2025年11月1日土曜日

2025年8月15日金曜日

ソキウス30年

 1995年8月15日、ちょうど終戦50年の日にASAHIネットでFTPが使えるようになった。たしか6月か7月にNetscape1.1が販売されて、それを5000円で買ってきて、ちょうど夏休みの自由研究のような気持ちでソキウスを作って公開した。ハイパーテキストを自分で作れるというのがHTMLのすばらしいところで、ちょうど社会学教育三部作を書き上げたところだったので、草稿を公開していったのが始まりである。あれから30年。ずいぶん人生が変わった。今年度で経済学部生活が終わるので、残された時間はここでほんとうに書きたいことを書きたいと思う。

2025年3月16日日曜日

中間考察 インターネットとシティズンシップ(1997年)

『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社1997年刊)第4部 中間考察 インターネットとシティズンシップ

1 インターネットのダークサイド

「インターネット・バブル」と呼ぶ人がいる。熱に浮かされたような今のブームはなるほどバブル時代を彷彿とさせる。これはたしかにアワのようなものなのかもしれない。どうせアワなら「踊るアホウに、見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損々」ということになるのだろうか。けれども、踊るにせよ見るにせよ、どちらの「アホウ」も場所をまちがえているのではないか。そんな思いもある。

 現在のインターネットにはさまざまな問題がある。もともとルーズなシステムだったのだから、いろいろ問題が出てくるのは当然だが、たちの悪い問題の多くは、どうもユーザー側の問題らしい。

 たとえば、わいせつ問題にからめインターネット上の表現の法的規制問題が起こっている。H系の行為が、トラフィックの増大だけでなく、インターネットに対する行政当局の過剰な規制を誘引する機能をもってしまうことをもう少し自覚してほしいと思うこともある。とばっちりがインターネット全体におよぶのはごめんである。もちろん、たんなるリンク行為が「わいせつ図画公然陳列」として摘発されるという現状は、あまりに理不尽だと思うが。●

●1996年9月30日、広島県警は、プロバイダーの幹部をわいせつ図画公然陳列の疑いで書類送検した。このケースの場合、会員がホームページから「わいせつ画像」にリンクを張っていただけである!

 電子メールのマナーの問題もある。女性ユーザーへの無作法なメールも多いときく。名前を名乗らないでいいたいことをいうメールもある。「スパム」と呼ばれるダイレクトメールの問題もある。郵送されるダイレクトメールとくらべ、電子メールの場合は、受信そのものに費用がかかる。日本ではまだ大したことはないが、これから大きな問題になる可能性がある。

 電子会議室やメーリングリストでの匿名のコミュニケーションにも影はある。匿名だから気軽に発言できるという側面もあるが、同時にそれは無責任な発言や夜郎自大な発言を誘発しやすい。発言に責任が伴っていないからだ。先発の大手パソコン通信が匿名のコミュニケーションを推奨したことは基本的には営業政策だったわけで、気軽に書き込みしてもらうためである。そのため、無責任なコミュニケーション文化がオンライン上に展開しつづけたのは、長い目で見ればいいことではなかったと思う。パソコン通信だとASAHIネットが「責任ある発言を」ということで当初から実名主義をとっているが、そろそろそういう意識的な転換が必要ではないかと思う。ただし、匿名のコミュニケーションに肥大化させた自分を感じる自我の貧困は、オンライン上の問題にとどまるものではない。

 コマーシャリズムの問題もある。今やインターネットはビジネスチャンスの狩場でもある。その中で一部のプロバイダーや企業は最初からお金を取ることばかりを考えている。企業だから営利追求自体は当たり前のこととしても、それに見合うサービスになっていないのではないかと思うことも多い。しばらくはフリーで運営するという発想がとれないものだろうか。

 同様のことに組織の参加もある。大学や研究所や業界団体などの組織がやっているものでも、個人がフリーで提供しているコンテンツにかなわないことが多い。組織がダメだというのではなく、組織のプロジェクトなら「もっとプロフェッショナリズムを!」といいたい。他方、せっかく組織内の個人(社員・職員・教員・学生など)が個人としていきいきと自由に活動できるメディアであるにもかかわらず、組織内部の規制や事なかれ主義によって台無しになっているケースも多い。

 情報格差や情報弱者の問題も顕在化してきた。インターネットは、特定の発信手段を所有しない情報弱者の人びとに大規模なコミュニケーションの可能性をあたえた。もちろん、これ自体は歓迎すべき側面もある。けれども、同時に、新しい情報弱者も生んでいる。情報格差の多層性である。しかし、これはたんに「パソコンを使えない人たちがかわいそう」というのではない。もう少し複雑だ。

 たとえば、会社で好き勝手にやってきた管理職のおじさんや、学生をバカにしてきた大学の先生たちが、若い社員や学生に教えを乞うたり励まされたりするのは、ある意味ではいいことではないだろうか。つまり社会のあちこちで上下関係の「どんでんがえし」「かき混ぜ」が生じているわけで、社会に「配分の差別」が必然的に生じるものである以上、このような「どんでんがえし」が多ければ多いほどいい。なぜなら、従来の物質的な資産の配分や権力の配分の不平等によって不利なポジションを強いられてきた人びとをそれなりに引き上げる力があるからだ。

 ただし、現状のオンライン状況が必ずしも望ましい方向ではないとは思う。これまでワリを食ってきた人たちをすくい上げるような「支援システム」(たとえば障害者の在宅勤務を一気に加速させるといった形で)を構築する方向がもっと強くならなければ、結局、資産や権力をもった人たちがネットワーク資源までも喰い尽くしてしまいかねない。「ネットワーク資源配分の非対称性問題」とでもいうべきか、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」というマタイ効果が生じかねない。

 インターネットが、商業主義的に編成されていくのか、国家の法的な制度的枠組みにくみこまれていくのか、それとも市民の自発的な展開に委任されるのか。今が瀬戸際だという気がする。それにしても、マス・メディアのインターネット報道はこのあたりの見識に欠けているのではないか。ずいぶんよくなってはいるものの、ビジョンが感じられない。総じて場当たり的である。

 ……いささか「ぼやき漫才」風になってしまったかもしれない。ともあれオンラインの世界には以上のようなダークサイド(暗部)が存在する。こういうダークサイドにあえて光を当て、しかも「あなたのプライバシーがのぞかれている!」といったオールド・ジャーナリズム好みの悪趣味なセンセーショナリズムに染まるのではなく、主体的に事態を反省し、個人の日常生活に即して実践的な展望を構想する必要があると思う。

2 主題を共有すること

 インターネットのコミュニケーションは、都市部における地域社会のコミュニケーションに似ている。つかず離れず、めいめいが勝手気ままに活動していて、たまたま何か共通の問題が浮上したときに相談したり論争したり助け合ったりする。濃密なコミュニケーションではないけれども、それはけっして散漫でもないのだ。なぜなら、そこではしっかり主題が共有されているからだ。

 たとえば家族は「血縁」と「婚姻」でつながる。組織は営利追求や教育や治療などの「目的」でつながる。地域は「空間的近接」でつながる。そしてオンライン・コミュニケーションはもっぱら「主題」でつながるのだ。ネットワーク上のコミュニケーションは基本的に主題媒介的な関係である。パソコン通信にせよ、メーリングリストにせよ、WWWにせよ、基本的にわたしたちは特定の主題を媒介につながるのである。このことの意味は大きい。

 たとえば、わたしがホームページに「電磁波被爆問題」について書く。すると、それを見てくれた人から電子メールが届き、議論が始まる。あるいは参考書を教えてくれたり、自分の調べたことを教えてくれる。自分のホームページでそれを発表している人がいればリンクしあう。それによって相互に学ぶ関係ができる。「主題でつながる」とはこのような相互学習過程に入ることなのである。これはメーリングリストになるともっと明確であって、たとえば「薬害エイズ」のメーリングリストに入れば、それに関心のある人たちやじっさいに運動にかかわっている人たちと非常に専門的な意見を自由に交わすことができる。とっさの必要や気まぐれに応じて、わたしたちはその気にさえなれば電子会議室やネットニュースの中で同じ主題に関心を寄せる仲間たちと出会うことができる。

 学術的なことであっても、趣味性の強いことがらであっても、生活上のノウハウであっても、はたまたプライベートなことがらであっても、ネットワーク上においては特定の主題が人びとをそのつどつなぐのである。

3 ハイパーテキストとしての社会

 主題を共有する人たちのコミュニケーションはテキストデータとしてネットワーク上で転送され、保存され、コピーされる。その点に注目すると、オンライン・ネットワークの世界は文字どおり「ハイパーテキストとしての社会」なのである。網の目状に連結したテキスト群がその社会の実質を形成している。コンピューターはそれをネットワーク上に転送し、保存し、何度も何度もコピーしているだけである。

