2022年2月14日月曜日

セオリー道場003原ファシズムとは何か、そして知識人はそれにどのように抵抗したか──ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』とホルヘ・センプルン『人間という仕事』

 読解対象

 ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』和田忠彦訳、岩波現代文庫、2018年。

 ホルヘ・センプルン『人間という仕事──フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』小林康夫・大池惣太郎訳、未来社、2015年。

レッスンのポイント:長文引用練習・特性列挙練習

原ファシズムとは何か

 エーコは自身が体験したイタリア・ファシズムは固有の哲学を持っていない、あったのは修辞だけだと述べる。しかしイタリア・ファシズムこそ軍事宗教やフォークロアを初めて作り出したとする。(エーコ2018:38-39)

 しかし、全体主義運動においてイタリア・ファシズムは、その一部にしか過ぎないのに、なぜ「ファシズム」という言葉がその全体を表すようになってしまったのか。エーコは聴衆を「提喩(メトニミー)の機能」の謎に直面させる。つまり、ナチズムは明確な明確な政治綱領宣言をもち人種差別とアーリア主義の理論を装備し反キリスト教思想の陣容を備えていた点で、唯一無比である。それに対してファシズムの方はそのような陣容はなく、もっとファジーな存在であったために、他の政治運動や政治体制と家族的類似性を形成しやすいということである。(エーコ2018:46-47)

 いずれにしても、たとえ政治体制が転覆され、その結果、体制のイデオロギーが批判され非合法化されることはありうるとしても、体制とそのイデオロギーの背後には、かならず特定の考え方や感じ方、一連の文化的習慣、不分明な本能や不可解な衝動が渦巻く星雲のようなものが存在するわけです。(エーコ2018:36)

 かつてイヨネスコが「大切なのは言葉だけだ、それ以外は無駄話だ」と言ったことがあります。言語的習慣は往々にして、表出されない感情の重要な兆候なのです。(エーコ2018:36)

 エーコは、このような言葉の特徴に焦点を当てて、ファシズムと呼ばれる政治運動に典型的に現れる特徴を十四点あげて、それを「原ファシズム(Ur-fascismo)」もしくは「永遠のファシズム(fascismo eterno)」と呼ぶ。「原」というのは原初的ということであり、「永遠の」というのは「歴史上存在したあのイタリア・ファシズムではなく、他にも将来的にも出現しうる」というような意味合いであろう。この十四点の特徴がとても的中度が高いので、順次ていねいに読んでいきたい。

 一点目は「伝統崇拝」。

 結論からいえば、「知の発展はありえない」のです。真実はすでに紛れようもないかたちで告げられているのですから、わたしたちにできることは、その謎めいたメッセージを解釈しつづけることだけなのです。ファシズム運動の一つひとつの目録を点検し、そこから主要な伝統主義思想家たちを洗い出せばすむことです。(エーコ2018:49)

 なぜなら、この知的伝統は混合主義的なものであって、対立する考え方が併存する矛盾をもともと抱えているから。それらの伝統を任意に組み合わせてしまうところがファシズムだということ。

 二点目は「モダニズムの拒絶」。啓蒙主義や理性を近代の堕落とみなす。それゆえ非合理主義と規定される。

 三点目は「行動のための行動を崇拝する」こと。考えることは去勢の一形態とされ、自由主義的な知的世界は告発と攻撃の対象になる。

 四点目は「混合主義であるために批判を受け入れられない」こと。「意見の対立は裏切り行為」とみなされる。

 五点目は「余所者排除」であり「人種差別主義」であること。

 六点目は「欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ」であること。

 七点目はナショナリズムであるがゆえに「陰謀の妄想」がその心性の根源にあること。「外国人嫌い」の感情に訴えるのが手っ取り早い手段になる。

 八点目は頻繁にレトリックの調子を変えるために「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」こと。結果的に敵の力を客観的に把握できない。それが体質になっている。

 九点目は「生のための闘争」ではなく「闘争のための生」とされること。あるのは最終解決のみであり平和主義は悪とされる。

 十点目は「大衆エリート主義」を標榜すること。

 十一点目は「一人ひとりが英雄になるべく教育される」必要が強調される。英雄主義が規律となる。「原ファシズムの英雄は、死こそ英雄的人生に対する最高の恩賞であると告げられ、死に憧れるのです。」(エーコ2018:56)

 十二点目は永久戦争や英雄主義が困難なためマチズモのように性の問題にすり替えること。男根の代償としての武器いじり。

 十三点目は「質的ポピュリズム」。

 原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです。人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意志をもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。委託権を失った市民は行動に出ることもなく、〈全体をあらわす一部〉として駆り出され、民衆の役割を演じるだけです。こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなるわけです。(エーコ2018:57)

 十四点目は「新言語(ニュースピーク)」を使用すること。貧弱な語彙と平易な構文に限定して総合的で批判的な思考ができないようにする。ニュースピークとはオーウェルが『一九八四年』の中で使用した用語法で、最近出た新訳の中では付録として「ニュースピークの諸原理」がある。これはまたの機会に集中して扱いたい。ジョージ・オーウェル『1984』田内志文訳、角川文庫、2021年。

 以上十四点を一気にまとめてきたが、それらは相互に呼応している要素として説明されており、それをあえて切り分けて分節化して見せているのである。がっちり組まれた特性群だと、なかなかきれいに適用できないことがあるから、あえて要素をばらして並列しているのである。そのおかげで、これらは歴史的現在の政治を評価するさいの徴候測定装置として役立つ。

 原ファシズムが感情政治あるいは感情動員の形式であることがよくわかる。そして、この感情は言葉あるいは言説によって動員されるのである。

 ここにはいくつかの塊があるように思うが、その塊はある程度までは必然的につながる。ここの含まれた修辞学的要素が相互に結合することで、そこに求心力が生じて一種のハブになる。ハブができるとネットワーク外部性が作動してハブと周囲のノードが次々に連結して明確な物語性を持つようになる。そういうことだとすると、ばらばらに言説が生み出されていくプロセスにおいて接合の力を絶たないといけないということになる。それが例外状態を成立させないための手立てである。

 エーコのこのやり方は言説分析の一つのスタイルであるように感じる。じつは私もかつてこのような形で健康主義(ヘルシズム)を説明したことがある。野村一夫「健康クリーシェ論──折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造」佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000年。

表2 折込広告における健康クリーシェの諸類型

■近代医学模倣言説系(1)栄養学的言説(2)検査値言説(3)医学的権威主義(4)ストレス言説

■伝統回帰・減算主義的言説系(5)非西洋医療権威主義(6)伝統主義(7)自然治癒力主義(8)薬の忌避・薬害への恐怖(9)無添加主義(10)素材よければ主義

■道徳言説系(11)継続は力なり言説(12)良薬口に苦し言説(13)リスク放置非難言説(14)嗜癖不道徳説(15)死の恐怖(16)性的健康(17)フェティシズム的道徳

