社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
スティグマ論
排除現象
民俗学の立場から排除現象について議論を積み上げてきた赤坂憲雄の本が文庫化されている。赤坂憲雄『異人論序説』(ちくま学芸文庫一九九四年)と、赤坂憲雄『排除の現象学』(ちくま学芸文庫一九九五年)である。
いじめについては、森田洋司・清水賢二『新訂版 いじめ――教室の病い』(金子書房一九九四年)。ここで展開されている「いじめの四層構造」論は排除現象を考える上での基本モデルになりうると思う。レイベリングの問題を掘り下げた研究として、徳岡秀雄『社会病理の分析視角――ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)と、徳岡秀雄『社会病理を考える』(世界思想社一九九七年)を加えておきたい。とくに後者は入門として最適。
2020年3月4日水曜日
社会学感覚20−3 スケープゴート化
社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
スティグマ論
排除による秩序形成
本章ではこれまで、〈医療と福祉の対象となる人びと〉を具体的に苦しめている社会(心理)現象をそれぞれ概念化し、その形式的特徴について分析した。そしてスティグマが、それらの諸現象の結果として、対象にされた人びとの内面に生じる関係的現象であることを「老い」を例にとって考察してきた。それにしても、このような現象がなぜ平等を理念とする現代社会にも生じてくるのだろうか。今度は、このような諸現象を基底から支える社会のダイナミズムについて考えてみることにしたい。
偏見・ステレオタイプ・レイベリング・差別の諸現象に一様にふくまれているファクターはなにか。それは項Aと項非Aを区別し、そのあいだに〈線引き〉し、項Aを〈排除〉しょうとする心性である。
〈A〉 〈非A〉
異常 正常
病気 健康
やくざ かたぎ
非行・おちこぼれ ふつう
犯罪者[前科者・その家族] 一般市民
障害者 健常者
女性・子ども 男性
異人 常人
異端 正統
これらのあいだに〈線引き〉し分断するさいに、生物学的な理由であるとか、歴史的な理由であるとか、もっともらしい理由が主張され、常識もこれを受け入れることが多いが、ほとんどあとでつけ加えられたものだ▼1。すでにのべたように、「差異」から「差別」が生まれるのではなく、「差別」から「差異」が想定されるのである。そういう意味では、「まず排除ありき」という構造原理が、集団・共同体・社会そのものに内在していて、排除によってまとまっていくというメカニズムが存在すると考えられる。つまり、排除による統合である。このような社会のダイナミズムを「スケープゴート化」または「スケープゴーティング」(scapegoating)と呼ぶ。
スケープゴートというのは、平たくいえば「いけにえ」ということであるが、正確には「贖罪の山羊(やぎ)」と訳される本来は宗教用語である。ユダヤ教とキリスト教では、罪をあがなうために神に捧げられた犠牲の山羊――これがたとえばキリストの受難の意味となる――という観念をさしている。ひとりの預言者が集団の責任を一身に背負って、集団の危機を救うため犠牲になるという事態は、ユダヤ教やキリスト教などの宗教思想にとって必要不可欠なものである▼2。
じつは一般の社会関係においてもスケープゴート化は、危機を打開し、かつ秩序を形成するための有力な形式なのである。
たとえば、政治がらみや企業がらみの大きな事件が明るみにでると、内部事情にもっとも深く関与したスタッフが、事件のいっさいの汚点を背負って自殺するケースがある▼3。これによって、危機に頻した組織や集団の秩序が回復する。一件落着というわけだ。しかし、この場合は、スケープゴート化にはちがいないが、むしろその通俗的使用というべきであって、もっと社会なり共同体なりを全体として巻き込んでいくスケールでとらえるのが本筋である。そうなると、つぎのようなものが考えられる。
大量排除現象
スケープゴート現象の代表的なものは、なんといっても中世キリスト教世界における魔女狩りである。魔女狩りはヨーロッパの中世末期、ちょうどルネサンスのはじまりとともにさかんになり、一六〇〇年前後の一世紀にピークを迎えた。魔女と名指しされたきわめて多くの男女が拷問によって自白を強要され、異端審問官による魔女裁判によって、火あぶりの刑に処せられた▼4。
二十世紀になってからもあいついで大量排除現象が生じている。まずヒトラーのナチズムにおいてはユダヤ人が排除の対象とされ、アウシュビッツをはじめとする強制収容所に連行・監禁された上、毒ガス室で大量に殺害された。これを「ホロコースト」と呼ぶ。同じころソビエト共産党の実権を掌握したスターリンは、政敵やそれに連なる人びとをつぎつぎに「トロツキスト」「修正主義者」とレッテルを貼って連行し、シベリアの強制収容所に送って強制労働につかせたり、銃殺したりした。これを「粛清」という▼5。もちろん天皇制国家としての戦前の日本においても「国賊」「非国民」のレッテルが反戦主義者・社会主義者・宗教教団に貼られ、治安維持法や不敬罪によって徹底的に弾圧された。似たようなことは第二次世界大戦後のアメリカでもおこっている。「マッカーシズム」と呼ばれる「アカ狩り」[レッドパージ]がそれである▼6。
これらの現象は、集団内に存在する矛盾が、その内部の少数者に集中して転嫁される結果、少数者が集団の中心から排除され、集団の周縁に追いやられたり、集団暴力の対象となり、それによって集団全体が〈浄化〉され秩序を回復する、という共通の構図をもっている。したがって、排除された側に非はなく、むしろ排除した側に根深い問題があった。