 「オンラインな人」が現実にしていることは、具体的には、コンピューターを使って「ハイパーテキストとしての社会」に書き込む行為である。電子会議室でコメントをつけることにせよ、メーリングリストやネットニュースで発言するにせよ、ホームページを公開するにせよ、それらはオンライン上に実在する「ハイパーテキストとしての社会」を構築する行為であり、それによってネットワーク上の「知の連鎖」に連なることなのだ。

 主題ごとにそのつどつながる「見識ある市民」。けっして「ひとつにまとまる」のではない。自律的な個人が「ハイパーテキストとしての社会」においてそのつど「つながる」だけである。個人は個人のままで「知の連鎖」を形成するのだ。

 だから「インターネットやって何かメリットあるの?」と聞かれても「その人による」というしかない。 その人がそこで自分の主題を見いだし、能動的にアクセスし発言し表現することによって、そのつどコミュニケーションのネットワークを形成する、そういうメディアなのである。その人が他人まかせに黙って待っていてもおそらく何も起こらない。したがって「メリット」なるものも生じない。「インターネットは大したことないな」という人は、その人自身の貧困を語っていることになってしまうような「自分を問うメディア」なのだ。

4 フリーライダーから支える人へ

 社会学には「フリーライダー問題」ということばがある。フリーライダーとは「ただ乗りする人」のことだ。たとえば労働組合が賃金値上げを交渉して勝ち取ったとしよう。すると賃金体系は会社一律なので組合員でない人の賃金も上がる。この場合、非組合員はフリーライダーである。となると、何かと負担の多い組合員になるよりも、非組合員でいる方が得だということになる。こうして組合離れが進み、組合員の負担はますます重くなる。こういう悪循環を「フリーライダー問題」という。●

●ランドル・コリンズ『脱常識の社会学――社会の読み方入門』井上俊・磯部卓三訳(岩波書店1992年)。

 オンラインの世界、とくにインターネットの世界にも同じことがいえるのではないだろうか。「ゲットする」ことばかりが強調され、「トクする情報」「おもしろい情報」であふれているかのように煽られる。「プットする」や、そこで何を「する」のか、そういう側面がないがしろにされている。現在のマス・メディアの伝え方の最大の問題点は、インターネットでフリーライダーになることを故意にすすめるものが多いことだ。

 結局、支える人びとの問題ではないかと思う。「インターネットが社会を変える」と巷を席巻している技術決定論は、事態の半分について語っているだけである。インターネットが今後どのようなものになっていくかも、インターネットでわたしたち自身が何をそこで獲得するのかも、インターネットでどのように社会が変わるのか(あるいは変わらないのか)も、じつはわたしたちの使いこなしにかかっているといえる。

 「ハイパーテキストとしての社会」が豊かな世界になるか否かは、ひとえにそこに書き込む人たちしだいである。つまり、「使える情報がない」とか「信頼性がいまひとつだね」とかいっている人がいくら1億人いたって、いつまでたってもハイパーテキストのリソースは貧困なままだということだ。インターネットのいいところも悪いところも、じつはここから発生する。

 オルテガ・イ・ガセットのことばに次のようなものがある。「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。」●「救う」ということばがいささか強いことをのぞけば、ネットワーク上のわたしたちにとって何か示唆的なことばではないだろうか。こういう思想の「オンラインな人」が増えることを切に願う。

●オルテガ・イ・ガセット『ドン・キホーテをめぐる思索』佐々木孝訳(未来社1987年)65ページ。

5 市民スタイルという思想

 以上のように考えていくと、インターネットでのふるまい方もおのずと見えてくるのではないか。それは以下のような原則で表現できると思う。

自己決定の原則――それは基本的に個人の自由である。自分で決めればいい。組織の原理にふりまわされない、拘束されない、依存しないことが基本である。自分で考えて発言しよう。

相互性の原則――相手のいることであるから、おのずと落としどころというものはある。なぜなら自分も他者にとっての「相手」としてかかわることになるからだ。その落としどころを「作法」と呼ぶ。「作法」とは他者との折り合いのつけ方である。その前提は自分は自分の責任で自由にふるまうということであり、自由であるからこそ、自分の意志で他人のことや公共のことを考慮できるということである。そこに不自由さがあれば、それは「作法」ではないのだ。

能動的参加の原則――「ROMからアクティヴへ」という流れ、すなわち「ハイパーテキストとしての社会」を読む人から書き込む人へという流れは、相互的な交流にするための必須条件である。早々に他人まかせもフリーライダーもやめて、シティズンシップを発揮しよう。他人に何かをしてもらったら、きちんと礼を返すか、あるいは別の機会に別の人に何かをしてあげればいい。そういう意志が自分の世界を広げ、「ハイパーテキストとしての社会」を豊かにしていく。

自己責任の原則――自分の責任のとれる範囲で自在にふるまおう。発言には責任をもとう。匿名の議論はやめよう。新聞記事や公文書のような無署名原稿に見られる非人称的文体の発信はやめよう。一人称の「わたし」を主語にして語ろう。 自分らしく、けれども「独断と偏見」ではなく、個人としての「個性と見識」をもって発言したいものだ。

開放の原則――なるべくオープンにいこう。オープンにいくということは知らせることである。自分から進んで知らせないことは隠すことになる。自分の知的世界をオープンにしていくことでハイパーテキスト上の共有知識の拡大をめざそう。どこを隠しどこをオープンにするかは自分で決めればいい。もちろんカミングアウトしない自由もあるのだ。

 このようなふるまい方を「市民スタイル」と呼ぼう。じっさい、これまでこのようなスタイルで人びとがネットワークに参加してきたからこそ、「ハイパーテキストとしての社会」も、自ずと相乗的になり、実り多きものになったのである。これからネットワークに入っていく人も「市民スタイル」で参加する意志をもって入れば、きっとネットワークをいっそう豊かに構築することにつながるにちがいない。スタイルにこそ思想は宿る。その思想が現実を少しずつ書き換えるのである。これが本書『インターネット市民スタイル』の提案である。

6 演劇的世界としての仮想現実

 インターネットの世界は仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)だといわれる。「仮想現実をほんとうの現実を混同している人たち」を「病理的」とみなす見方もある。しかし、それはちがう。「ほんとうの現実」と称されるオフラインな現実は、たんに「利害関係の絡んだ現実」というのにすぎない。前者の「仮想現実」も後者の「利害的現実」も、いずれもある程度までは「仮想」的であり、ある程度までは「ほんとうの現実」なのである。●

●社会学ではリップマンやブーアスティンの「疑似環境」論、シュッツの「多元的現実」論などがそうした見方に立っている。有名なところでは「トマスの定理」といって「もし人が状況をリアルであると決めれば、その状況は結果においてもリアルである。」という有名な定理もある。

「仮想現実をほんとうの現実と混同するな」という人は、利害、要するに「物理的に生きるために必要な関係」を第一次的な現実とみなしているわけである。けれども「意味的に生きるために必要な関係」もあるのだ。どんなに充たされた生活の中にも人生の空虚は宿っている。逆に、追いつめられた生活にも人生の充実はある。どちらが第一次的とはいえるものではない。

 オンライン・コミュニケーションの世界は、一種の「社交の世界」である。たとえば18世紀前半のコーヒーハウスやサロンなどのように、いわゆる「対等性の作法」によって営まれる「新しい社交の世界」という現実である。

 それは「仮想の世界」というよりも、むしろ「仮装の世界」に近い。それはとりもなおさず「演劇的な世界」なのである。つまり、参加者があからさまな利害関係をもちこまないで、利害から自由かつ対等に発言する「見識ある市民」を演じる演劇的世界である。

「対等性の作法」を尊重しつつ自律的な市民を演じる――たしかにそれはある種の白々しさをともなう。けれども、各人が市民として自分を反省的にコントロールできていることをたえず表現しながらでないと相手にそのつど信頼を保証し続けることができないという点で、オンラインのコミュニケーションはあやうく脆弱なものなのである。この脆弱さこそが理性的コミュニケーションの源泉になり、あたかもそこにあるかのように仮定される「対等性の作法」こそが、主題を共有するという独特のつながりを保証するのだ。

 イデオロギー対立の時代が終わり、混沌とした思想状況の中で「市民社会の再構築」という論点が浮上している。産業主義に彩られた19世紀的な市民社会ではなく、啓蒙の光に満ちた18世紀の市民社会のイメージがそこには感じられる。このような市民社会のありようを構想するとき、不特定の人びとがさまざまな主題を媒介に対等につながろうと意識的に参加しているという事実は、その現実性を予感させるものである。