■救済言説系(18)まだ間に合う言説(19)万病解決言説(20)お手軽主義(21)遍歴言説(22)生まれ変わり言説

■身体アイデンティティ言説系(23)体質という個性(24)恋愛共同体への誘惑

■承認言説系(25)半信半疑言説(26)他者の承認(27)マスコミで話題言説

■汎用言説系(28)健康の汎用性

 これは原ヘルシズムではなく最小公倍数としてのヘルシズムである。ここから抽出して原ヘルシズムの構成要素を組み直すことができそうである。それは今後の課題としたい。

 また「換喩とは何か」について書くつもりでいたが、今回は見送る。レトリック論について重点的に書く計画があるので、そこでやることにしたい。

ファシズムと闘う、あるいはファシズムに耐える

 センプルン『人間という仕事』副題は「フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル」である。原題では「抵抗のモラル」となっている。

 読み始めは、いったいどんな共通点があるのかと思ったが、三者がそれぞれの場所で一九三〇年代のヨーロッパの危機に直面して、どのような精神で抵抗したかについての講演であった。しかし実際には三者だけでなく、その周辺や同時期に行動した知識人の話がたくさん出てきて、ナチズム、ファシズム、スターリニズムに席巻されるヨーロッパの知識人たちの群像が語られる。フッサールとオーウェルはある程度わかっているがアナール学派のマルク・ブロックの抵抗活動と最期についてはよく知らなかった。センプルンはブロックの『奇妙な敗北』を主軸に語っている。センプルンは三者に共通する抵抗精神を「批判的合理性」「理性の勇敢さ」「民主主義に対する信」「民主的理性」と呼ぶ。こういう確信こそこれからも反復して学び直すべきものだということである。

 さて、もう少し詳しく見ていこう。最初の講演は「エトムント・フッサール 一九三五年五月、ウィーン」と題されている。フッサール晩年のウィーン講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」についての章である。この講演の最後の部分は次のようになっている。センプルンの翻訳書から抜き出してみる。

 ヨーロッパ存続の危機には二つしか出口がありません。ヨーロッパがそれ本来の理性的生の意味から遠のいて没落し、精神に対する憎悪と野蛮のなかに失墜するか、それとも理性の勇敢さ(ヒロイズム)によって自然主義を最終的に超克し、そこから哲学の精神を通して再生するかです。ヨーロッパにとって最も危ぶむべきは倦怠であります。良きヨーロッパ人として、この危険のなかの危険と戦おうではありませんか。戦いが果てしなく続くことに怯まぬ勇気をもって。そのとき私たちは目にするでしょう。このニヒリズムの猛火、人間性に対し西洋が使命を帯びていることを疑わせる絶望の逆巻く炎、巨大な倦怠の灰傭から、新たな内的生と新たな精神的活力に満ちた不死鳥が、人間の遠大な未来の保証として蘇るのを。なぜならば、精神のみは不減なのですから。(センプルン2015:11)

「戦おうではありませんか」の文は意外な感じがする。平凡社ライブラリーに収められた清水他吉・手川誠士郎編訳では次のような訳文になっている。

 もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として、無限に続く闘いにも挫(くじ)けぬ勇気をもち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば(後略)(M・ハイデッガーほか『30年代の危機と哲学』清水多吉・手川誠士郎編訳、平凡社ライブラリー、1999:95)

 ここでは「立ち向かうならば」と訳されているのは、「立ち向かおう、そうすれば」ということだと理解しておく。センプルンは「戦おうではありませんか」という呼びかけを特筆しているので、ここではそれに従う。

 それほど切迫した一九三五年のヨーロッパ。その危機において知性の抵抗はどのようであったかをセンプルンは描き出す。歴史的背景は次の四点。独仏の和解の失敗、一九二九年の経済恐慌、計画主義の発展、大衆化の拡大。そしてスターリン主義の増幅。このなし崩し的な歴史の転回の中で、七十六歳のフッサールを始め、フロイト、ヤスパース、ムージル、ジード、マルク・ブロック、アルブヴァックス、ベンヤミン、レオン・ブルム、オーウェルたちの知的抵抗が描かれる。短い講演の中にヨーロッパ知識人の動向が収められている。フロイトは一九二〇年から二一年にかけての『集団心理学と自我分析』の中でいち早く大衆化現象に言及し「大衆化の現象においてはカリスマ的なリーダーが現われ、その出現が決定的な役割を果たす」(センプルン2015:15)ことを指摘していた。ムージルはフッサールの講演のひと月後のパリ講演で「集団主義(コレクティヴィズム)の興隆を問題にしていた。センプルンはこう述べている。

 私が思うにフッサールこそ初めて、哲学的観点から、知的観点から三〇年代の危機と将来の危機に対する唯一の解決策としてヨーロッパの超国家性を構築する必要を表明したのです。(センプルン2015:43)

 そして、それを真に受けて受け継いで死んだのがマルク・ブロックだという。彼が一九四〇年に原稿を書いた『奇妙な敗北』にそれが読み取れるという。この本については、そのうち正面から取り上げることにしたい。

 これらの事態を引き起こしたナチズムの進展についての再確認になるが、センプルンが強調している中で再認識したことを三点あげておきたい。

 第一に、現代的なユダヤ人排斥運動が始まったのはフランスのドレフュス事件からだということ。ここから伝統的な反ユダヤ主義は大衆的な反ユダヤ主義、民衆的な反ユダヤ主義に移行したということ。

 第二に、「ドイツにおける野蛮はむき出しで、おおっぴらであり、隠されることすらしていなかった」(センプルン2015:19)のに、それがそのまま実行され続けた背景は「民主主義諸国が完全譲歩の態度をとったこと」(センプルン2015:53)だという。ヒトラーは「誰も行動を起こさないことを知っていた」(センプルン2015:54)。

 第三に、フッサールとブロックとオーウェルに共通していたのは「批判的理性、民主的理性に対する同じ信念」「ヨーロッパ的批判精神の起源にある批判的理性」(センプルン2015:106)だということ。

