する論点は次の三点に集約できる。
第一に、現実社会の権力作用を批判する批判理論(critical theory)の立場に立つこと。「ホロコースト」という想像を絶する大量排除現象へいたるユダヤ人迫害を身をもって体験したフランクフルト学派の問題意識がかれらに権力作用への徹底的な批判を要請しているように見えるし、社会主義側におけるスターリニズムや先進諸国における新左翼運動への失望などが始発点にあるようだ。概して現代社会学の場合、ファシズムとスターリニズムの投げかけた問題の影響は大きい。かれらには「なぜこうなってしまうのか」という切迫した問いかけが先行している。
それゆえ、権力作用がもたらす対立状態の固定化を排しその流動化をめざすというのがかれらの理論的課題となる。ジンメル流にいえば「文化の悲劇」がなぜ生じ、なぜ回避できないのか、そこから離脱する方法はないのか──これに答えるためには膨大な経験的研究とその総合が必要となる。なぜかというと、排除現象はもはや少数の独裁権力者の横暴や気紛れによって生じるのではなく、人びとの自発的な行為によって生じるからである。それこそファシズムの経験がはっきりと示していたことだった。その「自発的服従」はどのようにして供給されるのかをたどっていくと、現代のコミュニケーションのいびつなありようにたどり着く。現代社会におけるコミュニケーションに何か問題があるはずだというアプローチ、「歪められたコミュニケーション」への注目、これが第二点である。
では、批判の根拠となる地点はどこか。「歪められた」というからには、それは「歪められていないコミュニケーション」以外にない。「そんなものが存在するのか」という反論に応えて、かれらは詳細な言語理論の研究ののちに、夢想ではなく現実的な根拠としてそれが作用していることを論証する。それが「コミュニケーション共同体」であり「理想的発話状況」などと概念化されたものである。これらは必ずしもミードの「話想宇宙」概念に影響されたものでないにせよ、内容的にはその延長線上で理解することができる。これらはたしかに理念である。しかし、わたしたちはコミュニケーションをおこなうさい、確実にその理念をあてにしている。その見込みがなければ厳密な意味でのコミュニケーションをわたしたちは試みようとはしないだろう。たとえば、ガン患者が医師に真実を知らせてくれと要求するとき、若者が「別れましょ」という恋人を引き留めるとき、あるいは教授が大教室で私語する学生に学問を教えるとき──その理念は現実のなかにすでに内在しているといえる。これが第三点目である。
こうしてかれらは、現実とは別のところに理想を求める革命主義と袂を分かち、批判の根拠地点を現実のコミュニケーションそのもののなかに見いだすのである。身近な日常生活の実践に批判の根拠と理念の現実性が存在する。こうなると研究の営みは、観念の遊戯としての哲学でも倫理学でもない、経験科学としての社会学──それも脱領域的な社会学──を中心とした社会理論としかいいようのないものへとシフトしていく。
10-2-3: コミュニケーション合理性
この系統の代表的理論家であるハバーマスに即してもう少し補足しておこう。かれは社会的行為を「戦略的行為」と「コミュニケーション行為」のふたつの類型に分ける。「戦略的行為」とは目的合理的に相手に影響をあたえる行為であり、「コミュニケーション行為」とは互いに了解しあう行為であるが、両者の区別は当事者が「成果志向的態度」(思い通りの結果をえようとする態度)をとるか「了解志向的態度」(合意に達しようとする態度)をとるかによって区別される。●10了解(「理解」とも訳される)とは、少なくともふたりの主体(人間)の間で一致が達成される過程であり、ある言語表現を同じに理解することである。このような「了解」は言語そのものに宿っている。●11わたしたちが経験的に知っているように、じっさいにはなかなかそうはいかないのであるが、しかしわたしたちが「了解」をめざしてコミュニケーションしようとするとき、そこには一種の強制のない理想的コミュニケーション共同体(ミードの「話想宇宙」)が想定されているのである。「われわれが発話行為(と通常の行為)を遂行するときには、あたかも理想的発話状況(あるいは純粋コミュニケーション行為のモデル)が単に虚構のものではなく現実的なものであるかのように反事実的に振る舞っている」●12コミュニケーションがおこなわれるあらゆる状況は、完全でしかも拘束のない合意を達成するという意図を暗黙のうちにあらわしている。反事実的な理想的発話状況がすべてのコミュニケーション行為において先取りされているのである。これがさきほどわたしが「コミュニケーションの第二水準」と呼んだ人間コミュニケーションのもつ超越的契機である。