近代日本の排除現象
このしくみは近代の日本を貰いて存在している。間庭充幸は日本的集団における包摂と排斥の構造を分析するなかで、さまざまなスケープゴート現象を指摘している▼7。そのなかから典型的なものを三件ひろってみよう。
村落共同体における「異人」――村や家の共同体にそぐわない人間[狂人]を「半ば自発的、半ば強制的に」外部[山]に排除し、恐ろしい「山女」「山人」として畏怖し神聖化する。あるいは村や家を調和を乱す奇異な現象およびその体現者[障害児や不倫の子あるいは利口すぎる子など]を「河童の子」「憑きもの」(たとえば狐憑き)「神隠し」などと称して抹殺したり一時的に排除した。この虚構により家族も納得できるのである。注目すべきは憑きものの場合、憑いた狐や狸が去れば当人は元通り共同体に復帰できるということだ。これは共同体の一種の知恵だった▼8。
企業城下町における「公害被害者」――一九六〇年代の高度経済成長期は同時に公害が極大化した時代だった。公害のひどかったのは当然のことながら企業城下町と呼ばれる地域である。しかし、企業城下町における公害患者はしばしば被害者であることさえ表明できない状況にあった。それは企業一家主義・組合家族主義・私生活優先主義が包摂の原理となっていたところで、その中心たる絶対的な企業に異議申し立てすることにほかならなかったからである。労働組合でさえ公害の拡大に目をつぶり、内部告発に走るものを「裏切り」として断罪し排斥した。たとえば水俣病の悲劇のひとつはここにあった▼9。
管理教育における「いじめられっ子」――管理教育の防衛策として子どもたちは自分を他者の行動に合わせてはみださないようにする。これを「同調競争」という▼10。同調競争は目的が空洞化しているため、他人の出方や位置によってしか自己を確認できない。ひとりひとりが等しく不安な状態におかれる。そこで、この不安から逃れるために、いちはやく他人の差異をみいだし排除しようとする。そうでなけけれれば自分がやられるという恐怖がそうさせるのである▼11。
また、赤坂憲雄はスケープゴーティングのケース・スタディともいうべき『排除の現象学』のなかで、一連のいじめ事件、横浜浮浪者襲撃事件、イエスの方舟事件、けやきの郷事件(自閉症者施設「けやきの郷・ひかりが丘学園」の建設計画に対して地元の鳩山ニュータウン住民による反対運動がおこり建設が断念された)、精神鑑定される通り魔などを分析している▼12。
強調しておきたいのは、これらの諸事例が、支配者が意識的に行使する強制力によって生じるのではなく、共同体・集団・社会そのものに内在する〈権力作用〉によるものだということだ。暴力の実体はなく、加担者は正義を語り、あくまでも自己防衛的である。この権力作用に内在しているときは、ほとんど存在感がないくらいナチュラルだが、ひとたび周辺に追い出されたり、抵抗しようとすると、その暴力的な圧力はときとして人を死に追いやるほど強い。「見えない権力」=権力作用の怖さは、じつはここにある。
ヴァルネラビリティと有徴性
では、どのような人がスケープゴートにされやすいのだろうか。さきほどの表記でいうと「項A」に追い込まれやすい特性はなんだろうか。人類学では、攻撃を招きやすい性格のことを「ヴァルネラビリティ」(vulnerability)という。「攻撃誘発性」とか「被撃性」と訳される概念である▼13。
なにが〈ヴァルネラブル〉か。少数であることか、それとも能力が低いことか、あるいは力が弱いからか-おそらく本質はそうではない。たとえば、いじめられた方になにか問題があると主張する議論があるが、それは「予言の自己成就」のメカニズムによって、いじめの結果つくられたことであって、原因と結果をとりちがえた転倒した論理である。「あきらかな差異の具現者が存在するから、いじめが起こるわけではない。むしろ、差異はあらかじめ存在するのではなく、そのつどあらたに発見され、つくられるのである。むろん、排除というたったひとつの現実にむけて▼14。」たとえば、いじめはむしろ差異のない均質な学校空間から生まれるのだ。
では、ヴァルネラビリティの基本要素はなにか。それは記号論の用語でいう「有徴性」である▼15。徴(しるし)のあるのが有徴、ないのが無徴である。この項の冒頭に示した「線引き」の一覧のなかで〈A〉としたのが有徴サイド、〈非A〉としたのが無徴サイドにあたる。つまり、有徴な項が析出して、それによってはじめてその他大勢が「〈それ〉でないもの」として定義される。「フツー」とはそういうものなのである。
ことわっておくが、ある特性だけがいつも有徴なのではない。状況によってなにが有徴となるかは異なる。たとえば、ゴッフマンがスティグマの例にだしているように、大卒という属性も、おかれている集団によってスティグマになる▼16。また、帰国子女がしばしばいじめの対象になり、差別されていると感じるのが英語の時間であることは、かれらが「生きた英語」を知っているという優越のためである▼17。また「女教師」「女医」ということばは、男性中心の教員の世界・医師の世界において女性が少数で有徴だったことを示している。そのため、これらのことばにおいて強調されるのは、もっぱら〈性〉の諸相である。
中間考察
まず、いわゆる「社会的弱者」にとって深刻な問題となる――ことわっておくが社会的弱者が問題なのではない――社会心理現象について四点指摘した。偏見・ステレオタイプ・レイベリング・差別。これらについてのさまざまな社会学的研究の一致した結論は、なにか客観的な根拠があって、これらが生まれてくるのではないということだ。「差異」から「差別」が生まれるのではなく、「差別」から「差異」が想定される。「まず排除ありき」なのである。