 もちろん彼らが成す同一性、彼らが成す精神的共同体には微妙な差異があります。三人のうちおそらく最もヨーロッパ的なのはエトムント・フッサールでしょう。ブロックやオーウェルの場合と違い、フッサールにとってヨーロッパの問題は彼の考察の中心にありました。フッサール は実際、[ドイツではなく]中央ヨーロッパの知識階級(インテリゲンチャ)として語っています。つまり、(理性という言葉のカント的な意味における)世界市民主義(コスモポリタニズム)に最も慣れた地域の知識階級(インテリゲンチャ)としてです。彼はまた、災厄を前にしながら、その終りについて、災厄のあとにやってくるはずのことについて語っています。マルク・ブロックとオーウェルは反対に、災厄のなかで、つまり爆弾の下、ナチスの侵略のさなか、あるいはその可能性の脅威のなかで語っています。ブロックが語ったのは他国による占領下であり、オーウェルが語ったのは他国に占領されるという見通しのなかででした。(センプルン2015:106)

 その一方でハイデガーはフライブルク大学総長時代に次のようなことを考えていたという。

 フェディエが細心の慎み深さをもって「不幸なる大学総長の年」と書いた時代のテクストがすべて収めてあるわけですが、この巻で目にする最も衝撃的な事実とは、大量の文書、声明文、調査書、大学本部の回状の終りに、あの欠かすべからざる敬礼が──もちろん当時のドイツ語の挨拶「ハイル・ヒットラー」のことを言っています──記されているということではありません。最も衝撃的な事実、それは、この大哲学者が三度か四度、自分の哲学において最も内密で最も個人的な主題(史実性、歴史性、現存在(ダーザイン)の世界への関係)を取り上げ、それをナチズムの公準との関連で再解釈し、そこに新しい生命を──あるいは死をと言うべきでしょう──与えているということです。(センプルン2015:17-18)

 このあたりには先輩あるいは師匠であったフッサールとヤスパースの警告が書簡として残っている。この点については別稿を期したい。最後に私たちが教訓として学び取るべき言葉をひとつ。それは「民主的理性」という言葉である。これから常用したいと思う。

セオリー道場002眺望的思考についての予備的考察

読解対象

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

レッスンのポイント:キーワード選択練習

眺望的思考とは何か

 「眺望」という言葉のヒントは、野矢茂樹『心と他者』中公文庫2012年および『心という難問:空間・身体・意味』2016年から得た。野矢茂樹は1995年刊行の『心と他者』の眺望論から『哲学・航海日誌I・II』を経て『心という難問』で眺望論を完成させた。『心という難問』では「知覚の眺望構造」「感覚の眺望構造」の章で眺望論を詳細に説明している。野矢の理論は主として「他者の心を理解できるのか」に焦点を当てているので、本研究計画とは方向が異なる。しかし、たんに「パースペクティブの複数性」ということ以上のことを指摘している。つまり複数のパースペクティブはキュビズム絵画のように同時に世界了解に描き込まれているということである。単純な例として「図と地」の議論を思い出してみるとよい。どっちが図でどっちが地なのかは、このさいどうでもよい。要するには私たちはどちらも同時に見ているのである。注意の当て方によって「図と地」が現象する。どちらも同時に注意するとキュビズム絵画のようになる。

 この議論を手がかりに眺望的思考について考えてみたい。世の中には多様な考え方や理論があり、それらはそれぞれに妥当性領域をもつ。つまり、特定の妥当性領域においてはその考え方や理論は正しいとされる。それらの考え方や理論は相互に排他的であることが多い。本研究計画では、それをたんに志向性のちがいと見なして、同時に一定の妥当性をもつものとして扱いたい。これはたんに複眼的でありたいということではなく、志向性のちがいを評価するメタ認知を採用するということである。

 それがどこまで可能なのかはわからない。おそらくは専門知をいくら集積させても眺望的思考には至らない。専門知は境界を作ってその外部を排除するからである。そうではなくリベラルアーツに拓かれた知識をパッチワーク的に集積させる方が可能だと踏んでいる。

グランドヴュー

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』最終行を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名なフレーズで締めている。この本の冒頭「序」の第2パラグラフにも同様の言明があって、本書の中心命題であることが示されている。すなわち「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」(野矢茂樹訳2003:9)

「沈黙しなければならない」というのは、通常「説明の禁止」もしくは「語ってしまうことの傲慢」をたしなめているように感じられるが、そういうことではないのではないか。

 命題の中で世界は実験的にそのつど構成される。だから言い得ることは明晰に言えるが、そうでないものは言いようがないので結果的に沈黙することになる。沈黙したくて沈黙するのではない。わからないことについては沈黙すべきだというのでもない。もともと思考しようがなく表現しようもないのだ。

 学問の役割は、論理空間において概念と命題から構成される知識を供給することによって、人びとが生きる事実空間を言及可能なものに加工するのである。そしてこの加工技術は学問だけがもつのではなく芸術や文学や宗教にも存在する。それらはそれぞれの領域において自律的に論理空間を創造するので自然調和することはない。論理空間におけるこうした多元的な世界観とコスモロジーが事実空間の見え方を多重モードにする。だから私たちの経験する(語りうる)世界はいつも多重モードなのである。つまり私たちはキュビズム的世界を生きているのである。

 それぞれの論理空間の限界線は領域によって異なる。日常生活の慣習的行動に内在する経験値からなる論理空間の限界のその先まで科学的論理世界は説明できるし、さらに宗教的論理空間はその先の複数世界について説明できるということはある。しかし、それらはすべて各論理空間で使用される言語による。私たちはその言語で語られる限界までは行けるが、その先はただの暗闇だということ。ウィトゲンシュタインは「ナンセンス」と断じていた。

 当たり前のこと? いや、そうでもない。論理空間からしか事実空間を捉えられないとすると、私たちが知っているあらゆる事実空間はすべて論理空間の投影だということになる。

 同様のことをデュルケムがわかりやすく言明している。ウィトゲンシュタインとデュルケムを組み合わせるのは奇異に思われるかもしれないが、じつはジェイムソンが『政治的無意識』の冒頭掲示でそれをやっている。

「言語を想像することは、生活様式を想像することを意味する。」ウィトゲンシュタイン

「概念の全システムによって表出される世界とは、社会がみずからに対して表象するような世界であるといってよく、それゆえ、社会だけがそのような世界の表象に欠くことのできない一般化された理念を供給できる。・・・宇宙は、それが思惟されるかぎり、そのときにのみ存在する。また宇宙をまるごと全体として思惟できるのは社会だけである。それゆえ、宇宙は一社会のなかに場所を占め、社会の内的生活の一要素となる。まただからこそ、社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。全体性の概念そのものは、社会の概念の抽象的形式にすぎない。それはすべてを包括する全体であり、他のすべてのクラスがそこに吸収されなければならないような至高のクラスなのである。」デュルケム