では、「了解」が達成される場合には、どのような条件が必要だろうか。もちろんお互いに言語能力があることが大前提であるが、その上で三つの条件が満たされなければならないとハバーマスはいう。真理性・正当性・誠実性がそれである。この三つが満たされるとき、そのコミュニケーションは「合意」に達する。第一に真理性とは、客観的世界(物理的環境世界)に照らして発言が真理であるということ。第二に正当性とは、社会的世界(社会的規範)に照らして発言が正当であるということ。第三に誠実性とは、内的体験世界(内的感覚)に照らして発言が誠実になされているということである。
たとえば「ここでタバコを吸ってもいいですか」という発言があったとしよう。イエスにせよノーにせよ、わたしたちはこの発言(質問)そのものが妥当であるかどうかをまず吟味する。その上でイエスかノーか、自分なりの応答を返すことになる。したがって、この質問そのものに対して「いいえ」と答えるケースを想像してみると、三つの場合に整理できる。●13
(1)「いいえ、あなたが今もっているのは禁煙具です」──これは、客観的世界に照らして質問そのものが成り立たない状況であることを示している。形が似ていても禁煙具はタバコではない。
(2)「いいえ、君はまだ小学生だ」──これは、質問が前提している社会的規範(社会のルール)が承認されていないことを示している。つまり、小学生がタバコを吸うなんてとんでもないという規範に照らして発言の妥当性を否定している。あるいは「いいえ、わたしはかまいませんが、周りの皆さんにもきいてください」と答えれば、自分が「はい」と答えたとしても質問者がタバコを吸っていいことにならないことを示す。これも正当性が試されている。
(3)「いいえ、あなたはたんに形式的な手続きとしてきいているだけで、わたしがダメというはずがないと思っているんでしょう」──質問者がほんとうに許可をえようと質問したわけでないことを示す。質問者が心からそう思って質問しているかどうか、つまり発言が発言者の主観的世界(意識)と一致しているかどうかが試されている。
以上の吟味をわたしたちは瞬時におこない、妥当であると見なしたときにのみ、この問いかけを了解し受け入れ、それに対する自分の主張を相手に返すのである。
同じように「火事だ!」という発言について考えて見ると──
(1)「いいえ、これはたき火です」──言及されている事態の把握がまちがっていて真実でない。
(2)「いいえ、大声をださなくても、だれでも火事だとわかります」──わざわざいうまでもないことを言及している点で発言に正当性がない。
(3)「いいえ、また君はわたしたちをおどかそうとしているね」──発言者が心からそう思って叫んでいるわけでないから、この発言は誠実でない。
このようにコミュニケーションの文脈のなかで発言文(語られたことばの内容)が検討されて瞬時にわたしたちは判断を下す。妥当なものかどうかの判断はその人がそれまで生きてきた生活世界によって供給された知識に基づいておこなわれる。生活世界とは人びとが解釈に利用しうる知識在庫──「知のストック」「知識の貯蔵庫」とも訳される──のことである。このような三重のチェックにおいて妥当であると判断するとき、わたしたちは心から納得するのであり、その状態を「合意」というのである。およそコミュニケーション行為の合理性とは、このような三つの基準を満たすことであり、ハバーマスはこれを「コミュニケーション合理性」(kommunikative Rationalita`t)と名づけるのである。