スティグマという概念についても同じことがいえる。「障害」や「過去」が直接スティグマなのではない。「障害」や「過去」に対する周囲の人びとの反応が、それらをスティグマにする。ここでも「受け手の反応」が意味を決定していることに気づくべきだ。しかも、それは「排除による統合」の社会的メカニズムにもとづいており、それをくつがえすのは容易ではない。
したがって、解決の方向性が「受け手の反応」を変えていくことにあるとしても、たんに意識改革をすればいいというものではない。スケープゴート化にかわる新しい社会形成の形式を自覚的に模索することが必要であろう▼18。
▼1 すでに健康と病気について論じたように、項〈A〉と項〈非A〉とは本来連続的かつ流動的かつ互換的である。5-2参照。それを無理に分断し、二項対立の構図に仕立てるところに、規格化を押しすすめる権力作用の存在をみることができる。なお、理由づけについては、現代社会では「医学的理由」がとくに正当性をもってきている。この傾向を「医療化」(medicalization)という。医療化の研究については、進藤雄三『医療の社会学』(世界思想社一九九〇年)参照。スタンダードな入門書としては、I・イリイチ、金子嗣郎訳『脱病院化社会』(晶文社一九七九年)。
▼2 このあたりの宗教的意味を体感するにはJ・S・バッハの『マタイ受難曲』を聞いてみるのがてっとり早い。また受難の意味の追究については「苦難の神義論」として17-2でもふれた。
▼3 たとえば、「ダグラス・グラマン疑惑」では日商岩井の常務が自殺した。「リクルート事件」では竹下首相の元秘書[三〇年以上勤務]が自殺した。
▼4 数世紀にわたるこのスケープゴーティングの歴史の概要については、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書一九七〇年)。また古典的な研究としては、ミシュレ、篠田浩一郎訳『魔女』(上下・岩波文庫一九八三年)。
▼5 山口昌男『歴史・祝祭・神話』(中公文庫一九七八年)。
▼6 R・H・ロービア、宮地健次郎訳『マッカーシズム』(岩波文庫一九八四年)。
▼7 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)。
▼8 前掲書六四-七二ページ。
▼9 前掲書一一三-一一八ぺージ。ここでも紹介されている対馬のイタイイタイ病のケースについては、鎌田慧『ドキュメント隠された公害――イタイイタイ病を追って』(ちくま文庫一九九一年)。
▼10 間庭充幸は「同調競争」についてつぎのように説明している。「普通同調と競争が結びつくというときは、同調すべき目的(金銭、地位、あるいは天皇への忠誠、何でもよい)があって同調し、さらにその目的に早く近づくために競争する。それはまさに目的内容を介しての同調的競争、競争的同調である。しかしそれがある限界を超えると、かんじんな目的が脱落してしまい、同調という行為(多数者)自体への同調や競争が発生する。ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。」前掲書五一ページ。昭和天皇の病状悪化による「自粛」行動は典型的な同調競争である。
▼11 前掲書一二七-一三八ページ。
▼12 赤坂憲雄『排除の現象学』(洋泉社一九八六年)。現在洋泉社版は絶版となり、かわりに新版がでている。『新編排除の現象学』(筑摩書房一九九一年)。『新編』では、旧版の冒頭におかれた大友克洋『童夢』の分析が除かれている。
▼13 山口昌男「ヴァルネラビリティについて――潜在的凶器としての『日常生活』」『文化の詩学I』(岩波現代選書一九八三年)。
▼14 赤坂憲雄、前掲書六〇ページ。
▼15 「有徴」「無徴」については、池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書一九八四年)一一七-一二〇ページ参照。
▼16 ゴッフマン、前掲訳書一二-一三ページ。
▼17 宮智宗七『帰国子女――逆カルチュア・ショック』(中公新書一九九〇年)一〇ページ以下ならびに一一四ページ以下。
▼18 この点で注目されるのが「新しい社会運動」と呼ばれる一連の運動形式である。また、理論的には、ハバーマスの「コミュニケーション行為の理論」や今田高俊の「自省社会論」などがオルタナティブな社会形成原理の探求として注目できる。ユルゲン・ハーバーマス、河上倫逸ほか訳『コミュニケイション的行為の理論』(上中下・未来社一九八五-八七年)。今田高俊『モダンの脱構築――産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)。
スティグマ論
排除による秩序形成
本章ではこれまで、〈医療と福祉の対象となる人びと〉を具体的に苦しめている社会(心理)現象をそれぞれ概念化し、その形式的特徴について分析した。そしてスティグマが、それらの諸現象の結果として、対象にされた人びとの内面に生じる関係的現象であることを「老い」を例にとって考察してきた。それにしても、このような現象がなぜ平等を理念とする現代社会にも生じてくるのだろうか。今度は、このような諸現象を基底から支える社会のダイナミズムについて考えてみることにしたい。
偏見・ステレオタイプ・レイベリング・差別の諸現象に一様にふくまれているファクターはなにか。それは項Aと項非Aを区別し、そのあいだに〈線引き〉し、項Aを〈排除〉しょうとする心性である。
〈A〉 〈非A〉
異常 正常
病気 健康
やくざ かたぎ
非行・おちこぼれ ふつう
犯罪者[前科者・その家族] 一般市民
障害者 健常者