 後者はデュルケム『宗教生活の原初形態』原著630ページの引用である。山崎亮訳では下巻435ページだった。最後の最後のところである。一見して、ふつうの常識人には受け容れがたい社会学主義の表明に見えるが、経験的研究の果てに辿り着いたメタ理論である。

 ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」がここでは「社会がみずからに対して表象するような世界」と語られている。「概念の全システムによって表出される世界」とは「事実空間」に対応している。このように考えればジェイムソンが2人を並べている理由も理解できる。つまり2人は同じことを言っているのだ。ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」をデュルケムは社会の外部にあるものと述べているだけである。すなわち「社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。」

 社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。詳細な検討は後回しにして、ウィトゲンシュタインが「言語」こそが限界を決めるとしたのと、デュルケムが「社会」こそが限界を決めるとしたのは、ほぼ同じ事態だと理解できるのではないか。あるいはウィトゲンシュタインの「論理空間」とデュルケムの「社会」はほぼ同じことだと理解できるのではないか。メタ理論的なこの仮説をこれから始める私たちの探究の足場としたい。

 清水幾太郎『倫理学ノート』にはウィトゲンシュタインについての章が3つ収められているが、この中で注目したいのは次のことである。後期ウィトゲンシュタインの集大成である『哲学的探究』への道筋にプラグマティズムとくに若い友人のもたらしたパースの間接的影響があって、プラグマティズムが得意な子どもの扱いが、もっぱら大人だけを想定してきた哲学を乗り越える契機になったと指摘されている。もちろん大学をやめたあとの小学校教師時代の経験も大きいのだろう。つまり「子どもの哲学」を発見したことが後期の『哲学的探究』の「生活形式」「言語ゲーム」の理論に展開したのではないかということである。かつてミードを勉強した社会学者がのちのち言語ゲーム論に触れたときに感じたデジャブ感はこれかと思った。

 もう1つ、通常「言語ゲーム」と訳されている元の言葉はSprachspielであるが、この英訳への違和感が素直に書かれている。本人がそうしているので文句は言えないが、英語でも日本語でも慣用的に使われている意味からかなり離れていることに注意しないと訳がわからなくなる。清水が言うには、Spielは「活動」の意味があって、それをGameに置き換えるのには少しムリがある。ウィトゲンシュタイン自身はgameの部分をイタリックにしているが、それじゃ「際限のない多様性」は伝わらんよということ。そして前期の『論理哲学論考』の沈黙テーゼに匹敵する『哲学的探究』の締めのテーゼは「ザラザラした大地に戻ろう!」だという。私なりに言うと、これは一種の社会学的着地である。論理哲学を裏切りラッセルを裏切り大人の哲学を裏切って、氷上のツルツルの地平からザラザラした大地に着地したという理解である。これなら納得できる。清水がこのあたりを書いていたのは70年代で、清水はコンピュータの時代は『論理哲学論考』が極めたツルツルの氷上の世界の時代になるだろうと文明批評的に結んでいる。じっさい半世紀後の私たちの全生活に数学とアルゴリズムが浸透していることを思えば「ザラザラした大地に戻ろう!」というスローガンは身に染みる。これを社会学的着地として、これからの探究の作業仮説としたい。

参考文献解題

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

 この一連の哲学エッセイには「眺望」に関するヒントだけでなく、どのような文体で書くかについてヒントを得た。もともと「俯瞰」という言葉は上空から見下ろすという超越論的なニュアンスを伴うので、別の言葉として「眺望」を考えていた文脈で出会った。加藤郁乎『眺望論』を参照したあとだった。「眺望」であれば、対象と同じ地平の見晴らしのよい場所に立つというニュアンスが出るのでちょうどよいと考えた。野矢「眺望論」については、のちにまとめて検討したい。

フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識──社会的象徴行為としての物語』平凡社ライブラリー、2010年。

 この本からは冒頭掲示のみを参照したので、孫引きに当たるが、ウィトゲンシュタインとデュルケムが並んでいることにヒントを得たので、そのままページごと引用した。ジェイムソンはラディカルな批評家であるが、ここのところ考えていることのヒントがありそうなので、これものちに検討することにしたい。ジェイムソンだけでなく、じつは批評理論と呼ばれる文学理論に多くのヒントがあることはわりと最近になって知った。批評の対象の多くは文学作品ということになるが、世界というテクストを言説分析する試みにとっては先行研究に当たるはずで、方法論として学ぶことが多い。

エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態──オーストラリアにおけるトーテム体系』上・下、山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年。

 長らく「原初形態」として呼ばれてきたが、新訳では「基本形態」となった。本研究では基本的に「デュルケム」と表記するが、この翻訳では「デュルケーム」である。こちらの方が昔風である。ジェイムソンの翻訳は英訳からおこなわれているようなので、あらためて新訳の方の該当個所を引用しておきたい。

 概念(コンセプト)の体系全体が表わしている世界は、社会が思い描く世界であるので、ただ社会のみが、それによって世界が表象されるはずの最も一般的な諸概念を、われわれに提供しうる。ただ、すべての個別的な主体を包み込みうる[社会という]一主体のみが、そのような目的を実現することができるのである。宇宙は、それが思考されるかぎりにおいて、はじめて現存するのであるから、またそれは、社会によってしか全体的に思考されることはないのであるから、宇宙は社会のうちに位置を占めているのである。宇宙は、社会の内的な生活の一要素となる。このように社会それ自体が全体的な類(ジャンル)なのであって、その外部には何も現存しない。全体性の概念は、社会の概念の抽象的な形態にすぎない。社会は、すべての事物を包含する全体なのであり、諸他のクラスをすべて含む至高のクラスなのである。これこそが、これらの原始的分類──そこではすべての領域における存在が、人間と同様の資格で社会的枠組みのなかに位置づけられ、分類されていた──が立脚している深い原理なのである。」(デュルケーム2014:435)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年。

 ウィトゲンシュタインについては、中期と後期と後継者の研究をそれぞれ読解する予定。

清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫、2000年。

 最初の刊行は1972年。清水が学習院大学を辞めて独立したときのもの。研究ノート的な色彩が強いが、ノンジャンルの研究を始めたころの作品で、文体上の参考にもした。本書についてはヴィーコについての章もあるので、再び取り上げることになると思う。

取り組み方に関するメモ

 シュンペーターもウイーンの人なんだと唸るフレーズ。

 克服をではなく理解を、批判をではなく習得を、単なる是認もしくは否認をではなく、分析と各命題における正しいものの抽出とを、われわれは望むものである。(シュムペーター1983:7)
シュムペーター『理論経済学の本質と主要内容』大野忠男・木村健康・安井琢磨訳、岩波文庫、1983年。

 シュムペーター二五歳のときの著作デビューの大著の冒頭部分から引用。
 若きシュンペーターの考えに全面的に同意する。先行研究に対してクリティカルに取り組むのは当然だが、ポジティブなものが何も提示できないのでは困る。「結局、何が言いたいの?」と聴き直したくなる。先行研究の場合、学べる点を探し出すのが基本であり、そういうものがないのであれば、そもそも取り上げなければいい。とくに狭小な専門の壁に抵触する決意のもとでは、こういう態度が必要だと思う。

セオリー道場001小説こそが生活世界を明るみにしてきた──ミラン・クンデラ『小説の技法』を読む

今回の読解対象

ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

レッスンのポイント:長文引用練習

 詩については多くの詩論を読んできて、それなりに理解できていた。しかし小説についてはそうではなかった。小説の批評の方は理解できる。では、小説そのものは?