このようなコミュニケーション合理性への期待は具体的にはどのような展開になるのだろうか。理論を理論としてではなく現実に即して考えるという本書の趣旨にそって、ここであえて現代日本社会におきかえて説明しなおしてみよう。
ハバーマスのいう「合理的」コミュニケーションがおこなわれるべき場所を考えてみよう。裁判・国会審議・学問的討議・教育・福祉・医療……。これらにはそれぞれ特定された理念が存在し、共通にコミュニケーション合理性への期待がある。しかし現状はどうだろうか。真理性・正当性・誠実性において妥当かどうかチェックされたコミュニケーションになっているだろうか。
裁判や国会審議における発話行為はしばしば戦略的なものと化している。●14教育の現場においても「ゆとり」の名の下に切り詰められた時間のなかで消化しきれないほどのカリキュラムが課せられているために、教える者も教えられる者も戦略的に対応せざるをえなくなっている。さすがに老人福祉の分野ではしばしば「説得より納得」ということをスタッフが心がけて、それなりのコミュニケーション合理性への志向が見られるけれども、そのスローガンの前提にあるのは、じっさいには所定の目的を達成するために何が何でも「説得」してしまいがちな現場の雰囲気である。医療現場ではコミュニケーション合理性が慎重に追求されるべきであるにもかかわらず、やはりここでもゆとりがないのが実情である。こうして見ると、これらに支配的なのは了解志向的な「コミュニケーション行為」ではなく成果志向的な「戦略的行為」である場合があまりに多い。
ここで、第三章で紹介したジンメルの「社会はいかにして可能か」のロジックを思いだしていただきたい。このロジックはあのときのものとほぼ相似形である。ハバーマスのいう理想的発話状況とは一種の理念型である。しかも、現実の行為者が実践的に使用している理念型である。コミュニケーションに参加している行為者はいつも──たいていは無意識のうちに──その理念型を参照しながら、それとの「ずれ」として現実のコミュニケーションを検証しているのだ。だから、たとえばわたしたちが病院において医者の機械的な応答に腹を立てるとき、わたしたちがそのコミュニケーションに見いだそうとして失敗した理想がコミュニケーション合理性なのだ。
10-3: 三 市民的公共圏の理念
10-3-1: 現代日本の公共性概念
前節では第二水準に即してコミュニケーションの因数分解のような話をしてきたが、今度は第三水準に即してマクロな社会的場面へ開いて展望し直してみよう。第三水準における話想宇宙、あるいは理想的発話状態が期待されているマクロな社会的空間──それは「市民的公共圏」と呼ばれる。この節で検討するのはこれである。
しかしその前に、日本語の「公」ということばにふくまれているふたつの意味を区別しておかなければならない。たとえば「公職」「公立」「公共事業」「公費」の「公」は国や地方自治体などの統治機関をあらわしている。つまりそれは公権力のことである。したがって対立概念は「私」である。それに対して「公衆」「公民」「公開」「公表」「公会堂」「公益」の「公」は社会の人びとの集合をあらわしている。社会のメンバーの「だれもが」参加する・知ることができる・出入りできる・利益を受ける……といったことである。つまり「開かれた公的領域」をさしている。したがって対立概念となるのは「閉ざされた私的領域」であるが、同時に「公権力」とも対立するものなのである。
現代日本語として流通している「公共」ということばは、じつは以上のふたつの異質な意味を思慮なく混同させたまま使われている。「公共性」「公共の福祉」といわれるとき、これは同じ社会に暮らす「みんな」──「私」の集まり──に関係する事態であることを意味する。公権力はそれをいわば代行して進めているにすぎないわけだが、じっさいには、公権力が進めているから「公共的」であるかのように事態が進められていってしまう。ここでも一種の物象化的錯視が生じている。