7 自分を再構築するメディア

 社交の基本は「おしゃべり」である。特定の主題をめぐって行きつ戻りつ、収束しては拡散する「おしゃべり」。ネットワーク上でなされるこうした「おしゃべり」には効用がある。「おしゃべり」は人を選ばない。主題さえあればいい。だからこそ、さまざまな出会いを生む。その出会いはまたさまざまな「おしゃべり」を生む。こうした循環は、個人の思考の幅を広げ、利害に拘束された思考の制限をゆるめる。それは狭小な日常生活に内閉され自己中毒をおこしがちなわたしたちを少しずつ解放してくれるはずである。

 じっさい、これまでわたしたちは「おしゃべり」の相手と十分めぐり会えていなかった。自分の生活範囲を超えたところに「その人たち」が待っているかもしれないのに、わたしたちはなかなかそこを超えることができないでいた。便利なテレビのような理解をされがちなインターネットだが、そんなことよりも、そのような人たちとの「おしゃべり」コミュニケーションの回路を開く技術的かつ文化的な可能性をもっていることの方がはるかに重要である。

 利害から自由に討議できる開放されたコミュニケーションの場が日常的に存在するということが、今度はシティズンシップの基礎条件になる。つまり、シティズンシップをもった自律的な個人をはぐくむことになるのだ。

 「市民」というと、妙に毛嫌いして構える人がいる。「政治的に正しい」生き方を強制されるように感じる人が多いようだ。たしかにそういう党派的な使い方をする人たちがいることは事実であり、そういう気持ちはわからないではない。しかし、今では、そういう拒否反応自体がきわめて政治的な現象だと考えるようになった。そろそろ、わたしたちは自分の語感に宿る政治的文脈を反省しなければならないのではないか、と。

 市民とは、利害に拘束された一群の固定された役割(しばしばそれは職業上の役割や家庭内の役割である)から自由にふるまえる人のことである。先入観による誤解を防ぐために、あえて「個人」と呼んでもいいようなものだが、そうはいかないのだ。じっさいにわたしたち個人は「個人」でないことが多いのである。それは会社や組織の一員として行動する人間であり、家族や親族の一員として行動する人間であり、職業人として行動する人間である。さまざまな、しかし、たいていは決まり切った役割を担った人間として、わたしたちは考えたり行動を決めたりする。つまり、わたしたちは意外に自分の考え方や発言や行動を自分自身で決めていないものなのだ。

 しかし、いろんな役割を担いながら、それらの役割におけるさまざまな自分に折り合いをつけている〈もうひとりの自分〉がいる。それこそ「市民」としての自分なのである。

 たとえば、自分がたまたま医者であっても、薬害問題における医者の責任について一般の人たちと突っ込んだ議論ができるとすれば、その人は医者としてではなく市民として発言しているのである。医者という職業役割がその人のすべてを規定しているのであれば、そういうことはできないものだ。医者として感情的に反論するか、たいていは黙ってしまう。こうした反省的な自己言及ができるかどうかこそ、自律的市民としての自分が確立しているか否かの分かれ目である。

 自律とは、自分のことを自分で決めることだ。つまり、組織の中にあって組織の慣行や文化に埋もれない人。地域社会に根ざした生活をしながら地域の掟や常識や考え方にしばられない人。自分の専門領域をもちながら、さまざまなテーマ領域に関心をもちつづけられる人。自分の経験にしばられず、他人の体験を自分の体験として受容できる人。このような人(あるいは、そのような人であろうとする意志をもつ人)が自律的個人すなわち市民なのである。

 さまざまな問題を抱えながらもパソコン通信やインターネットがいま成し遂げようとしているのは、ふつうの人がまさにこのような自律的市民として自己形成するための基礎条件の構築であるように見える。とくにインターネットは自分の行為的世界を意識的に再構築する可能性をもっていると思う。

 ネットワーク上の「ハイパーテキストとしての社会」を演劇的に構築し、そこで〈もうひとつの社会〉を経験した人が、それを利害関係の社会で再演するチャンスも増えるだろう。結果的にあちらこちらで「風通しのよい社会」への道を拓くことができるかもしれない。そうなったときにはじめて「インターネットが社会を変える」という事態が発生するのだ。所詮、社会や自分を「変える」のはわたしたち自身であり、インターネットはその手段のひとつにすぎない。つまり「インターネットを利用して市民が自分たちの社会を能動的に再構築していく」ということなのだ。そもそも一連の技術によって他律的に変えられてしまうような社会は、わたしたちにとって望ましい社会とはかぎらない。わたしたちが自覚的に変えようと思って変えるときに「社会が変わる」ことが望ましいのだ。

 以上の話をいささか理屈っぽいと思われる方もおられるかもしれない。要するに、こういうところから発想して、あとは自分でそのつど判断すればいいということなのだ。ビジョンと意志さえあれば、あとは何とでもなる。

 本書の冒頭でわたしは「だれかがあなたを待っている」と書いた。もちろん、それはこれからめぐり会うであろう人たちのことである。しかし、その中には、自律的市民として自在にふるまう新しいあなた自身もいるはずである。

あとがき

 わたしがインターネットに出会ったのは1995年の初頭あたりである。パソコン通信経由でネットニュースやWWWを読んだり、telnetを試みては失敗ばかりしていた。本格的にPPP接続してネットサーフィンし始めたのは6月ごろだ。当時は2400bpsのモデムを使っていて、「雄々しくサーフィン」というより「海に浮かぶ椰子の実ひとつ」という感じだった。しかたないので、イメージ(画像)をロードしないでやっていたものだ。

 8月にASAHIネットで自由に個人ホームページが設定できるようになり、さっそくエディターでタグづけして「SOCIUS(ソキウス)」という社会学入門ウェッブを公開した。以来、インターネット三昧の生活である。

 生活は一変した。毎日、Eメールを点検しては読み、返事を書いた。全国に知り合いができた。ずいぶん親しくなった友人もできた。それまでとんと縁のなかった業種の人や専門家ともやりとりするようになった。ほんとうに優秀な人がうようよいることもわかった(ほんとうにわかった(^^;)。じっさいに会って話した人もいる。会いに来てくれた人もいる。今まで考えなかったことにも興味をもつようになった。幸いなことに、自分の書いたものにすぐに反応してくれる人たちもできた。こうなると、これはやはり一種のコミュニケーション革命である。

 ところが、95年初冬から始まった一連のインターネット・ブームの中で、「マルチメディア」ということばが踊り始めた。とくにテレビの取り上げ方は不見識なものばかりで、とても見るに耐えなかった。煽るばかりで、自分が現に体験しつつあることとあまりにかけ離れているとの強い思いがあった。その一方で、「何ができるのか」教えてほしいという人も多くなってきた。みんなもピンとこないのだ。その溝は埋めなければならない。そんな感じでくすぶっているわたしにインターネット解説書執筆の話が来たわけで、一も二もなかった。

 といっても、わたしはわたしなりにもうひとつの文脈があった。わたしは1994年夏に『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社)を書き、「反省する社会」の可能性について考えていた。1995年春にその実践編のつもりで『社会学の作法・初級編――社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社)を出した。「社会学」といっても、社会科学の一専門分野のことというより、社会に対する反省的かつ脱領域的なコミュニケーションのことである。このような理念的構想はそれ自体抽象的なものだが、インターネットをやりだしたとき、まず驚いたのは、そこではすでにそうしたコミュニケーションが具体的に実現しているということだった。この驚きをきちんと「ことば」にしたいとの思いが、この本へのモチーフになった。

 じつは本書はもともと3人で書く予定だった。3人で分担すればすぐに出せると思って安請け合いしたのが運の尽き。いろいろあって、結局、ひとりで書くことになってしまった。当初はかなり盛りだくさんの本になる予定だったのだが、そういうわけで、わたしの担当していた【知的作法編】がひとまず世に出ることになったしだいである。

 もちろん「インターネット市民スタイル」ということでは、もっとさまざまな「スタイル」がありうる。本書では知的生活にかかわるほんの一領域を説明したにすぎない。「市民スタイル」の表現形式はさらに多様であり、実践のスタイルもさまざまあるはずだ。その中にはすでにスタイルの確立したものもあり、まさに「ただいま構築中!」というものもある。論創社でも本書につづいて【社会運動編】などを予定しているので、今後はぜひそちらも参照していただき、個性的な「インターネット市民スタイル」を構築していただきたいと思う。