 半ばあきらめかけては小説論を読んでいたところの一冊。ここでは冒頭の論考「評判の悪いセルバンテスの遺産」にフォーカスを絞って考えてみたい。

 私の思考をわしづかみしたのは冒頭フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の元になった一連の講演から始まっていることだった。

 死の三年前の一九三五年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。

 フッサールが語っている危機はじつに根深いものに思われたので、はたしてヨーロッパはこの危機の後も生き残ることができるかどうかと、彼自身が自問したほどだった。彼はこの危機の根源が近代の黎明期に、ガリレイやデカルト、すなわち世界を技術・数学的探求のたんなる一対象に還元して、その地平から人生の具体的世界、彼の言葉では「生活世界 die Lebenswelt」を排除したヨーロッパ諸科学の一方的な性格にあると信じていた。

 人間は諸科学の飛躍的な発展によって、様々に専門化された領域のトンネルに押しやられ、知識が増えれば増えるほど、世界の全体もじぶん自身も見失っていった。その結果、フッサールの弟子のハイデガーが「存在忘却」という美しく、ほとんど魔術的な言い回しで呼んだものの中に沈みこむことになった。

 かつてデカルトによって「自然の支配者にして所有者」の地位にまで祭り上げられた人間は今や、人間を超え、人間を凌駕し、所有する諸力(技術、政治、〈歴史〉などの力)にとってはたんなる事物にすぎなくなった。これらの諸力には人間の具体的な存在、人間の「生活世界 die Lebenswelt」はもはやなんの値打ちも面白みもないものになって霞んでしまい、あらかじめ忘れられているのだ。(クンデラ2016:11-12)

 このときフッサールは大学教授の名簿から外され、国際学会への出張も認められず、事実上公的研究活動ができなかった。つまり自身も1933年に誕生したヒトラー政権から正式に排除された状態であった。この講演は1935年。ウィーンとプラハにおける講演である。このとき自由な学問活動は統一されたドイツでは不可能になり、中欧の歴史的都市においてなされたのである。

 勇み足で先取りをして言っておくと、彼自身を排除したナチズムは、ヨーロッパ近代のプロジェクトのゆがめられたヴァージョンだった。その分岐点にいるのはガリレイで、彼は自然の数学化に舵を切った。自然の数学化によるリアルな現実へのアクセス(それは絶えざる近似値への接近)だった。これによって生活世界のディテールは根こそぎ「存在忘却」されることになったというのである。

 しかしクンデラは、それは近代の両義性を指摘したのであって、近代のプロジェクトには他の重要な知的潮流があるのだという。

 私ならむしろ、このふたりの偉大な哲学者は、堕落であると同時に進歩であり、人間的なもののすべてと同じく、誕生のうちに終罵の萌芽を含んでいたこの時代の両義性を明るみに出したのだと言うだろう。このような両義性があるからといって、ヨーロッパのこの四世紀が貶められていいとは思えないし、哲学者ではなく小説家である私としては、なおさらそれに愛着を感ずる。というのも、私にとって近代の創始者はデカルトだけではなく、またセルバンテスでもあるからだ。(クンデラ2016:13)

 このふたりの現象学者が近代を評価するさいに考慮するのを怠ったのは、おそらくセルバンテスだろう。つまり私は、哲学と諸科学が人間存在を忘却したというのが事実なら、セルバンテスとともに一つの偉大なヨーロッパの芸術が形成され、この芸術が当の存在忘却の探求に他ならないことが、よけい明瞭に分かると言いたいのだ。(クンデラ2016:13)

 セルバンテスに始発点を持つ、小説の伝統と進歩。これこそが忘却された生活世界を掘り起こしてきたとクンデラは主張する。

 じっさい、ハイデガーが『存在と時間』の中で分析し、これまでの哲学全体によって打ち捨てられていると判断した実存の主要なテーマのすべては、この四世紀のヨーロッパの小説によって明るみに出され、示され、解き明かされてきたのである。小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに〈歴史〉に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸 terra incognita」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の提えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(クンデラ2016:13-14)

 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。(クンデラ2016:14)

 フッサールがヨーロッパ的精神とみなす「認識の情熱」つまり「総体としての世界を問題として認識したい」という思考には、小説という系譜も存在するというのだ。そしてそれは近代の生活世界の方に照明を当てる。

 小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。諸発見の継承(すでに書かれたものの加算ではない)こそがヨーロッパの小説史となっているのであり、このような超国民的なコンテクストにおいてのみ、一つの作品の価値(つまりその発見の射程)が十全に検討され、理解されるのである。(クンデラ2016:14-15)

 ここで一区切り。一般的に小説はそれぞれの地域や国の環境や生活や風俗を描き出すと思われてきたと認識していたが、それは世界そのものを認識したいという、もう一つの方法だということだ。では、なぜそうした認識への欲求が小説というスタイルに結晶することになったのか。

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。(クンデラ2016:15)

 ここで述べられているのは、神なき世界としてのヨーロッパ近代のスタートラインで生じた認識上の混乱である。この混乱はおそらく視覚障害のあった人が手術によって視野を獲得したその瞬間に生じる混乱のようなものだと思う。あるいは逆に眼の病気によって視覚を喪失した人に生じる混乱のようなものかもしれない。後者については、梅棹忠夫『夜はまだあけぬか』(講談社文庫、1995年)に詳しい記述がある。あるいは幼少から幽閉されたまま育ったカスパル・ハウザーの例。しかし、ミクロな場面にフォーカスしていくと、それが必ずしも特殊な経験でないことはあきらかである。夏目漱石『三四郎』に始まる、地方の農村から都会に出てきた青年たちが共通に体験する混乱を想像してみればいい。これは前近代的社会から近代的世界に降り立った人間に共通する体験である。