女性・子ども 男性
異人 常人
異端 正統
これらのあいだに〈線引き〉し分断するさいに、生物学的な理由であるとか、歴史的な理由であるとか、もっともらしい理由が主張され、常識もこれを受け入れることが多いが、ほとんどあとでつけ加えられたものだ▼1。すでにのべたように、「差異」から「差別」が生まれるのではなく、「差別」から「差異」が想定されるのである。そういう意味では、「まず排除ありき」という構造原理が、集団・共同体・社会そのものに内在していて、排除によってまとまっていくというメカニズムが存在すると考えられる。つまり、排除による統合である。このような社会のダイナミズムを「スケープゴート化」または「スケープゴーティング」(scapegoating)と呼ぶ。
スケープゴートというのは、平たくいえば「いけにえ」ということであるが、正確には「贖罪の山羊(やぎ)」と訳される本来は宗教用語である。ユダヤ教とキリスト教では、罪をあがなうために神に捧げられた犠牲の山羊――これがたとえばキリストの受難の意味となる――という観念をさしている。ひとりの預言者が集団の責任を一身に背負って、集団の危機を救うため犠牲になるという事態は、ユダヤ教やキリスト教などの宗教思想にとって必要不可欠なものである▼2。
じつは一般の社会関係においてもスケープゴート化は、危機を打開し、かつ秩序を形成するための有力な形式なのである。
たとえば、政治がらみや企業がらみの大きな事件が明るみにでると、内部事情にもっとも深く関与したスタッフが、事件のいっさいの汚点を背負って自殺するケースがある▼3。これによって、危機に頻した組織や集団の秩序が回復する。一件落着というわけだ。しかし、この場合は、スケープゴート化にはちがいないが、むしろその通俗的使用というべきであって、もっと社会なり共同体なりを全体として巻き込んでいくスケールでとらえるのが本筋である。そうなると、つぎのようなものが考えられる。
大量排除現象
スケープゴート現象の代表的なものは、なんといっても中世キリスト教世界における魔女狩りである。魔女狩りはヨーロッパの中世末期、ちょうどルネサンスのはじまりとともにさかんになり、一六〇〇年前後の一世紀にピークを迎えた。魔女と名指しされたきわめて多くの男女が拷問によって自白を強要され、異端審問官による魔女裁判によって、火あぶりの刑に処せられた▼4。
二十世紀になってからもあいついで大量排除現象が生じている。まずヒトラーのナチズムにおいてはユダヤ人が排除の対象とされ、アウシュビッツをはじめとする強制収容所に連行・監禁された上、毒ガス室で大量に殺害された。これを「ホロコースト」と呼ぶ。同じころソビエト共産党の実権を掌握したスターリンは、政敵やそれに連なる人びとをつぎつぎに「トロツキスト」「修正主義者」とレッテルを貼って連行し、シベリアの強制収容所に送って強制労働につかせたり、銃殺したりした。これを「粛清」という▼5。もちろん天皇制国家としての戦前の日本においても「国賊」「非国民」のレッテルが反戦主義者・社会主義者・宗教教団に貼られ、治安維持法や不敬罪によって徹底的に弾圧された。似たようなことは第二次世界大戦後のアメリカでもおこっている。「マッカーシズム」と呼ばれる「アカ狩り」[レッドパージ]がそれである▼6。
これらの現象は、集団内に存在する矛盾が、その内部の少数者に集中して転嫁される結果、少数者が集団の中心から排除され、集団の周縁に追いやられたり、集団暴力の対象となり、それによって集団全体が〈浄化〉され秩序を回復する、という共通の構図をもっている。したがって、排除された側に非はなく、むしろ排除した側に根深い問題があった。
近代日本の排除現象
このしくみは近代の日本を貰いて存在している。間庭充幸は日本的集団における包摂と排斥の構造を分析するなかで、さまざまなスケープゴート現象を指摘している▼7。そのなかから典型的なものを三件ひろってみよう。
村落共同体における「異人」――村や家の共同体にそぐわない人間[狂人]を「半ば自発的、半ば強制的に」外部[山]に排除し、恐ろしい「山女」「山人」として畏怖し神聖化する。あるいは村や家を調和を乱す奇異な現象およびその体現者[障害児や不倫の子あるいは利口すぎる子など]を「河童の子」「憑きもの」(たとえば狐憑き)「神隠し」などと称して抹殺したり一時的に排除した。この虚構により家族も納得できるのである。注目すべきは憑きものの場合、憑いた狐や狸が去れば当人は元通り共同体に復帰できるということだ。これは共同体の一種の知恵だった▼8。
企業城下町における「公害被害者」――一九六〇年代の高度経済成長期は同時に公害が極大化した時代だった。公害のひどかったのは当然のことながら企業城下町と呼ばれる地域である。しかし、企業城下町における公害患者はしばしば被害者であることさえ表明できない状況にあった。それは企業一家主義・組合家族主義・私生活優先主義が包摂の原理となっていたところで、その中心たる絶対的な企業に異議申し立てすることにほかならなかったからである。労働組合でさえ公害の拡大に目をつぶり、内部告発に走るものを「裏切り」として断罪し排斥した。たとえば水俣病の悲劇のひとつはここにあった▼9。
管理教育における「いじめられっ子」――管理教育の防衛策として子どもたちは自分を他者の行動に合わせてはみださないようにする。これを「同調競争」という▼10。同調競争は目的が空洞化しているため、他人の出方や位置によってしか自己を確認できない。ひとりひとりが等しく不安な状態におかれる。そこで、この不安から逃れるために、いちはやく他人の差異をみいだし排除しようとする。そうでなけけれれば自分がやられるという恐怖がそうさせるのである▼11。