 すでにお気づきの方もおられると思うが、この本では一貫して「個人」にこだわってきた。組織の公式ホームページではなく、その内外で自発的かつ自律的に発信されている個人のウェッブを中心に紹介してきた。そこにインターネットの可能性を見るからだが、「等身大のインターネット」を描いてみたいという意味もあった。また、技術的な解説はわたしのテクニカルな能力とチープな環境ではとてもフォローできないので、テクニカル・ライターの方々の解説書にゆだねることにして、本書ではもっぱらモチーフや意味づけや展望構想に重点をおいて説明してきた。本書を読んで少しやる気のでてきた初心者の方は、ぜひ他のインターネット解説書や専門誌を読んでいただきたいと思う。昨今はそれほどむずかしいものではなくなったものの、それでも、なめているとうまくいかないものだ。

 本書の執筆作業はわたしにとって異例なことが多かった。まず、すべての取材をEメールでおこなったこと。じっさいにお会いした方はほとんどいない。ひとりのユーザーから見える「等身大のインターネット」の世界を描きたいという思いがあったので、ネットワーク上の友人たちにも登場していただいた。せっかく友だちになったのに、その友だちをネタにする側面がないわけではなかったにもかかわらず、すべての方が好意的に取材に応じてくださった。そもそもEメールによる取材は、答える側もたいへんである。文章にしなければならないからだ。重点的に取材させていただいた方にはたいへんな負担をおかけしてしまった。ここに厚くお礼を申し上げたい。

 第二に異例だったのは、対象があまりに急速に変化することだった。初夏に調べたことを秋に再確認すると激変していたりする。量が数倍になっている分野もあった。この変化に単行本で対応するのはむずかしい。おそらく読者がこの本を手に取られる時点で古くなった記述もあると思う。事情が許せば、今後も少しずつ改訂していきたいと思う。

 また、今回の執筆はURL確認の必要もあって最初からHTMLで書いた。当初は共著になる予定だったので連絡用としてのWWW公開でもあったし、URLの確認用でもあり、ハードディスクの予期せぬクラッシュに備えてのバックアップでもあった。HTMLで書いたファイルを順次「SOCIUS」上で公開しながら、修正を重ねていったわけだ。いわば試行錯誤のプロセスをそのまま見せてしまうという実験的な書き方である。早い話が、フリーウェアがユーザーに使われているうちにしだいにバグを減らゆくあのやり方を著書についても一度やってみたかったのである。

 幸いなことに、さまざまな取材の協力をいただくことができた。おかげさまで、たくさんのバグも取り除くこともできた。「SOCIUS」のリピーターの方からもあたたかい励ましや貴重なアドバイスを受けた。わたしも4度目の書き下ろし作品になるが、こういうことは初めての経験である。編集者をのぞけば、ふつうはだれも励ましてくれないし、チェックもしてくれないものだ。

 その意味で、この本はわたしとわたしのインターネット仲間との共同作品であり、わたしはネットワーク上の結節点(結び目)のひとつとして、ただリンクを張っただけといえるかもしれない。モニターに向かってキーボードを叩いているとき、わたしはひとりではなかったような気さえする。そのぬくもりをあたえてくださったみなさんに深く深く感謝したいと思う。

 ありがとうございました!(😊)/

             1996年11月22日  野村一夫

2022年1月19日水曜日

経済学部のすべての人のための表現プラットフォームの検証実験的研究(平成30年度学部共同研究費)

平成30年度学部共同研究費による共同研究報告書

野村一夫

経済学部のすべての人のための表現プラットフォームの検証実験的研究


研究概要および研究成果

 本研究は、平成28年度から継続してきた学内研究助成プロジェクトのまとめとして学部内で使用できるマニュアルを制作するプロジェクトである。これまでメディア制作を中心とする活動は、ゼミなどの演習系授業にかぎられていた。緊密な指導と膨大なコミュニケーションがないと頓挫するからである。

 この実績の上で、本研究では学部全体への拡大共有を目指した。なぜなら本学経済学部は表現活動全般において決定的に弱いからである。とくに能動的な日本語作文ができない。学生たちは自分が書いた文章を積極的に公開したり共有したりしない。いわゆる発信力も異常に弱い。ソーシャルメディア上において大人としての言論活動をおこなっている者はごくごく少数である。

 セカンドマシンエイジと呼ばれて久しい現代において、これでいいわけがない。メガバンク採用における一般職の消滅に見られるように、機械的な作業マシンとしての事務仕事は劇的なスピードでスマートマシンに置き換わっていく。能動的な日本語表現が不得手な者たちは淘汰され、その分、知識豊富で表現の達者なコンサルティング的な仕事が増えていく。英語やデータ分析などの能力はその次である。と言うか、それらはスマートマシンに置き換え可能な段階に来ていると私は判断している。それがどこまで進んでいるかに関する知識が欠落しているから方向を読みまちがえる。

 母語による表現と思考の不断の活動が、世界に循環する多様な知識を能動的に摂取し吟味し、それを駆使して問題を定義し問題解決できるようになる。そのレッスンをどのような手順でおこなうかを考えることこそが高等教育の喫緊の課題である。

 本研究プロジェクトで実施できたのは次の項目である。

(1)作業上必要なタイムラインを確保する。ケースマにはそれがない。Workplace by Facebookを運用して2年になるが順調である。アカデミックとして登録してあるので無料である。学部全体を網羅することがすでに可能である。

(2)作業上必要な執筆場所を確保する。Stockは有料だが、アカデミックを設定してもらったので、予算化できれば拡大して使用できる。これは文書中心の業務用クラウドである。ギガ単位の大きなファイルもそのまま取り込める。学生たちは、こちらが使いよいと言う。

(3)Workplace by FacebookもStockも完全にクローズドなので、著作権のある現役の書籍も共有できる。いわゆる自炊をすれば、ゼミ程度の単位であれば共有できる。しかもビューアーも内蔵されているので、そのままの状態で閲覧できる。今回は行動経済学の文献を共有した。

(4)多様な表現スタイルで記録する。記録しないかぎり、来たるべき他者とは共有できない。記録されないその場限りの表現では、その場しのぎの態度を放置してしまいかねない。いつでも再現可能でなければならない。

 これらに対して本研究プロジェクトでできなかったことは次の項目である。

(1)他の研究助成プロジェクトとともに大幅に始動が遅れ、制作物も納期ぎりぎりになり、普及活動がまったくできなかった。

(2)試作品として3年ゼミ生34名に企画から版下制作までチーム単位で自主的に制作させたが、総じて幼児帰りを起こして低水準のものしかできなかった。これだけ経験を積ませた学生たちでも、朝な夕なの指導をしなければ、ちゃんとしたものにならない。

 評価と課題。

 志は高く持ちたいが、学内および学部内での普及は絶望的であるというのが結論である。グロスハックの発想で経済学部のために手のかかる開発研究をしてきたが、総じてこの大学でできることは少ない。今後は本学から離れて、全面的にインターネット上で展開することにした。


授業の作品化と教育のメディア ──理論的意味と実践的解決のクロスロードで



授業の作品化と教育のメディア

理論的意味と実践的解決のクロスロードで


野村 一夫

國學院大學経済学部


【要 旨】

本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。


【キーワード】

メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド


 

1.PBLとしてのメディア制作

本稿では、平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」プロジェクト(研究代表者・野村一夫)に基づいて「大学教育のメディア」について考察したい。このプロジェクトは数量的なデータを獲得するものではなく、特定の理論的作業仮説に基づいて実践的解決を試行したものである。本稿では、その両者の接続を主軸に総論的な議論を組み立てていきたい。高等教育において20世紀的な自明性が次々に崩れる時代、何にしても総論が必要な時代だという認識からである。

まず経緯をかんたんに振り返る。2004年から演習(以下「ゼミ」)を担当することになった。当時のゼミでは基礎的なメディア論を学ぶとともに、コンテンツ制作者の視点を獲得してもらうためにウェブサイトやブログを制作させた。しかし、それが定着することはなく卒論も低調であった。ゼミ生と相談した結果、雑誌制作がよいとのことで試作をしてみたところ成果物としてそれなりの手応えが得られた。そこで当時の「特色ある教育研究」に応募して編集環境を整備して毎年1セメスターを使ってコンセプト雑誌を作ることにした。これは10年続いた。コンセプトは毎年変わり出来映えも毎年異なるものであった。チームとしてのゼミは雑誌制作を中心にまとまり、その後は個別テーマ研究に移行してゼミ論・卒論へ向かうという基本線ができた。

ゼミは協働しての手仕事が必要である。よくある輪読形式はほとんど効果がないので放棄して、各自が拾ってきたテーマ素材(課題図書も含む)を見ながら議論する方向に寄せてきた。しかし10年もやっていると限界も見えてくる。第1にデザイン能力の限界。プロ仕様のAdobe InDesignを基本ツールに編集をしてきたが、やはりデザインの基本を勉強していないので「いかにも同人誌」になってしまう。私としては美術的なデザインではなく情報デザインに集中してほしいのだが、なかなかそうはならない。第2に基礎演習でのアクティブラーニングの採用をきっかけにして2つの決断をした。1つは扇型教授モデルの廃棄。もう1つはチーム単位での発信作業。いずれについても学びの機会を多くするために1学年のゼミ生を20人以上にしたことが背景にある。