 このような事態をより一般化すると、現象学とその後継者たちが「自明性の喪失」と呼ぶ現象に他ならない。「自明性の喪失」は社会学でも広く使われている捉え方である。

 デルタ株によるコロナ感染第5波の渦中にある現在の東京においても「自明性の喪失」による認識の混乱は続いている。時間と空間を共有し皮膚感覚で交流することによって親密な関係を築いてきた人たちの自明性は、ちょうど「図と地の反転」のように感染対策上の回避事項になっている。そういうとき、新しい状況において従来の認識を切り換えられない人たちや、ビジネスモデルを切り換えられない組織の人たちが、どうしていいかわからないまま居直ってみせることで感染は拡大し混乱がますます複雑化する。みんなパンデミックに投げ出されたドン・キホーテなのだ。

 その混乱のなかで際立つのは多声性である。これまでは伽藍いっぱいを満たしてきた絶対者の声が相対的に小さく残響するように変化していく過程で、そこに置かれた人たちはくちぐちに問い・怒り・泣き叫ぶ。それら多数の声は、相互に反応し合って、複雑な残響を構成していく。

 セルバンテスとともに世界を両義性として理解し、唯一の絶対的な真理ではなく、互いに異論を唱え合う多数の相対的な真実(登場人物と呼ばれる想像的自我に体現される真実)に直面しなければならず、その結果、唯一の確信として不確信性の知恵をもつようになるのにも、やはり大きな力が必要とされる。(クンデラ2016:16)

 小説の登場人物は作者によって創作された自我である。それら想像上の自我は小説空間の中でくちぐちに現状認識を語り、自分の心情を語る。同意する他の想像的自我があるかと思えば、ムキになって反論する想像的自我もある。小説空間において絶対的なワンヴォイスは存在しない。読者がそのような小説空間にひとたび入るや、相対的な真実が浮遊する世界を受け入れざるを得なくなる。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ·カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。 

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(クンデラ2016:16)

 結論が宙に浮いた状態に耐えられないという無能さ。むしろ「宙ぶらりんの恐怖」と呼ぶべきか。

 推理小説のように必ず結論に導いてくれるスタイルが好まれるのは、一度読み出したら結末まで読まないとおさまらないのは理の当然とも言える。「宙ぶらりんの恐怖」から逃げ出したいから。結末が存在するという確信があるから。

 物語構造が繰り返し使用される作品群が並列的に林立するのも「和解」の仕方なのだろう。キャンベルの言う「ヒーローズ・ジャーニー」にせよ折口信夫の「貴志流離譚」にせよ、物語のプロットはある程度収斂する。収斂するから物語だとも言える。物語において読者はある程度の予測を立てて読むから、途中で投げ出さない。

 この場合、解決へ向かっているのだと確信できることが重要で「すべては回収される」との確信があるから「宙ぶらりんの恐怖」に耐えられるのだ。ジェットコースター(絶叫マシン)もかならず帰還できるから耐えられる。この場合はむしろ「システムへの信頼」と言うべきなのかもしれないが。

 ここからは20世紀的世界認識に入る。そこで小説空間が遭遇するのは理由なき権力の姿である。

 力は露骨、カフカの小説におけるのと同じように露骨なのである。じっさい、法廷がKを処刑することによってなんら得るものがないのと同様、城は測量士をやきもきさせることによってなんの得をするわけでもない。(クンデラ2016:21)

 いや、ちがう。力の攻撃性はまったく利害を超えたもの、動機のないものであり、それはおのれの意欲しか欲せず、ただたんに不合理なものなのだ。(クンデラ2016:21)

 したがってカフカとハシェクは、次のような途方もない逆説に私たちを直面させる。すなわち、近代のあいだ、デカルト的理性は中世から引き継がれたあらゆる価値を一つひとつ腐食させていった。だが、理性の全面的な勝利の瞬間に世界の舞台を占拠することになるのは、たんに不合理なもの(ただおのれの意欲しか欲しない力)なのだ。なぜなら、この不合理なものを阻止できるような、共通に認められた価値体系などもはや何もないのだから。(クンデラ2016:21-22)

 クンデラがフッサールとハイデッガーを通して指示している「デカルト的理性」という近代的なるものは、社会学で「システム」と呼ぶ一連の制度構成体のことだと思う。ハーバーマスの有名な対立図式を借りると「システムによる生活世界の植民地化」において生起する状況のことだと理解していいと思う。クンデラの意をくむと「植民地化」の代わりに「侵食」と呼んでもいい。

 この不合理な力を二〇世紀小説はどのように描いたか。クンデラは次のように総括する。

 人間がただおのれの魂の怪物とだけ闘っていればよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎ去った。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホらの小説では、怪物は外からやってくる。それが〈歴史〉と呼ばれるものだが、この怪物はもはや冒険家たちの列車とは似ても似つかない、非人格的で、統御も計測もできず、理解を超える──そして誰も逃れられないものだった。この時(一九一四年の戦争直後)に中央ヨーロッパが輩出した偉大な小説家たちは、近代の最後の逆説に気づき、触れ、捉えたのだった。(クンデラ2016:23)

 逆に、これらの小説家たちは「ただ小説だけが発見できること」を発見する。(クンデラ2016:23)

 例えばマックス・ウェーバーが官僚制について、あるいは国家について、あるいはカリスマの日常化と教団・教義の構築について述べるとき、そして「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」で、もとは「絶対的孤独の感情」から個人として覚醒した信徒たちのBerufから離陸した資本主義というシステムがやがて個人のそうした心情とはまったく無関係に作動する巨大な自動機械になっていくプロセスを描いてみせたように、近代というプロジェクトの無慈悲で無責任なありようを、カフカのような小説家は、そのとんでもなく不条理な設定と展開でもって指し示しているのである。ウェーバーが「鉄の檻」と呼んだものをカフカは「城」と呼ぶ。

 「鉄の檻」も「城」も徹底的な一元化システムであるから、多様で多声的で両義的な生活世界を表現する小説は、必ずそのような強大な力と対立する。

 人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。この非両立性は異端派と共産党幹部、人権擁護派と拷問者をへだてる非両立性よりもさらに根深い。なぜなら、この非両立性は政治的もしくは道徳的であるばかりか、存在論的なものだからだ。これは唯一の〈真理〉に基づく世界と両義的かつ相対的な小説の世界とは、それぞれまったく別の質料によってつくられているということに他ならない。全体主義的な〈真理〉は相対性、懐疑、問いかけを排除し、したがって私が小説の精神と呼びたいものとは断じて和解できないのである。(クンデラ2016:26)