もう少し具体的に説明しよう。船橋晴俊は、公共性概念が社会的合意を形成する共通基盤になっていないと指摘する。船橋によると、その大きな要因は、公共事業の規模の大幅な拡大によって受益圏と受苦圏が完全に分離してしまい、公共性の内容が変質してしまっていることによるという。つまり、図書館や公民館の建設のように小規模な公共事業の場合には、受苦が比較的軽く、その防止や補償がわりあいかんたんである。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ重なっている。そのような状況において公共性はある程度の正当性をもつといえる。ところが、新幹線や空港のように大規模な公共事業は、受苦の質と量が深刻で、その防止と補償はきわめてむずかしい。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ完全に分離しており、事業の担い手としての巨大組織──公権力かそれに類した法人──は受苦圏の人びとの意思を反映できない。このような状況において、公共性概念は「事業予定地でそれまで生活してきた人々に対して立ちのきと生活再編を要求する、うむを言わさぬ論拠として作用」するとともに、「加害者を免責し、被害救済を拒否し、受忍限度の引上げを正当化し、被害者を未解決状態に閉じこめる作用を果たし」しかも「住民運動にマイナスイメージを植えつけ」る装置として作用する。つまり現代日本の「公共性」概念は被害者救済を阻止する機能をもたされているのである。●15
このように「公共性」概念は今日の日本では「権力のことば」と化している。わたしがこれから「反省のことば」として説明したいのは規範的理念としての公共性であり、だからこれと差異化しなければ議論が混乱してしまう。そこで花田達朗の提案にしたがい、本書では「公共性」ということばをいったんペンディングしておき、かわりに「公共圏」を使うことにする。●16
10-3-2: 市民的公共圏
もともと「市民的公共圏」(die bu`rgerliche O`ffentlichkeit)という概念は、近代初期の西欧社会に成立した歴史的現象をさす歴史概念である。つまり「あるべきこと」ではなく「すでにあったこと」をさすことばである。ハバーマスによると、公共圏の考え方は古代ギリシャにあったものだが、それが初期資本主義による商品と情報の流通の発達のなかで、公権力に対抗するために、公衆として集合した民間人(市民)によって形成された社会的空間である。●17具体的には一七世紀後半から一八世紀にかけてサロン・コーヒーハウス・会食会などに集った市民たちの議論がそれである。そこには共通の基準があった。第一に「そもそも社会的地位を度外視するような社交様式」「対等性の作法」。第二に「それまで問題なく通用していた領域を問題化すること」。教会や国家による上からの解釈から自由に討論する。第三に「万人がその討論に参加しうること」つまり原理的な公開性。●18これらの基準に則って文芸・演劇・音楽作品が自由に批評され(文芸的公共圏)、その焦点はやがて政治的問題に移っていった(政治的公共圏)。新聞などのジャーナリズム活動はこの市民的公共圏から派生したものである。政治的公共圏はやがて国家機関として制度化される。公共圏が国家機関の手続き上の組織原理になったのである。しかし一九世紀になると、市民的公共圏が前提していた私的領域と公権力領域の分離の構図がくずれて、近代の基本原理だった市民的公共圏は操作的公共圏へ構造転換することになる。「批判的公開性は操作的公開性によって駆逐される。」●19今日わたしたちが経験するのは市民的公共圏の変質したものである。
市民的公共圏の原型は一八世紀イギリスのコーヒーハウスに求めることができる。ルイス・L・コーザーによると、一八世紀初頭のロンドンには約二千軒のコーヒーハウスがあり、そこではカウンターで一ペニー払えば、だれもが対等かつ自由に会話や討論に加わることができたという。●20あるときはだれかが読み上げるニュースを聞き、あるときは詩人や批評家の自作朗読を聞いたり、それに対するさまざまな批評を聞くことができた。そこでは身分や礼儀作法・道徳とは関係なく個人が評価された。「コーヒーハウスは身分差を解消した。しかもそれと同時に、新たな統合形態をつくり出した。すなわちコーヒーハウスは、共通の生活様式や共通の家系に基づく連帯を、共通の意見に基づく連帯におきかえる役割を果たしたのである。ところで、共通の意見が発達しうるためには、前もってつぎのような条件がなければならない。