メディア制作はメディア形式だけを決めておいて企画から完成までゼミ生で協働するPBLである。これを既存の研究(野村ゼミで「メガ読み」と呼んでいる事例研究)と統合できないかというのが今回の課題となっていた。さらにメディア論を対象としない他のゼミや授業に応用できないかということも強く意識していたポイントである。とくにアクティブラーニングを導入した経済学部1年生の基礎演習への導入を挑戦的課題とした。

今回のプロジェクトで新たに採用したメディア形式は、次のものである。

①トッパン・エディトリアル・ナビとオンデマンド印刷を組み合わせた新書本

②Facebookページを利用したラジオトーク

③LINEグループをイントラネットとして活用したワークフロー

じつはそれぞれ前史(あるいは試行的実験)があって本プロジェクトにおいて本格的に導入した。プロジェクト名に「すべてクラウドによる」と銘打ってはいるが、それぞれあえてアナログ感のあるメディア形式であることに留意されたい。とくに①は画期的なクラウドサービスで、日本語の冊子体がブラウザ上のみで編集できる。とりわけ縦書きがかんたんにできる点で貴重である。判型は文庫と新書のみであるが、もともと出版社仕様に開発されたクラウドサービスである。これだとレイアウトデザインを1からやらなくて済む。ほぼアウトラインプロセッサ並あるいはWordPress並である。主として電子書籍編集に使用されていたが、これとオンデマンド印刷をワンセットにしてもらって少部数印刷を実現した。高度なデザイン機能はないものの、テキストに集中したコンテンツを編集するのに向いている。USBメモリのようなリスキーなデバイスは編集行程においていっさい使用しないことにした。また、本プロジェクトでは1冊1冊作るたびに新しい挑戦をした。まず縦書きにするというのが編集上とても難しい。苦労があったとしたら、ほとんどが縦書きにするための編集上のノウハウに関するものであった。横書きであれば、数日で版下はできあがることも検証した。トッパンエディナビは学生でも操作できることもわかった。2016年初頭から2017年5月までに、このサービスによって制作した作品は以下の10冊である。教員名が書いていないのは、すべて野村の担当授業の受講者によるものである。著者(受講生)の名前は煩瑣なため省略する(写真1. 2)。

 写真1 写真2

①『女子経済学入門:ガーリーカルチャー研究リポート』私費による基礎演習Aの書評レポート集

②『渋谷物語』就職活動中の4年ゼミ生の自己分析からのスピンオフ

③『キャッチコピー越しの世界』3年ゼミ生のコンセプト企画

④『ベトナムの今を訪ねて』古沢広祐教授担当のフィールドワーク報告書

⑤『国学院物語計画』経済学部企画OBOGインタビューとそれを含む提案

⑥『基礎演習Aを全員で振り返ってみた』基礎演習Aの授業を新書に再現

⑦『渋谷において本はいかに扱われているか』基礎演習Bの企画リポート集

⑧『菅井益郎先生の8つの物語』3年ゼミ生によるロングインタビュー

⑨『地域おこし協力隊の課題と解決策』田原裕子教授担当のフィールドワーク報告書

⑩『すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究最終報告書』野村が担当授業の新書のために書いた解説や中間考察などをまとめて時系列で収載したもの。

第2に「ノムラゼミラジオ計画」があるが、技術的にはほとんど苦労しなかった。機材はiPhoneアプリ、公開はFacebookページで済んでしまったからである。問題はどのようなコンテンツに学生を巻き込んでいくか、それが学生にとってどのようなトレーニングになるかということである。学生の発信意欲はきわめて低く、自発的に何かを発信するということはない。それゆえ、それを引き出すメディア仕掛けが必要である。

第3のLINEによる進行はきわめてスムーズであった。過去3年間、ゼミとクラスの学生との連絡はLINEに集約させてきたが、学生のアクセシビリティが高い。クラスであれば入学式直後から連絡体制が組めて、きめ細かく指導ができる。「授業の作品化」もLINEの連絡体制が日常的に作動していたから可能であったとも言える。LINEグループのタイムラインの一部は上記新書シリーズの中でも引用している。

クラウド技術を使用するとは言え、内容は言語表現そのものである。それを記録して一定の範囲において非同期で共有することがポイントである。つまり教室でのアクティブラーニング体験だけで終わらせず「授業の作品化」までを目標に設定することに意義がある。文章表現まで一気に持っていくのである。これは大学においてどういう位置価をもつのか。次章では、その意味について大学全体のメディア・プラットフォームの問題から考えてみたい。


2.大学における5つのメディア

 今回のプロジェクトは、高等教育における「教育のメディア」について実地に検証をおこなうものであり、私が強い関心を持つのは「教育のメディア」だけである。ところが、じっさいには「教育のメディア」は教室の整備をして終わりというものではない。

そもそも大学は知識と情報のプラットフォームである。このことは、しばしば勘違いされているように大学が「発信者になる」ことではない。大学が「中継ぎに徹する」という意味で「プラットフォーム」より正確には「メディア・プラットフォーム」なのである。これをどのように整備していくかという問題がある。というのは、どこの大学でもこの点では混濁した認識が見られるからである。本章では、あえて大局的な見地から考えてみたい。

総じて、大学のメディア・プラットフォームはどうあるべきか。本稿では、これを理念によって5つに分割すべきであると考える。

①広報のメディア

②研究のメディア

③教育のメディア

④入試のメディア

⑤事務のメディア

これらを分割して考える理由を明確にしておこう。

広報のメディアは、大学のプレゼンスを広く知ってもらうためのものである。しかし、日常的にはグッド・ニューズ・オンリー・システムになる。大学にとって都合の悪いことは出せない。この場合「大学にとって」ということが大きな論点になる。つまり、その場合の「大学」とは何を指しているのか。それが特定の部署の都合のいいように御旗として使用されることの多さに私自身は辟易している。たとえば「大学にとって不名誉」という判断は、そうかんたんになされるべきではない。たとえば学生の不祥事が「大学にとって不名誉」かどうかは、全学の学生部委員会の慎重な議論によって定義されるのである。ところが広報のメディアに関しては、広報課とその周辺で「バッド・ニュース」として先行して判断されてしまう。広報はそういう原理で動くものである。とくに古い体質の広報はそうなのである。最近の企業広報は「バッド・ニュース」も伝える工夫をするようになっているが、ネットの対応のように、そう単純ではない。

研究のメディアは、研究内容と成果物を広く公開するものである。理念的に言えば、リポジトリのようにオンラインで世界中からアクセス可能でなければならない。完全な公開性をめざすなら多言語対応である必要がある。Googleなどの翻訳サービスは約100カ国語に対応しているが、これを活用すれば、ほんとうの世界への発信になる。それによって外国の研究者との交流も始まる。日本語だけでは不十分である。せめて論文のスタイルを世界標準に揃えておくことが前提であろう。私が編集長をしていた『國學院経済学』では『シカゴ・スタイル』に準拠するように変更したばかりである。スタイルが世界標準であれば、機械翻訳であっても、ある程度のことは伝わる。

教育のメディアについては、これまで十分に議論されてきたとは言えない。教育学系のメディア実践の論文はたくさん生産されているが、高等教育レベルのものでヒントになるものはほとんどない。たいていそれは教室内でのコミュニケーションにとどまって、しかも、あとに何も残らないからである。なぜなにも残らないかには理由がある。

教育のメディアの特徴は「教育現場を安全に公開すること」と「学生の成果物を安全に公開すること」の2つである。なぜ公開が必要なのかというと、関係者における成果物の共有が必要だからである。たとえば学生が提出したレポートを読むのは担当教員だけである。学生の友だちが何を書いたかも共有されない。情報共有のスタイルとしては、教員を中心とする扇型になる。全体を掌握しているのは教員のみとなる。これだと学生間でレポートについて語り合うチャンスはほとんどない。だから口頭発表が必須である。しかし、次の年にはつながらないから、また1からやり直しになる。それでは授業としての成長がない。じっさいに「これしとけば、いいんじゃない」みたいな先輩の言葉を鵜呑みにして縮小再生産になることが多い。研究と同様、年々、学生たちの成果物がレベルアップしていかないと高等教育とは言えない。先輩たちを乗り越えていく仕掛けが必要だ。そのためには継承することが必要なのである。