 スターリン主義の帝国では、小説史はほぼ半世紀前に停止している。したがって、小説の死というのはなんら根拠のない考えではなく、すでにじっさいに起こったことなのだ。そして私たちは今や、小説がいかにして死にかけるものかを知っている。つまり小説は消滅するのではなく、その歴史が停止し、あとに残るのがただ反復の時代であり、そこでは小説がその固有の精神を取りのぞかれた形式を再製するのみである。だからそれは誰にも気づかれず、誰にも衝撃をあたえない、隠された死になるのだ。(クンデラ2016:27)

 ここで語られているのは、全体主義における発禁、検閲、イデオロギー的圧力による小説の終焉である。小説というジャンルがなくなるわけではなく、ありきたりのパターンをひたすら反復するだけになって、次に開くべき局面が現れなくなってしまうということである。お決まりのパターンを何度でも繰り返すだけの、スタイルとして意外性のないマス・プロダクトな小説群は夥しい数量で生産され続けるだけで、世界認識の新しい局面を切り拓くことがないというのである。

 こうなるプロセスをクンデラは次のように描いている。

 だが残念ながら、小説もまた、世界の意味だけでなく作品の意味をも還元する還元の白蟻にさいなまれる。小説は(文化全体と同様)ますますメディアの掌中に握られ、地球の歴史の統合を代行するこのメディアが還元の過程を増幅し、誘導する。彼らは最大多数に、みんなに、人類全体に受け容れられるような同じ単純化と紋切り型を全世界に配給する。だからいろんな機関で様々に違った政治的利害が表明されることなどはさして重要ではない。この表面上の違いの蔭には共通の精神が支配しているのだから。左派であれ右派であれ、《タイム》誌から《シュピーゲル》誌までのアメリカやドイツの政治週刊誌にざっと目を通すだけで充分だ。彼らはいずれも同じ人生観をもち、この人生観が目次構成の同じ順序、同じ見出し、同じジャーナリズム形式、同じ語彙と文体、同じ芸術趣味、彼らにとって重要なものと無意味なものとが判断される同じ序列などのなかに反映されている。様々な政治的違いの蔭に隠されているマスメディアのこのような共通の精神が私たちの時代精神なのであり、この精神は小説の精神とは反対のもののように私には思われる。(クンデラ2016:31)

 小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う。これが小説の永遠の真実なのだが、この真実は問いに先立ち、問いを排除する単純で迅速な答えの喧騒の中ではだんだん聞かれなくなる。私たちの時代精神にとっては、正しいのはアンナなのかカレーニンなのかであり、知ることの困難さと真実の捉え難さを語るセルバンテスの古い知恵などは迷惑で無益に思われるのだ。(クンデラ2016:31-32)

 「還元の白蟻」というのは、ものごとをステレオタイプに還元して終わりにしてしまう作用のことである。ものごとの複雑さに耐えることができないから単純化してしまう乱暴なやり方こそが現代の時代精神なのだろう。誰でも知っている既成の方程式に変数を入れるだけの処理。社会学ではおなじみの「システムの複雑性の縮減」がまさに複雑性を複雑なままに表現する小説の精神をなぎ倒すのである。

 クンデラは「還元の白蟻」について次のように描写する。

 地球の歴史の統合、意地悪くも神が達成を許したこのヒューマニストの夢は、目が眩むほどの還元の過程に伴われている。還元の白蟻たちが久しい以前から人間生活を蝕み、最高の愛すらも結局取るに足らない思い出の残骸にされてしまうのは事実である。しかし、この呪いは現代社会の性格によって途方もなく強化される。人間の生活はその社会的な機能に還元され、一国民の歴史はいくつかの出来事に還元され、これらの出来事が今度は一つの片寄った解釈に還元される。社会生活は政治的な闘争に還元され、この政治的な戦いはただ地球の二大強国の対決に還元される。人間はまさしく還元の渦巻きの中にいて、そこではフッサールが語った「生活世界」はどうしても霞んでしまい、存在は忘却の中に落ちこんでしまう。(クンデラ2016:30)

 このような「還元の白蟻」の典型として、ブロッホが抵抗した「キッチュ」がある。

 もう一人の大小説家、ヘルマン・ブロッホはキッチュの波に逆らうけれども、結局打ちのめされる現代小説の英雄的な努力について語ることになります。キッチュという言葉は何が何でも、最大多数の者たちに気に入られたいという態度を指します。気に入られるためには、みんなが聞きたがっていることを承認し、紋切り型の考えに奉仕しなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えという愚行を美と感動の言葉に翻訳することです。キッチュは、私たちがじぶん自身、私たちが考え、感じることの凡庸さにほろりとして注ぐ涙を引き出します。(クンデラ2016:228)

 コロナ禍にあって東京オリンピックが開催されている現時点でこれを読んでしまうと、テレビが視れなくなる。今さらではあるが、まさにテレビはこうした還元の装置である。

 「還元の白蟻」については、本書第7部の「エルサレム講演」の結び近くに「世界の出来事の因果的連続への還元」についての記述がある。

 十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない(nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。じぶんの人生になんらかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明るい軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向かう狂おしい走行をますます速めることになります。(クンデラ2016:225-228)

 すべての物事をありきたりな因果関係に還元するというのも「還元の白蟻」なのである。それはなぜか。

 ポエジーは行動の中ではなく、行動が中断するところ、原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあると言うのです。スターンの小説は、実存のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのであります。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないまま(sine ratione)に、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。(クンデラ2016:226)

 このような例としてクンデラはフローベールによる「愚行の発見」を取り上げる。これこそ一九世紀最大の発見だと言う。

 もちろんフローベール以前にも、愚行が存在することを疑う者はいませんでしたが、それはすこし別なふうに理解され、たんに知識の欠如、教育によって正されうる欠陥と見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚行は人間の実生活と不可分の側面になり、日々の生活を通して、愛の床や死の床まで哀れなエンマにつきまとうのです。(クンデラ2016:226?)