すなわち、第一には、人びとが相互に討論しあう機会をもつことである。つぎには、彼らが自分だけの思想という孤立状態から引きづり出されて、公けの世界に入りこむ必要がある。それというのも、公けの世界においてはじめて個々の意見は他者との討論によって磨かれ、吟味されるからである。コーヒーハウスは、無数の個々の意見からひとつの共通の意見を引き出して結晶化し、それにはっきりとした形を与え、安定したものとするのにあずかって力があった。つまり、新聞がまだ成し遂げていなかったことが、コーヒーハウスによって大規模に行なわれたのである。」ここで「公けの世界」と訳されているのが公共圏である。●21
市民的公共圏の概念は、このような歴史概念であると同時に、他方で、わたしたちの社会を構成する規範的原理でもある。それゆえハバーマスは次のようにいうのである。「今日われわれが『公共性』という名目でいかにも漠然と一括している複合体をそのさまざまな構造において歴史的に理解することができるならば、たんにその概念を社会学的に解明するにとどまらず、われわれ自身の社会をその中心的カテゴリーのひとつから体系的に把握することができると期待してよいであろう」と。●22コミュニケーション合理性は市民的公共圏をモデルにしている規範的理念であり、複雑化した現代社会において変質してしまってはいるが、わたしたちの社会の中心──それがもはや虚点であろうとも──に存在する組織原理なのだ。
もちろんコーヒーハウスのような一八世紀の市民的公共圏がそのまま理想というのではない。何よりそこでは女性が排除されていた。これは致命的な問題である。財産と教養がない者やよそものも事実上排除されている。●23しかし重要なことは、少なくとも万人の参加の「可能性」は保証されていたということだ。というのは「市民的公共圏は、一般公開の原則と生死をともにする。一定の集団をもともと排除した公共圏は、不完全な公共圏であるだけでなく、そもそも公共圏でないのである。」●24じっさいコーヒーハウスにしても一八世紀後半になると常連たちが非公開のクラブをつくるようになりしだいに閉鎖的になっていく。しかし、そのかわりにさまざまなジャーナリズムが公共圏を引き継ぐことになる。●25その意味では理念型的なモデルとして位置づけておくのが適当であろう。
この点についてはチャールズ・ライト・ミルズがおもしろいことをいっている。「われわれはあたかも完全に民主主義的な社会にいるかのごとくに行動し、そうすることによって、その『かのごとく』を転換しようとする。社会を一層民主主義的にしようとするであろう。」●26市民的公共圏とは〈演じられた社会〉である。あたかもそこに民主主義的なコミュニケーションの場があるかのように演じられるのだ。演じられることでそれは現実になり、現実として人びとの行為の条件の一部となる。知識過程論で確認したように、人びとの知識として共有されているフィクション──知識事実としての社会──なしに社会的現実は成立しないのだから。●27
10-3-3: 担い手としてのコミュニケーション主体
市民的公共圏の担い手としての人びと、つまりそこでコミュニケーションする人びと──わたしはそれを「コミュニケーション主体」と呼びたい──はいかなる存在だろうか。社会学の伝統的概念を呼び起こせば「公衆」がそれであろう。
ハバーマスが紹介しているミルズの『パワー・エリート』における「公衆」と「大衆」の区別を見てみよう。●28
ミルズは次のように述べているという。「『われわれの用法でいう公衆においては、第一に、多くの人々がさまざまな意見を受けとるだけでなく同時に表明し、第二に公衆のコミュニケーションは、そこで表明されるどの意見に対しても、直接に且つ有効に応答する機会があるように組織されており、第三に、このような討論によって形成された意見は、必要とあらば権威の支配的体系にさからってでも、効果的行動への出口を見つけることができ、そして第四に、権威的制度は公衆に浸透するものではなく、したがって公衆はその活動において多少とも自律的である』。これに反して、意見は『大衆』のコミュニケーション連関にとらわれているかぎり、それだけ公共性を減ずる。