また、赤坂憲雄はスケープゴーティングのケース・スタディともいうべき『排除の現象学』のなかで、一連のいじめ事件、横浜浮浪者襲撃事件、イエスの方舟事件、けやきの郷事件(自閉症者施設「けやきの郷・ひかりが丘学園」の建設計画に対して地元の鳩山ニュータウン住民による反対運動がおこり建設が断念された)、精神鑑定される通り魔などを分析している▼12。
強調しておきたいのは、これらの諸事例が、支配者が意識的に行使する強制力によって生じるのではなく、共同体・集団・社会そのものに内在する〈権力作用〉によるものだということだ。暴力の実体はなく、加担者は正義を語り、あくまでも自己防衛的である。この権力作用に内在しているときは、ほとんど存在感がないくらいナチュラルだが、ひとたび周辺に追い出されたり、抵抗しようとすると、その暴力的な圧力はときとして人を死に追いやるほど強い。「見えない権力」=権力作用の怖さは、じつはここにある。
ヴァルネラビリティと有徴性
では、どのような人がスケープゴートにされやすいのだろうか。さきほどの表記でいうと「項A」に追い込まれやすい特性はなんだろうか。人類学では、攻撃を招きやすい性格のことを「ヴァルネラビリティ」(vulnerability)という。「攻撃誘発性」とか「被撃性」と訳される概念である▼13。
なにが〈ヴァルネラブル〉か。少数であることか、それとも能力が低いことか、あるいは力が弱いからか-おそらく本質はそうではない。たとえば、いじめられた方になにか問題があると主張する議論があるが、それは「予言の自己成就」のメカニズムによって、いじめの結果つくられたことであって、原因と結果をとりちがえた転倒した論理である。「あきらかな差異の具現者が存在するから、いじめが起こるわけではない。むしろ、差異はあらかじめ存在するのではなく、そのつどあらたに発見され、つくられるのである。むろん、排除というたったひとつの現実にむけて▼14。」たとえば、いじめはむしろ差異のない均質な学校空間から生まれるのだ。
では、ヴァルネラビリティの基本要素はなにか。それは記号論の用語でいう「有徴性」である▼15。徴(しるし)のあるのが有徴、ないのが無徴である。この項の冒頭に示した「線引き」の一覧のなかで〈A〉としたのが有徴サイド、〈非A〉としたのが無徴サイドにあたる。つまり、有徴な項が析出して、それによってはじめてその他大勢が「〈それ〉でないもの」として定義される。「フツー」とはそういうものなのである。
ことわっておくが、ある特性だけがいつも有徴なのではない。状況によってなにが有徴となるかは異なる。たとえば、ゴッフマンがスティグマの例にだしているように、大卒という属性も、おかれている集団によってスティグマになる▼16。また、帰国子女がしばしばいじめの対象になり、差別されていると感じるのが英語の時間であることは、かれらが「生きた英語」を知っているという優越のためである▼17。また「女教師」「女医」ということばは、男性中心の教員の世界・医師の世界において女性が少数で有徴だったことを示している。そのため、これらのことばにおいて強調されるのは、もっぱら〈性〉の諸相である。
中間考察
まず、いわゆる「社会的弱者」にとって深刻な問題となる――ことわっておくが社会的弱者が問題なのではない――社会心理現象について四点指摘した。偏見・ステレオタイプ・レイベリング・差別。これらについてのさまざまな社会学的研究の一致した結論は、なにか客観的な根拠があって、これらが生まれてくるのではないということだ。「差異」から「差別」が生まれるのではなく、「差別」から「差異」が想定される。「まず排除ありき」なのである。
スティグマという概念についても同じことがいえる。「障害」や「過去」が直接スティグマなのではない。「障害」や「過去」に対する周囲の人びとの反応が、それらをスティグマにする。ここでも「受け手の反応」が意味を決定していることに気づくべきだ。しかも、それは「排除による統合」の社会的メカニズムにもとづいており、それをくつがえすのは容易ではない。
したがって、解決の方向性が「受け手の反応」を変えていくことにあるとしても、たんに意識改革をすればいいというものではない。スケープゴート化にかわる新しい社会形成の形式を自覚的に模索することが必要であろう▼18。
▼1 すでに健康と病気について論じたように、項〈A〉と項〈非A〉とは本来連続的かつ流動的かつ互換的である。5-2参照。それを無理に分断し、二項対立の構図に仕立てるところに、規格化を押しすすめる権力作用の存在をみることができる。なお、理由づけについては、現代社会では「医学的理由」がとくに正当性をもってきている。この傾向を「医療化」(medicalization)という。医療化の研究については、進藤雄三『医療の社会学』(世界思想社一九九〇年)参照。スタンダードな入門書としては、I・イリイチ、金子嗣郎訳『脱病院化社会』(晶文社一九七九年)。
▼2 このあたりの宗教的意味を体感するにはJ・S・バッハの『マタイ受難曲』を聞いてみるのがてっとり早い。また受難の意味の追究については「苦難の神義論」として17-2でもふれた。
▼3 たとえば、「ダグラス・グラマン疑惑」では日商岩井の常務が自殺した。「リクルート事件」では竹下首相の元秘書[三〇年以上勤務]が自殺した。
▼4 数世紀にわたるこのスケープゴーティングの歴史の概要については、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書一九七〇年)。また古典的な研究としては、ミシュレ、篠田浩一郎訳『魔女』(上下・岩波文庫一九八三年)。
▼5 山口昌男『歴史・祝祭・神話』(中公文庫一九七八年)。