入試のメディアは、厳格に運用されなければならない。入試情報とウェブ出願のメディアとして別個に運用されるべきである。センター試験が終了することが決まって、これからAO入試が多角的に分岐していく。そのさいに情報端末でデータベースを活用して小論文を書くといったものも出てくるはずである。そのときに使うセキュアなシステムが必要である。つまり入試のメディアの仕事は「入試広報」だけでなくなるのである。すでにウェブ出願は当たり前のことになっている。次は入試そのものに使用できるメディアが必要になる。その準備はできているだろうか。

事務のメディアは、基本的に厳格に管理されている。問題なのは、情報共有の仕方である。エクセルやワードで文書作成して、それをメールに添付して共有するというやり方は安全ではない。ファイルをアップロードしたりダウンロードしたりする方法はレガシーなものである。転送に転送をされた場合、ファイルの行方がわからなくなる。だれがそのファイルを共有しているのか、改訂したのか、最終ヴァージョンはどれなのか、といったことが誰にもわからない。これは「情報のガバナンスができていない」ということである。職員のシステムは教員の心配することではないと考えられているが、じっさいには教員も膨大な事務作業をおこなっている。教務・入試・自己点検などはセキュアな情報システムが必要になるはずだが、基本的に使えるのは授業用のシステムだけである。

以上の5つのメディアの管理権限は、それぞれのトップが持つべきである。トップが直接管理できないときは、トップ直属のオペレーターが指示通りにおこなえばよい。大学のメディアは5つの理念と活動によってそれぞれ独立かつ自律的に運用されるべきである。混在させたシステムは邪悪になりがちである。なぜ邪悪になるかというと、情報システムとメディアの管理者が、ユーザーと内容に関するヘゲモニーを持つからである。管理者権限は、ふつう人が漠然と想像しているものよりも、はるかに強力である。それはほぼビッグブラザー並である。職位は高くなくても事実上の最高権力をこっそりと行使できる。しかし、それにもかかわらず5つのメディア領域の原理とルールはまるで異なるのである。教育のメディアを広報のメディアの原理で運用されたら、万事ことなかれになるにちがいない。何もできないように設定にするのが無難ということになる。それでは教育のメディアとして機能しない。

現状の管理態勢から5メディア態勢に移行する最もかんたんな方法は「すべてクラウド」にすることである。クラウドでは、暗号化と2段階認証は必須であり、しかも活動のすべてが記録される。日常的な管理は劇的にかんたんになり、コンテンツに集中できるし、サポートする余裕ができる。システムのアップデートはクラウド側でおこなわれるので、こちらは必要ない。ヴァージョン管理も容易である。端末は高性能パソコンである必要はなく、数万円のハードディスクなしのパソコンで可能である。安いパソコンであれば、2年周期ぐらいでリプレイスでき、リスキーな古いパソコンとOSの排除がかんたんになる。クラウドはマルチプラットフォームだから、スマートフォンでも作業ができる。

組織のガバナンスとしては、メディア・プラットフォーム担当理事を置くべきであろう。情報メディアの管理を課レベルに任せるべきではない。みずほ銀行の大規模なシステムトラブルでは、現場のことが上層部に伝わらず見切り発車をしてしまったことが構造的な要因であった。対策としてなされたのは情報システム担当取締役を設置することだった。たんに実務に長けた人ではなく、情報メディアに関する技術・法務・理論・政治に見識のある人とチームを組んで効果的に制御できる態勢を整えることが重要である。

あと重要なのは、5つのメディアごとに編集長をおくことである。内部限定公開であれ一般公開であれ、公開されるコンテンツについて編集長を置くのは常識である。印刷だけでなく、あらゆるメディア・コンテンツには編集者と編集長の役割が必須である。そうでないと、管理権限を担っている部署の専横か、あるいは無政府状態になる。メディア・コンテンツには、見識のあるコントールが必要であることを強調しておきたい。

以上概観したように、大学における情報のガバナンスは明確に切り分ける必要がある。そして、これらの影響を受けて最も萎縮しているが「教育のメディア」なのである。


3.教育のメディアの要件

 教育のメディアとして確保しなければならない要件は安全性である。では、安全とは何か。メディアは何がいいのか。どのように運用するか。教員の資質をどのようにアップデートするか。小さなプロジェクトであったが、確認できたいくつかの論点を列挙しておきたい。

①学生のコンテンツをむやみに公開することはリスキーである。学生は「学びのプロセスにある人」であるから、すでにあるコンテンツに学ぶのは当然のことである。それを授業においてレポートにして提出されたものには、公開にふさわしくないものがある。引用や出典が明確にさせれば解決するから、そう指導するにしても、個人情報を含めて全面公開というわけにはいかない。したがって、一般公開用のブログやサイトでは難しい。

②印刷媒体は有効である。手触りのある本にすると、書類とともに破棄されることなく本棚に残る。授業の経験そのものに価値があるのと同時に、授業の作品化とくに印刷媒体にすることの価値は大きい。ただしワードで作成したA4の簡易製本は残らないし、手に取られない。手渡したその場でのみ見られることで、かろうじて安全であるにすぎない。品質がとても重要である。

③ソリューションとして本プロジェクトで実地検証したのが、クラウドによる編集システムとオンデマンド印刷の組み合わせであった。「トッパン・エディトリアル・ナビ」はクラウド上でページものを編集できる国内ではほとんど唯一のシステムである。縦書きとなると、ここの独擅場ではないかと思う。もともと出版社向けのクラウドサービスであったものの、電子書籍用に使用されることがほとんどで、私たちの『女子経済学入門』が最初の印刷本だったとのことである。現時点では判型が文庫と新書に限定されているのは、そういうものを大量に出す出版社を想定して作られているからである。これをオンデマンド印刷と組み合わせてみたのが本プロジェクトの創案である。

④予算の問題については、あれこれ工夫した。トッパンとしてはエディナビについて大学と契約するのは初めてで、最初は従来の出版社用の見積もりであった。しかし、大学はベストセラーを狙っているわけではないので、それだと割高になってしまう。全学的対応であれば、それでもかなり安く済むが、一研究プロジェクトとしては荷が重い。そこでページ単価で契約することを提案し、研究開発機構もトッパンも合意してもらえた。本プロジェクトは全部で12万ページとして契約した。これだと予定通りに行かなくても、他の本の部数を増やして調整すればいい。授業は「なまもの」なので、予定通りに行くとは限らないから。

⑤コンテンツの配付範囲をコントロールしながら関係者のあいだにコンテンツ共有する仕組みを本プロジェクトでは「メゾメディア」と名づけた。メゾメディアの有力候補がトッパン・エディトリアル・ナビによる編集とオンデマンド印刷の組み合わせであった。では、それだけでいいのか。ネットでメゾメディアはできないのか。と考えて、計画にはなかったネット活用を始めた。それがネットラジオである。これは「渋谷のラジオ」にゼミ生がレギュラー出演していて話を聴いて気づいた。ラジオだと顔が見えない。それだと身内以外にも公開できる。ファイルの流出を防げるサービスを探したところ、Facebookページが最適だと判断して「ノムラゼミラジオ計画」を制作した(https://www.facebook.com/shibuyaeast/)。

本プロジェクトで「授業の作品化」というのは、換言すれば「教育のメディア」に載せるということである。学生の作品を安全に見える化するメリットはさしあたり以下の点にある。

①当該授業受講者が相互に作品を読んで話し合える。

②翌年以降の当該授業受講者の到達目標になる。

③当該授業を受講していない友人・先輩・後輩が参照できる。

④就職活動やインターンシップなど対企業活動で「勉強の成果」として提示できる。

⑤家族が大学での学びについて知るきっかけになる。

⑥総じて大学の学びを蓄積できる。

授業体験とともに作品を残していくという二重の作業を学生がおこなうことは、現代の職業生活のありようにマッチしてことである。タスクを遂行しながら記録を欠かさない。これが習慣として定着することができれば立派なスキルである。


4. 学生が書くということ、その著者は誰か

 「教育のメディア」について本プロジェクトで試行した基本的な考え方のひとつは、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。この点については誤解が生じやすい。というか、事なかれ主義が蔓延していて結局何もしないことになりがちである。

この点については複数の条件がつく。

①信頼できる情報源に到達しているか。

②それなりの分量の情報・知識を収集しているか。

③自分なりの基準をもってセレクトしているか。

④素材から的確な論点を引き出せているか。

⑤チームでの議論に耐えうるかを検証しているか。

⑥自分なりの工夫をして表現しているか。

原稿としては、この6点を満たすのが理想である。企画編集執筆の各段階で何度も確認してきたことだが、本ができたのちに全ページを読んだ上でゼミとして振り返りができればいいと思う。つまり、授業の「成果」であるとともに「プロセス」を表示するドキュメントとして扱えば良いのである。