『大衆においては、意見を受けとる人々よりも意見を表明する人々の方が遥かに少数である。というのは、公衆の共同体は、マス・メディアから印象を受けとる個々人たちの抽象的集合になるからである。第二に、有力なコミュニケーションは、個々人がそれに直接に、あるいは効果的に応答するのが困難もしくは不可能であるように組織されている。第三に、意見の行動的実現は、このような行動の水路を組織し統制する権威によって統制されている。第四に、大衆は制度からの自律をそなえておらず、むしろ反対に、権威ある制度の代行者がこの大衆に浸透し、討論による意見形成において大衆がもつかも知れぬ自律を減少させる。』」●29「公衆」が「市民的公共圏」に対応するコミュニケーション主体だとすれば、「大衆」は「操作的公共圏」に対応するコミュニケーション主体である。
しかし、わたしはもう少しだけ詳しい人間類型を使う方がいいのではないかと思う。というのは、ミルズの二類型だと、「では、わたしたちは『公衆』と『大衆』のどっちなんだ?」という短絡的な議論になりがちだからだ。そこでわたしは、アルフレッド・シュッツが知識のあり方をめぐって構成した三つの理念型を利用して説明したいと思う。●30
その第一のものは「専門家」(expert)である。専門家のもつ知識は領域が限定されているが、そのかわり、その専門領域においては明晰で一貫している。かれらはその専門領域においてすでに自明と見なされている準拠枠を受け入れている。
第二の類型は「しろうと」(man on the street)である。「市井の人」「日常生活者」「一般大衆」「日常人」とも訳されるが、処方箋的な知識で満足する者という点で、わたしたちがふだん「しろうと」と呼んでいる者のことだ。ミルズのいう「大衆」にほぼ対応すると考えてよい。かれらの知識は基本的に実用本位のものであり、かなり広い範囲に渡ってはいるものの、首尾一貫していない。かれらは実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処し、一連の思い込みや明晰でない見解を構成し、自分の幸福の追求にさしさわりのないかぎり、素朴にそれらに頼っている。
第三に「見識ある市民」(well-informed citizen)。「自省的市民」「博識の市民」「分別のある市民」「有識市民」などとも訳される。「多くの知識(情報)をえることをめざしている市民」●31の省略形である。ミルズのいう「公衆」に対応すると見てかまわないだろう。「見識ある」(well-informed)とは「当人の手許の実用的目的に直接関係がなくても、少なくとも間接的な関心はあるとわかっている分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること」を意味する。●30だから上記の訳語はそれなりに適切なものだが、もっとそっけなく訳すと「事情通の市民」ということになる。それも特定の分野についての事情通ではなく、社会生活のあらゆる領域について事情通であろうとする人たちである。
現代人は、その職業生活や家業において「専門家」であるが、専門以外の領域に関しては「しろうと」である。しかし専門外のことに関してもときには「事情通」「見識ある市民」でもあるはずだ。シュッツのこの概念を借りれば、市民的公共圏の担い手は自己教育的な「見識ある市民」「自省的市民」ということになろう。つまり、わたしたち自身の「見識ある市民」の側面を自覚的に発動させることが市民的公共圏を現実のものにするのだ。
10-3-4: 社会学の理念としての市民的公共圏
社会におかれたありとあらゆる営みは必ず何らかのアプリオリな前提から出発しているという定理は社会学にも当てはまる。わたしは社会学の前提となるアプリオリとして市民的公共圏の理念があると考える。「社会学は近代社会の自己意識である」という古典的な命題もこの意味で再解釈──もしくは読み換え──できるのではないか。そして社会学が概して全体主義的な社会から排除されてきたのは、社会学がほとんど暗黙のうちに前提している市民的公共圏の理念の存在によるのではないか。この「社会学と民主主義の歴史的親和性」ともいうべき性格は二〇世紀の社会学の発展のなかでしだいに鮮明になってきたと思う。