▼6 R・H・ロービア、宮地健次郎訳『マッカーシズム』(岩波文庫一九八四年)。
▼7 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)。
▼8 前掲書六四-七二ページ。
▼9 前掲書一一三-一一八ぺージ。ここでも紹介されている対馬のイタイイタイ病のケースについては、鎌田慧『ドキュメント隠された公害――イタイイタイ病を追って』(ちくま文庫一九九一年)。
▼10 間庭充幸は「同調競争」についてつぎのように説明している。「普通同調と競争が結びつくというときは、同調すべき目的(金銭、地位、あるいは天皇への忠誠、何でもよい)があって同調し、さらにその目的に早く近づくために競争する。それはまさに目的内容を介しての同調的競争、競争的同調である。しかしそれがある限界を超えると、かんじんな目的が脱落してしまい、同調という行為(多数者)自体への同調や競争が発生する。ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。」前掲書五一ページ。昭和天皇の病状悪化による「自粛」行動は典型的な同調競争である。
▼11 前掲書一二七-一三八ページ。
▼12 赤坂憲雄『排除の現象学』(洋泉社一九八六年)。現在洋泉社版は絶版となり、かわりに新版がでている。『新編排除の現象学』(筑摩書房一九九一年)。『新編』では、旧版の冒頭におかれた大友克洋『童夢』の分析が除かれている。
▼13 山口昌男「ヴァルネラビリティについて――潜在的凶器としての『日常生活』」『文化の詩学I』(岩波現代選書一九八三年)。
▼14 赤坂憲雄、前掲書六〇ページ。
▼15 「有徴」「無徴」については、池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書一九八四年)一一七-一二〇ページ参照。
▼16 ゴッフマン、前掲訳書一二-一三ページ。
▼17 宮智宗七『帰国子女――逆カルチュア・ショック』(中公新書一九九〇年)一〇ページ以下ならびに一一四ページ以下。
▼18 この点で注目されるのが「新しい社会運動」と呼ばれる一連の運動形式である。また、理論的には、ハバーマスの「コミュニケーション行為の理論」や今田高俊の「自省社会論」などがオルタナティブな社会形成原理の探求として注目できる。ユルゲン・ハーバーマス、河上倫逸ほか訳『コミュニケイション的行為の理論』(上中下・未来社一九八五-八七年)。今田高俊『モダンの脱構築――産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)。
社会学感覚20−2 関係概念としてのスティグマ
社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
スティグマ論
スティグマとはなにか
以上のような社会(心理)現象の結果として、マージナルな側に振り分けられた人間に対してあらわれるのが「スティグマ」(stigma)である▼1。スティグマとは、望ましくないとか汚らわしいとして他人の蔑視と不信を受けるような属性と定義される。これは、ある属性にあたえられたマイナス・イメージと考えてよい。
スティグマは、もともとはギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であることを示す焼き印・肉体上の「しるし」のことで、汚れた者・忌むべき者というマイナスイメージが肉体上に烙印されたものである。のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人=カリスマにあらわれるということから、「聖痕」の意味に転化した。このような由来をもつため西欧では日常語として使われている。とくに学術用語というわけではない。
スティグマとなりうる属性としては、病気・障害・老齢などの肉体的特徴、精神異常・投獄・麻薬常用・アル中・同性愛・失業・自殺企図・過激な政治運動などから推測される性格的特徴、人種・民族・宗教に関わる集団的特徴などがある。人びとは、スティグマのある人を対等にあつかわず差別し、多くは深い考えもなしにその人のライフチャンスをせばめている▼2。
現代日本における老い
スティグマの概念を現代日本の老いについて考えてみよう。
現代の日本では消費社会化が進行し、若者文化の影響力が大きくなってきた。そのため、若さというものに無条件の価値があたえられている。たとえば、広告において若さ志向でないものをさがすのはむずかしい。これに対して老いは否定的なことの側に位置づけられてしまう。他方、敬老の意識をもつ人びとにおいても、老人はあくまでも社会的弱者とみられている。これは〈老人イコール無能力〉ととらえるのにほぼ等しい。また法的には、一九六三年に制定された老人福祉法第二条に「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛されかつ、健全で安らかな生活を保障されるものとする」とある。この一文からあきらかなように、日本の老人福祉は、あくまでも過去の能力と実績に対する報酬として敬老を受ける権利があるとしている。
いずれの考え方にせよ、現代の日本社会は、老いの意味を見失っているといえよう。その結果、老いは、すでに否定的な意味しかもたず、不幸の原因のひとつとなってしまっている。老人自身が老いを隠そうとし、そのために若さを装い、若さに近づこうとするのも無理ない話といえる▼3。