学部授業において「研究成果」は「編集物」でよいという論点について、背景となる考え方を補足しておこう。

一般に人文社会系の勉強をまとめるさいには次の点が充足していなければならない。

①先行研究をフォローすること。

②オリジナルな論点があること。

③妥当な手続きを取っていること。

④形式的要件を満たすスタイルで表現されていること。

もし学生の作品が一般公開されるとなると、この4点を満たす必要がある。しかし、そうでない場合は①を満たすことが重要である。これを無視できるのは天才かカリスマだけであろう。②さえあれば、他の条件は支持者や追随者によって整備されるからである。こういう人は、それほど世の中にいるものではない。そう、学生にも教員にも。そもそも、天才にしてもカリスマにしても日本の大学制度にはなじまないであろう。

経済やその隣接領域について、学生はほとんど白紙状態で大学に来る。高校の「政治経済」の教科書のうち経済を扱っているのは、わずか百ページである。しかも受験は経済の授業より早く来る。だから経済学部生であっても「政治経済」で受験した経験のあるものはごく少数である。

この領域は年ごとに大きく変化する。たとえば1年生の基礎演習Aでこの春に検索の実習として扱ったテーマは「パナマ文書」である。これは春までだれも知らなかった情報である。その背景には「タックスヘイブン」「オフショア経済」などがある。グローバル経済が直面する「闇の経済、裏の経済」について「パナマ文書」から系統的に説明できる人はまだまだ少ないはずだ。しかし、かれらが就職したとたんに、この種の問題は無関係ではなくなるのである。だからこそ、ニュースの背景にある事柄についての先行研究を読む必要があり、何を重点的にセレクトするかなど、それはそれで重労働なのである。学生は先行研究にキャッチアップできれば十分だと思う。とくに新しいテーマだとアカデミズム的には「また色物」「たんなる趣味」「おたく」「まがいもの」といった視線を浴びるのが常である。私に言わせれば「ラブライブ!」も「パナマ文書」も「欅坂」も「ドラグネット」も問題として同値である。新しいから扱いが難しいのは当然である。学生の側も指導する側もともに猛勉強しないと、たんなる趣味に堕してしまう。とくに指導する教員が「手ぶら」ではいけない。方法論と理論がないと指導はムリである。

新しいどんな現象であっても、まったく新しい現象とは言えない。たいてい新しい表層の下に古い構造や文化を前提にしているものである。最新のSF映画であっても、物語構造としては神話と同型であったりする。「スターウォーズ」とキャンベルの神話学の関係は、それを逆手に取ったものである。学生が興味を持った新しい文化現象には、こうした表層の新しさと深層の古さがある。そこを見分けると、その現象単体では見えない膨大な文化的文脈が見えてくる。そこに注目すれば、そのテーマは豊作である。

私は「パチンコ玉理論」と呼んでいるが「シャボン玉理論」と呼び変えてもいい。パチンコ玉もシャボン玉もその周りのすべての風景を表面に映し出している。だから小さなパチンコ玉であってもシャボン玉であっても、その表層を慎重に見ていけば、それが拠って立つ背景世界を描くことになるのである。もちろん球面という形式にデフォルトされているのだから、そこは補正して見ていけばいい。テーマは狭くても、それを通して世界を俯瞰できるのである。この方法論はどこにでも「転用」できる。学生としてオリジナリティやイノベーションを獲得する最短の道は、このような「転用」である。転用をひとつの評価ポイントにすれば、空疎なオリジナリティ信仰に対しても距離を取る必要があるだろう。


5. 授業の作品化とは何か、あるいは巨人の肩の上で

 以上のような作品に対して、どのような評価をするか。今問われているのは学生ではなく教員サイドの評価基準であろう。

本プロジェクトで私が周囲の抵抗を感じたのは2点である。第1に「学生が書いたものを本にして何がいいの?」というもの。第2に「学生はコピペする」という疑いの眼。前章で述べたように、学生も教員も「巨人の肩の上で」書くのであって、先行研究を参照するのは当然のことである。文化も社会も「模倣」からすべて始まるのであり、模倣されるからこそオリジナルは価値があるのである。この点については、ラウスティアラ&C・スプリグマン(2012=2015)が雄弁に論じている。

学生がグーグルで検索した最初の1ページに出てくるサイトからコピペしてくるのは、与えた課題がおざなりで適切でないからである。この点については近年、研究が進みつつある。たとえば成瀬 (2016) などは注目すべきだと考えるが、本プロジェクトにあたっては、課題を出されて途方に暮れる学生の立場から考える方が近道と判断して、本プロジェクトを進めながら、私は小論文の参考書をありったけ読んで自分なりの工夫を考えた。

①課題を疑問文にして、その意図を明確にすること。

②評価ポイントを明確にしておくこと。

③アプローチの仕方を指定しておくこと。

④それに即してアウトラインを提示しておくこと。

⑤文体についてテンプレートを提示すること。

⑥「私」を主語にして書くことを推奨する。

⑦ありうる邪悪なアプローチを事前に提示して警告すること。

⑧個人的な問い合わせの回路を開いておくこと。現時点ではLINEだと学生は手軽に質問できる。

⑨チェックシートをいったん提出させてから執筆に入るように2段階にすること。

⑩参照すべき書籍・サイト・データベースをあらかじめ指定しておく。

⑪課題を統一しないで、ヴァリエーションを作って学生に選択させ、1人ひとりが個別の課題と向き合うようにする。

一見自明な項目に見えるが、全部をセットにして実行する教員は稀だと思う。⑥とか⑧などは論争的でさえある(してもよい)。あとの項目も手間ひまを要するので敬遠しがちである。しかし、全部をセットすることで学生は一発で完成稿を提出できる。その方が作品化しやすいのである。いちいち教員が原稿に手を入れたら、学生にとって責任を持って書いた「自分の作品」にはならない。通常とは順序を逆転させるのである。

『女子経済学入門』の場合、1年生の基礎演習Bの期末レポートとしてガーリーカルチャーに関する本40冊の中から1人1冊選んでもらって書評を書くことにした。基本的には「紹介文を書きなさい」と指示した。12月18日の年末最後の授業でそれをして1月10日締切にした。その間授業はないのでLINEで相談を受け付けることにした。全員が異なる課題になるので相談は個別指導になる。年末の相談で見本の必要性を感じ、正月に長めの「ガーリー総論」を書いて共有し、その上で個別に指導をした。その結果、クラス全員が締切に間に合い、すぐにエディナビで編集して年明け1回目の授業で校正をしてもらい、その翌週に本を配付した。

『キャッチコピー越しの世界』の場合、ゼミ3年前期のPBLということで企画から発刊まで3ヶ月で実施した。アクティブラーニング形式でチーム単位で進め、ゼミ生25人全員が書いた。

『渋谷において本はいかに扱われているか』の場合は、1年生後期の基礎演習Bの「オクトーバー・プロジェクト」と称して4回分で実地見学のレポートを執筆させた。課題は次のようなものである。

「気がつけば渋谷の本屋さんは多彩です。こだわりもいろいろ。おそらくこれからの本と書店のあり方の未来形は広域渋谷圏にあります。「本はコンテンツ・メディア」「書店は文化メディア」として見てみると、今後さまざまな分野で展開するメディアのスタイルが見えてきます。この授業では「情報デザイン」という観点から、渋谷の書店のメディア・スタイルを考えてみたいと思います。」

このときのテーマは「街の中に情報デザインを読み取る」ことを意図している。まず授業中に渋谷近辺で本のあるところを探してLINEに集約させた。この60前後の対象を全員に振り分けた。1個所あたり2人まではよしとした。最初に「ヒントとアプローチの仕方」に基づいたチェックリストを提出させた。それは以下のようなものである。

①ミクロレベル

 商品

 パッケージ

 ポップ

 ジャンル

 文脈棚

 店内の配置構造

②メゾレベル

 店内の順路・ナビゲーション

 迷路化

 空間メディアとしての演出(BGM、吹き抜け)

 居心地

③マクロレベル

 立地条件

それをチェックしたのちに文体のテンプレートを書いて共有した。それはこういうものである。即興でLINEに書いたので代入個所を顔文字にしていたので一括して□に変換してある。

「まとめの仕方についてヒントを書きます。私を主語にして書く。基礎演習Bで□をやることになった。私は□をやってみようと思った。というのは□だからだ。ほんとは□もやりたかったが、□なのでこっちにした。

まずはともあれ行ってみようと思って、□に行ってみた。ここは□な場所にあって、周りは□だった。すぐそばには□があって□な感じだった。ここでマクロ目線。

迷いつつもなんとかたどり着いた。入口は□な感じで地味ガラス張りオシャレ一見さんお断り、な印象だ。

入ってみると、天井が□で陰気な音楽がかかっていた。ここからメゾレベルの話。店員さん、香り、本棚の配置、□

このショップらしいのが□で、その周りには□が置かれている。そこを中心に本棚を眺めていると、□とか□とか□とかの本があり、どうやら□当たりをクローズアップしているようだ。これはナイス。ぐるっと回ってみたら、□がたくさん積んである。これって□のこと? ミクロ視点のあれこれ。