わたしには不満でならないのだが、社会学史はとりもなおさず「迫害の歴史」であることを社会学者はもっと強調すべきであろう。そしてそれは一九世紀なかごろに活躍した「社会学」概念の創始者たちにだけいえることではなく、一九世紀から二〇世紀への「世紀の転換期」における社会学の理論上の創始者たちにもいっそういえることである。概念の創始者たちには「社会改良」「社会再組織」の理想と情熱が先行していた。それは国家という公権力の強制力に対して、私人たちの相互作用の集積である市民社会の潜勢力を解放したいとの動機に基づいていた。公権力への対抗という契機が社会学にはあった。理論上の創始者のひとりであるジンメルが「社会学を研究している」という理由によってベルリン大学教授になれなかったのも、かれがユダヤ人であったからばかりでなく「社会学」という概念がそのような志向を体現していたからである。公権力はそれを見逃さなかった。そしてそれは二〇世紀の中期を変貌させたファシズムと社会主義によってだれの目にもはっきり見える現象となって顕在化した。ファシズム期の社会学は事実上「国家学」に吸収され、マンハイムやフランクフルト学派のユダヤ系社会学者は大学を追われた。他方、社会主義圏では、のちに粛正されることになるブハーリンが社会学者だったことも災いして、社会学の研究はしばらく不可能な状態が続いた。社会学が解禁されたのはスターリン批判後の一九六〇年前後である。中国でも革命直後から一九七九年まで社会学は禁止されていた。戦時中の日本においても「国家学」が何よりも大事であって、公権力にとって「社会」──つまり市民社会──の研究は望ましくないと考えられた。国家が天皇を中心とする「聖なる世界」だったのに対して、市民社会は「俗なる世界」にすぎないとの序列主義もあった。
このように民主的でない社会において社会学は抑圧される一方、民主的な社会において社会学は急速に発展する。戦間期から第二次世界大戦後、社会学の中心がヨーロッパからアメリカへシフトするのは偶然ではない。さらに一九六〇年代後半の一連のカウンター・カルチャー運動が、エスタブリッシュ化しつつあった社会学に転回の転機をあたえた。公民権運動・フェミニズム運動・ベトナム戦争反対運動・学園紛争・若者文化・消費者運動・新左翼運動・ヒッピー文化・ロック……。これらの潮流は、それまで順調に発展してきたと信じられていたアメリカ社会のもうひとつの側面を照射するものだった。
このような転回はすぐに社会学理論そのものに反映した。反省社会学はその一例であるが、パーソンズの機能主義的社会学に対する新しいパラダイムとして、ゴッフマンのドラマトゥルギー、エスノメソドロジー、シンボリック相互作用論、批判理論、コンフリクト理論などがあいついで登場し、そのプロセスのなかでミードのコミュニケーション論やシュッツの現象学的社会学がリバイバルする。この転換は「意味学派」とか「解釈的パラダイム」の台頭などと呼ばれたが、総じてコミュニケーション論的転回と括るべきものだった。その意味において一九八一年の『コミュニケーション行為の理論』(邦訳名は『コミュニケイション的行為の理論』)に結晶するハバーマスのコミュニケーション論的転回はその象徴的できごとだったといえる。このコミュニケーション論的転回によって社会学の視界に今日はっきりと見えてきたのが市民的公共圏の理念なのである。
理念をあつかうのは「経験科学」としてふさわしくないという批判は、社会学の内部にも外部にもある。たしかに社会学はユートピアについて夢想する場所ではない。あくまで現実について語る場所である。しかし市民的公共圏の理念を再確認する背景には、理想や価値に対して、それを暗黙の前提として自明化しないとの態度が存在する。それらへの言及を回避することは、結果的にそれらを不問に付しブラックボックス化することになる。むしろそれらをあからさまな公開討議の場にさらすことこそ合理的な科学的態度ではないだろうか。しかもすでに述べてきたように、この理念は、あきらかにわたしたちの社会の基底にあって支えているものであり、また言語を用いる日常のコミュニケーションの実践の内部にすでに宿っているものなのである。