多くの老人が自分自身を無力でみじめな存在という否定的なものとしてイメージするのはなぜか。そんなふうに考えることないじゃないかと思うが、これには理由がある。それは、高齢者自身の自分をみる目が、若く充実した時期つまり三〇代・四〇代・五〇代のままだからである。かつて自分が否定的イメージを付与した存在に自分自身が移行していく経験――これが現代日本における老いの基本構造である▼4。
周囲の否定的な反応としてのスティグマ
とくに注目してほしいのは、老人本人が老いを否定的にとらえているということだ。これがスティグマという現象の実態にほかならない。
ゴッフマンによると、ある特定の特徴がスティグマを生むのではないという。たとえば、目や足が不自由なこと自体がスティグマなのではない。それに対する他者のステレオタイプな反応との関係がスティグマという現象なのである▼5。つまりスティグマの本質は「その人の特徴に対する否定的な周囲の反応」といっていいだろう▼6。だから、老一般が日本社会でスティグマになるのは、日本社会が老いの積極的意味をみいだせないでいるために、老いに対して周囲が否定的な反応しかできないことによるのである。
六つの「老人の神話」
アメリカの精神科医で、一九六九年に年齢差別・老人差別を意味する「エイジズム」(agism)を最初に使用した人として有名なロバート・バトラーは老いに対する六つの偏見を「非現実的な神話」として提示している▼7。
(1)加齢の神話――年をとると思考も運動も鈍くなり、過去に執着して変化を嫌うようになるという偏見。じっさいには個人差が大きい。
(2)非生産性の神話――老人は幼児のよう自己中心的で、生産的な仕事などできるはずがないという偏見。しかし、地域社会へ貢献していることは多い。
(3)離脱の神話――老人は職業生活や社交生活から離脱し、自分の世界に引きこもるものだという偏見。
(4)柔軟性欠如の神話――老人は変化に順応したり自分を変えたりできないという偏見。じっさいには、年齢よりも性格構造によって異なる。脳組織の損傷などがなければ、人間は最後まで成長しつづける。
(5)ボケの神話――老化するにつれてボケは避けられないという偏見。老人も若者と同じようにさまざまな感情体験をしている。たんなる物忘れとボケはちがう。ちなみにボケは病気であって出現率は数パーセントにすぎない。
(6)平穏の神話――老年期は一種のユートピアであるとみる偏見。しかし、じっさいには、たとえば配偶者との死別による悲しみのように、老人はどの世代よりストレスを経験しており、そのため、うつ状態・不安・心身症・被害感情をもつことがある。
ここでバトラーがいいたいのは、老いを一般化してはならないということ、老いの多様性を発見することがたいせつだということだ。老いに対する偏見やステレオタイプに気づき、積極的老人像の可能性をさぐり、社会全体が老いの積極的意味を認識するようにしなければならない。そうなってはじめて、老いはスティグマでなくなるのである。
▼1 アーヴィング・ゴッフマン、石黒毅訳『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』(せりか書房一九八四年)。またスティグマ概念を社会福祉の領域に応用したものとして、P・スピッカー、西尾祐吾訳『スティグマと社会福祉』(誠信書房一九八七年)。
▼2 ゴッフマン、前掲書一四-一五ページ。
▼3 以上、副田義也「現代日本における老年観」『老いの発見2老いのパラダイム』(岩波書店一九八六年)による。
▼4 上野千鶴子「老人問題と老後問題の落差」前掲書、とくに一二七ページ以下による。
▼5 ゴッフマン、前掲訳書一二-一三ぺージ。だから、有名大学出身という特徴も「否定的な周囲の反応」のあるところではスティグマになる。たとえば、低学歴層の集まっている職場や住宅街では、落伍者・部外者のレッテルを貼られるもとになり、仲間と認めてもらえなくなるおそれがある。だからひた隠しにすることになる。だから有名大学出身という属性も、プラスイメージにもなればマイナスイメージにもなる。したがって、こういういい方もできるだろう。つまり、スティグマはだれにでもあり、それが一挙に表面化する状況がたまたま多いか少ないかなのだと。
▼6 スピッカー、前掲訳書。
▼7 岡堂哲雄『あたたかい家族』(講談社現代新書一九八六年)の紹介を参照。一七三-一七六ページ。
スティグマ論
スティグマとはなにか
以上のような社会(心理)現象の結果として、マージナルな側に振り分けられた人間に対してあらわれるのが「スティグマ」(stigma)である▼1。スティグマとは、望ましくないとか汚らわしいとして他人の蔑視と不信を受けるような属性と定義される。これは、ある属性にあたえられたマイナス・イメージと考えてよい。
スティグマは、もともとはギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であることを示す焼き印・肉体上の「しるし」のことで、汚れた者・忌むべき者というマイナスイメージが肉体上に烙印されたものである。のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人=カリスマにあらわれるということから、「聖痕」の意味に転化した。このような由来をもつため西欧では日常語として使われている。とくに学術用語というわけではない。
スティグマとなりうる属性としては、病気・障害・老齢などの肉体的特徴、精神異常・投獄・麻薬常用・アル中・同性愛・失業・自殺企図・過激な政治運動などから推測される性格的特徴、人種・民族・宗教に関わる集団的特徴などがある。人びとは、スティグマのある人を対等にあつかわず差別し、多くは深い考えもなしにその人のライフチャンスをせばめている▼2。
現代日本における老い
スティグマの概念を現代日本の老いについて考えてみよう。