というわけで、このショップにおいて本はこのように置かれているのだ。ポイントを並べてみよう。

中でも注目すべきだと思ったのは□である。これは他にはないと思う。店主のセンス好みこだわり□が明確に表現されている。

みたいな感じ。」

要するに手順を書いてある。このあと文体はどうにでもなる。いったん書き上げることが重要である。最初から文体に拘泥するのはやめたほうがいい。書店だけではなくブックカフェや展示施設も入っているので、提出されたレポートは多彩である。足を運び、自分事として書いて、人に読んでもらえるのがポイントである。ジェネラルスキルもここから始まる。

『菅井益郎教授の8つの物語』の場合、ゼミ3年生で特別チームを作り、8時間のロングインタビューをしたもの。事前に菅井教授と打ち合わせをして「8つの物語」として整理しておいて臨んだ。それをテキストに起こして、教授にチェックを入れてもらい、本にした。学生によると、この一連の作業はたいへん勉強になったようだ。私は「賢人シリーズ」と呼んでいるが、多様な展開が可能である。

ここで論点をまとめておこう。

①エーコが言うように「作品」とは開かれたものでなければならない。公開されること。

②成果ではなくプロセス。論文ではなくドキュメント。メイキング映像にあたる。

③評価には動態的な理解が必要である。

この3点に関しては4年ゼミの書いた『渋谷物語』の解説に記しておいた。小見出しになっている「原宿ナウマン象」とは、渋谷キャンパスの1つおいた隣にある白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に発掘された骨が展示されている。代々木公園から原宿あたりにはナウマン象が生息していたのである。


原宿ナウマン象のように

「ここにいた」ことを記録する。それをアナログで残す。残像を形にする。教育のプロセスにおいてなされるものごとはすべて未熟であるに決まっている。だから、足跡も痕跡も残さないようにする方が安全だという考えはまちがっている。生きて学んで感じたことをそのつど形にしていくことで、それは共有され、あとから来る人たちに踏み石として活用されれば、十分意味がある。自分たちの足跡も形になれば、それを読んで「ああ、こんな時期もあったね」と感じることで吹っ切って、自然に次のステップに進めるものである。国学院大学におけるそうした痕跡の集積が「渋谷物語」という群像劇を形成していくことになるのではないか。百年続くといいね。本書はその第一歩である。原宿ナウマン象の新しい第一歩である。


私は本プロジェクトに並行して、これを推薦系特選系入試に導入した。大学や学部にとって最大のメッセージは入試問題である。推薦系特選系の場合、従来は面接中心であったが、面接こそテンプレ依存になっていて、しかも面接者しか評価できず、あとで確認ができない。だから小論文に転換しようと提案したさいに、この方式を取り入れた。詳しくは、國學院大學経済学部入試委員会編「平成30年度入試 國學院大學経済学部 課題レポート テーマと解説」という小冊子を参照してほしい。

なお、評価方法の問題については紙幅の関係で別稿を期したい。かんたんに論点を示しておく。

巨人の肩の上で書かれたものをどう評価すべきか。とくにアクティブラーニングを導入すると評価がやっかいである。ルーブリックなどさまざまな工夫がされているが、これまで述べてきたような「授業の作品化」に徹すると、比較的容易になる。ただし、ここで改めて「作品」にどのようなものがありうるかを考えなくてはならない。

サスキー(2009=2015: 160)には「エッセイ、学期末レポート、リサーチレポートを超えたアサインメントの例」として42の形式が列挙されている。これらの中にはパンフレットや物語やビデオまたは音声録音が含まれている。多様な「授業の作品化」スタイルがあるということである。

そのさい評価する側が心得ておかなければならないことは質的研究に関するものである。フリック(2007=2011)が雄弁に論じているように、質的研究の評価はとても難しいし、なにより多様である。そのためいわゆるサイエンスウォーズのようなことが生じるし、論文審査においても物議を醸し出すことになる。このあたりは学生のレポートから博士論文や査読審査に一貫して見られる問題である。

学生の場合には「作品」として位置づけること、その作品は完成品ではなく学びのドキュメントであるということ、それゆえ作品のシークエンス自体をタイムラインで評価することが重要である。


6. 教育のメディアと大学の未来

 授業のありようも根本的な転換と変換が必要になっている。授業の管理強化だけが質保証ではない。私自身が自覚的におこなおうとしているものだけでも、以下のような転換があり、これらについて集中的に議論すべき段階に来ている。

①相互作用のプロセスとして教育を考える(認知科学的変換)

②講義から学習へ(視点の変換)

③オーケストラ型からコンボ型へ(規模の変換)

④パッケージからライブへ(様式の変換)

⑤シナリオ上演から即興演奏へ(計画性の変換)

⑥聴衆から表現者へ(学生像の変換)

こうした潮流にあって、それらを系統的におこなうには「教育のメディア」を自覚的に整備することが重要である。タブレットを与えればオーライといった安直なメディア仕掛けが横行する現代、理論と実践のクロスロードがどこにあるのかを見定める必要がある。おそらく、それは「大学が社会を変える新しいルートの探索」につながるはずである。


参考文献

Flick, Uwe(2009=2011)An Introduction to Qualitative Research, Sage. (ウヴェ・フリック『新版 質的研究入門:〈人間の科学〉のための方法論』小田博志監訳, 春秋社).

成瀬尚志(2016)『学生を思考にいざなうレポート課題』ひつじ書房.  

Raustiala, Kal & Christopher Springman(2012=2015)The Knockoff Economy: How Imitation Sparks Innovation, Oxford University Press. (K・ラウスティアラ&C・スプリグマン『パクリ経済:コピーはイノベーションを刺激する』みすず書房).

Suskie, Linda(2009=2015)Assessing Student Learning: a common sense guide, 2nd ed., Johon Wiley & Sons. (リンダ・サスキー『学生の学びを測る:アセスメント・ガイドブック』玉川大学出版部).

 

At the Crossroad of the Educational and Teaching Works of Media: 

A theoretical meaning and practical solutions

授業の作品化と教育のメディア

理論的意味と実践的解決のクロスロードで

Nomura Kazuo

Kokugakuin University Faculty of Economics

Abstract

Book paper was adopted to "special education 2016, all pieces of the cloud by: study of utilizing the meso media" in findings based on "media education" requirements to study in General. On top of that to discuss the significance of the work of the lessons and issues. In that it is not a basic idea is student's work is not necessarily "creations" may not be of a rather nice in the "edit product". Learn through imitation on the shoulders of giants. To share the records document as its footprint. Media instead of ending on the spot, they accumulate in the University should be.


Keywords: Works of media production, College media, educational media, works of class, cloud


本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。

キーワード:メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド


ノマドサークル共同利用コモンズ

共同利用コモンズ

部室のないサークルや新しいサークルが利用できるエリアを設定して新しいキャンパスカルチャーを育成する。

古いサークルの既得権益を崩そうとしてもラチがあかない。

百周年記念館の2階と3階を活用する。

大部屋方式 参考になるイトーキのオフィス設計

フリーアドレスオフィス https://www.itoki.jp/solution/f_address/


学生部による管理

登録は毎年更新制

学生生活課がノマドサークルに年間利用権を付与するものとする。

学生証をピッして入室できるようにする。機械式で、かまわない。登録学生だけ入れるようにする。登録学生数以上は入れないものとする。

荷物は毎日必ずコインロッカーにしまうことにする。コインロッカーの扉は透明にする。

テーブルはカンタンに移動できるようにする。


場所取り防止策

大部屋方式なので、特定のサークルが決まった場所を占拠しないように、無断の全員ミーティングは禁止する。

ミーティングをするときは事前に登録してアドホックにテーブルを移動してスペースを形成する。そのときは入口で告知する。予定表があるとグー。


ファンクラブスタイルによる資金調達支援

大学公認のクラウドファンディングによる資金獲得 https://readyfor.jp/college

クラウドファンディングを通じた一種のファンクラブの構築、卒業生との関係形成


インテリジェントな発信支援

サークルの連絡サービスと公開手段を提供する。必要なのはブラウザだけ。デバイス依存ほぼなし。

自動動画作成システム https://richka.co/

パンフレット作成システム https://www.toppan.co.jp/solution/service/edinavi.html

発信型サークルの育成 ノマドサークル用ウェブサイト

モニターあるいはテレビでプレゼンできるデバイス、スマートフォンを使う。パソコンは置かない。HDMIケーブルはデフォルト。アンテナはつながない。