 しかし、フローベールの愚行の見方において、もっともショッキングでスキャンダラスなのは次のこと、すなわち愚行は科学、技術、進歩、現代性などを前にしても消えることなく、逆に進歩とともに、愚行もまた進歩する!ということなのです。(クンデラ2016:227)

 フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、じぶんの周囲の人々が利口であり、事情に通じていると見せようとして口にする、紋切り型の決まり文句を収集し、これをもとに有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚行とは無知ではなく、紋切り型の考えの無−思考を意味しているのだ、と。フローベールのこの発見は、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像できても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピューターのなかに登録され、マスメディアによって伝播されて、やがてどんな独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代のヨーロッパ文化の本質そのものを窒息させる力となりかねないのです。(クンデラ2016:227)

 では、当のフローベールはどのような小説を思い描いていたのか。気になるのでフローベールの書簡から引用しておく。いかにして紋切り型から距離を取るかについての決意と読める一節。

 ぼくにとって美しいと思われるもの、ぼくが書いてみたいもの、それは何についてでもない書物、外部との繋がりをもたず、地球が支えもなく宙に浮かんでいるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物です。最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品です。表現が思考に近づけば近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、いっそう美しくなる。(堀江敏幸編2016:732)

 このような志の高さは、たんに純粋なのではない。それは抵抗の精神である。

 私が知っていると信じるのはただ、小説がもはや私たちの時代精神とは平和に生きられないということだけだ。もし小説がなお、発見されていないものを発見しつづけたいのであれば、なお小説として「進歩」したいのであれば、世界の進歩に抗してしかそれをなしえないのだ。(クンデラ2016:33)

 生活世界の複雑な事実を「存在忘却」から守ることに小説の意味があるとするクンデラの議論に照らして、あるいはクンデラが「小説の知恵」と呼ぶことに照らして(クンデラ2016:220)ここで自分の立ち位置について思うことは、生活世界の事実は複雑なディテールの内部にしかないということ、数学化やアルゴリズム化による機械的単純化に抵抗し立ち向かわないかぎり、生活世界の事実の理解はできないということだ。まずはノーと言うこと。

 最後に、私自身のための読書案内をしておく。

 クンデラは「聞き届けられなかった呼びかけの墓場」としての小説の歴史を次のリストにまとめている。

遊びの呼びかけ:軽さ(ディドロ)

夢の呼びかけ:夢と現実の融合、想像力の爆発(カフカ)

思考の呼びかけ:知的な総合(ブロッホとムージル)

時間の呼びかけ:個人生活の時間から解放された集団の時間とヨーロッパの時間への拡大(ブロッホ、アラゴン、フエンテス)(クンデラ2016:28)

 こうしてみるとカフカ以外の作家の小説を読んだことがない。たとえば、ブロッホについては、最近『希望の原理』を入手したばかりで、小説としては長編の『誘惑者』が筑摩書房の古い筑摩世界文學大系にあり、後継のセレクト集である世界文学全集にも収められていた。どちらもかなりな大著である。世界文学全集は全巻揃いを購入したので、たいていの作家の作品は読める。筑摩世界文學大系については、こういう作業の中で端本を一冊ずつ買っている。ムージルについては、同じ全集に中編小説4編が収められていた。有名な『特性のない男』はレーヴィットが参照していたことがあって大昔から探しているが、翻訳はムージル全集に収められたものしかなく、長編であることもあってかなり高価になっている。アラゴンとフエンテスについてはまったくわからない。その点では、入手しやすいカフカを優先的に読みたいと思う。そして、そもそもセルバンテスの『ドン・キホーテ』について私はほとんど手に取ったことがなかった。完全版は筑摩世界文學大系にある。簡略版が集英社文庫ヘリテージシリーズ『ポケットマスターピース13セルバンテス』にある。派生ストーリーをカットして短くしたもので、私はこれで挑戦しようと思う。これだと四〇〇ページ。

 積み残し。1度は論じたいと思った引用なので、資源ゴミとして引用だけを記録しておく。

 第2部の「小説の技法についての対談」では次のような発言があった。

 人間と世界はかたつむりとその殻のように結びついているのであり、世界は人間の一部であり、人間の次元であって、世界が変わるにつれ、実存(in-der-Welt-sein)もまた変わるというものです。(クンデラ2016:55)

 第3部の「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」では、ブロッホの小説が明らかにした「象徴の森」について次のように述べている。

 個人的なものであれ集団的なものであれ、あらゆる行動の基になっているのが混同のシステム、象徴的思考のシステムだと、ブロッホは私たちに理解させる。この非合理的なシステムが理性による考察よりもどれだけ私たちの態度を変えるものか見るには、私たち自身の生活を検討するだけで充分だ。(クンデラ2016:92)

 もう一度ボードレールの詩を引けば、人間は「象徴の森」の中で迷っている子供だ。(成熟の基準とは、象徴に抵抗する能力に他ならない。しかし、人類はますます幼稚になっていく。(クンデラ2016:93)

 同じ論考から。

 あらゆる偉大な作品には(そしてまさしくそれが偉大な作品だからこそ)未完成な部分がある。ブロッホは彼が達成したすべてのものだけではなく、目指したが到達できなかったすべてのものによっても私たちの創作意欲を掻きたてる。彼の作品の未完成の部分は私たちを次のような探求に誘うのだ。(1)徹底した簡略化の技法(このおかげで構築的な明瞭さを失わずに現代世界における実存の複雑性を見わたすことができる)。(2)小説的な対位法の技法(これによって哲学、物語、夢が唯一の音楽に接合できる)。(3)小説に特有のエッセーの技法(すなわち明白なメッセージをもたらそうとするのではなく、あくまで仮説的、遊戯的、イロニー的なものとしてとどまるエッセーの技法)である。(クンデラ2016:96)

 94ページを参照して上記を解釈すると、(1)は「ただ小説だけが発見できるもの」を追及できるということ。(2)は「小説には並外れた統合力があること」。(3)は小説は「遊びと仮定の領域」にあり、小説の外にある「断定の領野」にはないということ。これは112ページを参照。

 小説精神とは継続性の精神であり、それぞれの作品は先立つ作品への答えとなり、それぞれの作品の中には先行する作品の経験がそっくり含まれている。しかし私たちの時代精神は今日性(アクチュアリテ)の上に固定されている。今日性はじつに外向的で夥しいから、私たちの地平から過去を追い払い、時間を唯一現在の瞬間に還元してしまう。このような体系の中に加えられる小説はもはや作品(持続し、過去と未来を繋げるべきもの)ではなく、他の出来事と同じような今日の出来事、明日のない行為になってしまうのである。(クンデラ2016:32)

 平和にではなく戦争によって一体化する世界について。

 たとえば近代は様々な個別の文明に分かれていたが、いつの日か一体性を、そして一体性とともに、永遠の平和を見出す人類という夢をはぐくんできた。こんにち、地球の歴史は分割できない一つの一体性を成しているが、久しく夢みられてきたあの人類の一体性を実現し保証しているのは、たえず所を変える恒常的な戦争なのだ。人類の一体性とは、誰も、どこにも逃れられないということを意味するのである。(クンデラ2016:22)

 かつては私もまた、私たちの作品や行動を裁く唯一適格な審判は未来によってなされるとみなしていた。のちになって、未来との馴れ合いは最悪の順応主義であり、最強者への卑劣な追従だと理解した。というのも、未来はつねに現在よりも強いからだ。じっさい、私たちを裁くのはたしかに未来なのだろうが、しかしそれはきっといかなる適性もなしに、なのである。(クンデラ2016:33)