現代の日本では消費社会化が進行し、若者文化の影響力が大きくなってきた。そのため、若さというものに無条件の価値があたえられている。たとえば、広告において若さ志向でないものをさがすのはむずかしい。これに対して老いは否定的なことの側に位置づけられてしまう。他方、敬老の意識をもつ人びとにおいても、老人はあくまでも社会的弱者とみられている。これは〈老人イコール無能力〉ととらえるのにほぼ等しい。また法的には、一九六三年に制定された老人福祉法第二条に「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛されかつ、健全で安らかな生活を保障されるものとする」とある。この一文からあきらかなように、日本の老人福祉は、あくまでも過去の能力と実績に対する報酬として敬老を受ける権利があるとしている。
いずれの考え方にせよ、現代の日本社会は、老いの意味を見失っているといえよう。その結果、老いは、すでに否定的な意味しかもたず、不幸の原因のひとつとなってしまっている。老人自身が老いを隠そうとし、そのために若さを装い、若さに近づこうとするのも無理ない話といえる▼3。
多くの老人が自分自身を無力でみじめな存在という否定的なものとしてイメージするのはなぜか。そんなふうに考えることないじゃないかと思うが、これには理由がある。それは、高齢者自身の自分をみる目が、若く充実した時期つまり三〇代・四〇代・五〇代のままだからである。かつて自分が否定的イメージを付与した存在に自分自身が移行していく経験――これが現代日本における老いの基本構造である▼4。
周囲の否定的な反応としてのスティグマ
とくに注目してほしいのは、老人本人が老いを否定的にとらえているということだ。これがスティグマという現象の実態にほかならない。
ゴッフマンによると、ある特定の特徴がスティグマを生むのではないという。たとえば、目や足が不自由なこと自体がスティグマなのではない。それに対する他者のステレオタイプな反応との関係がスティグマという現象なのである▼5。つまりスティグマの本質は「その人の特徴に対する否定的な周囲の反応」といっていいだろう▼6。だから、老一般が日本社会でスティグマになるのは、日本社会が老いの積極的意味をみいだせないでいるために、老いに対して周囲が否定的な反応しかできないことによるのである。
六つの「老人の神話」
アメリカの精神科医で、一九六九年に年齢差別・老人差別を意味する「エイジズム」(agism)を最初に使用した人として有名なロバート・バトラーは老いに対する六つの偏見を「非現実的な神話」として提示している▼7。
(1)加齢の神話――年をとると思考も運動も鈍くなり、過去に執着して変化を嫌うようになるという偏見。じっさいには個人差が大きい。
(2)非生産性の神話――老人は幼児のよう自己中心的で、生産的な仕事などできるはずがないという偏見。しかし、地域社会へ貢献していることは多い。
(3)離脱の神話――老人は職業生活や社交生活から離脱し、自分の世界に引きこもるものだという偏見。
(4)柔軟性欠如の神話――老人は変化に順応したり自分を変えたりできないという偏見。じっさいには、年齢よりも性格構造によって異なる。脳組織の損傷などがなければ、人間は最後まで成長しつづける。
(5)ボケの神話――老化するにつれてボケは避けられないという偏見。老人も若者と同じようにさまざまな感情体験をしている。たんなる物忘れとボケはちがう。ちなみにボケは病気であって出現率は数パーセントにすぎない。
(6)平穏の神話――老年期は一種のユートピアであるとみる偏見。しかし、じっさいには、たとえば配偶者との死別による悲しみのように、老人はどの世代よりストレスを経験しており、そのため、うつ状態・不安・心身症・被害感情をもつことがある。
ここでバトラーがいいたいのは、老いを一般化してはならないということ、老いの多様性を発見することがたいせつだということだ。老いに対する偏見やステレオタイプに気づき、積極的老人像の可能性をさぐり、社会全体が老いの積極的意味を認識するようにしなければならない。そうなってはじめて、老いはスティグマでなくなるのである。
▼1 アーヴィング・ゴッフマン、石黒毅訳『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』(せりか書房一九八四年)。またスティグマ概念を社会福祉の領域に応用したものとして、P・スピッカー、西尾祐吾訳『スティグマと社会福祉』(誠信書房一九八七年)。
▼2 ゴッフマン、前掲書一四-一五ページ。
▼3 以上、副田義也「現代日本における老年観」『老いの発見2老いのパラダイム』(岩波書店一九八六年)による。
▼4 上野千鶴子「老人問題と老後問題の落差」前掲書、とくに一二七ページ以下による。
▼5 ゴッフマン、前掲訳書一二-一三ぺージ。だから、有名大学出身という特徴も「否定的な周囲の反応」のあるところではスティグマになる。たとえば、低学歴層の集まっている職場や住宅街では、落伍者・部外者のレッテルを貼られるもとになり、仲間と認めてもらえなくなるおそれがある。だからひた隠しにすることになる。だから有名大学出身という属性も、プラスイメージにもなればマイナスイメージにもなる。したがって、こういういい方もできるだろう。つまり、スティグマはだれにでもあり、それが一挙に表面化する状況がたまたま多いか少ないかなのだと。
▼6 スピッカー、前掲訳書。
▼7 岡堂哲雄『あたたかい家族』(講談社現代新書一九八六年)の紹介を参照。一七三-一七六ページ。
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